(26)第一の覗き穴
周囲を板塀に囲まれてはいるものの四方が反り返った茅葺きと板葺きの混ざった屋根が垣間見える。質素だがその特徴的な屋根の造りをどこかで見たように思うだが、すぐには思い出せない。それに、少し小ぶりだ。
もしかしたら、生まれた場所なのだろうか?でも、この建物はおぼろげながら記憶に記録されている。だったら、生まれた場所ではないはずだし、ましてや幼い頃を過ごした家でもないはずだ。それなら、何かの社なのか。いや、社ならこのような屋根の造りではない。
ナナモは第一ののぞき穴からのぞいていることなど忘れて、しきりに自らの記憶に問いかけていた。
すると、急に板塀の一角が開き、モノノフ姿の男性が現れた。丈の低い烏帽子に、しわくちゃの直垂だ。服装からは品の無さが滲み出ている。
しかし、遠くてよく見えないがその出で立ちは、身なりとは異なりモノノフというには何か気高さがある。もしかしたら、誰かに借りた服であえて身分の低いモノノフを演じようとしているのかもしれない。顔だけはまだおぼろげだが、きちんとはかま腰には小刀をさし、左手には大大刀を携えている。
あっ、……。
ナナモは先ほど記憶の隅に追いやられていたこの建物のことをやっと思い出した。あの屋根の形は医学部剣道大会が行われた会場と同じだったからだ。きっと、建物より試合に集中していたから特徴的だとは思っていたのだろうがかすんでしまったのかもしれない。
だったらここはカマクラか?それも、モノノフの時代。
ナナモはその男性を出来るだけ目を細めて注視した。
「マレおじさん!」
ナナモから思わず声が漏れていた。と同時に、その男性が今まさに出て行こうとした板塀の影から心配そうに送り出す袿袴姿の女性が目に入った。年恰好は同じくらいだし利発そうだ。それにその身だしなみはいかにも高貴だ。もし、その女性が妻ならば、やはりあの男性はかなりくらいの高いモノノフ、いや武官かもしれない。
ナナモはその男性と同じようにその女性の顔も捉えようと眼を細めた。
「ミチおばさん!」
どうしてカマクラに……。しかし、ナナモの声が届くはずもなく、二人でコソコソと何やら話したあと、マレおじさんの顔をしたその男性は、ミチおばさんの顔をした女性が慌ただしくぴしゃりと閉じた板塀から、今度は振り返ることもなく、えらく真剣な表情で足早に歩きだした。ナナモは顔とは心の持ちようでどうにでもなると嘗てアヤベに諭されたことがあったが、どうして叔父叔母なんだろう……?と、それでも考え込むこともなく、その男性の後をゆっくりと追って行くしかなかった。
その男性は絵に描いたように、却って怪しまれるし、高貴な武官が、モノノフに身を隠しているのなら、バレバレな行動なのに、慣れていないのか相変わらずあたりをキョロキョロと見渡しながらしばらく足早に歩いていた。するとあらかじめ誰かに用意させてあったのか、自らが用意してあったのか、それでも、小屋や草むらに隠していたわけではなく、だからと言って退屈そうに忙しく前足で何度も土を動かすことなく、それほど太くない木立の枝に手綱を括られただけで、少しも身体を動かすこともなく凛として主を待つ一頭の馬が見える。
やはり、それ相応の身分の人なのだ。ナナモは小ぶりだがその馬の毛並みを観てそう思った。そして、モノノフの時代ならカタスクニでのナナモよりもその男性はさっそうと騎乗するに違いないと、その雄姿に期待したが、ナナモが初めて乗馬を体験した時のようにぎこちなくとうてい格好良い騎乗ではなかった。
あの男性はモノノフどころか、武官でもないのか?
