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ジェームズ・ナナモと蘇りの輝跡  作者: まれ みまれ
4/30

(4)入って来た新入生

「ジュード!」

 ナナモは道路脇に横たわったまま、涙が頬を落ちていく自分自身の様を見ながら、そして実際にその感触に浸りながら、光の道を走るその背中に向かって叫んでいた。

「あの~」

 イギリスにいるのに、日本語のような音がする。

「大丈夫ですか?」

 いや、まさしく日本語だ。 

 そうか、夢だったんだ。僕はイギリスなんて行っていなかったんだ。だいたい、カタリベからロンドンに行くなと言われていたし、実際、ルーシーに行けないと返事をしたはずだ。

ナナモはまだ半信半疑だったが、あえてそう思おうとした。そのほうがずいぶん楽になるような気がしたからだ。

でも、だったらここはどこだろう?もしかして、東京の家なのだろうか?その割には寝心地がとても悪いし、ベッドはふにゃふにゃだ。

ナナモは一番想像したくない場所であるが、一番想像通りの場所であるのか確かめたくて重い瞳を、まるで休日明けの店のシャッターを開けるように、ややけだるい所作で持ち上げた。

 光の粒が揺れている。しかし、その揺れは弱い。だから、自然光なのか、人工光なのか分からない。

 誰かがまるでナナモにキスでもしようとするぐらいの距離に居る。ナナモは思わず顔を引いた。すると、その知らない誰かも鏡のように後ろに下がった。

 ナナモは眼は大きく見開いていた。見知らぬ誰かも大きく目を見開いていた。

「驚かさないでくださいよ」

 今度ははっきりとした日本語の声がする。やはりここは日本だ。でも、やはり聞いたことがない声だ。ナナモはもう一度、何かに埋まっている感触を確かめた。しかし、もしここがナナモの想像通りの場所なら、この顔も声も知らない誰かがナナモに尋ねてくることなどあり得ない。

「ここはどこですか?」

 ナナモはあえて丁寧な言葉を選んだ。

「どこって、ここは栄光寮ですよね」

 顔も声も知らない誰かが少し怒気を含んだようなもの言いで即答する。

 ナナモはその答えにすぐさま反応しなければならなかったのに、折角、宝くじで一等が当たったと思ったのに、1を7だと勘違いした様な、でも最初からわかっていたことに落胆する。

「僕はクニツですよ。誰かと勘違いされておられませんか?」

 顔だけでいうと、明らかに年長者だとは思えない。きっと同じくらいの年齢だろう。

「クニツ?」

 誰かは、そんなことはどうでも良いと思っているのか先ほどの表情を変え怪訝な顔をしている。

「あの~、ここの寮生ですよね」

 もう一度名乗るのが面倒だったので黙っていると、誰かはまた残念な事を聞いてくる。それに、もはやナナモの感覚はここがカンファレンスルームであり、先ほどから節々が痛いのはこの場所に居座るこの古ぼけたソファーのせいだということを十分理解している。

「そうだけど。ただ、寮生からはクニツじゃなくてナナモってよばれているけどね」

 ナナモは一応そう答えながら、もはやこの誰かが誰でも良かった。それより、どうして僕はここに居るのか?そして今何時なのか?を知りたかった。

「ねえ、起こしてくれない」

 ナナモの口から自然と言葉が漏れていた。実際、ナナモはソファーに沈んだ身体を起き上がらせることが出来なかった。

 誰かは、あ、はいと、丁寧に優しくナナモをいたわりながら身体を起こしてくれるのかなと思ったが、おもむろに手を握るとまるで力を入れていないかの様な仕草でスーッと引っ張った。

 ナナモは意外にも力強く引き寄せられ上半身がすんなりと起き上がったので、無意識のうちにソファーにすわるような形でまた沈み込んでいた。

 誰かが立っている。背が高そうだ。だからナナモは思ったより首を後ろに曲げなくてはならなかった。なぜか半袖を着ていて、上腕の筋肉がハムのようにまるまるとしている。

僕に用?それとも、誰か探しているの?と、言おうとする前にあっと、今何時?と尋ねていた。

「もうすぐ二時になります」

「朝、昼?」

 ナナモがすばやく尋ねたので誰かは夜中の二時ですと、少しかみながら答えた。

 ナナモはもはやここが栄光寮のカンファレンスルームであり、神棚がおかれている現実を視覚としてとらえている。

「まだ参拝の時間じゃないな」

 ナナモはどうやらソファーで眠り込んでいたようだ。ここ数日骨学の実習や専門教科の予習復習が忙しかったうえに何度かタカヤマの剣道に付き合っていた。もしかしたらそういう時に限って苺院でのリモート授業があって、部屋のベッドで寝れば、朝起きられないと思ったのかもしれない。だから、カンファレンスルームで寝ていたのかもしれない。なぜならここで寝ていれば少なくとも寝過ごすことはない。他の寮生は無関心だが、寮母さんはいやいやながらも声は掛けてくれるし、起きれば神棚に参ることは忘れない。

