(3) グラストンベリーの音楽祭
「四月一日じゃなかったのかい?」
ナナモはルーシーの運転する車の助手席に座っている。もちろん二人きりだ。
「何言っているの、ジェームズ。其の日はエイプリルフールよ」
ヘッドライトが煌煌と前方を照らしている。それ以外、周囲は真っ暗だ。だから、いつもの真っ白な日本製のクーペだと言われてもわからない。それに夜道なので運転に慎重なルーシーはまっすぐ前を向いてジェームズの問いかけにはなかなか答えてくれないだろうと思っていたのに、なぜかすぐに横を向いて、微笑みながらまるで鼻歌でも歌っているかのように答えてくれた。
どうやら今夜のルーシーは上機嫌の様だ。しかし、どこに行くの?と、ジェームズが何度尋ねても、その事については答えてはくれなかった。
ジェームズの遅刻癖を知っているルーシーだったが、ロンドンのジェームズの家に迎えに来てくれたわけではなく、ジェームズはサマーアイズの前でピックアップされた。きっと、どんなに異なる道を歩みだしても、サマーアイズの思い出は色褪せないし、それ以上に、二人の出会いが大切だと、今だけど昔に戻りましょうというルーシーのメッセージに、ジェームズがきっと引き寄せられるとルーシーは思っているからに違いない。
「ねえ、医学部の授業って大変なの?」
いつもなら、ルーシーが勉強し興味をもっている古の日本について一方的に話してくるし、一方的に尋ねて来るのに、ルーシーは珍しくジェームズの今を聞きたがっている。
「まだ、一年生だから、一般教養の授業がほとんどなんだ」
ジェームズはそれでも東京の大学に通っていた時とは比べものにならないくらい充実した一年を送っていたことを懐かしんでいた。
「でも、ジェームズ、進級出来たって、それに専門分野の講義も始まったって、私に言わなかった?」
言ったのか言わなかったのかさだかではない。それでもルーシーが言ったと言うなら言ったのだろう。
「そうだね。人体発生学の講義と試験が終わったと思ったら、解剖学の講義が始まったし、それにまだ骨学だけだけど、実習もはじまったからね」
「骨学?」
「そう、まず、身体中の骨の形状と名前を覚えるんだよ」
「骨って?」
「どくろみたいなもんだよ」
ジェームズは自分で言っておきながら、その表現が正しいのか分からなかった。ただし、実習の骨はプラスチックではない。正真正銘の人骨だ。それでもその事をルーシーに今言うべきではない。
「私たちの骨っていくつあるの?」
ルーシーにいきなり聞かれてジェームズは戸惑ったが、多分、骨学の講義が始まる最初の講義で習ったような気がする。
「確か二百六個の組み合わせだったような……」
「ような……って、ジェームズ大丈夫?」
それだけじゃないんだよ、その骨には様々な名称があるし、形状もまっすぐじゃなかったり、尖っていたりしているんだ。それに、それぞれの骨の名称は英語とラテン語と日本語で表記されているし、日本語は当然平仮名と漢字を覚えなくちゃならないんだよ。
ジェームズは心の中でそう叫んでいた。特に漢字が苦手なジェームズだったが、ルーシーは漢字が大好きだ。だから、もし、「尺骨茎状突起」と書いてあってもジェームズと違ってすぐに覚えられたかもしれない。
「私たちは身体だけど、骨だけの姿を見た事はないし、私は骨折したことないからレントゲンも想像できないわ」
そうかもしれない。しかし、サマーアイズでもロンドンの博物館にも骨の標本は置いてある。だからと言って、ルーシーの言うように骨だけで歩いている姿を見た事はないので、骨といっても実際どのように動くのかを認識できない。
どう動くか分からない骨の名称を覚えなくちゃならないの?