ナナモはそれでも手綱を強いて操ることなく進むその男性の姿とそのことを知りながらそれでも気品ある姿を保とうと必死で歩を進める愛馬の姿に、思わずタイフを重ねながら、従者のように、いやドローンのようにゆっくりと再び後に従った。
きっとどこかに通じている道なのだろう。その男性はそのことを知ってか知らずか分からないが、雑然と生茂る林の中をさまようのではなく、少し背の高い草木を分けるように進む馬の鞍に悠然と身をまかしてうたた寝しているようにさえ見える。ナナモは先ほどなんて不細工な騎乗なのだろうと思ったが、落ちそうで落ちないその姿を見て、馬にすべてを任せているわけではないのだと、その男性のわずかに動く手綱さばきに改めて目をやった。
どれくらいの時が経ったのかわからないが、川のせせらぎが聞こえて来る。どうやら川べりを進んでいるようだ。地面からはタンポポの黄色い花が咲き連なっている。そして、そのせせらぎの音にコソコソとかすかにヒトの声が混じって来ると思いきや、天上のないテントのように白き布が張り巡らされている風景が突然現れた。
モノノフ達の陣屋なのかもしれない。
しかし、ナナモはこの時代にどのような陣屋が造られたのか分からなかったのでその中を覗いてみたかったが、その男性は全く見向きもせずに相変わらずの気のない騎乗のまま、その陣屋を通り過ぎて行った。それでも坂を少しずつ登っていっているのか、その男性の身体がより後方に傾いている。そして、その傾きが戻り、先ほどのヒトの声がかすかに聞こえるか聞こえないかの場所に行きついた時馬が止まった。
頭を垂れる馬に気遣いの言葉を掛けるのでもなく、それでも馬は主人のそのような態度に不満ひとつ見せないどころか誉だとその男性が下馬しやすいように、最後まで気を緩めていない。それなのに滑るように降りるその男性が地に足を付けた途端、背筋がギュ―と伸び、騎乗姿が嘘だったかのような気品が辺りに生えている雑草の葉脈にまで緊張を走らせる。
顔はまだマレおじさんだが、やはりただ者ではない。
その男性は膝ほどの草木をかき分けて少し歩いた。すると、突然、目の前に大きな樟が何本か聳え立つように茂っていた。そして、その木の幹の隙間からその男性はするりと身を滑らすように入って行く。
樟に囲まれ、草木が一本も生えていない乾いた土の地肌が、円形の空間として拡がっている。と言ってもそれほど大きくはない。五メートルぐらいの広さだ。そして、その中央部には丁度腰掛けられそうな高さの平たい岩がある。その男性は、当然その岩に座るのだろう。それでも先ほどとは異なりすり足で前に進んだ。
「兄上、やっとお会いできました」
岩の向こう側に誰かがいる。いや、誰かが正座をして頭を下げている。
「水臭い、弟ではないか、さあ、立ち上がって。顔を見せてくれ」
ナナモはその顔を見て、思わずあっと、喉が詰まりそうなほどの嗚咽を含んだ声で叫んでいた。なぜなら、弟とよぶ人物の顔はナナモだったからだ。
叔父の兄に、ナナモ、いや、ジェームズの顔をした弟。
父さんの顔が見れると思ったのに……。ナナモはその顔貌にとてつもない違和感を抱くとともに、とてつもなく失望した。
それでもここでは踏ん張るしかない。
そんなナナモの心情の変化に、二人は微動だにしない。それどころか、こうして面と向かって逢えたことを喜んでいる。
弟は兜こそ被ってはいないが、傍らに置き、甲冑で身を包んでいる。モノノフの時代だ。これから戦に出かけるのかもしれない。
先ほどあった平たい岩はずいぶん小さくそして低くなっていた。ただ、清々しい透明な光が樟で囲まれた暗闇に灯りをともしてくれている。もしかしたら、この岩は座するためのものではなく、神聖な磐座なのかもしれない。きっと二人はその事を知っている。だからか、二人はその岩に向かって二礼四拍すると、岩を挟んで淡色だが妙に心地よさそうな温かみがある地べたに腰をおろし、胡坐をかいた。
