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ジェームズ・ナナモと蘇りの輝跡  作者: まれ みまれ
5/30

(5)揺れる栄光寮

 ナナモはヌノさんに起こされることなく、カンファレンスルームのソファーの上で午前六時前に目覚めた。自室で必ず寝るとは限らなかったので、特に気にすることなく起き上がり、洗顔し、参拝すると、朝食までの時間までの間、シャワーでも浴びようと自室に戻った。

特に変わりはない。ただ、一年前に比べると若干書物が多くなっているだけで、案外こぎれいにする性格なのか、つい最近まで同室者が居たからなのか、相変わらず部屋半分の領域に自分の荷物を侵入させることはなかった。それどころか、いつ同室者が来てもおかしくないように、東京に居る時は考えられなかったが拭き掃除などもして、ほこりが溜まらないようにしていた。

ナナモはまだ外気温が長袖を要求しているのに、寮の謎めいた空調システムのために上半身裸のまま、そう言えばと机に向かって腰かけるとおもむろにパソコンを開き、メールを確認した。

久しぶりにチェックするような、いや、タカヤマにからかわれてからは毎日チェックしていたような、何か記憶がふらふらしている状態だったが、全く有名ではないナナモのメールアドレスには詐欺っぽいメールすら届いていなかった。

ナナモはパソコンを閉じようとした。しかし、なぜかタカヤマの声が聞こえてきたように思えて、もはや既読になっているメッセージを確認する。

当たり前だがタカヤマからはメッセージはなかった。イチロウへは最近は頻繁に連絡を取り合う事柄がなかったのでたまに手紙のやり取りをする程度だったし、解剖実習が始まるので英語講師はしばらく出来ないことを伝えていたので、やはりメッセージはなかった。それでも、もしかしてと、数か月前までさかのぼったが、ナナモがイギリスへ行くための航空チケットをイチロウに依頼している風のメッセージは皆無だった。

ナナモは、それらを確認すると大きく深呼吸した。そして、もしかしてと、今度はゆっくりとパソコンの画面を見た。

そうだろうな。でもそうだったら、あれは何だったのだろう?

ナナモはルーシーにロンドンへは戻れないと送信した自らのメールだけを何度も眺めながらため息が止まらなかった。そして、何かが記憶として蘇りそうなのに、その何かが喉につかえてなかなか出てこない。それでも、ナナモは無意識にある歌を口ずさんでいた。

口元をギュッと閉めると、ナナモはもう一度着信履歴をチェックした。すると、先ほどは確かになかったはずなのに、見知らぬメールが二件、目に入った。一つは、大学からで、予定通りの日程で解剖実習がはじまるとの内容だった。そして、もうひとつは、新しい実習班のメンバーの一人であるキマタからで、僕らの班は全員合格です。解剖実習も同じメンツなのでよろしくお願いしますという内容だった。

一つ目は「大学掲示板」だから、当たり前なのだろうが、どうしてキマタはスマホではなくパソコンにメールしてきたのだろう?今どきスマホのコニュミケ―ションアプリを用いた方がよほど便利だし、これまでもそうしてきた。だから、大学の同級生からパソコンにメールが送られてくることなどほとんどなかった。もしかして、スマホに届かなかったのだろうか?

ナナモはパソコンを閉め、スマホを拡げた。今度はタカヤマから何軒かメールが入っていたが、大した用事は一件もなかった。

ナナモはクシャミをした。そう言えば相変わらずナナモは上半身裸だ。そうだ朝食前にシャワーをと、もはや、先ほどのことなど忘れて、最低限の衣類を持って部屋を出た。

「ナナモさん、何ですか、その格好は、きちんと服を着てください」

 ナナモは扉を開けるなり、その事を予期していて待ち構えていたかのように、声を掛けられた。

「あ、ヌノさん、僕に何か用事ですか?」

 ナナモはおはようございますと言うべきなのに、出鼻を挫かれたというか、いつもならこの時間は忙しく食堂で働いているはずなのにどうしてここにという思いが強くてそう尋ねていた。

「ナナモさんが、時々、寮内を裸でウロウロしているって苦情が出たんです」

ナナモはそう言われてハッとした。確かにナナモは上半身裸だ。しかし、この時間ならヌノさんに廊下で会うことなどほぼない。それにヌノさん以外、他の寮生は皆男性だ。だから上半身裸でいてもこの一年何かを言われたことなど一度もない。それなのにどうしたんだろう。

