(6)始まった解剖学実習
小岩の言う通り系統解剖学、つまりご遺体を直接解剖する実習のオリエンテーションが午後から始まった。
ナナモは午前の講義が終わったあと、食堂でオオヤマと目を合わせたが、なぜかスルーされたので、これからの解剖実習で同じメンバーになるキマタを捕まえた。
「ロンドンへ行っていたって本当ですか?」
キマタによると骨学実習を一発で合格したのは、数名だけで、そのうちの一人であるナナモが試験後急に行方をくらましていたという噂は、のんきにロンドンに里帰りしていたという尾ひれも加わって、完全炎上していたらしい。だからあれだけナナモのおかげで皆が進級出来たと、GOODを連発してくれていたのに、今ではBADどころか、WORSTという烙印で、皆の視線は塗り固められていたようだ。
「ロンドンには帰っていないよ」と、ナナモは、そうキマタにはっきり言い返したかったが、小岩の話では寮にもいなかったし、かといってカタスクニにどっぷりつかって居たようにも思えなかったので、今までそのようなことすら思い浮かべた事がなかったのに、祖母が入院したんで東京に帰っていたんだと、つい口を滑らしたような事を言っていた。
実際ナナモはロンドンに戻っていたとは思えないのだが、その記憶は未だ曖昧だし、グラストンベリーの記憶がある程度残っていて、気持ち的には半分はまだイギリスに戻っていたのではないかという観念にしばらく縛られていたことは事実だったが、さりとてどうしても現実だとは思えなかった。だったら、祖母を病院に見舞いに行ったという全く記憶に残っていないこともまんざら嘘ではないのではないかと、はじめは罪悪感を抱いたが、誰に迷惑をかけることもないだろうと思って割り切った。きっと、タカヤマならホンマか?って、まったく信じないか、どこの病院や、どんな病気や、ナナモはおばあさんが苦手やって言っていたけどと、矢継ぎ早に質問を浴びせて来るのに、まだ実習を始めたところだし、年齢がひとつ下で、今の所まだ遠慮というか、年上に少し敬意を示してくれるという日本的な思いやりが残っているキマタは、「そうだったんですか」と、素直に頷いてくれた。ナナモはその素直さに思わず、「でも同情されるのは嫌だから、皆には黙っていてくれないかな」と、きっとキマタなら四面楚歌のナナモのために少し色を付けて話してくれるだろうと、少し悲し気な表情で呟くと、キマタは大きく頷いて、ナナモが忘れかけていたこれまでの記憶を語ってくれた。
骨学の試験は筆記ではなく口頭試験だけだった。受験のようにじっくり考えて答えるのも一つの方法であるが、実際の臨床ではそんな悠長なことは言っていられない場合もあるので、即答を強いたようだ。実際、骨をランダムに骨箱から取り出し、まずその骨の名前を言う、答えられたら、次はより細かな骨の部位を聞かれ、そして最後には神経血管や筋肉との関係を答えられたら合格となる。
骨学実習の試験は、ランダムに選ばれた二人一組で教授の質問に答えるというもので、ナナモのペアはタカヤマだったらしい。
「本当?」
ナナモは自分の記憶なのに、つい大声で叫んでしまった。それでも、友達だから記憶から消そうと思っていたのかもしれないなと、わけのわからない言い訳で何とか繕うとしたが、ナナモが動揺しているほどキマタは気にしていないようだった。
「一発で合格したとしたら、御婆さんの所に早く行かないといけないと思ったからかもしれないな。だからこんなこと言ったらまた炎上するかもしれないんだけど、あまり試験のことは覚えていないし、どんな問題かも覚えていないんだ」
ナナモは冷汗を拭うような気分でキマタに話したのだが、先ほどと同じように反応はなかった。
「タカヤマさんに聞いていないのですか?」
「怖くてね」
ナナモはキマタがタカヤマさんと言っていることに少し違和感を覚えたが、まあ、僕もまだクニツ、いやナナモさんだからと、話しの腰をこれ以上折ろうとは思わなかった。
「ナナモさんは、あの時、日本語は捨てるからって、僕らに言ったんです。英語とラテン語なら覚え易いからって」