きっとその岩は神木のタブレット様なデスプレイなのだろう。だから、清き光が漏れ出ていたのかもしれない。二人は視線を時折その岩に向けながら話し始めた。
「弟よ。赤の朝臣が、三種の神器とともに皇家を連れて日沈む地に向かったのは知っているであろう」
「はい」
弟は、当然と、頭を大きく動かして頷いた。
「白の朝臣は、赤の朝臣を打ち負かし、三種の神器とともに皇家を連れ戻そうとしている。でも、そう思っているのは白の朝臣だけだ。白の朝臣に組するモノノフ達はそうは考えておらん。なぜだが分かるか」
弟はさあと言わんばかりに首を少し傾けた。
「白でも赤でも朝臣の力を借りて、モノノフ達は皇家からタミを奪おうとしているからだ」
兄の眼光が一段と鋭くなる。相変わらず叔父の顔だがナナモがこれまで一度も見た事がないような覇気が瞳から飛び出している。これが蘇りなら、もしかしてロンドンでナナモに接してくれていたあのおっとりした笑みで包み込んでくれた優し気な叔父では元々なかったのかもしれない。
「そんなことはできませんよ。なぜなら、赤も白も朝臣はもともと皇家だったのですから。それに、カミに近しい皇家のみが穢れを祓えるのです。だからタミは安心して生活できるのです。その事はもっとも穢れ多きモノノフ達が一番分かっている事ではないのですか?」
弟はそんな兄の眼光にたじろぐことはない。むしろ、それ以上の覇気で兄の言葉をしっかりと受け取っている。
叔父の弟なら父さんだ。だったら父さんは、僕と違ってその目でしっかりと今を掴んでいる。
「ああ、そうだ。朝廷というシステムを貴族たちが造ったからな。しかし、その事で、皇家は閉鎖された世界に追いやられ、タミはその世界に立ち入れなくなった」
「モノノフもタミです」
「そうだ。しかし、モノノフは朝臣と一緒であれば朝廷に入れるようになった。それなのに、その不自由さが彼らの不満なのだ」
「不満?」
「そうだ。しかし、そのことはある程度仕方がないことだし、モノノフ達も知っている。なぜなら本来穢れ多きモノノフ達は朝廷には入れないからだ。しかし、争いのないタミとの世界を創ろうと、何十、いや、何百年と掛けて平安の世を作った貴族でさえ、モノノフの力を借りなければ、タミを治められなくなった。それは皇家や貴族やそのシステムだけが問題ではない。タミが増え、ままならないことが多くなったからだ。平安の世はタミが地上の世界に居る限り長続きしない」
兄は初めて物悲しくため息をつくように言葉を重ねた。
「どうやらモノノフ達によからぬことを吹きこんだものがいる」
兄はしばらく瞳を閉じて黙っていたが、急に口を開いた。
「どのような」
「自らが自らを守るべきだと。そして、その事を可能にする剣を探せと」
「オンリョウ!」
弟は思わず声に出したが、兄は鋭い眼光で制した。
「その言葉を今は口にするのではない。それに、モノノフ達がもしそ奴に操られてしまったら、皇家どころか王家もタミとともに滅するかもしれない」
ナナモは弟がもう少し兄にオンリョウのことで食い下がらないかと期待したが、弟はもの言いたげな顔付きだけでそのことにはさらに口を開かなかった。
「だから彼らが三種の神器を手に入れる前に、是が非でも持ち帰ってくるのだ」
「でもなぜですか?三種の神器のひとつであるあの剣はモノノフ達が欲している剣なのですか?」
弟はモノノフがこの世に生まれる前からその剣は存在していたことを知っている。だからと言ってあの剣がタミを制する力を持っているとは思っていない。
「モノノフ達には必要はない。それに、モノノフ達はその剣の秘密を知らない。それにもし手に入れても決して使いこなせない。なぜなら、モノノフはタミだからだ。きっと、モノノフ達は、そのことを教えられたのだろう。だから、争いを繰り返しながら、自ら剣を創りだそうと考えた」