ナナモはやっとほっと一息つくことができた。

 だから、せっかく重い体を動かして座ったのに、また、横になろうとした。

 うん?

 ナナモは体を微妙に動かそうとしていたのにまた素早く体制を戻した。

「こんな夜中にどうしたの?それに君は誰?」

 参拝するまでまだ時間があったということと、夢かVRか異世界に居たのかは定かではないが、ここは日本だし、ここは杵築医科大学の学生寮である栄光寮であるし、きっと、陽が昇れば医学部生としての講義が始まるし、何よりも現実の世界でナナモは生きているということがわかって、ナナモはほっとしたのか、初めて目の前にいる誰かに気兼ねなく向き合えるような気がした。

「トモナミコウジと言います」

 誰かは真夜中だというのにその声量に遠慮がなかった。ナナモは思わず人差し指を立てて口元に当てた。トモナミは頭をかくという古めかしいポーズはしないとはいえ、それなりの感情を表わしてくれるのかと思ったが、全くそんなことはなかった。

「あのー、トモナミ…さん、名前はわかったんだけど、どうして、こんな真夜中にこの寮に居て、折角気持ちよく寝ていた僕を起こさなければならなかったんだい?」

 もはやナナモの眠気は吹き飛んでいる。

「どうしてここにいるの?ってどういう意味ですか?」

ナナモは質問返しを受けた。ナナモは思わず驚いたような表情をしたためなのか、何かに気が付いたかのようにトモナミは言葉を発した。

「もしかして、ナナモさんは僕のこと聞いておられなかったんですか?」

 突然の質問にナナモは大きくうなずくしかなかった。

「四月からこの寮に入ることになったトモナミコウジです」

 ナナモはああそうなのと軽い動きでうなずこうと思っていたのに、反対にえっと、と声が漏れ出ただけで固まってしまった。

「やはりご存じなかったんですね」

 ナナモはかろうじて顔を少し下げてイエスの意志を伝えた。トモナミはだからと言って落胆してはいなかったが、次の言葉をどう発したらよいのか考えている風だった。

 二人の間というか、きっとナナモの方がより気まずさを覚えた。

 学生課で会ったあの学生のようにナナモが知らない同級生なのだろうか?それとも、もしかしてナナモの同居人がもはややってきたのだろうか?つい最近までいたオオトシは立派な医者で大学の卒業生だった。風格というより、見た目でも同じ年代だとは到底思えなかった。しかし、先ほど見た目だけで判断した年齢が正しいとは限らない。だから、先輩だったらと、先ほどのぞんざいな言葉遣いを後悔した。

ナナモは今さら繕えないなと感じながらどうしたものかと思ったが、入寮の条件をそういえば一年前にここで知らされたことを思い出した。

だったら在学生が途中から入寮するなんてできないはずだ。

「トモナミさんは何回生ですか?学生さんですか?」

入寮の条件をすべて理解しているわけではないナナモは先ほどの杞憂が完全に消えたわけではなかったが、それでもいつまでもうじうじしているくらいなら、前にすすもうとそれでももしもの保険を掛けるように丁寧な言葉でトモナミに尋ねた。

「あっ、すいません、ナナモさん、一回生です。今年入学したところです」

 トモナミの初々しさよりは先輩ではなかったし、ましてや同級生でもないことにほっとしたが、それはそれでふつふつと疑問が湧いてくる。

「僕のことは知っているんだ。だからクニツじゃなくてナナモで……」

 ナナモはまた言葉使いを戻して尋ねた。

「はい。でも、ナナモさんだけには挨拶できていなかったものですから」

 ナナモは一つだけ上の学年に過ぎないのにそんな肩肘はった言い方でなくてもいいのにと思いながら、そうしないのかそうできないのかわからなかったが、トモナミのまじめさが伝わってきて好感が持てた。

