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ジェームズ・ナナモと蘇りの輝跡  作者: まれ みまれ
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(2)骨学実習

 発生学の講義と本試験が終了すると、タカヤマの言う通り彼以外の全員の進級が決まり、春休み返上で骨学実習が始まることになった。それでもまだ三月の下旬で、杵築にもようやくやってきた桜の便りだけが少し心躍る気分にさせてくれたが、大学内は春休み期間なので他の学年では講義がなく、この時期学校全体が少しざわざわすると先輩に聞いていて少し楽しみにしていた新入生の姿さえまだなかった。

 第一解剖学の新教授の手続きが難航している様なので、予定通り第二解剖学教室が当初解剖学全般を担当することになった。第二解剖学教室の教授は大学一厳格で、実習や試験に厳しいことで有名だった。もし、骨学や解剖実習を担当することになったら学年の半分は留年するだろうなと噂されていたので、折角全員進級出来たのに君たちは大変だねと、誰かしらから聞かされた時には、皆あれほど浮かれていたのにその現実に直面すると、再試験で苦労していたタカヤマに至ってはまだ始まっていないのにずいぶん落ち込んでいた。もはや教養課程ではない。専門課程は医師となるためには必要な知識だ。避けて通ることは出来ない。それでも学生である以上試験と留年という二文字がかなりの重みとなっていて、皆専門科目が勉強できるということよりも、きちんとクリアできるだろうかという不安と緊張にかられて血圧は確実に上がっているはずなのに、顔色は蒼白だった。

午前は講義で、午後から実習が始まる。ナナモはナナモ・ジェームズではなく、クニツ・ジェームズ・ナナモとして正式に学生名簿に記載されることになった。だから、ナ行ではなく、カ行で始まる実習班でこれから始まる様々な実習を受けることになった。

今年度の新しい実習班は四人で構成されていて、女性二人と男性二人だった。

これまで同じ教室で講義を受け、試験を受けていたのに、他の三人とはそれほど親しくしていたわけでもなかったので、案外かしこまった挨拶だったのだが、ナナモは他の三人からは顔も名前も覚えられていた。当たり前かもしれないが、やはり自分はハーフなんだと思う一方、大学にうつむき加減でやってきて何も言わずに帰っていた二年前のことを思うと、あの頃とは違う自分に、うんうんと少し頬が緩んでいた。

ナナモは三人の顔を見ても名前が直ぐに思い浮かんでこなかった。それでも、女性は現役で地元の出身のキガミと一年浪人しているが広島出身のクツオキであり、男性は一浪生で出身地は埼玉だが中学高校と六年間鹿児島で過ごしていたキマタであると自己紹介されると、すぐに頭の中に入って行った。

「クニツです。皆さんよろしくお願いします」

ナナモは、やっときちんと皆の前で自分の姓を名乗ることが出来るようになったのに、自分で言いながらこそばゆい思いだった。その上、二浪扱いなので、その事がどれほどの意味を持つかは分からなかったが、この班ではナナモが一番の年長者だった。だからではないが、必然とナナモから声を掛けたのだが、キマタが、そんな肩ぐるしい挨拶なんていりませんよと、クスッと笑った。ナナモは、そうだな、ロンドンなら年齢など気にせずにもっとフランクに違いないなと、独り言を無言で呟きながらも、それでも日本式に染まっていることに嫌な気は起こらなかった。

女性二人もキマタと同じように微笑んでいるのかと思ったが、案外、真面目によろしくお願いしますと、ぺこりと頭を下げて来たので、ナナモはやはり自分から丁寧に声を掛けて良かったと、キマタとは異なる想いでクスッと笑った。

「これから骨学実習を始めます。木箱に入れられた骨は実習用ですが、人工のものではなく、正真正銘の人骨であります。木箱を開けた後はまず皆さん黙祷し、故人をしのんでから、初めて下さい」