「では誰が必要としているのですか?」
「朝臣だ。白の朝臣の棟梁は、皇家とともに三種の神器を手に入れようとなどとは思っていない。三種の神器のみを手に入れ、自らが朝臣ではなく皇家になろうとしている」
「朝臣が皇家に?」
「そうだ。蘇りだ」
「三種の神器にはそれほどの力があるのですか?」
「そう伝えられている。しかし、もはや我々には存ぜぬことだ。それに、元々は王家のものだったのかもしれないのだから」
ナナモはアヤベからそのような話を聞いたような気がした。ただし、皇家のものと王家のものとは異なるとも聞いたような気がするし、国譲りの結果、その事についてはうやむやになっている。
「それでは、もし、白の朝臣が三種の神器を持ちかえったら?」
「モノノフ達は困るだろな。だから、邪魔をする。なぜなら、モノノフ達にとって朝臣は白であれ赤であれ邪魔な存在だ。だから、モノノフ達は白の朝臣が赤の朝臣を打ち負かしてもらいたいが、その時に三種の神器も同時に無くなってほしいと願っている。もしそうなれば、皇家は無くならないまでも弱くなり、モノノフ達は朝臣の威を借りなくても、自らが造りだした剣でタミを従わせることができるようになる」
兄はそこまで言ってから一呼吸置き、そしてゆっくりと言葉を継いだ。
「いずれ朝臣たちはモノノフ達に葬り去られる」
兄はこともなげに言った。
「朝臣はもとは皇家です。どのような剣であろうと朝臣をモノノフ達が葬りさることは出来ません。もしそうすれば穢れは一生祓えませんし、穢れたモノノフにタミはついて行きません」
「剣があれば可能なのだ。それにタミに穢れなど恐れることではないと強いることができる。ただ、タミは当然反発するだろう。しかし、強いられてもそれがままならないものだと知ると、次第に慣れて来る。タミとはそういうものだ」
そうだろうかと、ナナモは首をかしげる。しかし、弟は少しもかぶりを振らない。
「私が皇家を助ければ全て収まるのではないのですか?なぜ、朝臣よりもモノノフ達よりも三種の神器を私が先に手に入れなければならないのですか?」
「きっと 赤の朝臣は皇家も三種の神器も手ばさない」
「どういう意味ですか?」
兄は吐き捨てるように口だけを動かし、弟は耳を塞ぐように苦虫を浮かべる。しかし、二人の声はナナモには聞こえない。
「だったら、不可能ではないのですか?」
「白の朝臣にはあの男がいる。不可能を可能にする男だ」
兄の言葉に弟は力強く頷いた。
「あの男はきっと三種の神器とともに皇家を連れてかえります」
「そうかもしれん。しかし、モノノフ達はそのようなことは望んではおらん。だからきっと邪魔をする」
兄はしばらく弟を見つめたまま黙っていたが、それでも吐き出すように言葉を継いだ。
「良いか。先ほども言ったが、モノノフ達の真の目的は彼らが朝臣に代わって、タミを支配しようとしている事なのだ。しかし、我々兄弟は朝臣ではない。したがってモノノフ達は我々に一目置くことはない。ということは、我々に期待など全くしていないし、我々を利用しようと狡猾に近づいてくることもない。だから、反対に我々がモノノフ達に近づくのだ。我々は王家だが、皇家のような神々しさは持ちあわせていない。悲しいことだが、仕方がないし、その事で相手は油断する」
「しかし、兄上、朝臣とモノノフ達の思惑は分かりましたが、皇家の救出はと
もかく、どうして、三種の神器にそれほどまでこだわるのですか?」
弟の問いにそれまでは答えていた兄に初めて苦悩の皺がにじみでる。
兄はしばらく目を閉じていた。そして、かすかに口をもぐもぐ、耳をピクピクさせた。