ルーシーからそう聞こえてくる。そうかもしれないと思いながらも、でも解剖学はそういうものかもしれないとも思ってしまう。どう思おうとも、どう思われようとも、解剖学は医学の入り口であり、決して避けることは出来ないし、乗り越えなくてはならない登竜門であることだけはゆるぎない。
「全身の解剖を学ぶ機会は一度しかないんだよ」
ジェームズは教授にそう言われたことを思い出しながらルーシーに言った。
「でも、忘れるんじゃないの。まだ二回生になったばかりなんでしょう」
そうかもしれない。でも、全てを忘れることはないだろうし、何かは記憶として残るはずだ。
「ご献体(ケンタイ)…って言うんだっけ」
ルーシーは珍しく日本語ではっきりと言ったあと、言葉を続けた。
「解剖の実習があるんでしょう?ジェームズはどう思うの。怖くないの?」
ルーシーから珍しく弱々しい声で訊かれてジェームズは戸惑った。なぜならこれまで怖いと思ったことが一度もなかったからだ。ただ、ルーシーの言う通り、まだ、医学の勉強を始めたばかりで、この先どんなことが起こるか分からない青二才が、いきなり、亡くなった方の御遺体を解剖してよいのかなと自責の念に駆られただけだ。
でも、まだ、ジェームズは献体してもらったご遺体の解剖を始めていなかった。だから、いざ目の前にして、メスを手に取った時にどう思うか分からなかった。
「ご遺体は死者なのよね。でも、間違いなく人間として生きていたのよ。それも、私たちとそう遠くない過去に」
ルーシーは少しアクセルを踏んだのかもしれない。それでも、エコカーのエンジン音は静かだ、だからルーシーの言葉がしばらくジェームズのこころを重くする。それにずいぶん粘っこいのか、その言葉は皮膚からなかなか蒸発してくれない。
ナナモは急に頭痛がした。それでも、ルーシーに何かを言わなければならないと思った。
「ご遺体は死者だけど、死者であったということは当たり前だけど、その前に必ず生者だったんだ。だから、生者としてこの世で様々な記憶を産んだのに、死者としてもまた僕達に記憶を送ろうとしてくれている。それはとても尊いことで、その尊さはもはや死者ではなく、いわんや生者ではなく、カミ様の様だと思う」
ナナモの頭痛はまだ続いていたが、それでも、それだけのことは言えた。
死者であるけれどもヒトも地上の世界に蘇ることは在るのだろうか?そして、今を生きる生者はその声を聞く事が出来るのだろうか?
ただそれは決してオンリョウとしての復活ではない。きっと、カミとしての復活である。そして、ヒトはその時ままならぬものからやっと昇華されるのかもしれない。
ジェームズは少し治まりかけた頭痛の合間を狙ってルーシーに語りかけようとした。
とその時、強大なハンマーで背中全体を前触れもなく突然ぶたれたように前のめりになったと思ったら、満員電車からはみ出しそうになったのを駅員に無理矢理押し返されたような反動で、身体がおおきく揺れながらジェームズの身体は止まった。
ルーシーが急ブレーキをかけたのだ。まさしく、ここでバーンと大きな音がしたら、何かにぶつかったのだろうが、キキ―ッという金属音が耳を劈いただけで間一髪回避できたのか、それでも、焦げたゴムの匂いがした。
「どうしたんだい?」
ジェームズから頭痛は消えていた。
「何かが光ったの」
ルーシーは珍しくハンドルを握ったまま、肩を揺らしながらハアハアと息をはいている。
「光った?」
田舎道を走っていた。もちろん、外套も信号機もない。だから、ヘッドライトの灯りだけがみちしるべだ。それでも、森深くの畦道を走っていたわけではない。だから金属かガラスかは分からないが、何か看板の様な人工物に灯りが反射してもおかしくはない。
「丸い球のような二つの光が車の前をものすごく輝きながら横切ったの」
ルーシーはまだハンドルを握ったままだ。それでも筋肉が弛緩したのか、ハンドルに頭を一度もたれかけると、ゆっくりと深呼吸しながら、また、ハンドルから頭を離した。
まさか人間ではないだろう。もしそうなら、こんな夜中に田舎道をどうしてフラフラとさまよっていたのだろう。もしかしたら、酔っぱらい?でもそうなら、目の前を素早く移動できないはずだ。
もしかして、自分と同じように……。
ジェームズはそれ以上考えることを止めた。
「おそらく何かの動物だと思うの。動物の眼って、ヘッドライトに反射して夜中に眩しいほど光るって聞いたことがあるから」
ルーシーにそう言われてナナモはほっとした。もちろん、ルーシーの意味する動物は人間以外だ。
「僕は今どこを走っていたのか分からないんだけど、この辺りにはよく野生動物がいるのかい?」
「小型の動物が多いわね」
ルーシーは、でも、そんな背の低い動物だとは思っていない。なぜなら、その光は車のフロントガラスと同じ高さにあったし、その大きさは大型スマホの光源よりも大きくて強かったようだ。
「だったら羊かヤギが逃げ出したのかもしれないね」
ジェームズはきっとその俊敏性から違うだろうと思ったがそう言った。
「鹿か狐かもしれないわ」
ルーシーはハンドルから手を離すと後続車がまったく来ないと思っているのか、道路脇に車を移動することもなく、車という閉鎖された空間で身動きひとつしないで、ジェームズを見つめながら言った。
「どうしてそう思うんだい?」
ジェームズは視線を外さないルーシーに思わず動揺して身をそらすと、それでもその事を悟られないように、すぐに身を正してはっきりとした口調で尋ねた。