 確かにナナモ達の前には木箱が置かれてあった。今まで何代かに渡って受け継がれていたのか木目が荒れていたが、それでもニスを塗り、きれいに拭かれていたのか、その表面にはかすかに光沢が見える。

ナナモはやはりここは自ら木箱を最初に開けるべきだと手を伸ばしかけたが、その五~六十センチほどの長方形の木箱に触れようとすると急に頭痛がした。それでも、ナナモは無理にでも木箱に触れようとする。すると、今度はその木箱が急に小さくなって、十センチほどの大きさになった。

ナナモは思わず、あっと大声で叫んでしまっていた。

「なんだね、急に大声を出して」

明らかに怒気を含んだ教授の声が、緊張で静かな教室に重く響いてくる。

教授は誰が発した声なのか理解していないようだったが、ナナモがすいませんと急に立ち上がり頭を下げながら謝ったので、ぎょろりと、ナナモを睨み付けたが、それ以上何も言わなかった。ただし、教授の記憶にナナモが刻み込まれただけではなく、ナナモの実習班が刻み込まれたのは確かだった。

「どうしたんですか?」

 キマタが小声でナナモに話しかけて来た。しかし、その問いかけの声色はナナモを気にするというよりも、諫めるようなトーンだった。

「ごめん……」

 ナナモは弱めた語尾であったが素直に謝った。そしてもう一度木箱を見た。最初ナナモが見たあの木箱に戻っていた。それでもまだ頭痛が続いている。

 ナナモはもはやその木箱を触ろうとしなかった。すると、一瞬時が止まる。周りからはごそごそと音がするのに、ナナモの班だけがまだ木箱を開けられないでいる。

「何をしているんだね」

今しがたまで実習室の一番前にいた教授がいつの間にかナナモ達の実習机に来ていて、まるで魔人のように睨んでいた。

 皆、あっと声には出していないが身体が完全に硬直している。それでも、冷凍状態から自ら何とか解凍して木箱を開けたのはキガミだった。

 ナナモは他の二人と同じようにキガミが明けてくれた木箱の中を覗きこもうと立ち上がった。木箱の中には人骨が入っている。骨学実習なので当たり前だ。先ほど講義でも習った骨が、二次元ではなく三次元で視覚に入って来る。しかし、その表面はコーティングされていて少し黄色味がかっていてすべすべしているように見える。だから、ナナモは他の三人と同じように箱からそれらを取り出せそうな気がする。しかし、ナナモの手は全く動かなかった。

「君は?」

 誰かの声がする。その誰かにクニツですと、誰かが耳打ちしている。誰かはナナモに木箱からある骨を取り出してナナモにこれは何だねと尋ねている。ナナモはすぐに日本語で答えている。誰かはもうひとつ骨を取り出してもう一度これは何だねと尋ねている。ナナモはまたしてもすぐに同じように日本語で答えている。

「君は骨をどうして触らないのだね」

 誰かがもう一度ナナモに尋ねて来る。ナナモは何を言っているのか分からない。何故ならその箱の中には骨など入っていないからだ。それよりもまるで台風の目のように渦巻く粒子がナナモを吸いこもうとする。ナナモは吸い込まれないように、踏ん張るしかない。それでも、その力はナナモから身を削ぎ骨にして、さらに砕いて吸収しようとしてくる。いや、先ほどみた渦巻く粒子は数多の人々の砕けた骨の粒子だ。

 ナナモはその粒子の渦だけを見つめていたが、その粒子が次第に水滴になり、渦潮のように、激しく水しぶきを上げている様に釘付けになった。

 この景色をどこかで見たような気がする。

 木箱?

 ナナモの呟きに反応して、その渦巻きの中心部から何か声が聞こえてくる。

 クニツ?そう呼ばれている様だが、それはナナモの事ではないようだ。もう一つのクニツ。そう、きっとクニツカミの事だ。でも、誰が叫んでいるのだろう?もしかしてオンリョウ?死者?