「トモナミ君はでも三月の終わりにどうしていなかったの?」

 ナナモは春休み返上で骨学実習が始まっていたのでずっと寮にいた。それなのに新学期が始まってからも、新しい寮生が入ってくるとはヌノさんからも聞いていないし、こういうことには地獄耳の小岩からも全く知らされなかった。

それは……と、トモナミは先ほどまでの印象とは異なって急に歯切れが悪くなった。ナナモはもしかしたら特別な事情があるのではないかと、自分のことも考えて、無理に答えなくてもいいんだと言いたかったのに違う言葉を発していた。

「さっき四月からって言っていたけど、もう四月なの?」

 自分で言いながら、なぜこんな関係ないことを唐突に尋ねたのか分からなかった。別にトモナミを気遣ったわけではない。

トモナミはもう一週間ほど過ぎていますよと、短めに答えた。

 ナナモはもう一週間もたっているんだと改めて聞かされてぞくっとした。確か、骨学実習に続いて解剖実習が始まるときいていたからだ。でも、その解剖実習は骨学実習の試験に通らないと受けられない。だから、折角新しく学生名簿が作り直されて、その名簿に基づいて実習の班が割り当てられたのに、そのメンバーに欠員が生じるかもしれないと第二解剖学の教授の声だけが記憶の中で聞こえてくる。

 しかし、ナナモの記憶はそこまでで、それ以上の具体的な記憶が戻っていなかった。そして、もうすでに四月ですべての学年で授業が始まっているということは、三月の終わりに始まった発生学の講義と試験、そして続いて行われた骨学の実習と試験は、全て終わっていることになる。

 ナナモは急に寒気がした。そして、とても不安になった。なぜなら、その間の記憶が蘇ってこなければ、折角始まった医学の専門教科の内容をナナモは全く覚えていないことになる。

 やはり、異世界に居たのだろうか?異世界から帰ってくるとしばらく現実の世界の記憶が思い出せなくなる。でも、カタリベはロンドンには行くなと言っていたし、どこかに使命を果たす為に向かったようにも思えない。だったら、記憶がなくなるなんて思えない。

 ナナモはすぐにでもカンファレンスルームから自室に戻ってタカヤマに何気なく自分の記憶の探りを入れて見ようと、ソファーから立ち上がろうと思ったが、思いのほかスプリングが悪く、のめり込んだ臀部はなかなか動いてくれなかった。

 それでも重い腰を上げようと思ったが、ふと、まだカンファレンスルームの時計が目に入った。

 まだ真夜中だ。急用なら別だが、煮え切らないナナモの記憶に対する質問をこんな時間にしたら、きっとタカヤマは烈火のごとくの怒号だけで電話を切るだろうし、もし再試験の勉強中だったら、一生、タカヤマの酒代の肩代わりを命じられるかもしれない。

 ナナモは先ほどよりも大きな身震いをした。だから、陽が十分昇ってからにしようと、やはり今夜はここで寝ようと、また身体を傾きかけたが、あっと、デジャヴのように目の前の新入生に気が付いた。

「ところで自己紹介ならこんな夜中に僕を起こす必要があったのかい?」

 ナナモは振り出しに戻ったようにトモナミに尋ねた。

「いえ、学生寮ってなんだか不気味で、なかなか寝付けなかったんですけど、何か人の声が聞こえてきて、それでその声が気になって、部屋から出てきたら確か寝る前には誰も居なかったのにカンファレンスルームに横たわっているヒトが居てそれでさすがにびっくりして大声を出しそうになったんですけど、さすがに真夜中だしと思って、恐る恐る近づいていったら、ナナモさんだったんで」

 よく僕だってわかったねと、言いそうになったのをナナモはぐっとこらえた。

「僕柔道部に入らないといけないんですか」

トモナミは唐突に尋ねて来た。

「柔道?」

ナナモはそうか寮の掟の事を早々に聞かされたのだと、一年前の自分のコトを思い出した。

「で、誰に勧誘されたの?」

 ナナモは寮生の誰が柔道部だったのか分からなかった。そう言えば、寮の掟だと小岩に説明されたが、他の寮生がなんの武道をしていたのかすぐには思い出せなかった。

「小岩さんです」

 ナナモは耳を疑った。いや、疑わざるを得なかった。ただし、トモナミは入寮したばかりだ。だから人違いだってある。ナナモは出来るだけ小岩の容姿の特徴を説明したうえでもう一度トモナミに確かめた。