たしかに、一か八かで日本語を捨てたのなら正解かもしれない。特に日本語なら漢字は苦手なので、その時間が無駄になる。それでも聞きなじみのない解剖学の用語なのだからと心配したが、英語やラテン語の方が一つの名前を覚えるとつながりがあって、苦労したフランス語の丸暗記術と同じ要領で行っていくうちに頭の中に蓄積されて行ったのかもしれない。
「でも、第二解剖学の教授から口頭試問を受けた記憶がないんだ。それに、あの教授は満点でも一発合格は出さないって聞いたんだけど」
「ナナモさん本当に大丈夫ですか?」
キマタは、今度は怪訝な顔をする。何かまずいことでも言ったのか思ったが、ナナモはその事すら分からない。だから、頭痛がと、痛くもないのに頭を押さえた。
「ああ、慌てて帰って来たので少し疲れているのかもしれないな」
マギーごめんなさいと、ナナモは何度心の中で謝ったかわからない。それに嘘はもうつかないと、あの時誓ったはずだし、それなりの禊ぎをうけたから二回生に進級出来たはずなのに、と、キマタに気づかれないように反芻していた。
しかし、マギーの話はここに居る同級生の誰をも傷つけない。
ナナモは、もう、そういう自分を今は突き進むしかないと、腹を決めた。
「骨学の口頭試問を行ったのは新しくこられた、第一解剖の教授だったでしょう」
ナナモはキマタに言われてはっとした。そして、まるで稲妻が光ったあとの少しタイムラグのある轟音のように、言葉が出て来た。
「中田慎太郎……先生、いや、教授」
「いやだな、ちゃんと覚えているじゃないですか」
第一解剖学の新しい教授が赴任し、骨学実習を第二解剖学から継承する初日に、皆、どのような教授だろうかと緊張でやきもきしていたが、中田慎太郎という教授は第二解剖の強面の教授との比較もあってか、温厚そうでたまに笑みを見せて自己紹介したので、皆ほっと溜息をつくことが出来た。それでも、それは一瞬の事で、たとえ温厚そうでも、授業や試験に対しては個性を発揮したり、微笑みながら容赦なく落第させたりすることもあるので、初日だけの印象では油断できないと、先ほどまであれほど皆が緩い息を吐いたのに、緊張のボルテージを再び上げ、口をへの字に曲げで、鼻の孔を少し膨らませていた。
目の前にはキマタがいるが、その表情は次第にぼやけてきて、いつの間にか中田教授に代わっていた。そして、ナナモはその変態に戸惑うことなく、隣にタカヤマが居ることなど気にせずに骨学の口頭試問を受けている。
「クニツ・ジェームズ・ナナモ君だね」
「はい」
「今から骨学実習の口頭試問を始めるけれど、良いかな」
良いも悪いもない。試験はどのようなコンディションであろうが始まるものだ。それでもその事を一応は聞いてくれる。それでもナナモはその気遣いに却って頬がこわばる。
目の前に骨が入っている箱が置かれてある。ナナモはその箱を見ると急に頭痛がした。この箱を自分で開けて好きな骨を取りなさい、その骨に関して私は質問するからと、もし、中田教授が言ったとしたら、ナナモはその場で凍りついて、過呼吸になって、その場から立ち去っていたかもしれない。しかし、いくら温厚そうで解剖学の教授として初めて赴任したからと言って、そこまでは優しくはなかった。しかし、ナナモにとってはその方が良い。
「この骨の名前は?」
教授は口頭試問だからといって険しい顔をしていないどころか、少し微笑んでいる様に見える。だからと言って自分が専門としている解剖という学問を軽んじているという風ではない。中田教授の個性なのだろう。ナナモは骨という無機質な物体をもつ中田教授の生き生きとした表情に絆されることで、あれほど嫌がっていた箱という魔物がもはや気にならなくなって、却って落ち着くことが出来た。
「Tibia、いや、脛骨です」
ナナモはわざとではないが、中田教授は好意的に取ってくれたらしい。だから、英語でもラテン語でも日本語でも言いやすい用語で答えればいいんですよと、第二解剖の教授はラテン語や英語での記憶をかなり強制していたのに、ナナモはまた一段と緊張がほぐれていった。