 ナナモは思わず両耳を塞いでしまった。しかし、身体は全く動かない。その木箱の中へ視線を向けたままだ。

 この中に入らなければ。僕はこの箱に入らなければならない。そしてこの箱に入っている何かを取り返さなくてはならない。

 ナナモは恐る恐る木箱に手を入れる。いや、突っ込もうとする。しかし、まるで冬のドアノブを触った時の静電気のような激しい痛みがナナモの手を追い返してくる。

「ナナモさん、いや、クニツさん、何しているんですか?」

 誰かではない。先ほど木箱を開けたキガミの声だ。

 その声でナナモはハッと目覚めた。目の前にはキガミが開けた木箱の中の骨が見える。

「まず取り出した骨の部分部分を繋ぎ合わせて全体像を確認してください」

もはやナナモ達から離れた場所から教授の声が聞こえる。

 ナナモはその声に集中しようとした。そうすることで先ほどの声が聞こえなくなるように思った。

「キガミさん、これ腕の骨だよね」

 ナナモは自らが前に出て声を出すことが今は必要だと思った。

「それは足の骨です」

「腕の骨はそんなに長くないですよ。それは腓骨ですよ。それに正確に言うと足ではなく下腿の骨ですけど」

 キマタの声がキガミにかぶさってくる。せっかく自ら声を発したのにナナモは腓骨を持ったまままた動けなくなる。

なんだかものすごく小さい。もしかして子供の骨なのだろうか?

ナナモがそう思った途端誰かの声がまた聞こえてきてナナモは思わずその骨を机の上に置いた。

 何か言わないと、何か言わないとまた声がする。

「ねえ、この一年、僕は皆にナナモ・ジェームズって呼ばれていたよね」

 ナナモは木箱から骨を取り出し、机に並べる作業を続ける他の三人に向かって、唐突に尋ねた。

 他の三人は、ナナモには全く視線を向けなかったが、それでもそうですよと、ナナモの声に耳を傾けてくれる。

「でも僕は本当はクニツ・ジェームズ・ナナモなんだ。その事は知ってくれているよね」

 クツオキの、確かコンピューターウイルス……、というかすかな声が聞こえる。

「でも、まだみんな僕の事をナナモだって思っているだろう。だから、本当ならクニツなんだけど、実習中はナナモでもいいよ。いや、そう呼んでほしい」

 ナナモはあえてそう言った。そう言うことで自分でも木箱から骨を取り出し、机の上に並べることが出来るようになると思ったからだ。

「いいんですか?」

 やっと視線をあげたキマタからなんか申し訳なさそうな声が聞こえる。

「ああ」

「良かった。本当はクニツさんって言いにくかったんですよ」

 キマタはクツオキとキガミの顔を見ながら頷いた。クツオキはほっとしたようにうなずいたが、キガミはかすかに顔を強張らせ何か言いたげだったが、この場ではと思ったのだろうか、ぐっと言葉を飲み込むような仕草をしながら、何時のまにかこの班のリーダーにでもなったかのようなしっかりとした口調で、遅れているんだから、しゃべっていないで、骨を並べましょうと、骨学の実習書で確かめながら、残りの三人に喝を入れた。


「今日は初日ですから、これくらいにしますが、明日からはスケッチしながら、どのような筋肉が付着しているか、神経や血管がどのように関連して走行しているかなどを含めて骨の各部を覚えていってもらいますから、しっかり予習してから実習に臨んでください」

全ての実習班で取り出した骨をもう一度木箱に戻したことを確認し、皆で黙祷したあとに教授が言った。

「本日の実習でも分かったと思いますが、解剖学は平面ではなく、立体的に理解していただかなければなりません。それと、当たり前ですが、解剖学ですからすべての骨やその部位には名前があります。日本語はもちろんですが、英語とラテン語でも覚えてください」