「ここは男子寮でしたよね。それに真っ裸じゃないですし」

ナナモは身を清めたいと思った時は、一応誰もいなさそうなことを確認はしてから、これまで何度か廊下を真っ裸で突っ走っていたことがあるがあえて伏せた。

「私は女性です」

でも、ヌノさん、今まで何も言わなかったじゃないですか?それが急に、どうしたっていうんですかと、ナナモはもう少しで叫びそうになったが、ヌノさんは明らかに目じりを釣り上げている。そのメッセージはナナモの裸の事なのか、寮母であるヌノさんに性別を意識しなかったことに対することなのか分からなかったが、あえて尋ねる状況ではないと思った。

「僕もそれなりに気を使っているつもりです」

 ナナモはその事だけを言った。それにロンドンの公園では男性が上半身裸で夏に日光浴する姿を見かけることだってある。だからといって、女性が悲鳴を上げたり、警官が甲高い笛の音を鳴らしながら詰めよって来るということはない。

「これからは例え上半身だけと言っても寮内では裸でウロウロするのは禁止ですから、ましてや、全裸なんて、私は絶対許しませんから」

 ヌノさんは捨て台詞のようにナナモの前から去って行った。ナナモはあっけにとられてしばらく身動きできなかった。

 ナナモは仕方がないと、Tシャツだけ被ると風呂場へ行き、急いでシャワーを浴び、再び自室に戻った。

 そして、先ほど何が起こったのだろうと、これまでヌノさんから何か寮内の規則めいたことなど一度も強要されなかったし、あれほどの怒気を含んだ言い方も始めてだったので、ただ驚くしかなかった。

 ナナモは動揺していて自分なりに気を落ち着かせようとしたのか分からなかったが、髪の毛も乾かさずにまた机の前に座り、パソコンを開け、メールを確認した。

「あれ……」

 先ほど確かに確認したはずの大学掲示板とキマタからのメールが消えていた。

 どういうことだろう?

このパソコンは寮のWiFiに繋がれているし、そう言う意味では大学の管理下にある。ただ、初期設定やウイルス対策はイチロウがしてくれたので、大学が勝手に入り込んでパソコンを操作しているとは思えない。ただし、そう思っているからその通りだとはいえない。何故なら、ナナモは、まだ、この部屋にはマギーの隠しカメラやコトシロの覗き穴があるという疑念をぬぐい切れていないからだ。ただし、それらは異世界の事で現実世界の事ではない。だから大学から寮が操作されていたら、現実のナナモは個人としても寮生としても自律が侵されることになる。

ナナモは今更ながらカタリベの寮のWiFiには気を付けるようにと言っていたことが思い出されて少し背筋がぞくっとした。

ナナモはもはやどうにでもなれという投げやりな気分に身を任せることで気を取りなおした。

朝からヌノさんが居るということは平日だ。だったら、ゴールデンウィークは終わっているのだろう。もしそうであり、あのメールが正しければ今日から解剖実習が始まることになる。

ナナモは朝食を済ませてから大学の啓示板を見に行こうと慌てて食堂へ向かった。もちろん今度はきちんと服を着て部屋を出た。

「おはようございます」

 ナナモは小岩に会おうと思ったのだが、急に声を掛けられた。この寮でナナモが一番の下級生だ。だから、おはようございますとナナモが言うことがあっても言われることはまずない。それに、特に朝の食堂は寮生の機嫌がまちまちだ。徹夜で勉強していて朝から誰かに話しかけられたくないと思っている寮生も少なからずいることを、ナナモはこの一年知らず知らずのうちに寮のしきたりのひとつに加えていた。だからと言って挨拶しないわけには行かないので、軽く頭を下げる。その時に何となく話せそうだとわかってもナナモから話かけることなどよほどのことがない限りなかった。

 誰だっけ?ナナモは確かに彼の顔を覚えている。いや、くっきりと記憶されている。しかし、その具体性が蘇ってはこない。だから、声の主に戸惑っていた。

「トモナミですよ」

 ナナモはその名前を聞いてハッとした。そうだ、数時間前に彼とはカンファレンスルームで会って話していたのだ。

 ナナモはトモナミにもっと聞きたいことがあった。だからトレイを持ったまま、トモナミの所に近づこうと思ったのだが、体が少しずつずれていく。それどころかまるでハイエナのように、トレイを持ったある男を捕まえ、出来るだけトモナミから離れた食堂の角に追いやった。