ナナモはラテン語と英語を交えながら、脛骨のさらに詳しい部位を聞かれても、すんなりと答えていた。それではと、さらに頭蓋骨を出されたり、肩甲骨を出されたりしても、その詳細までスラスラと最後まで答えることが出来ていた。
ナナモはこれくらいならと、隣のタカヤマに眼をやる。しかし、タカヤマの姿はいつの間にかいなくなっていた。キマタの話では、下腿の骨である脛骨だとタカヤマもすぐに答えられたのだが、頭側にある顆間隆起という部位が答えられなくて、早々と撤退させられたらしい。きっと、中田教授の表情が合格でも不合格でも変わらず穏やかだったのでナナモは気が付かなかったのかもしれない。
「よく勉強されていますね。少し、ラテン語と英語が混在されていたところはありましたが、合格です」
ナナモは自分自身何をしたのか、そして、何がその間に起こっていたのか分からないまま、まだ、中田教授の前に座ったままだった。
ナナモは中田教授の前に座っていたが、中田教授を見ていなかった。ナナモは骨が箱にしまわれることをずっと見ていた。そして、あの骨学実習の初日の最後に聞いた、「あれがなければこうなるタミが増えるのだ」という、言葉のみがナナモの脳を揺らしていた。
「クニツさん。合格ですよ」
中田教授の横に座っている教室員の先生が、対照的に険しい顔で、次の試験があるのだから、ササッとこの場所から去ってほしいと言わんばかりの語気で急き立てた。
目の前には相変わらずの中田教授が居る。そして、何事もなかったかのように骨が入っていた箱は閉じられていた。
ナナモはハッとなって立ち上がると一礼してその場を去った。きっと、タカヤマが何かを叫んでいたに違いないのだが、ナナモは一度も振り返ることなくその場から走り去っていた。
「だから、タカヤマは機嫌が悪いんだ」
ナナモはもはや推測ではなく、現実の記憶の裏付けでキマタに言った。
「ナナモさんが悪いわけではないですよ。だって、ナナモさんはしっかり勉強されたから一発で合格出来たんですから」
ナナモは珍しく苦笑いをしていた。しかし本当なら、脛骨という下腿の骨を今もう一度見せられてもほとんど何も答えられないと、キマタに言いたかった。
「僕は三回目でやっと合格できたんです。だから、ナナモさんってすごいなあと思ったんですが、反対に今日から始まる解剖実習の足手まといにならないかって少し心配しているんですよ」
キマタは案外冷静でナナモの事を年上だと全く思っていないようだったが、一発合格したナナモに少しだけ敬意を払ってくれたのもかもしれない。
「ねえ、キマタ、僕のこと、ナナモさんって呼ぶのやめない?クニツかナナモじゃダメかな」
ナナモはいつか化けの皮が剥がれるに違いないと思ったし、何か試験の結果だけで自分の評価を左右されるのが気になった。もしかしたら、ナナモのトラウマになっている自分だけがイケメンハーフだと勘違いされていじめられたことをもはや意識していないはずなのにふと思い出したからかもしれない。
「そうですか。いや、実は、ナナモ……、いや。クニツ……、さんが居なくなっている時に他の三人でそのことを話しあったんです。これからは解剖実習が本格的に始まるのにどうしようって。でも、やはり、ナナモやクニツで呼ぶのはまだ僕らにも遠慮があるから。丁度そんな時に、ナナモ……さんを探していたタカヤマさんに会って、その事を尋ねたら、なんか不機嫌そうにフジオカに聞いたらって。それで、フジオカに聞いたら、ナナさんって呼んでいるって聞いたんで僕達もそう言おうと決めたんです」
先ほどとは異なり、キマタは始めて会った時のキマタらしく、もう決まった事ですからと事後承諾を求めるような言い方で、「ダメですか?」と、ナナモに尋ねてきた。
ナナモは特に問題はなかったが、急にキガミ……さんも了承したのかいと尋ねた。キマタは怪訝な顔をしたが、すぐにそれってキガミから出た話なんですよとニコリとした。そして、付け加えるように僕達はそう呼びますけど、キガミさんとか言わずにキガミって呼んでくださいねと、付け加えて来た。もちろん他の二人も同じようにという意味を十分添えてだ。