教授はさらりと言葉を継いだが、解剖学は骨学だけではない。むしろ、その後に本格的に始まるご遺体の解剖実習が主で、その解剖学的名称の数は骨学の非ではない。

学生は皆その事を知っている。だから、「皆さんはラテン語には慣れていないように思いますが、英語がわかればそれほど難しいことはありません」と、言われても、付け焼きばのように思えて身動きできないでしばらく木箱を見つめている学生が数名いた。

 ナナモもしばらくその木箱を見つめていた一人だったが、教授の声に威圧されたわけではない。骨が再び収められた木箱はもはや元の姿に戻っていたが、また小さくなってどこかに消えてしまうように思えて仕方がなかったからだ。「英語だけでも大変やのにラテン語って……」

 また誰かの声が聞こえてくる。身体がびくっと動いたのでナナモは最初そう思ったのだが、その関西弁はタカヤマの声だった。

「ナナモはラテン語も話せるんやろ」と、続けて尋ねてこられたことで、やっと木箱から目をそらすことが出来た。そして、「日本語かぁ……」と、タカヤマのため息にそう返事していた。

「日本語って?」

「僕は漢字が苦手だからね」

 タカヤマはナナモの呟きをやっと理解してくれた。

「そうか。でも骨学の試験は口頭試験やって、先輩が言ってたけどな」

確かに実習中にナナモはその事をキマタから聞いた。でもそれは例年の事で今年は異なるかもしれない。

「解剖は漢字ドリルやないからな」

 タカヤマはきっと機転を利かせたつもりだったんだろうが、ナナモはドリルかと、ロンドンに居る時に叔母から渡された中学生用のテキストの事を思い出して、タカヤマとは異なる思いで頬を緩めた。

「俺ら、いつもは骨の名前なんか気にしてへんけど、すべて俺ら自身の身体のことやからな」

 タカヤマは当たり前の事を言った。ナナモは結局覚えられなかったが、きっとイチロウはコンピューターの部品の用語をスラスラと答えるに違いない。

「医者を目指すかぎり覚えんと仕方ないってことや」

 タカヤマが本意で言っているのかは分からないが、至極当然のことのように思えて、この言葉はスーッとナナモの身体に入って行った。

「気晴らしに道場に稽古に行かへんか?」

 タカヤマは愚痴ってはいるがいつも前向きだ。それにここぞという時のパワーがある。だから、これまで再試験を乗り越えて来た。それでも、教授に予習するように言われた後だ。それにナナモは始めての骨学実習が終わっただけなのに下着がいやらしい汗でしっとりするくらい肉体的というか精神的にかなり疲れていた。それは実習だけの事ではない。しかし、その事はタカヤマには言えなかった。だから、ナナモはあまり行きたくなかったが、それでも、肉体を酷使しないと精神とのバランスが保てないと思って結局道場へ行った。

春休みなので先輩たちはまだ誰も居なかった。その代わり、同じような思いだったのだろうか、フジオカやサクラギも居た。

 四人は同じように今日骨学実習を受けたはずだ。しかし、誰もその事を言わなかった。ただ、サクラギが、本格的に解剖実習が始まったらなかなか稽古に来られないわねと、悲し気に呟いたことがナナモの胸に響いた。

 タカヤマ達は身体の芯から何かを吐き出したかったのか、もっともっと練習したいようだったが、ナナモは一通りの稽古を終えると、さらに延長することはなく、寮に戻った。シャワーを浴び、食事を摂ると、自分の部屋に戻った。そして、だれも居ない部屋で明日から本格的に始まる骨学実習のために、実習書を拡げようと思ったが、ふとあることが気になって、視線を上げざるを得なかった。

「僕はなぜあんなことを言ってしまったのだろう」 

 ナナモは今年からナナモ・ジェームズではなく、クニツ・ジェームズ・ナナモとして正式に学生簿に登録され、その名簿に基づいて、実習の班が決められた。そして、実習中は名札を付けなくてはならないのだが、当然その名札にはクニツと書かれてある。