「ハイ」

 単純な答えだ。だから迷いがないことが直ぐに分かる。

「でも、小岩さんは剣道部だよ。その事を知っている?」

 ナナモはもしかしたら小岩が何か企んでいるのではないかと邪推したが、それでもそういう悩みは自分だけで済ませたいという思いが強くて、あえてそう言った。

「ハイ。知っています。小岩さんからお聞きしました」

 まっすぐな答えだ。それなら、何故小岩がそんな事を言いだしたのか益々、不安になる。

「で」と、ナナモは一呼吸ついてから、「小岩さんはトモナミ君にどう言ったの?」と、尋ねた。

「その前に、なぜ、僕がこの寮に入寮しなければならなくなったのか聞いてくれますか?」

 ナナモは本来の質問から離れるようだし、あまり興味がなかったが、新入生の申し出を断るわけにはいかないので、良いよというつもりだったが、なぜかイエスと答えた。

「実は、僕、杵築出身なんです。でも……」

ナナモは、話を遮るつもりはなかったが、ワオーと言わなかったが、えっ、と、ちいさな声を漏らした。

 確かにナナモの同級生の中にも杵築出身なのに一人暮らしをしている同級生がいる。

「だったら、どうして寮に入ることになったんだって思われたでしょう」

 ナナモは今度はそうだと無言で頷いた。

「実は、そういう杵築出身の学生は本当は寮に入りたがっているんです」

「入りたがっている?」

「そうです。だって、本当なら何とか実家から通えるのに、医学部だからという理由でより近くのマンションやアパートを借りなくてはならないでしょう。それなのに、週末は実家に帰るんですよ。何か効率が悪いでしょう。それに寮なら食事つきだし、杵築出身者じゃなくても魅力的だと思いますよ」

 ナナモはまさしくその通りだと思った。しかし、小岩は入寮には寮生もよく知らない条件があってその条件に合う人しか選抜されないと言っていた。だから、両親の生死が分からず祖母だけに支えてもらっているナナモも経済的理由だけで選ばれたのではない。

「変な事を聞くようだけど、トモナミ君の家庭は何か経済的な問題でもあるの?例えば両親が居ないとか」

 ナナモはすぐに否、僕がそうだからと言おうとしたが、まだ初対面だと躊躇した。

「経済的な状況はわかりませんが、高校に妹が、中学に弟がいます」

 トモナミ君は案外スラスラと答えてくれるんだと、ナナモは益々トモナミに好意を持った。

「失礼だけど家は二階建て?」

 ナナモはまた自分と重ねてしまう。都心の一等地であるマギーの家が持ち家ならたとえ狭くても土地代だけで杵築なら結構な大きさの家が建つ。しかし、マギーには悪いが平屋のマッチ箱のような東京の自宅にトモナミ家族を簡単に招待することなど出来ない。

 ナナモの想像が独り歩きしていたのかもしれない。どうかしましたかと、トモナミの声がナナモの両肩を揺らしてくる。

「ナナモさんは、僕の事をご存知でそんな事を聞いてくるんですか?」

 トモナミは少し顔を曇らせている。

「いいや、全く。だって、新入生だし、初対面なんだろう。だから知っているわけないじゃないか?」

 ナナモは本当にそうだという顔を添えて答えた。

「でも、小岩さんは知っていましたよ」

 また、あの先輩が顔を出してくる。

「小岩さんは情報通だから。僕もここで入寮日に色々話されたし。でも、良い人だし、ああ見えても剣士だし、案外機敏で強いんだ」

 もし、カンファレンスルームに監視カメラがあり、小岩の部屋に接続されていたら、最後の言葉を聞いて部屋から飛び出してくるかもしれない。

 ナナモは一瞬周囲の気配に気を集めたが、当然小岩の姿はない。

「言いにくいことがあれば言わなくても言いんだよ。それに、それぞれ寮生には事情があるし、寮生はなぜ入寮することになったのか知らないはずだから」

 ナナモは気遣いを含めて言った。

「そうですよね。その事は小岩さんも話しておられました」

「だったら気にすることはないじゃないのかい?」

「それが、僕の入寮には問題があって、だから、入寮時期が遅れたって、こんなことは今までなかったって……」

 ナナモの時も小岩がもし今年入寮者が居なかったら寮は閉鎖になると言っていた。だから、ナナモは、深刻そうに話すトモナミに一年前に小岩から聞かされた話を人差し指と親指でぎゅーと固めたくらいの程度で話した。