「よろしく、キマタ……」
「こちらこそ、ナナさん」
ナナモの記憶の遊覧は時には良い着地を生むこともある。それでも、また、あの箱が出てきたら、ナナモはまた固まってしまうかもしれない。そう思うと、これから解剖実習が始まると緊張しながらも高揚感がほとばしるキマタに素直に寄り添うことはできないどころか、体の芯からほとばしる身震いをキマタに何とか気づかれないようにするだけで精一杯だった。
ナナモはキマタと別れると午前中の解剖の講義の時に配布された杵築医科大学解剖学実習の手引という、簡単には破れないように比較的しっかりとした厚さはあるがまったく高価そうに見えない純白の紙で閉じられた冊子をリュクから取り出すと、その表紙をめくった。開いた左ページには解剖実習のスケジュールなどが目次のように記載されていたが、右ページには、
「医の扉を自ら開けた者のみに、ご遺体は一度だけ蘇り語りかける」
と、書かれてあって、ナナモはその言葉の一文字一文字を、まるで呪文のように何度も小声でつぶやいていた。
外科医が手術室で着ているような長袖の解剖着にマスクと帽子、そして長靴という出で立ちなのだが、四方八方を遮光カーテンで覆われた解剖学の実習室に入ると、まるで冷蔵庫の中に居るような冷気に包まれた。もちろん空調システムによって、より低い温度設定になっているとはいえ、それだけではなく、目に見えない霊気が漂っている風にさえ思えた。
ナナモは久しぶりに実習のメンバー全員に会った。お互い緊張しているのかほとんど会話らしい言葉を交わすこともなかったが、アイコンタクトで十分だった。
「これから解剖実習を始めます」
初日なので実習室の前方には中田教授以下第一解剖学教室の教室員が横一列に並んでいた。例年の事と言えども、新しい教授が赴任した最初の解剖学実習である。それでも中田教授の人柄なのか、教室員が学生以上に緊張しているとは思えなかった。
「解剖実習はキミたちが人体にメスを入れる最初の日となります。もちろんご遺体は死者です。したがって、ご遺体はもはや意志を持ちません。したがって、あなた方がどのように勉強しているかを知る術がありません。しかし、ご遺体が人間である以上、あなた方と同じようにこの世で生きてきたのです。時代が違うだけですが、そう遠い過去でもありません。御遺体はあなた方の前で死者として横たわっていますが、あなた方に何かを語りかけるために蘇ってきたのです。その事を忘れないでください。人体の解剖は医学において基本中の基本です。したがって、骨学と一緒で単にその部位を暗記するという単純なものではありません。しかし、暗記していなければそれから先には進めません。したがって、暗記できない者は落第していただきます。ただ、私は医学部受験を勝ち抜いてきたあなた方なら成し遂げられると思いますし、一度で合格してもすぐに解剖の名称を忘れるくらいなら、再試験を受けることによって記憶に刻みつけた方が良いとも思っています。
よろしいですか、先ほども言いましたが、解剖実習は医学の登竜門です。そしてその登竜門は二度と訪れられません。したがってもし留年することになったとしても。再試験は受けられますが、解剖学の実習をもう一度受けることはできません」
中田教授からは微笑みは消えていた。眉は相変わらず垂れ下がったままだったが、解剖学に対する深い造詣が感じられた。
「これから、各班にご遺体が一体づつ授けられますが、人間の身体は機械ではありません。したがってすべてのご遺体が同じではありません。もちろん、何らかの病気を持っているかもしれません。しかし、その基本は変わらないはずです。したがって、人体の解剖の形状や部位は百年前と代わっていないでしょう。それはどういう意味を持つかというと、あなた方がご遺体と同じ人間であり、同じ人間をこれから診ていくということです」