 そのことはナナモが自ら強く希望したことだし、田中は事務的な意味だけではなく、ナナモの将来の事も思って、きちんと職務を全うしてくれたのだ。

しかし、教授はともかくも実習班の仲間にもクニツと呼ばれてから、ナナモは少し違う空間に飛ばされたような浮遊感にあの時包まれたのだ。

ロンドンに居た時、叔父に姓など関係ないし、もともと姓などなかったのだよと言われたことがある。しかし、ナナモはクニツ・ジェームズだったし、日本に来たときはクニツ・ナナモだった。

でも実際ナナモはロンドンではジェームズと呼ばれ、日本ではナナモと呼ばれてきた。イチロウはとにかく、タカヤマにしてもクニツではなくナナモと呼んでくる。そして、その二人にそう呼ばれることがしっくりするし、現実世界に足腰を据えている様な気分になる。

それが折角晴れてクニツと呼んでもらえるようになった途端に誰かの声が聞こえて来た。それも異世界ではない。現実の世界でだ。

やはり、本当にクニツカミとは関係がないのだろうか?解剖学の実習中にクニツと呼ばれたら、また、誰かの声が聞こえて来るのだろうか?

ナナモとして何もかも忘れて剣道に熱中したことで、少しは楽になったと思ったが、その事が気になって、折角開いた骨学実習のテキストを閉じると、窓を開けて夜空を確認することなく、神木のタブレットをリュックに入れ、苺院へ向かった。


「こんばんは」

 ナナモは何時もなら苺院に着いてすぐにカタリベには会いたくなかったので、ずいぶん親しくなったアメノと、アメノの煎れてくれた紅茶を飲みながら雑談することが多かったのだが。この夜はすぐにでも神木のタブレットを起動させたかった。

 それでもアメノは逸るナナモの気持ちを諫めるように、そういう時に限って、新しく仕入れた紅茶の話しをしてくる。

 ここは日本だし杵築だ。その上、王家と関係がある。それなのに緑茶ではなく紅茶の話につい引き込まれ身動きせずに聞き入ってしまう。

きっと、ナナモのこころを落ち着かせようとしているのだろうが、そう思わせないような不思議さがアメノからはいつも漂ってくる。

「どうして、ワシの言うことが聞けないんじゃ。また、ロンドンへ行こうとしていたじゃろう」

 そんな束の間の幸せをつぶしてくるのは、いつもカタリベだ。ナナモはあれほど会いたいと思っていたのに、目を背け、耳を手で押さえたい気分だった。

「進級出来ることになったので」

 ナナモは何も考えないように出来るだけ気配を消しながらそれだけ言った。

「ほおー。偉くなったんだ」

 別に偉くなったわけではない。ただ、大学を辞めなかったことを伝えたかっただけだ。

実はナナモは()()()()があったとしても再試験はなかったので、春休みにロンドンに戻ろうと思っていた。なぜなら珍しくルーシーからある誘いのリモートを受けたからだ。

ナナモはルーシーの前ではいつもジェームズだ。日本に戻ってから英語を話す機会が極端に少なくなったが、ルーシーの前ではサマーアイズの頃にすぐに戻れた。それでも、あの頃とは二人は違う。二人は立派な大人だし、ルーシーのリップは以前より少しだけ濃くなったように思う。ましてやルーシーには付き合っている彼氏がいて、ジェームズには付き合っている彼女が居ないばかりか、ルーシーのことが忘れられないでいる。

「しばらく中断していた音楽イベントが再開されるの。いつもなら気候が穏やかな六月に行われるんだけど、今年は特別に四月一日に行われるの」

四月一日?