「日本の神話の世界では、鹿も狐もカミ様の使いとして登場するでしょう」
「でも、ここは日本じゃないよ」
「だって、さっき、ジェームズ、ご遺体の尊さはカミ様の様だと思うって言わなかった」
ジェームズは確かにそう言った。
「それに死者は生者として蘇るってことも言っていたでしょう」
ジェームズは蘇るとはまだ言っていなかったはずだ。それでもまだジェームズから視線を外さないルーシーには言葉を返せなかった。
「でもそれは科学的にはあり得ないのよ。でもね、カミ様の使いじゃないけど、死者の思いは生者には伝わるの。例えば、書物とか、歌とか、建築物だって、洋服だって、医学だってそうよ」
「医学?」
「そう、昔は治らなかった病気でも、誰かが考えた治療法で治るようになっている事ってあるでしょう」
ジェームズはかすかな頭痛のあとにハッとする。
「普通の人は書物も残さないし、画期的な発見など出来ないのよ。でもね、ふと、その普通の人の思いが何気なく現れて生者に語りかけることがあるのよ。それは日本ではヤオヨロズのカミ様が居るからだし、ヤオヨロズのカミ様には神様の使いが居るからなのよ」
ルーシーの妖艶さがいつもより増している。
ジェームズはいたたまれなくなって車から降りた。煌煌とヘッドライトを付けていても誰からも苦情がでない静寂だけが漂う暗闇の世界に囲まれている。
ジェームズは大きく息を吸いそして吐きだした。優しい夜風が少し火照ったジェームズのこころを冷ましてくれる。
「ねえ、ジェームズ、明日はそういう日なのよ」
いつの間にか、ルーシーは身体を両手で縮ませながらジェームズの横に立っていた。
「そういう日?」
「そう、古の人から伝わり、先の人へ伝える、今の人のコンサートが開かれる日なのよ」
「コンサート?」
「そう、グラストンベリー音楽祭よ」
グラストンベリー?ジェームズにとって初めて聞く地名だ。でもそこで音楽祭が開かれるということはきっと有名な場所なんだろう。
でも、なぜ、ルーシーはその場所に僕を連れて行こうとしているのだろう。
ジェームズは暗闇の中、きっとこの方向にあるのだろうと、ヘッドライトだけが示すその先にある彼の地を見た。すると、突然、ジェームズを見つめる二つの煌煌と輝く光が見えた。
あれは鹿でも狐でもましてやウサギでもない。眼光は鋭いが、きっとヒトの目だ。それも生者ではない。死者だ。
でも、何故、僕を見つめているのだろう。僕に何かを伝えようとしているのだろうか?
「ジェームズ、そろそろ行くわよ」
ルーシーの声がする。
ナナモはその甘い声に導かれる。何故なら間違いなく生者の声だったからだ。
まるで鶏がコケコッコーと大声で鳴いていているかのような陽の光が差し込んできてジェームズは目覚めた。
異世界?それともVR?と一瞬脳裏を横切ったが、ジェームズの横にはルーシーが居て、二人は車の中にいた。
「おはよう」
ジェームズはルーシーからはっきりした口調で声を掛けられた。ジェームズはまだ少し朦朧としていたが、ルーシーはきっと随分前に起きていたのだろう、きれいに櫛で髪の毛を整いていたし、化粧直しもきちんとしていた。
「知り合いの人が経営しているの」
この時期車を置く場所がなかなかないようだが、ある人の紹介で、鞄工場の脇にある駐車場に停められたらしい。
あの少しはにかむ言い方からはきっと彼氏関係の人なのかもしれない。
ジェームズはそう思いながらすぐにそう思う自分を責めた。でも、気になるんだ。仕方がないと、また、自分に言い訳していた。
「会場まではここから少し歩かないと行けないの」
まだ、早朝だ。それでもルーシーの顔色から、すでにコンサートが始まっているのかもしれない。。
「あの……」
「どうしたの?」
「トイレに行きたいんだ」
ジェームズはコサート会場に今にも飛び出して行きたいルーシーを制するように、それでも少しだけトーンを下げて行った。
ルーシーはジェームズに言われて、そうよねと言っているかのように、身体から力を抜いた。
「少し待って」
ルーシーは車から降りると、こっちに来てと、鞄工場の建物の方に向かった。
インターホンを押し、ルーシーはわざと防犯カメラに顔を向けた。幾分ニコリと微笑んだようだが、ガチャという機械音しか聞こえてこなかった。ルーシーはその音を確認するとゆっくりと扉を押した。ずいぶん重そうで分厚そうだが、決して力まかせで押さなくてはいけないようではなかった。
「奥に行きましょう」
ルーシーに付いて行く。大工場でないがそれなりに従業員はいるのだろう。まだ稼働していない工場内部は薄暗かったが、男女別のトイレがあり、ジェームズは用を足すために中に入った。
ジェームズは比較的ゆったりとした時を過ごしたつもりではなかったが、トイレから出てきたらルーシーはいなかった。ルーシーもと思ったが、通路の奥からルーシーが両手に紙コップを持ってゆっくりと歩み寄って来た。湯気が漂っている。
「コーヒーでいいわよね」
ルーシーは微笑みながら言った。ジェームズはすぐにでもありがとうと言うべきだったのに、何度かここに来たことがあるんだと、その方が気になって何も言えなかった。
先ほどまで今すぐにでもルーシーはコンサート会場に行きたがっていた。それなのに、鞄工場から出てからは、わざとこの場所にとどまりたいように思える。確かに外は少しひんやりするし、風も吹いている。だから、温まるわねと、コーヒーを口にする姿は不自然ではない。それでも違和感は消えない。ルーシーに何かあったのだろうか?