中田教授は全員を見渡すとまた温厚な表情に戻っていた。
司法解剖をしているテレビドラマでよく見るようなステンレスでできた解剖台が二十数台並べられ、床は水洗いできるようなタイル張りの実習室は、解剖実習以外で学生が勝手に出入り出来ない特殊な場所だ。まるで神域のように精気で満たされ身が清められていく。だからナナモ達の班だけではなく皆中田教授の話が終わったのにしばらく動けなかった。それでも教室員にご遺体を各班のステンレス台に運び込むように言われると、皆はハッとしたような目覚めとともに、現実世界に戻った。
「重たいな」
教室員に絶対に落とさないようにと言われたが、同じ人間だ、それに若者が四人で運ぶのだからそれほどではないだろうと思っていたが、ブルーのしっかりとしたビニール素材に覆われてまだご遺体を見てもいないのに、その重みは死者が本当に蘇り我々に語る第一声のように思えて仕方がなかった。
「それではご遺体を取り出してください」
すべての班のステンレス台にご遺体が運ばれた事を確認すると、中田教授が言った。
シーツの中にはご遺体が入っている。そう思うとシーツに手を触れられない学生もいたが、すぐにシーツを取り外している学生もいた。
「早くしなさい」
ナナモの気分は前者だったが、骨学実習の時とは異なり、シーツにくるまれていたためか、人骨ではなくご遺体が入っているのに全く身体が動かず、謎めいた言葉でナナモを惑わしてくるということはなかった。それでも、この班では年長者なのに、なかなか手をださないナナモを見かねたのか現役のキガミがキマタとクツオキを促してシーツからご遺体を取り出した。
「あっ」
何もしていないナナモは思わず声を出しそうになった。何故ならナナモの瞳に映ったご遺体は老人ではなく。まだ、年若い男の子だったからだ。
「もしかして僕が……」
ナナモはマスクの中で口をあけまま全身から気が抜けて倒れそうになった。しかし、倒れなかったのは、その男の子がハーフではなかったからだ。
でも、どこかで見た事が……。
ナナモはその一瞬の出来事が現実ではないのだと思おうと口を閉じ、目を閉じ、そして、「いのち」と、心の中で唱えた。
「年を取るとこんなに小さくなるんだ」
キマタの声がした。
ナナモはキマタの言葉が呪文だと眼を開けた。
ナナモの目の前には先ほどのことが嘘のように、年老いた男性が横たわっていた。確かにそのご遺体はあれほど重たかったのにずいぶん小柄だった。
「これから実習を始めますが、今、君たちはご遺体を見て緊張されているでしょう。ご遺体に対する尊厳も抱いているでしょう。しかし、実習は教科書の内容をただ単に覚えていくのではないのです。解剖は手も動かしていかなければなりません。そして、実習には時間的制約も伴います。したがっていつしか今やっていることが作業だと思えてくるかもしれません。しかし、何度も言いますがご遺体は人間です。もちろん死者ですが以前はあなた方と同じように生者だったのです。どうかその事だけは忘れないで下さい。だから、解剖実習を始める前と終わった後には必ず黙祷をしてください。そうすることできっと時間に追われることになったとしても、あなた方に蘇ったご遺体は語り続けてくださると私は信じています。では、黙祷」
実習室にいるすべての生者はすべての死者に対して、蘇りの敬意を語る代わりに、目を閉じしばらく頭を下げ、まるで異世界に旅立つように身を固め時間を止めた。
「では始めてください」
解剖学実習がついに始まった。ご遺体をはさんで、ナナモとキガミ、キマタとクツオキがバデイになって解剖実習を担当することになぜかキガミが決めた。他の三人はキガミがリーダー格になりながら、実習を進めていくんだろうなと、そういう暗黙の了解に異論を誰も唱えなかった。
和か?
ナナモは自分で言ったつもりだったが、その自覚が全くなかった。それでもナナモの鼓膜は揺れている。もしかして、自分で言っていなかったのだろうか?
じゃあ、誰なのだろ。
もしかしてご遺体の御爺さん?