 その男はもちろん小岩である。

「何だい、朝っぱらから、朝食は静かに食べることが寮の規則だろう」

 ナナモが寮の規則書を読んでいないことを知っている小岩はこれまで何度もナナモに寮の規則だといって摩訶不思議な屁理屈を強要してきた。本当のこともあるし、今でも怪しいと思っていることもあるが、とにかく小岩は情報通だし、剣道部の先輩だ。だから、無下にはできなかった。

でも今朝は下品になる。しきたりもくそもない。

「トモナミって新人によからぬことを吹き込んだでしょう」

ナナモは小岩が昨夜どのような状態で、今朝どのような状態であるのかを無視して小岩の朝の始まりに土足で乗り込もうしている。

「別に何も言っていないよ」

 小岩はけだるそうに返事をしたあと、それでも続けて何か食ってかかってきそうなナナモを制するように言葉を続けた。

「だいたい、新入生の教育係は二回生だろう。それなのにナナモはいない。俺はおせっかいは嫌なんだけど、たまたま俺に時間があったし、先輩になんとなく頼まれたから、寮に来たところで不安がっていたトモナミ君に色々と話してあげただけだよ。そう言えば突然寮からいなくなって、ヌノさんも心配していたんだぜ。今朝はきちんと挨拶したのかい?」

小岩はナナモが知らないというか、記憶の欠損部に入り込んでくる。一年間の寮生活の中でいつも小岩と一緒ではないが部活は一緒だ。だから、ナナモに記憶の喪失が時々生じるということを知り得たのかもしれない。だから、多分、ナナモのそういうところにはずかずか入って来る。もちろん顔色を見ているから、間違ったところに入った瞬間、素知らぬ顔をする術を持っている。

恐ろしい洞察力だ。だから小岩は小柄な体格ながら、剣道のうまさでは抜きんでている。まるで連続盗塁王のようにきっとすばやく相手のくせなりを盗んで対応しているのだろ。

 ナナモはそう考えながらもはや小岩の戦術に嵌っていた。

「小岩さんにご迷惑をおかけしたのなら謝ります。それにトモナミ、いや、トモナミ君に小岩さんが何を吹き込んだのかはこのさい置いておきましょう」

 小岩と話すということは冷静にならなくてはならない。それもその冷静さには緊張を要する。少しでも油断すると、冷静さというか、ふあーという穏やかさに包まれたまま、いつしか小岩の世界へ引きずり込まれるからだ。

「で、ナナモは僕に聞きたいことがあるの?それとも言いたいことがあるの?」

 小岩に改めてそう言われると戸惑ってしまう。なぜなら、ナナモは小岩にその両方のことを欲していたからだ。

 でも、なんだっけ?

ナナモは小岩に会うなりのどにたまっていたものをすべて吐き出そうと、あれほど息せき切って食堂に来たのに、いざ会ったのに、昨夜、いや、つい今しがたトモナミから聞いた話の内容を忘れてしまっている。

否、冷静になるんだ。そうすれば思い出されるはずだし、思いださなければならない。

ナナモはなんだっけと思いながら、そればかりに気を取られて、先ほどの権幕が尻すぼみになっていくのを傍観するしかなかったし、それどころか、何かきっかけをくれてもよさそうなのに知らぬ存ぜぬでいる小岩は静かに朝食を口にしだしていた。

美味しいねと珍しく小岩がヌノさんの料理を褒めなければ、二人は無言で朝食を食べ終えていたかもしれない。

「小岩さん、寮の運営が大学に移管されるって本当ですか?」

一切まだ箸を付けていないトレイの味噌汁と御飯から湧き立つほのかな湯気が小岩の言葉に匂いを付けてくれたのか。ナナモは急に何かを思い出して呟いた。きっと冷静にと暗示を掛けていたためだろう、大声でもなく、他の寮生に聞こえないくらいのナナモのひそひそ声は、小岩との至近距離のみに伝わる程度の音の振動だった。