ナナモはイチロウからならこの時点で頬をつねっていたかもしれなし、嫌な頭痛に襲われたのかもしれないが、ルーシーに限ってと全てスルーすることにしたし、実際痛みを超越した感覚で支配されていた。

「でもどうして僕を誘ってくれたんだい?」と、ジェームズはルーシーに尋ねてからしまったと思った。特に意識したわけではないが、ロンドンにいるルーシーが真っ先に誘うのは彼氏だと思い込んでいたのだ。

 ただそれはナナモの杞憂に終わった。ナナモはジェームズとして骨学実習が始まる前の夜に、行けなくなったと、リモートではなくメールを送った。

「そのことはもういいでしょう」

 ナナモは嫌な所をついてくるなと思いながらもややつっけんどんにカタリベに言い放った。しかし、少し冷静になるとなぜその事をカタリベが知っているのかということよりも、なぜカタリベはそう言ったのかが気になった。

 どうして……?と、ナナモが言いかけると、カタリベは、「女々しいのお」と、いつもなら大声で話してくるのに、ナナモに聞こえるか聞こえないかではなく、はっきりと聞こえるのだが聞こえないような素振りで何かを呟いた。

 えっ、と、ナナモはそれでも大声で聞き返せなかったことを悔やみながら、もう終わったことだし、僕は大学を辞めなかったし、進級出来たし、そして何よりも専門科目を受け始めているのだと、ブツブツと口の中で言葉を転がすことしか出来なかった。

カタリベはナナモのこころを読む。しかし、ブツブツとつぶやいている時はナナモのこころは空っぽだ。だから、カタリベはナナモのこころを読めないはずだ。

「だから、何じゃ。それに、大学では再試験を受けなかったそうじゃが、ここでは再試験ばかりじゃったし、遅れている授業がなおさら遅れることになったんじゃぞ。それなのによこしまな思いでロンドンとは、開いた口が塞がらんわ。まだまだ禊ぎが必要じゃな」

 ナナモはカタリベのこころを読めない。それに、ナナモのこころを読んだ時のカタリベは決してブツブツとは呟かない。それどころか、痛いところに塩をわざと塗りたくってくる。

「カタスクニの補修はきちんと受けたはずですよ。それに僕が大学で学んでいる間は王家の継承者となるべき道が閉ざされることはないとお聞きしていますけど」

ナナモはつい語気を荒げて言った。いつもなら、カタリベから、「なんじゃと」と、大声で怒鳴りかえされるのだが、今夜はそんなことはなかった。

「ナナモよ。いや、王家の継承者たるジェームズ・ナナモよ。以前わしはお前に伝えたはずだ。異世界であっても使命を履行する時には、現実社会と同じように、傷つき、そして、命が尽きることが起こり得ると。だから、たとえカタスクニから追い出されることがなかったとしても、オホナムチへの道を歩もうと思うのなら、それなりの覚悟と努力が強いられるし、いつ、どのような使命が課せられるかもしれないのだから常に準備しておく必要があるのだ」

カタリベは妙にかしこまった物腰でナナモに語りかけた。ナナモはカタリベのその変貌に少し驚いたが、もしかしてと思って、「アヤベさん」と、自然と声が漏れ出ていた。

それでもデイスプレイに映っているのはカタリベのままだ。いつもより穏やかなそのアニメ顔にはどことなく人間臭さが滲み出ていて、ナナモは思わず、僕は自からは辞めませんでしたよと、心を空っぽにして感謝の感情だけを身体中から発した。

「今夜はわざわざわしの補修授業を受けに来たわけではないじゃろ」

ナナモはしばし空想のアヤベとの再会に浸っていたのに、まだ完全にいつものカタリベに戻りきらないカタリベが、珍しく誘う口調でナナモに尋ねた。

 ナナモはその言葉ではっとした。まるで、静寂な水面に小石を投げ込まれたように、無声の波紋だけが拡がっていく。

「クニツカミ」

 ナナモは自分では木箱と言ったつもりだが、実際に出た言葉は異なっていた。

 無理はない。ナナモが出かけた格子の街での出来事をすべてカタリベが知っているかどうかわからないからだ。それにクニツカミのことを一度ナナモは尋ねたことはある。むろんカタリベは具体的なことは何も話してはくれなかった。それでも、自分で望んだはずなのに、ナナモはもし、クニツと呼ばれたことで、また誰かの声に悩ませられるのかと思うと、折角これから本格的に医学の専門授業が始まるのに、前に進めないような気がした。