「えっ、本当ですか?」

「ああ、だから、僕は小岩さんが卒業するまで、退寮出来ないんだ」

 トモナミはナナモをじっと見ている。もちろんもはや立ってはいない。新品などないがこのソファーよりもスプリントが効いている椅子に座っている。先ほどはナナモを見下ろす巨像のような威圧感を覚えたが、座ると案外それほどでもない。確かに細身のナナモに比べて大木の様だが、折り曲げている膝の高さから想像すると、もし、ナナモがソファーにめり込んでいなければ、案外ナナモより背が低いかもしれない。

「ナナモさんは小岩さんと同じ剣道部だとお聞きしていますが何も知らないですね」

 ああ、と答えてから、今後の事もあるし、学校でも正式になったので、本当はクニツ・ジェームズ・ナナモなんだとそのいきさつも含めて説明したかったのだが、今目の前にいるトモナミには簡単にスルーされそうで黙っていた。それどころか、あれほど好感度満載だったトモナミから始めてため息が目に見えて漏れ続けている。

 ナナモは本来なら、挨拶は終わったよね。じゃあ、これからよろしくと、冷たいと思われようが、再び横になるか、自室に戻っても良かったのだが、そういえば柔道ってトモナミが言っていたことが急に気になって、さっき、柔道って言ってなかったと、別に話題を変えるつもりでもなかったが、声に出そうとしたが、反対に、トモナミから、ナナモさん聞いていただきますかと、声を掛けられた。

 ナナモは頷くしかない。

「いずれ、わかるし、先ほど聞かれた時にナナモさん、知っておられたと思っていたんですが、知らないって、言っていたし、本当にそうみたいなので、お話しするんですが、実は僕、東京生まれなんです。小学校の入学と同時にここに来たので、ほぼ杵築育ちなんですが、両親は東京生まれ東京育ちです。ここから東に行けばある会社の工場があるんですが、父はその会社で、働いています」

 ナナモはそうかと別に不思議なことではないと思ったし、別にどうでも良かったが、話しの流れとしてあえてその会社の名前を尋ねた。

 トモナミはある会社の名前を言った。

 ナナモはどこかで聞いたことがあった様にも思えたが、何かが違う様にも思えたので、ああ、とは言えなかったが、もしかして、電子機器を作っている杵築では割と有名なあの工場のこと?と、トモナミに尋ねた。

「実は父はその会社の運営管理を行うために東京から派遣されてきたんです」

「運営管理って?もしかして……社長さん?」

 ナナモは先ほど家は二階建て?と、尋ねた事を思い出して顔が赤らみそうになった。

「いえ、専務です」

 専務と言っても、東京本社から派遣されたのだ、もしかしたら実質的には社長のような立場なのかもしれない。

「僕の偏見だったら謝るけど、そんなにお金には困っていないんじゃないのかい?」

「先ほども言いましたが経済的な状況はわかりません。確かに家は大きかったし、兄弟全員自分の部屋を持ってますが、杵築では旧家が多いので、特別僕の家だけが広いとは思わなかったんです。家政婦さんもいましたが、来客が多かったのでそのためかなあって。それに両親はできるだけ質素にが、口癖でしたから」

 トモナミはナナモの顔色の変化など全く気にせず淡々と答えた。

「でもその事とトモナミ君の入寮の話しとどういう関係があるの?」

 ナナモは当然のように尋ねた。

「中学校に入る前に父がある日、僕の将来について尋ねてくれて。その時はよくわからなかったんで、父を尊敬していた僕は、父の手助けをしたいと言ったんです。だったら、工学部に行って電子機器について学んできてほしいって言われて。最初は理系?って思ったんですが、ナナモさんもご存知だと思うんですが、理系の勉強って嵌るととても面白いでしょう。だから、結構のめり込んでいくうちに自然と成績が良くなって……」

 ナナモも当然理系だが、のめり込むほどでもなかったし、初めての受験の時はそれほど成績も上がらなかった。

「トモナミ君は現役だって言っていたよね。それに、ここは杵築医科大学の学生寮だよね」

ナナモは確認するように呟いた。

「実は、僕は普通にハイって返事したんですけど、ただし、条件があったんです。その学校は東京でないといけないって。僕には東京の記憶はほとんどなかったし、僕にとってこういう穏やかな街の方が性に合っていたんで、その事については、何とかなるだろうと思っていたんですけど、偏差値では東京のどの大学にも入学出来る実力がついていて……」