「トモナミ君から聞いたのかい」

 小岩はナナモよりトーンを下げ糸電話のように尋ねてきた。

「なんとなくですけど」

 小岩はしばらくうーんと一呼吸おいてから、一度緩めた糸をまたぴーんと張った。

「僕もよくわからないんだけど。なぜか大学がこの寮の運営に本格的に関わろうとしているんだ」

「関わるって、大学は取り壊したがっていたんじゃないんですか?それに、ここは大学であって、大学でないって、小岩さん、言っておらえませんでした?」

 ナナモは始めてここを訪れた時の事を今でも昨日様にはっきりと記憶にとどめている。

「ああ。そうさ」

 小岩は眉間にしわを寄せて言った。

「それだったらどうしてですか?」

「この大学を建てる時にある企業がかかわっていた話はしたよね」

 ナナモは糸の緊張を緩ませない程度にうなずいた。

「その企業がまた大学に関係しようとしている」

「どうして企業が?」

「病理学の教員が何やら世界規模の画期的な発見をしたらしくて、その事を聞きつけたその企業が共同研究を持ち込もうとしているって噂さ」

 なぜそのような事を小岩が知っているのかはさておき、この建物の存続を条件に広大な土地を無償提供した企業が突然何らかの理由でこの大学に対する関与を放棄したのにまた再び大学に関与しようとするだろうか?

「共同研究と、寮の運営とは全く関係ないんじゃないんですか?」

 企業なので会社の利益は優先する。しかし、それと寮の運営とは別物と考えても不思議ではない。

「俺も最初はそう思ったんだけど、大学は反対にこの際昔噺を蒸し返したんじゃないかな」

「どうして?」

「その画期的な発明の特許は大学だけではなくて発見者にもあるからね。でも発見者はうちの大学の卒業生だし、教員だから、大学から何らかの圧力がかかっても不思議ではないんだよ」

「それって、パワハラじゃないんですか」

 ナナモは嫌な気がした。きっと、手鏡があれば、目じりがつり上がって、顔が紅潮しているナナモが映りだされているだろう。

「ハラスメントは当事者が助けを求めてこない限り第三者がとやかく言うことじゃないからね」

 いじめは言えないんだ。いや、言えなくなるほど追い込まれることもあるんだと、ナナモは小岩にくってかかりそうだったが、今その話ではないと、ぐっと言葉を飲み込んだ。

「でも、どうして大学はこの寮のことが気になっているんですか?」

「だって、ここだけだよ、非近代的で非効率的な今にも壊れそうな古風な建物は。それでも最近は大学のシンボルだって、神聖化しようとしている動きもあるんだけど、やはり、あの企業が手を引いたことが幸いしてこの寮の所属が宙ぶらりんになったので、大学も手出しが出来なくてイライラしていたところ、急に降って湧いたような話が舞い込んできたんだからそりゃあ、とびつくよね」

 大学は手をこまねいていたわけではない。なぜなら、寮生をなくすためというよりは入寮を阻止するために、寮の存在を一切口外していなかったのだ。

天門の栄光寮、いや、影光寮。ナナモの脳細胞は活字で呟いていた。

「でも小岩さん、大学は寮をつぶそうとせずに、存続して運営しようとしているんでしょう」

「運営するということは、何れ、寮を自由に出来るようになるんだ。だから、その時に万を持して取り壊すかもしれないし、案外、その共同研究の研究所に建て替えようとしているのかもしれないな。もし、そうできるなら、大学は一銭もお金を出さなくて済むし、その企業がもともと所有していた土地だし、以前の約束だとしても、その企業が再契約をしたとなれば、大学が勝手に寮をつぶすよりは遺恨を残さないだろう。それに、もし、寮を取り壊すことで、以前いわれていたような千年の繁栄が消滅しても大学ではなく企業のせいにできるからね」

 小岩はゆっくりといつもようにナナモの表情を確認していないという風を装いながら言った。

「その事とトモナミ君の入寮には何か関係でもあるんですか?」

ナナモはふとトモナミの事を想いだした。

「トモナミ君のお父さんが以前からこの地にある電子機器の会社の重役だって聞いたかい?」

「はい。実質的には経営トップのような立場だそうですね」

「ああ。だから、経済的には全く困っていない」

 小岩は何を根拠にしているのか分からないが言い切った。

「僕もそのことが気になっていたんです」

 トモナミは朝食を素早く終わらせていたのか、食堂からもはや姿を消していた。少し声の調子を上げた小岩も当然その事は確認済みだろう。

「実はトモナミ君のお父さんが働いている会社はその大企業の関連会社なんだよ」

 家族は東京から杵築に越してきたとトモナミは話していた。

「今回の大発見だけど、トモナミ君のお父さんが杵築に赴任してからずっと研究資金を寄付していたらしいんだ」

 ナナモはそれならばなんとかその世界的発見に利用したいと思うだろうと、頷いた。

「ナナモ君、でも、奇妙だと思わないかい?ここは都会の昔ながらの有名大学じゃないんだよ。そこにいる病理学の若い研究者が世界的規模の大発見をするなんて普通思うかい?」