ねえ、ルーシーと、ジェームズが言いかけたが、聞こえなかったのかそれともわざと遮ったのか分からなかったが、ルーシーは紙コップを持ったままもう一方の手を上げて人差し指をある方向に向けた。
「塔があるの」
「塔?」
「そう、グラストンベリー塔よ。ここからだと今私たちと同じように太陽の陽を浴びていると思うわ」
ジェームズは思わずルーシーが指し示す方角を見た。しかし、何も見えなかった。
ジェームズはグラストンベリー塔のことを尋ねたかった。しかし、ルーシーはじっとその方角を見たまましばらく動かなかった。それどころか、悲し気な顔をしている。
もしかしてルーシーは泣いているのだろうか?
「一緒に行こうって何度も話したのよ。だって、ここであの曲が生まれたんだから」
ルーシーからそう聞こえてきたように思えてジェームズははっとした。しかし、ルーシーは、それまでの悲しげな面持ちがまるでドッキリだったように、満面の笑みでジェームズに、さあ、行きましょうと、先ほど指示した手でジェームズの手を取り、ジェームズを導くように歩き出した。
いつぶりだろう。ルーシーの手は相変わらず優しかった。そして何よりも暖かくて、生の息吹きを感じた。
緑のじゅうたんがゆったりと波打ち、青の風がかすかな海の香りを連れて来る。その中を大勢の人たちが泳いでいる。
コンサート会場は野外であることもあって、熱気がこもらない。それなのに、太陽の陽射しが余計に暑く感じさせる。
コンサートにはイギリス出身のバンドもいれば、そうでないバンドもいた。知っているバンドもあれば、まったく知らないバンドもあった。
しかし、この場所で、このステージでどのバンドも精一杯演奏しているし、観衆も目一杯楽しんでいる。途切れることのない演奏と途切れることのない歓声。目の前の景色は確実に変わっているはずなのに、音楽というひとつの世界は変わらない。その輪廻はまるで一度も止まることはない観覧車のような穏やかさを垣間見せたが、観衆は間違いなくジェットコースタ―に乗っている。
朝からコーヒー一杯だけで何も食べていないし、飲んでもいない。それでもジェームズは空腹を覚えなかった。それはバンドの演奏に興じていたこともあるが、ルーシーがいるからだ。
ジェームズはバンドの交代に呼応してルーシーの横顔をちらちらと何度も眺めながら、この時間がいつまでも続いてくれないだろうかと思う反面、続けばいくらたってもルーシーは傍に居るだけでその距離は縮まらないと思った。
そうだ、コンサートどころではない。僕はルーシーに伝えないといけないんだ。バンドのメッセージのように、歌は歌わなければ伝わらないし、残らない。その言葉はどれほど平明な言葉だってかまわない。もし、感情で刻印されていたら、きっと心に一生残るはずだし、一生の転機になるかもしれない。
ジェームズはルーシーを残してリバプールからロンドンに戻った時に列車の中で聞いた曲を思い出していた。
「ねえ、ルーシー」
ひときわ大きな演奏音がまるで小さな竜巻のようにまとわりつく。それでも、そんなことぐらいで負けてられないと、なかなか振り向いてくれないルーシーに何度も声をかける。
もっと大きな声が必要なんだと、ステージのボーカルはジェームズをあおってくる。
「ねえ、ルーシー!」
バンドの演奏が終わり、大きな拍手の中、ジェームズのシャウトがボーカルの歌声よりも高く響いたとき、会場全体が透明なお椀で蓋をされたように、逃げ場のなくなった歓声が何倍にも増幅されて、ジェームズの声をかき消した。
やはり、僕の声は平行線のままなのだ。
ジェームズの体から急に力が抜け、ジェームズ自身も萎んでゆく。
と、その時、ルーシーが急にジェームズに蜂蜜色の顔を向ける。
その笑顔にとろけそうになりながら、それでも、ジェームズはもう一度萎んだ身体を膨らまそうとした。
僕は……と、それ以上の言葉を続けて言ったはずなのに、やはり届かない。それどころか、鼓膜が自分の声すら振動させてくれないほどの音量で揺さぶられていた。
「あのバンドが新曲を演奏するのよ」
なぜか自分の声は届かないのにルーシーの声だけは聞こえる。しかし、ルーシーからあるグループの名前を聞かされた時、先ほどのジェームズの思いは完全に吹っ飛んでしまっていて、「えーっ!」と、思わず目を見開き、今まで出場したどのメインボーカルより甲高い声で叫んでいた。
「このコンサート会場のステージに立つっていうのかい?」