「はっきりと言わねば伝わらないこともある。しかし、はっきり言えば拒まれることもある。しかし、我々は王家だ。その使命は分かっているはずだ。だから私はあえて言う」
兄は大きく目を見開き、そして、瞳を充血させながらそれでも、ある決意がほとばしるような覇気を持って言葉を継いだ。
「三種の神器のどれかには神紋が描かれていると言われている。その神紋がある書を導く手掛かりになると言われている」
ある書?ナナモはふとそれは譲りの書ではないかと思った。しかし、二人は知らないのかもしれないが、その書はナナモが目にすることなくイナズマに打たれてどこかに消えたはずだ。もういちど手にしようとするのか?でも、それならば身を清めなければならない。穢れ多き戦場には行けない。
「蘇りの書だ」
「蘇りの書?」
「そうだ。王家が蘇るために必要なものだ」
「どうして王家が蘇えらなければならないのですか?王家は皇家を助けタミとともに地上の世界をオンリョウから守ることが使命なのではないのですか?」
弟はじっと兄を見つめた。
「そうだ。しかし、もし、モノノフが皇家からタミを奪おうとしているのなら、王家が蘇ってタミとともに暮らした方がよほど良いのではないか?」
兄は弟に優しく言葉を投げかけた。しかし、弟は兄の優しさを素直に受けとれなかったのか、困惑の色が顔の血管を怒張させていた。兄はその表情を観て、驚きを一瞬隠せなかったが、すぐに何事もなかったかのように先ほどの顔付きに戻った。
「弟よ。これはコトシロから聞いた託宣である。そして、そのためにカタスクニで様々の事を学んできたはずだ。今こそそれらが発揮される時が来たのだ。剣術も馬術も弓術も、そして、弟には何よりもそれを最後まで遂行する闘志がある。だから、あの男がどれほどの優れ者であったとしても、弟なら必ず成し遂げられるだろう。好機である。是が非でも三種の神器を持ち帰って来るのだ」
一瞬、真っ暗になったかと思うと突然眩しすぎる光が襲ってきた。
ナナモは思わず目を閉じようとしたが、
「まだ、目をとじるのではない。まだ、終わっていないのだ!」と、背中を硬い棒の様なもので叩かれたような大声で怒鳴られたものだから、覗き障子から瞳を離せなかった。
ナナモは意識的に瞳を大きく見開いた。すると、たいまつが焚かれた波打ち際に大小様々な船が停泊している。
「良いか、今日こそ雌雄を決するときぞ」
あの男が皆を鼓舞している。もちろんその大半はモノノフ達だ。ただし、ほとんどが大声で皆とともに結団の声を上げているのに、冷静さが必要だという表立った理由を笠に着て、冷ややかにあの男を見ているモノノフもいる。それでいてまだかまだかとあえて出陣の号令をじらすあの男より先んじようと企んでいる。
辺りが白み始め遥かかなたの東の地から燦燦と陽が昇り始めた時、あの男を旗頭に皆が御来光に向かって手を合わせた。先ほどの熱気が嘘のように一瞬神々しさが拡がり静寂さと相まってあたり一面が清められたようだったが、モノノフ達があっと叫ぶまもなくあの男が空中を舞うように一番船に飛び乗ると、次々と歓声を上げながらモノノフ達は船に乗り込んで行った。すでに甲冑と兜を身に付けた弟は、そんなモノノフの後ろからそれでもその男の乗る船にわざと遅れて乗り込んだ。
「何とか今は耐えるのだ。何れ潮目が変わる」
大海原での戦が始まっていた。しかし、漕ぎ手達は、額に大粒の汗を吹き出し、腕が二倍にはれ上がってるかのように力の限り懸命に櫓を漕いでいるのに、打ち寄せる荒波が立ちはだかり白の軍団は思うように船を操れないでいた。
あの男は船の舳先に陣取っている。しかし、敵からの矢は全く当たらない。いや、相手はあの男めがけて矢をしきりに放っているのだが、いともたやすくいなしているのだ。そのためあの男の船に乗っているモノノフ達は何もしていない。いや、弟も含めその事を知っているからこそ、この一番船に乗ってきたのかもしれない。