「ナナさん、大丈夫ですか?」
キマタの声がする。あの時と違って心配そうな感情がこもっている。それに高くそびえる壁はないのか反響しない。
「ああ」
ナナモはそう返事しながら、御爺さん、と思い直しながらまだ先ほどのことが尾を引いていた。
「ナナさん、一刀目をお願いします」
キマタの声がまた聞こえ、ナナモはメスを握った。その瞬間ナナモの手に稲妻のような衝撃が走る。
「あれほど拒んでいたのに、お前もついにツルギを手にしたのだな。お前はやはりクニツだ。ツルギを振り上げ、もう一度、クニツの世界を創るのだ」
「クニツの世界などもはやない。それに、ご遺体は死者である。僕は生者ではなく死者にメスを入れるのだ。それは理不尽でも自己のためでもない。生者を救うためだ」
「生者を救うためだと。それが詭弁であることをお前は十分知っている。だからお前はオンリョウが見えるのだ。良いか本来死者は地下の世界にいる。地上の世界になどいない」
「目の前にいるご遺体はオンリョウではない。そして死者の肉体は今地上の世界にあるが、その魂は地下の世界にある」
「蘇るのだ。魂も」
「いや、それはオンリョウだけだ。ただしオンリョウの肉体は蘇えりはしない」
「お前の言う通り確かにオンリョウは肉体を持たない。しかし、地上の世界に蘇ることが出来る。なぜだが分かるな?オンリョウは肉体を持つ地上のヒトに宿ることが出来るからだ」
「嘘だ」
「嘘ではないことをもはやお前は知っているだろう。そして、ヒトなら誰にでも宿ることが出来る」
「僕はオンリョウではない」
「そうかな。ならばなぜおまえは蘇えった。なぜ、地下の世界にいたおまえが地上の世界にいるのだ」
「黙れ!」
ナナモは自分で言ってまたハッとなった。ずいぶん大きな声で叫んでいたように思えたからだ。
しかし、それは一瞬のことでナナモのメス先は微動だにしていなかったし、実習室の四隅から浴びせられる視線も全くなかった。
「ねえ、キガミ、代わってくれないか?」
ナナモはしっかりと握ったメスをまるでマジシャンのようにくるっと回すとその柄の部分をキガミに向けた。キガミは最初戸惑っている様だったが、何かをナナモから感じ取ってくれたのか、黙って受け取ってくれた。
「今日だけですよ。それに、なにか思うところがあるのなら明日までに打ち勝ってくださいね。そうでないと、私たちは医の扉を開けられませんから」
キガミはナナモを責めることはなく、それでいて自分の意見を添えるようにはっきりと言った。キガミの医の扉という言葉と私たちという言葉がそれまでナナモの目の前に掛かっていた靄をきれいさっぱりぬぐい取ってくれた。
「ありがとう」
ナナモはご遺体を見た。ホルマリンに漬けられて変色した肌であったが、顔だけでなく身体中には皺や皮膚のたるみがあり、どう見ても年若い青年には見えなかった。
でも、瞳を閉じ何も言わないこの年老いた男性に生者として若かりし頃が確かにあったはずだ。しかし、その時の姿をナナモは知る術はない。想像すらできない。そして、何よりも僕は生者で、ご遺体は死者である。
「まだ続けたいでしょが、今日は初日なので全員終わってください」
中田教授の声が解剖実習室全体に行き届くまでしばらく時間がかかった。きっともはや夕方なのだろう。それほど皆が目の前の実習に集中していた。それでも、中田教授の声でほとんどの学生はほっと一息ついたように、実習道具を片付け始めた。
黙祷!と、教授は言わなかったが、ビニールシートにご遺体をくるむ前には、皆が実習まえよりもきちんと身をただし、頭をしっかりと下げて黙祷していた。
「さっきはすまなかったな」
着替えを終えると、いくつかの解剖班は西日が珍しくはっきりと射し込んでいる講義室に戻っていた。もちろん講義はない。キガミが居なかったのでキガミだけ一人で帰ったのかと思ったが、しばらくするとキガミも講義室に戻ってきた。ナナモの班は全員講義室にいる。だからナナモは先ほどの事をキガミに詫びた。
「ナナさん、骨学実習の時もそうでしたね」
キナミには聞いていたが、初めてキガミにナナさんと言われて戸惑った。と同時にナナモの変化をきちんと見ていたことに驚いた。
「そうだったかな」
ナナモはとぼけるしかなかった。
「でも、ナナさん、口頭試問は一発合格でしたからね」
キナミは場を和ますように助け船を出してくれたが、キガミは顔色ひとつ変えなかった。