ジェームズは本当?とルーシーの身体を揺らしたい気分だった。何故なら、あのバンドが新曲を出して生演奏するなんて不可能なはずだからだ。
もしかして、ドッキリと、でも先ほどのことがある。それにルーシーの頬はいつもより赤く、明らかに興奮していて今にも踊り出しそうな勢いだ。
でも、やはりそんなことはない。
ジェームズは何度もあり得ないと首を横に振った。
しかし、その迷走を断ち切るように、より大歓声が沸き起こる。まるで、世界中の赤ちゃんがこの場所に集って産声を上げている様だ。
もはやいかなる蓋もかぶせることができない熱気と興奮の中、ジェームズの前にあのバンドが現れた。でも、もし、あのバンドならメンバーはずいぶん年老いているはずだ。
しかし、目の前のメンバーは若かった。いや、さっそうとステージに駆け上がってきたのでそう見えただけなのかもしれない。いずれにしても年齢や見た目は関係ない。彼らの周りや彼ら自身がどれほど変わろうが、彼らの生み出す世界の根本は変わっていないはずだ。
バンドのメンバー達が各々の機材の準備を終え、そして、ステージの中央に立つと、急に聴衆は息を止めた。そして、まるで国歌斉唱!と、誰かが声を発したかのように皆が身を正す。
メンバーはきっちりとそれぞれの配置に付き、いつものように挨拶すると、ギターの激しい演奏ではなく、ピアノの演奏が静かに始まった。
聴取からは叫びではなく安らぎのため息が漏れ出てくる。それでも、ドラムとベースがリズムを刻みだすと、歓声のボルテージが次第に上がっていくのと相まって懐かしいR&Bの曲調になっていく。
長い長い道のり
やっとたどり着いた場所
辛い辛い道のり
やっと成し得た偉業
でも王は死に、四人の騎士は取り残された。
そして、何時しか皆ばらばらになった。
王が生きていた時は丸テーブルに座り、まるで家族のように皆が夢を語らいあった。
その夢も今は幻 それでもいつかは蘇える。
グラストンベリー塔の鐘のように、時々、会おう。それだけで良い。
グラストンベリー塔の鐘のように、時々、語ろう。それだけで良い。
さあ、旅立とう。きっと、王の声が今なら聞こえる。皆の詩が今なら歌える。
ボーカルはやはりあの人の声だ。それにスローなギターの音色が優しく加わって行くと、バンドの皆がハーモニーを重ねていく。
どうして彼らは蘇ったのだろう。それにこの曲を僕は今まで一度も聞いたことがない。新曲だと言うが、もしかしたら、かなり昔に創られた曲なのかもしれない。だったら、どうして、今頃になって、蘇ったのだろう?
ジェームズはしかしそれ以上考えるのをやめて、彼らの世界に入っていった。
ジェームズもルーシーも同じ時間を共有し、同じ現実を共有しているのに、もはや各々の世界の中にいる。そう思うと寂しさがつのるが、いつしか思い出としてお互いの心の中をこの歌が行き来きしながら蘇ってくれることを願うしかなかった。
バンドはその後も何曲か演奏し続けていたが、いつの間にか一人ずつ姿を消していって、最後には一人だけが残った。
手にはギターだけをもっている。それもエレキではない。アンプラグドでの演奏だ。しかし、野外なのにどうしたのだろう?ジェームズはしばしその奏者を見つめていたが、ジェームズの杞憂はすぐに露と消えた。なぜなら、皆、かたずをのんでその奏者を見つめていたからだ。
でも誰だろう。ジェームズは目を細めてステージに立つ奏者を凝視した。
ノーネクタイで少したるんだ黒いスーツを着ている。それでもだらしないという印象は少しもない。それどころかオシャレに見える。口周りの髭がどことなくリバプールでホットドッグを食べた時の店主に似ていたが、その店主よりもずいぶん痩せていたし小顔だった。
奏者は前振りもなくギターを演奏し始めた。やはり、アンプラグドだ。R&Bのリズムなのに、しっとりした趣を醸し出す為にスローなテンポに編曲されている。それでも何かを伝えようとしてくるし、何かが伝わって来る。と同時に感情が揺さぶられ、決して微睡むことはない。
どんなに立ち止まってもその瞬間過去になる。
どんなに振り返っても必ず今は代わる。
未来は見えない。だけど想像は出来る。
だから前を向いて真面目に歩こう。
あの塔の鐘の音とともに。
奏者は素直な感情を声にする。そして、最高潮に達したその時に、大きくジャーンと、ピックを用いて弦を弾いた。
その刹那。髭は無くなり。頭も剃られ、頬のこけた、それでも眼光の鋭い奏者は、少したるんだ袖の長い和服に身を包み、大きなばちと球形の楽器を抱え、胡坐をかいたような姿勢に代わっていた。