 トモナミは始めてナナモの前で少しうつむいた。

「じゃあ勝手に受験したの?でも、お父さん怒ったでしょう」

「はいというか、父は僕を怒ったことが一度もないんです。でも、父は僕にトモナミ家の掟だからって、だから、こうしてほしいって頼んでくるんです。別に威圧的じゃないし、もし聞いてあげなければかわいそうって思わせるような言い方でもないんですが、父が「掟」って言葉を使うと、物凄くオーラを感じて、何とも言えない神秘的な世界に連れて行かれたかのように気分になって、いつもハイって返事をしてしまうんです」

「だったら……」

「それがある日、突然、父が、杵築医科大学を受けてくれないかって言ってきたんです。僕は工学部志望だったので、それなら東京の大学を受けるからって父に言ったんですが、父が珍しくというか始めて僕の前で涙を浮かべながら、トモナミ家の掟が壊れるかもしれないからって」

「それで……」

「それからの記憶はあまり僕にはないんです。でも、どういう掟かどういう事情か関係ない。こうなったら父を身体の面で支えようと決心してこの大学を受験することにしたんです」

 言い終わったトモナミの顔は自信に満ちていた。ナナモはそうかそう言う事情があったんだねと、ねぎらいの言葉を思わず掛けそうになってその声を飲み込んだ。

「でもその事とトモナミ君の入寮の話しとどういう関係があるの?それに柔道の話はどうなったんだい?」

 ナナモはトモナミに吸い込まれそうになりながらも、なぜかここぞという時に水面から顔をだし、呼吸をすることを忘れなかった。

「ああ、そうでしたね。それが不思議なんですけど、授業が始まったあと大学から、僕が選ばれたって、連絡があったんです。なんのことかなあって思ったんですが、入寮してほしいって。それで父にその事を伝えたら珍しく自分で決めなさいって言われて。それで同級生に聞いたら今年は誰も入寮していないっていうし、確か食事に困らないけど、入寮条件が色々あってなかなか選ばれないって反対に気味悪がれていたんです」

そうだろうな、ナナモも入学当初は皆からそう言う目で見られていた。ただし、ナナモの場合両親が行方不明だ。だから選ばれたんだろうと誰もが思ってくれたし、思おうとしてくれたのかもしれない。けれどトモナミはある意味御曹司だ。いくら両親が質素な生活を心がけていたとしても、当初は東京の大学へ行かせるつもりだったのなら、マンションを借りたとして東京の生活費に比べてずいぶん安く済む。

「でも、入寮したんだ。まさかまたお父さんが「掟だって」急に言いだしたんじゃあないだろうな」

 ナナモは「掟」という言葉が気に入ったのかもしれない。

「父ではなく、ある日、事務長が僕の所にやってきて、これからは寮生を一人、二人と毎年確実に増やしていきながら、何れは入寮制限のない寮にしたいからって」

 それ本当?と、ナナモは小岩から聞いた栄光寮の歴史とは異なることに驚いた。しかし、トモナミの話しが本当で、事務長が直々にやってきてそう言ったのなら、その言葉はそれなりの重みがある。それに大学全体の運営は事務仕事が必要不可欠でそのトップに居る事務長は海千山千で相当の切れ者に違いない。

「でもだったら杵築出身者なんだろう。たとえば僕みたいに東京出身者で経済的に困っている新入生を選んでも良かったのに」

「僕が言ったわけじゃないですからね。事務長が言ったんですよ」

始めてトモナミの嫌な言い訳を聞いた。

「寮の運営を大学が行いたいので是非協力してほしいって。それには育ちが大切だって」

「育ち?事務長がそう言ったの。もしかしたらそれが入寮の条件?」

 トモナミは大きく頷いた。そして、それから少しまたうつむいた。

 育ちか?でも、それなら、僕だってと、ナナモは思わず口を開きかけたが、ぐっと我慢して閉じた。だから、トモナミが、育ちっておかしいでしょう。事務長が僕の何を知っているんですかねと、また、持ち上げた瞳を輝かせながら強く言ってきていたのに、ナナモには全くその言葉が入ってこなかった。