 小岩はある意味偏見で固まっている。でも、だからと言ってすべてが間違っているとは言えない。それは研究にはその研究者の才能はもちろんのことだが、潤沢な研究資金があるほうが良いに決まっているからだ。ナナモもこの一年この大学で勉強した。医科大学ということでそれなりの設備が備えられてはいるが、ナナモが通っていた関東西部大学の広大な敷地や研究室に比べればはるかに簡素な印象だ。

「きっとその研究者は天才だったんでしょう?」

 ナナモはイチロウの事を思い出した。そう言う人間は必ずどこかに現れる。ましてや僕らの先輩だ。そういう人が出て来ることは誇らしい。

「それがね、これは、単なるうわさだよ。ナナモが信じなくてもいいんだけど」

 小岩は普段はこういう前置きなど言わない。しかし、もし小岩以外ならこういう前置き付の話は胡散臭いのだが、小岩の場合はなぜか逆の事が多い。

「お告げがあったらしいんだ。彼が大発見するって」

「誰に」

「寮の運営から手を引いたその大企業の誰かにだよ」

 なぜ社長とか会長とか具体的な役職の人が出てこないのだろう。そう言えば病理学の教員って誰だろう?

「それじゃあ、大企業の誰かにお告げがあって、それを確かめるために関連会社に探らせて、確実になった途端、その大企業が本腰を入れて乗り出してきたんだけど、大学が逆手に取ったんで、企業はトモナミ君を今度は寮内派遣した、ってことですか?」

小岩は頷きも首降りもしなかった。

「でもだったら、トモナミ君は救世主かもしれないですね」

ナナモは思わずそう口にしていた。

「反対にスパイかもしれない」

小岩はいつになく嫌味な微笑みもなく言った。

「でも、もはや、その企業は関係ないと、寮のOBがクラウドファンディングのようにしてここを維持していると言わなかったですか?」

「ああ、でもね、実はこれは偶然なんだけど、ナナモがこの寮に来てから、あの企業がまた出資を言い出したんだ」

「それで?」

「あの企業が手を引いたことで案外この寮の所属が宙ぶらりんになったので、大学もどうすることもできなくて、前にも言ったけど寮生をなくす方向で働いていたらしいし、実際ほぼそうなりかけていたんだけど、ナナモが選ばれたからね。ナナモこそ救世主かもしれないな」