「骨学実習は、個人作業でしょう、でも、解剖実習はそうじゃないから。あの時も私、言ったけど、私たちが協力しないと実習が進まないから」
「ああ」
ナナモはまた曖昧に返事したが、キガミの言葉を肩ぐるしいとは他の二人は思っていないというか、そうだと頷く表情をしていた。
「もし差し支えなければ、どうして私にメスを渡したのか教えて下さいませんか」
キガミは丁寧な言葉づかいで直球を投げ込んでくる。
「ちょっと」
クツオキが間に入ったが、キガミは一歩も引かないという顔付きだった。
「いいんだよ。でも、僕にもよくわからないんだ。ただ、何となくご遺体の若い頃を想像してしまって、自分と重ねてしまったのかもしれないな」
両親が行方不明で生死すらわからず。だから、ロンドンの叔父叔母の所に住んでいて、たまたまというか宿命を感じて、日本の大学を進学するために日本に戻って来たときからは祖母と一緒に暮らしている。
その根源にはナナモが自らの命を絶とうとしたらしいことが始まりで、その原因はいじめだった。ナナモはその全てを話した方が良いのではないかと一瞬思ったが、やはり言えなかった。
「ロンドンでなにかあったんですか?」
キガミが言うと、クツオキが、また~という顔をした。だからナナモはやはり言わなければと口を開きかけた時、
「私は御爺さんと御婆さんに育てられたようなものなの」と、あれほどナナモを直視していたキガミが急に視線を外して呟き始めた。
「両親は共働きで、私の面倒をずっと二人が看てくれていたの。でも、高校に入学した時に御爺さんが病気になって、それで御婆さんが看病することになったんだけど、もともと御婆さんは身体が悪かったから、結構家のことは御爺さんがしていたの。だから、私御爺さんの代わりに手伝うからって言ったら、御爺さんが自分のしたいことをしなさいって言ってくれたの。でもね、そんなこと出来ないでしょう。小さい時からずっと迷惑ばかり掛けてきた私のことをいつも気遣ってくれていたんだから。そうしたらその事を察したように御爺さん、息を引き取ったの。御婆さんの事を頼むって。だから、私、その時に誓ったの。私が医者になって御爺さんの代わりに今度は御婆さんを助けようって」
キガミは顔色ひとつ変えずまるで卒業式の答辞のように淡々と話してくれた。
「だったら、ビニールカバーを外して、ご遺体を見た時……」
クツオキは最後まで言葉を続けなかったが、キガミをいたわるような悲し気な瞳をみると続きの言葉は十分ナナモに伝わった。
「そうね。でも、ご遺体の御爺さんは私の御爺さんとは似ていなかったわ。それでも、キマタ君が、小さいねって言ったでしょう。そうしたら、私、思わず御爺さんのことを思い出して、本当はあのとき大声で泣きたくなったの。でも、
ダメだよって、御爺さんからの声が聞こえて来たようで、はっと気を取りなおしたら、ナナさんがものすごく悲しい顔をしていて、微動だにしなかったから、もしかして、同じような気持ちなのかなと思ったの」
キガミは相変わらず顔色を変えなかった。もちろん、歯を食いしばって強がっているという風でもなかった。
「僕の祖母は今でも僕を怒鳴るくらい元気だし、生粋のイギリス人だし、身長も高いんだ。それに僕は祖父に会ったことがないんだ」
だから何なんだと思いながらナナモは申し訳ないと思う気持ちで言った。
「でも、本当はそれだけじゃないんだけどね。色々とあるでしょう」
キガミは先ほどより少しだけ感情を漂よわせながら言った。ただしその感情がどのような感情なのか、ナナモには捉えられなかった。
「僕のおじいさん、おばあさんはまだ元気だから」
キナミが言うと、クツオキも頷いた。しかし、それなりの思いがないわけではないはずだ。
「だったら、あの時、メスを渡した僕の事をどう思ったんだい」
キガミの胸中を察すると、ご遺体に最初にメスを入れさせたことをナナモは悔やんでいた。
「ナナさんのことは何も思わなかったわ。ただ、メスを渡された時に、私が最初に医の扉を開けられるかなあって単純に思ったの。そうしたら、あの御爺さんは蘇って語りかけてくれたの」
「蘇ったって?じゃあ、何を語ってくれたんだい?」
ナナモは思わずキガミに尋ねたが、キガミは、それは秘密よと、ナナモが出会ってから始めて茶目っ気のある笑顔を見せた。