潮目はなかなか変わらない。だから、あの男は急に一番後方に乗っていたモノノフいや、あの男の仲間に合図する。すると仲間は大きな身体からほら貝に思い切り息を吹き入れ鳴らした。
すると、それまで三角の陣形で船団を形成していたのに急に縦一列に船が並んだ。きっと事前に打ち合わせていたのだろう。もともと縦一列でなんとか白の船形を分裂させようとしていた赤の船団は急に目前から障害が消えて、海流のなすがまま船団を進めるしかなかった。
白の船団と赤の船団が確実に矢の届く範囲ですれ違う。その刹那、白の船団が赤の船団の先頭の船めがけて旋回する。驚いた赤の船団は衝突を回避しようと反対方向に急旋回する。予期せぬ衝撃で船員は身体のバランスを失った。
まるでこの男ならと予想していたかように、あの男が号令を発すると、あの男の後方に潜んでいたモノノフ達が、一斉に矢を打ちかけた。その標的は朝臣やモノノフ達だけではない。いやむしろ彼らより漕ぎ手に向かってまず放たれた。次々に旋回していく漕ぎ手に次々に矢が放たれる。それまできちんと隊列を組んでいた船団は漕ぎ手を失って大海原で行き場を失って乱れて行く。
その中でひときわ大きくひときわ豪華な、まるで社殿が船上に築かれているかのような船が、一人残されたように潮の流れに沿って近づいてきた。あの男は急に太刀を抜き、前方に向かって差し出すとあの船に向かうように漕ぎ手に命じた。
きっとあの大船に皇家が乗っていることをあの男は知っているのだろう。モノノフ達の間には、この水上戦には皇家は参加しないだろうと訝っているものが大半だったが、後方をすでに朝臣の別部隊が包囲していることを、そして、赤の朝臣が白の朝臣を蹴散らし、このまま京の地に優雅に凱旋できると、奏上しているだろうと、あの男は確信し、わざとあの船だけは漕ぎ手を打たずに、ゆったりと、東に進ませていたに違いない。
だから、あの男は、もう一度自分の船を旋回させ、大船に向かわせると、横っ腹に付けて、躊躇せずにいとも簡単に乗り込んだのだ。
もちろん慌てたモノノフ達は遅れをとるまいとあの男に続いた。しかし、その船にはあの男にも匹敵する豪胆な赤の朝臣やモノノフ達が隠れ潜んでいて、あの男に向かって刃を向けた。
あの男はそれらをひよいっと交わしたが、続いて乗り込んだモノノフ達はそうはいかない。だから、船上での戦闘が始まった。刃を重ねた時に生まれる、鼓膜をツーンと突き上げる金属音や、瞳を焼き付けるような閃光が、所狭しに奇声とともに、拡がっていく。
弟は大船には乗り込んだが、モノノフ達の影に隠れ、それでも襲われた時には辛うじての剣さばきでかわすと、あの男を追っていた。
あの男は、器用に船上をまるで天の糸で操られているように空中を華麗にまたひよいっと飛び移ると船の後方にて、社殿の正面に着座した。
弟はやっとのことで、あの男の姿を捉えたが、あの男は扉の前で何やら呟いている。すると、急に扉が開き、これから先には一歩も進ませないと大男が出て来た。きっと、赤の朝臣の大将だ。皇家をお守りしているのだ。
あの男はその威圧におののき尻込みするどころか、素早く太刀を腹の位置で構えると、電光石火の速さで飛び込んで行った。
あっと、弟は赤の朝臣の大将から血しぶきが舞いあがるのではないかと、目を閉じたが、さすが皇家の守護神である。間一髪の早業で太刀を抜くと、火花を上げながら押し返した。
「中には何人たりとも入れぬ」
再び閉じられた扉の前で、赤の朝臣の大将はもはや炎の塊となっている。しかし、だからと言ってあの男がひるむわけではない。ただし、正攻法では力負けするのは明らかだ。だから、上下左右と、幾度も身体を動かしながら、相手の隙を伺っていた。しかし、大将もさるもの。そのようなことでは全く動じない。それどころかあの男が時々打ち込んできても、最少の動きと力で平然とその刃をかわすどころか、隙あらばとぐーんと急に腕を伸ばして、あの男を突き刺そうとさえしてくる。