あの楽器を見た事がある。ジェームズはスマホを取り出そうとしたが、すぐにやめた。確か、ロンドンに居た時に見た日本の教科書に乗っていた琵琶という楽器だと思ったからだ。
だったらあの奏者は日本人?ジェームズは又目を細めた。しかし、どう見てもそうとは思えなかった。それに、届くはずもないのに、その視覚からは遥か西の香りがする。
ねえ、ルーシーと、僕は今までバンドが創った世界に一人で閉じこもっていたのに、わざとその殻をぶち破って外に出た。
しかし真横に居るはずのルーシーはいない。否、まだ、バンドの世界に居続けている。
「鐘の音が聞こえないかい?」
それでもジェームズはルーシーに話しかけた。何度も話しかけた。それでも、ルーシーからは何も聞こえてこない。
琵琶の演奏とともに、奏者は懸命に語りかけて来る。リズミカルだが歌ではない。
「どこかに鐘がないかい?」
ジェームズは質問を変えてみた。
「グラストンベリー塔」
ルーシーではない。先ほど演奏されていたバンドの歌が聞こえる。
「どこ?」
ジェームズの声に、ルーシーの指だけが急に伸びてきてその方向を示した。
ジェームズはなぜかルーシーの指に誘われるように一人で歩き出していた。きっと、その塔は小高い丘の上に在るはずだ。何故なら、ルーシーのしなやかなその指は軽く上の方を向いていたからだ。
ジェームズはどこを歩いているのか分からなかったが、見えない指を感じることだけは出来た。だから、少しずつ脈が増え、呼吸が荒くなってきても、歩みを止めなかった。
まだ、あの奏者の演奏の音と語りの声が聞こえてくる。物悲しく切なさがこみあげて来る。
西日でパチパチと輝くじゅうたんが激しく波打ち、ステージから吹きあがる風が古の香りを連れて来る。
どれくらい歩きどれくらい登って来たのか分からない。ずいぶん遠かったようにも思えるし、ずいぶん近かったようにも思える。そして、何よりもあの奏者の音が消えた。
その瞬間、急に地底から突き出たみたいに石造りの長方体が目の前に現れた。
「グラストンベリー塔!」
ジェームズは、きっとこの雄大な塔に違いないと、見上げながら思わず叫んでいた。まじかで見るといくつかの石灰岩が積み重ねられている。そのうえ単純な長方体ではなく、いくつか窓や装飾が施されているのに塔としての力学が保たれている。
きっと天空を突き破るほどの高さではないのだろうと思いながら、より強くなった斜陽で黄色に染められてもおかしくないのに、古びてはいるが銀色に輝いている塔を見て、ジェームズは、「美しい、この塔は生きている」と、思わず独り言を漏らした。
塔の周りにはジェームズだけしかいなかった。だから、ゆっくりとその塔の周りを回った。それほど高い丘ではないはずなのに、綿菓子のような雲が降りてきていて手が届きそうだし、遥か彼方まで新芽をかき集めたくなるほどグラストンベリーの街が丘下に広がっていた。その一方、絵具を落としたようないくつもの点だけが存在しているだけで、コンサートにあれだけ集まっていたのにはっきりと人の姿としてはとらえられなかった。
ジェームズは塔の内部に入りたかったが、その一歩がなかなか踏み出せなかった。中に入るとこのままどこかに連れさられてしまいそうだったからだ。それでも思い切って足を踏み入れようと決心したのは、いくら外に居ても鐘の音が聞こえてはこなったし、何よりも鐘自体を見たいと思ったからだ。
ジェームズはやっとの思いで内部に足を忍ばせた。ゆっくりと、しっかりと体重をかけた。
片足が確かに内部の入ったとその靴底からの抵抗で感じたのに、すぐに押し戻された。あれほど決意したのに塔がジェームズの侵入を拒んでくる。もしかして何か作法が必要なのだろうか?ジェームズは 逆U字状に開けられた塔の内部への入り口の前で直立不動の姿勢で頭を下げた。そして、おもむろに両手を顔の前で合わすと柏手を打とうと身構えた。
でも、ここはイギリスだ。それに、ここには手水舎がない。
ジェームズはこの国の作法に従おうと一瞬思ったが、また、あの奏者の音と語りが聞こえてきて思いとどまった。
「無になろう」
ジェームズはそう思うことさえやめてただ体を動かした。
先ほどのことが嘘のように、まるで、全く動いていないかのようにいつの間にかジェームズは塔の中に入っていた。
外からは真っ黒で何も見えなかったのに中に入ると窓からの日差しで明るかった。