「ナナモ・ジェームズではなく、クニツ・ジェームズ・ナナモと呼ばれるようになった途端、誰かの声が聞こえてきたんです。それも骨学実習のために木箱から骨を取り出そうとしたときです」

「どんな声だったのじゃ」

「聞き覚えのあるようなないような」

「なんて言われたのじゃ」

 ナナモは先ほどまであれだけカタリベに言いたかったのに、もしかしたら、カタリベは、いや、アヤベすらあのことを知らないのではないかと思って躊躇した。

「なんて言われたのじゃ!」

カタリベはナナモのこころを読めるはずだ。それなのに、先ほどよりも高い声でナナモに執拗に迫って来る。

「木箱をどこにやったって聞いてきたんです」

 ナナモはカタリベの迫力につい口を滑らしたのではない。ナナモの意志がそう言わせたのだ。

「木箱?」

「骨学実習のために用いる骨が入っている箱です」

 ナナモは嘘ではないのでそう言い切れた。

「骨は人骨です」

 ナナモはあえてそう付け加えた。

「ナナモよ。その人骨に触れる前に手を合わせたか?」

 ナナモはもちろんと言おうとしたが、黙祷しただけで手は合わせなかったし、もちろん柏手を打つこともなかった。

「なぜそのようなことを言われるのですか?」

「ナナモはオンリョウの影響を受けやすいからのお」

 カタリベの声はまた妙にかしこまっていた。

「だったら、あの人骨はオンリョウの骨なのですか?」

「そんなことはないだろう。しかし、ヤオヨロズのカミの意志は受け継がれているはずじゃ」

「どういうことですか?」

「オンリョウはどこに居る。そして、オンリョウは元々は何だった?」

 カタリベはナナモに尋ねた。

「地下の世界です。そしてオンリョウは嘗てはカミであったと教わりました」

「そうじゃ。それにオンリョウはまた地上の世界にカミとして戻ってくることもある」

 ナナモは静かにうなずいた。

「しかし、地下の世界には死者がいる。その死者の中にはヒトも居る。そして、ヒトはタミとなった」

「どういうことですか?」

 ナナモは何も言わないカタリベをしばらく見つめるのではなく睨み付けていた。そして、はっと思った。

「僕が一度自らの命を絶とうとしたからですか?」

 あの時、ナナモは死者の世界に行ったのかもしれない。だから、ナナモはより強く誰かの声が聞こえるのかもしれない。しかし、もしそうならナナモはこれから解剖学の授業を受けられなくなる。

「難しいのお」

 カタリベがそこまで言うと、急にデイスプレイがフリーズする。

「なんとか言ってくださいよ」

ナナモは思わずタブレットを持ちまるで朝早くに子供を無理やり起こそうとするかのように揺り動かした。しかし、すぐに手を止めた。そして、ゆっくりとタブッレトを元の位置に戻した。

「オンリョウはカミとして地上の世界に蘇ることがあるのに、ヒトは、いや、地下の世界にいるタミは決して蘇ることが出来ないはずだ。でも、僕があの時聞いた誰かの声は死者の声ではなく、生者の声だった。オンリョウはそれを欲しがっているって……」

 ナナモは相変わらずフリーズしたままのタブレットに向かってはっきりとした声で言った。しかし、その声は苺院の中に拡がる四人組の幻想的なメロディにかき消されていて、実際には空気を共鳴させていなかった。

 きっと、カタリベも、アヤベも、カタスクニにいる面々も、もしかしたらツワモノも、ナナモがまだ知り得ない何かを知っている。

ナナモはこころをあえて無にすることでそのことを忘れようとした。すると、店内に静けさが戻り、フリーズしていたデイスプレイに、再びカタリベが浮かびあがって来た。そして、いつもとは違うカタリベは、アニメではなく実在のヒトとしての面持ちで微妙に口元を揺らしながらナナモに語りかけて来た。