「ナナモさん?」

 どれくらいのタイムラグがあったのかは分からないが、ナナモはトモナミの顔をしばらく見ていた。そして、ナナモが一年いてもまだこの寮にはびこるしきたりが分からないのと同じように、寮生にもなにか得体のしれない使命があるのではないかと、「育ち」という、竹林に拡がる根のような言葉を聞いてナナモは改めてそう思った。

「ねえ、トモナミ君、その話、小岩さんにもした?」

「育ち」という突き当たりの先に小岩が立っている映像がふと思い浮かんでナナモはトモナミに尋ねた。

「はい。いや、小岩さんとここで話しているうちについ口走っていたんです。それに別に事務長から口止めされているわけではなかったですから」

 やはり、と、ナナモは頷くしかなかった。

「で、その時に、偶然、武道の話しがでたんだ?」

 わざとに違いないがナナモは黙っていた。

「ハイ」

「それで、小岩さんはトモナミ君に柔道部を勧めたのかい?」

 ナナモはもう一度トモナミの両腕を見た。

「寮生の規則として何か武道をしなければならないとは説明してくれましたが、小岩さんは柔道部を僕にその時勧めたわけじゃないんです。ただ、寮内にはまだまだ小岩さんも知らない伝統というか、闇の部分もあって、その闇の部分から、きっとお告げがあるって。そしてそのお告げは夜中に決して見てはならないカンファレンスルームの闇の使いである奇妙な動物から語られるって」

「トモナミ君はその言葉を信じたの?」

ナナモはやれやれとあきれ顔を少し見せてから、まさかという思いで言った。

「信じるわけがないじゃないですか?もちろん、この地には太古からカミガミが住まわれていますし、その使いの話しも僕は小さい時からよく聞いてきましたよ。でもだからと言ってその事を全て鵜呑みにするほどのお人よしじゃないですし、生まれてから一度もカミサマのおられる異世界に行ったこともないですから。ただ、目に見えない導きがないとは思っていません。むしろあると思ってはいます」

 ナナモは、異世界ってあるんだよな、とは言えなかったが、軽く頷くことはしてあげた。

「でも、入寮してすぐには何もなかったんですが、今夜、皆が寝静まった夜中になって急に小岩さんの言う通り奇妙な声がしたんです。結構寮内には響く声なのに誰も部屋から出てこないし、それで、本当に僕だけしか聞こえなかったのかなと思って、こわごわ部屋の扉を開けたら、今度は、柔道、柔道って何度も叫んでいる声がしたんで、でも、闇の世界にはカミ様はいないはずだし、カミ様でないのなら、その動物はカミ様の使いではないはずだしと、思い切ってカンファレンスルームにいったら、何かが居て、恐くて電気も付けられなかったし、最初うつぶせになっていたのでわからなかったんで、本当に今まで見た事のない動物か何かだと思ったので、このまま立ち去ろうとしたんですが、もし、何かの事故や病気で倒れていたり、万が一誰かの亡骸だったらと、それまでそんなこと全く考えなかったに、カンファレンスルームに入った途端次から次に変な空想が沸き起きてきて、もしかしたらこれが小岩さんの言っていた闇の世界なのかって思ったら、急に何か精気のようなものを感じて、思わずスイッチを押したんです。」

「僕が居て、柔道、柔道って叫んでいた?」

「丁度、ナナモさんが蛍光灯に反応するように、仰向けになられて、ジュー、ジューって、あれ、柔道じゃないのって思ったのですが、ナナモさんだったので、てっきり英語かなあって」

ナナモはジューも柔道なんても言っていない。でもその事をトモナミに今更説明するのは煩わしかった。だから、「どうして英語だって思ったの?」と、尋ねたナナモは、あっと、小声でつぶやいたあと、小岩さんから聞いていたんだねと尋ねると、トモナミは「はい」と、頷いた。

「何かおかしいんですか?」

 ナナモは確かに微笑んでいた。しかし、それはトモナミ自身に対してではない。久しぶりにナナモが英語が話せるハーフであるとトモナミに意識されたことだ。そしてその意識化が先ほどまであれほど不確実だったある場所での音楽祭の記憶の一部をナナモにもたらしてくれた。

「ねえ、唐突だけど、入寮規則って読んだことがある?」

 参拝までは時間がある。まだ今なら横になりさえすれば、もう一度()()()()に会って今度は話せるような気がする。だからナナモはトモナミの質問に答えることなく、全く異なる質問を返すことで真夜中の会議を終わらそうとした。



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