「僕が救世主?」

 小岩が今度は嫌らしい微笑みを添えていたのをナナモは見逃さなかった。

「まあ、そんなものかもしれないな。だって、誰も知らない入寮の規則をなんなくパスしてやってきたんだから」

誰も知らないとは本当のことだったのかとナナモは一瞬思ったが、素早く首を振った。そう言ったのは小岩だからだ。

「でも、大学のOBはこのことをどう思っているんですか?」

「どうもこうもないよ。いくらOBがクラウドファンディングで助けるっていっても知れているからね。あの企業が出資することになったら一斉にOBは手を引くだろう」

「でも寮の自治が……」

「その自治が乱れているって。ナナモが夜な夜な寮から出ていくって。まさか幽霊じゃないでしょうなって、寮に苦情が来たらしんだ」

「本当ですか?」

「たぶん大学の差し金だろうけどね。まず、救世主を追い出さないと。それに救世主は一人じゃないと行けないし、新たなる救世主っていうネーミングのほうが格好いいからね」

「だから、ヌノさんが……」

 ヌノさんがどうかしたのかい?と、小岩が尋ねてきたが、ナナモは黙っていた。

「小岩さんはこのまま寮が大学に運営されても良いと思っているんですか?」

「個室が相部屋になったら僕は退寮するしかないし、そうならなくとも規則が今より厳しくなったら退寮するかもしれないな」

 小岩は特に感情を出さずに言ったあと、でもこの寮にはもっと不可思議で複雑な機能があるから簡単には行かないと思うよと、きりっとした目じりを上げて言った。

 ナナモは、「またあ~」と、小岩に言おうとしたが、小岩の顔は真剣そのものだった。確かにこの寮には武具庫があったし、だれも言ったことがない寮母の部屋がある。

「ところで、何故トモナミ君に柔道部に入るようにすすめたんですか?」

 ナナモは本来聞きたかった事を小岩に尋ねた。

「柔道?なんのことか分からないけど、僕はナナモに言ったように、この寮の規則を説明しただけさ」

「それに、その事を伝えるのは本来ナナモなんだから」

 ナナモは、本当に小岩は何も言っていないのだろうかと訝ったが、その事を尋ねても決して交わらないだろうと考えて言うのを止めた。

「ところでトモナミ君はどの部屋に入ったんですか?」

 ナナモは同室者がトモナミだと思っていたが、今朝起きた時は相変わらず部屋の半分にはヒトがいた気配はなかった。

「志村さんがいた部屋だよ」

 小岩はこともなげに言った。

志村さんが退寮した部屋は南側で日当たりが良い。だから、ナナモは密かにあの部屋に移る事を望んでいたのだ。だから、ナナモはその事を訴えた。

「ナナモは骨学実習で忙しそうだったし、その事を伝えようと思ったらいなくなっていたから」

 ナナモはこの時の記憶がまだ戻っていない。だから反論できなかった。

「だって、小岩さん、もう、僕が最後だって言っていませんでした?」

 反論ではない。悪あがきだ。ナナモはその事を承知で小岩に言った。

「だから、事情が変わったんだよ」

 珍しく語気を荒げたのでナナモはおののいた。と同時にそれ以上何かを言おうとも言葉が浮かんでこない。それでももうすこし粘れば好転するかもしれない。だいたい、トモナミはまだ新入生だ。荷物も多くないし、今ならナナモの願いもかなえてくれるかもしれない。

「そう。ヌノさん、ヌノさんが、僕は同居人が条件だから、同居人のために日当たりの良い部屋の方が良いわねって言ってくれてましたよ」

 ナナモはダメもとで鎌をかけた。

「ヌノさんがナナモに何を言ったか俺は分からない。それはそうとして、俺がナナモに最後だって言ったのは本当だ。でも、状況が変わることもある。前にも言ったけど、今のシステムに変わったのも急だったからな」

 そう言われるとそれ以上何も言えない。事実、解剖学の新教授の遅延で今年だけ解剖学の実習スケジュールが変わった。

「トモナミ君にはしばらく注意しておいた方が良いよ」

 小岩は意味深なことを言った。

「どういう意味ですか?彼は小岩さんとは違って、真面目で嘘はつかないように思うんですけど」

小岩がナナモに嘘をついたかどうかは分からないし、根拠もない。ただし、本当かどうかわからないことが多すぎるのだ。だからつい嘘と思ってしまう。ナナモは言葉のあやで言ったのだが、黙ってナナモをみる小岩に向かって、すいません言い過ぎましたと謝った。

「トモナミ君には双子の兄弟が居るんだ。今T大の工学部に居るよ。もちろん知っているよね」

 ナナモは小岩に怒られるかのらりくらりと交わされるかのどっちかだと思っていたが、案外、小岩のはっきりした口調が気になった。

 ナナモは知らないと首を振った。

「新しい寮の規則がトモナミ君によって作成されるかもしれないな」

「どういうことですか?」

 ナナモはもっと小岩と話したかったが、いつの間にか朝食を済ませていた小岩がトレイを持って立ち上がったので、ほとんど口にしていなかったナナモはその場にとどまるしか選択肢がなかった。

「ところでクニツ君、今日から解剖実習が始まるんじゃなかったのかい?寮で流暢に過ごしていいのかい?」

 小岩はいやらしさ満載の笑顔を添えて振り返るとナナモに言った。

 ナナモは御飯を口の中に急いでほおばったので何も言い返せなかったが、決して意図的ではないにしろ、小岩がまるでスキップをしているかのように軽やかに食堂を去っていく姿を見て、また、誘い小手に簡単にはまって一本取られたような嫌な気分に包まれた。


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