「良いか。死者に向かう前には必ず手を合わせ、頭を下げて敬意を示すのじゃ。そして、心の中で柏手を打つのじゃ。そうすることで、救われる。それに、これを身に着けるのじゃ」

 ナナモは何だろうと思わずタブレットに顔を近づけようとすると反対にタブレットの中から手が伸びてきた。その手には紐のようなものに何かが付けられている。

ナナモが何かがぶら下がっている紐を受け取ると、先ほど伸びてきた手がまたすっとタブレットの中に戻って行った。

神木?ナナモが思ったのは無理はない。何かを掴んでいる感触が全くなかったからだ。

石?カミと関係あるのではと、ナナモは次にそう思った。しかし、ナナモがゆっくり視線を掴んだ手の方に向けると、その何かは奇妙に姿を変えていく。

ナナモはまるでさなぎから成虫が飛び出していく様をまるで幼子のように凝視していた。

勾玉?何故なら勾玉のブレスレッドを嘗て身に着けていたことがあったからだ。しかし、よく見るとそうではない。もしかして、ハダからの贈り物?でもその変態は留まることがなかった。

ナナモはしばらくそのブローチを眺めていたが、しばらくするとスーッと消えてなくなった。あっと、声が出そうになったが、「ナナモよ。神社へ走るのじゃ」と、カタリベから急に声がする。

 そうだ、あの時も同じように神社へ向かったのだ。

 いつのまにかナナモの横にアメノが立っている。そして、ナナモに帰り支度を促し、大きく頷くと奥の方に消えていった。

 奥からは何やら甲高い声と何かがぶつかっていくような鈍い物音がする。ナナモは気にはなったが、立ち止まることはなく、あっという間に苺院の奥へと駆け抜けた。

 目の前には木の扉がある。ナナモは振り返ることなくガラガラとおそらく音などしなかったのだろうが、そういう力で一気に扉を開けて外へ出た。

漆黒の世界であったが、鳥居だけははっきりと見える。ナナモはリックを鳥居の脇に置いた。そして、一礼すると、中へ進んだ。

社がある。ナナモは身を清め、二礼二拍した。すると、ただ手を合わせていただけなのに、手の間が光り輝いた。もしかしてと、ナナモが両手を広げようとすると、

「良いですか、解剖学の実習の前に身に着けてください。ただし、その時だけですよ。神木のタブレットと同じように、誰にも見られないようにしてください。特に、道場や寮の中では絶対に身に付けないでください。わかりましたか」

と、声が聞こえて来た。

「アヤベさん」

 ナナモは懐かしさにつられて思わず声を漏らしていた。

しかし、ナナモがきょろきょろとしばらく周りを見渡していても一向にアヤベは姿を現してくれなかった。

「僕は辞めませんでしたし、辞めさせられませんでしたよ」

ナナモは手を合わせたまま社に向かって、大きく目を開き、大声でも小声でもなく、それでいて緊張することなくはっきりとした口調で言ったあとに、両手を離した。すると、手の間から輝きが消えた。その代わり、社の前には真っ白な布製の小さな袋が眼に入った。

そうか、この中に……。

ナナモは大きく頷くと、その小さな袋を手に取り、両手に挟みながら、社に向かって一礼した。

アヤベに直接会ってやはり言いたかったと、後ろ髪を引かれる思いであったが、きっとどこからか見ていると思い直して、社を後にした。

鳥居をくぐると、一礼し、リュックを背負った。

「良いか、もう一度言うぞ。黙ってロンドンには行くのではないぞ」

 カタリベの声がまた聞こえてくる。その口調は珍しく重かったが、ナナモを叱り飛ばすという風でもなく気持ちわるいほど優しさを帯びていた。


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