静謐な空間が拡がる。しかし、何もない。ナナモはきょろきょろと周りを見たが、外壁と同じように内壁も石灰岩が銀色に光っているだけだった。
あれっ、とジェームズの止まった視線の先には先ほどまでなかったはずなのにグラストンベリー塔と書かれた小さなブリキのプレートがあった。
「陽入る地。勇者、ここに眠る」
傍らにはそう綴られている。ジェームズはその言葉が日本のある社と重なってしばらくそのプレートから視線が外せなかった。
静寂だけが狭い空間の中で木霊している。ジェームズは本当に無になっていた。まるで子宮の中で遊覧する胎児のようにだ。
そんなジェームズを揺り起そうとするのか 突然、ゴーンと大きな音が鳴った。思わず耳をふさがなければならいほどの振動が鼓膜を激しくゆすってきているはずなのに、なぜか体は拒否しない。それどころかその音を体が残らず吸収しようとする。
鐘の音だ。
ジェームズは思わず天井を見上げた。鐘は吊り下げられている。そう思ったからだ。
しかし、鐘はなく、それどころか、塔の上部から空が見える。
この塔は筒のようになっている。だったら、勇者は眠りから蘇り、この塔から出ていくことが出来るのだろうか?
ジェームズはその解き放たれた天空をしばらく見つめながら、再び、ある社のことを思い出していた。
するとジェームズの身体が急に浮き上がる。ジェームズは塔の天井から大空に解き放される。そして壮大な空中宮殿である社が目の前に現れ、導きの声が聞こえる。ただし、その声はジェームズでもナナモでもなくクニツと囁いてくる。
ジェームズはなぜか違和感を抱かない。それどころか生まれた時から親しんできたかのように僕の事だと当たり前のように頷く。だから、それまでより速度を上げてその社に近づこうとする。しかし、近づけば近づくほどその社は小さくなる。
それでもジェームズは社にたどり着いた。
眩しい。もしかして黄金の社なのか。しかし、その輝きはジェームズが一瞬目を閉じ再び開けた時にはもはや光を失っていた。
簡素な作りだが清々しい気品が漂っている小さな社が、薄暗い靄が少し湿気を纏いながらそれでもジェームズのすぐ目の前に見える。
ジェームズは誘われるようにゆっくりとその社の中に入って行く。いつもなら、手水舎で清め、二礼四拍しなければ入れないはずなのに、なぜかすんなりと入って行けた。
先ほどの塔と同じで、静謐な空間が拡がる。ジェームズはそれでも同じように周りを見渡した。あのブリキのプレートに似た何かがあるのではないかと思ったからだ。しかし、神木で四隅が囲まれているだけで何もなかった。
「クニツのカミよ、お前が剣をなくしたのだ。だから、皇家は守られなくなったのだ」
鐘の音のように耳に重くのしかかってくるような声がどこからか聞こえてくる。
「剣がなくとも皇家は誰からも犯されない」
ジェームズは誰に対してなのか分からなかったが、素早く答えた。
「それに皇家が守ろうとしているのはタミだ」
あっ、とナナモは自分で言いながら声をあげた。
「そうだ。その剣がなくなった事を知ったあるものが、その剣の形を変え、タミを支配しようとしたのだ」
「オンリョウ?」
「クニツのカミよ、お前は知っているはずだ。オンリョウではない。オンリョウはタミを支配などしない。目的は一つだ。お前なら知っているはずだ」
ジェームズは思わず耳を両手で塞いだ。それ以上の事を聞きたくなかったからだ。
「お前の身体の中に駆け巡る血が、この声を聞くのだ。妨げることなど出来ん」
声は続く。
「良いか。オンリョウではないが死を恐れぬものが現れたのだ」
「死を恐れない?まさかツワモノ?」
ジェームズはどのようにしても遮れないその声に思わずそう叫んでいた。
「そうだ。ツワモノだ。ただし、強者ではない。兵だ」
ジェームズはその最後の言葉に弾き飛ばされるかのように、再びグラストンベリー塔の中にいた。
「陽昇る地。賢者、ここから出づる」
プレートには先ほどの文字が消え、そう綴られていた。
「ルーシー、どこに居るんだ」
ジェームズは弱弱しい声で叫んでいた。しかし、その声は再び鳴り響いた鐘の音で木っ端みじんに砕け散ってしまった。
鐘はどこにあるのだ。
ジェームズがもう一度見上げようとすると、そのままその塔から発射される砲弾のようにジェームズの身体は空中高く放り上げられていた。
上機嫌で鼻歌交じりのルーシーがオープンカーに乗って走っている。もはや闇が支配する世界ではない。太陽が燦燦と輝いている。それなのにルーシーの走る道路はまるでコンサート会場で飾られていた電球が何千何万と敷かれているかのように輝いている。
でもどこに行くのだろう。それにあれは何だろう。黄金色の道路脇に大きな黒い点、いや、いびつな多面体が見える。
ジェームズはルーシーのことを忘れ、その多面体に注視した。まったく動かいていないものや、かすかにうごいているものもいる。そして、何よりその多面体にも電球が二つだけ輝いている。
あの光り、どこかでみたような気がする……と、ジェームズが思ったその時、その多面体はその道路脇から浮きあがり、ジェームズに向かってきた。ジェームズは思わず目を閉じる。
「目を開けるのだ」
誰かの声がする。ジェームズはその声に力まかせに閉じた瞼をこじ開けられる。
多面体は消えていた。その代わり、道路脇に無数に横たわる動物の死骸が目に入る。
どうして?と、ジェームズは自問するが、あざ笑うかのようにまた声がする。
「見よ。それがタミの姿だ!」
タミ?と、ジェームズがまた自問するとその動物たちの皮が剥がれ、肉となり、そしてついに骨だけとなって砕けていったかと思うと、また、骨となり、肉が付き、そして皮が張った。
「あれは」
「そうだ。誰にも振り向かれず、誰にも葬られず、屍となってただ道端に転がっているのだ」
「そんな」
ジェームズは無性に腹が立った。と同時に身体が何重にも縛られ、震えが止まらなかった。
怖い。
ジェームズはしばらくその世界から逃れられなかった。
「ジェームズ・ナナモよ!いやクニツのカミよ。もう一度訊く。あの剣はどこだ」
また声がする。ジェームズが入り込んだ世界をこじ開けてくる。
「剣?」
何を尋ねられているのだろ?
「お前は知っているはずだ。それにその剣がなければ剣を探す為に争いが起こることをお前は知っているだろう」
「争い?」
「そうだ。争いは死者を産む。多くの死者を産む」
「オンリョウ?」
「そうではない。死者はタミだ。タミはオンリョウにはなれない」
あの剣は……、ジェームズは何かを言いたかったが、声が出せないというか、出してはいけないような気がして思いとどまった。
しかし、その声はどういう言葉だったのかはわからない。
死から蘇ることはない。
ナナモは自ら死を選んだはずだ。しかし、……。
「一度オンリョウになってもカミとして蘇ることがある」
ナナモは叫んでいた。
「何度でも言う。オンリョウはもともとはカミなのだ」
太陽の道、黄金の輝き。その光の粒子が集まる地。きっと、その場所に剣は秘められている。
しかし、そのためにはあの屍の道を通らなければならない。
「タミよ、蘇ってください。僕に力を与えてください。そうでなくては、僕は僕でなくなる」
ジェームズはこのまま消えてなくなってしまいそうになりながら、もしこのまま消えてなくなってしまうくらいなら、最後にルーシーに伝えなければならないことがある。だから、ジェームズは残りの力を全て使ってでもオープンカーを探さなければ、いや、ルーシーを見つけないといけないと思った。
「ルーシー!」
ジェームズの嗚咽なような悲痛な声がもう一度黄金の道を映し出す。
ルーシーはハンドルを握ってなどいなかった。さっそうと突っ走るオープンカーはまるでパレードで見る馬車のようにどこかに導かれていた。そのことに全く気が付いていないルーシーはあの音楽祭に参加できてよほどうれしかったのだろう、満面の笑みに溺れている。
でもルーシーのあの笑顔。ジェームズは今まで一度も見た事がない笑顔だ。
ルーシーの隣に誰かいる。僕なのか?否僕に決まっている。何故なら、二人でロンドンからここまで一緒に来たのだ。でも、あの車はオープンカーではなかったし、色も変わってる。そして何より僕はここにいる。だったら……。彼氏?いや、違う。
ジェームズは最後の言葉を呪文のように何度も繰り返しながら、やっと願いがかなったかのような喜びが絶え間なくこぼれ出ているルーシーの笑顔の先を注視した。
りっぱな成人だ。ルーシーよりは短いが少し縮れた髪の毛を風になびかせている。だから、顔が良く見えない。それなのにジェームズは一度も直接会ったことはないそのヒトを良く知っていた。なぜなら、いつも、ルーシーの瞳に輝き続けていたからだ。
ジェームズがそのヒトの名前を叫ぼうとした時、反対にそのヒトから声がする。
「ジェームズ。いや、王家の継承者たるオホナモチ・ジェームズ・ナナモ。生者の世界で生きるんだ。死者の蘇りに惑わせることはないんだよ」