「赤の朝臣よ。もはやこれまでだ。御君を我々に譲るのだ。さすれば大切に都にお連れする」
「なにを言う。白の朝臣はここに居られる御君にとっては朝敵ぞ。その朝敵に我らがやすやすと御君を譲れるわけはない」
なかなか攻めきれないと、あの男が叫んだのではない。大男とは戦いたくはないと思っているようにも見える。
もはやこの社の中に皇家がおられることは確実になった。ならばと、弟は何とかこの社の中に潜入できないかと、両者の対峙より社をじっくりと見つめている。
そんな緊張が一本の矢によって崩された。あの男を追ってモノノフ達も後方に移動してきたのだ。そして、あるモノノフの矢が大男に当たる。運悪く、いや、あるモノノフが狙ったのだろう。矢は甲冑の隙間から胸を貫いた。
うっとかすかなうめき声がした。しかし、大男はびくともしない。それどころか、矢を放ったあるモノノフに短刀を投げつけた。
あるモノノフは突然倒れた。その鋭利な刃物は甲冑をもろともせず胸深くに突き刺さっていたからだ。と同時に、先ほどまで閉じられていた扉が開き、中から赤の朝臣の配下であるモノノフの面々が飛び出してきた。大男にまさに迫ろうとしていたモノノフ達はその勢いに押し返され、あの男も辛うじて刃の矛先をかわすのに精一杯だった。
その時、前方から声がした。
「御君ぞ」
その声をきいて、刃を交わしていたモノノフ達は一斉に前方に移動する。
「入水されたぞ」
どぼん!どぼん!……と、まさに絵に描いた餅のような音がする。そして、悲鳴に近い叫び声がモノノフ達の間を駆け巡る。
その音と声に弟も瞬時に身体を反転させようとしたが、その視線の端に、あの男の姿が映る。大男もまだ仁王立ちで、あの男を睨み付けている。船の後方には二人の姿しかない。
どうして、二人は動かないのだ。
弟の身体は船の前方に引っ張られてゴムのように伸びきっているのに、顔だけはとどまっていて、その視線は二人からどうしても離れなかった。
「御君を助けないのか」
大男がすごんでくる。しかし、あの男は黙ったままだ。だから、大男は、今度は薄ら笑いを浮かべながらあの男に言葉をかぶせた。
「白の朝臣の棟梁は御君など気にせずに、三種の神器だけを奪って来いと言ったのだろう」
その声を聞いてあの男は今まで冷静だったのに、急に青ざめる。
「良いか、白でも赤でも新しい朝廷を作ることなど出来ないのだ。なぜだか分かるか?我々朝臣は穢れているからだ。それなのに、我々には皇家の血が流れている。だから、どれほど力を得て、タミを従わせてもヤオヨロズのカミガミの御加護は受けられないのだ」
「ではどうして御君を連れて来た」
「夢を見ようとしたのだ」
「夢?」
「そうだ。赤も白もない朝臣の世界だ」
大男は悲し気に言い放った。おそらく夢かなわぬことを悟ったのだろう。だから先ほどあのようなことを言ったのかもしれない。
「それではモノノフは?」
「モノノフは決して皇家を手放さない。ただし、それはもうひとつの組織を作るために利用するだけだ。だから時に敬い、時に恫喝する。そして何より皇家の血を引いていないモノノフ達に穢れなど関係ない」
ほらみろ、だから、彼らは慌てて前方へ移動したのだと、大男は顔をそむけたことで、あの男に伝えた。
「タミは?」
「タミはいつでも力あるものに従う。それがタミだ」
(そんなことはない。タミはそれほどバカではない。それにシンなきものには何人も従わない。タミはヤオヨロズのカミガミとともに暮らしている。だからカミに近しい君を敬うのだ)
社の陰から弟が急に立ち上がると二人に向かって、甲高い声で叫んでいた。しかし、その声はナナモだけにしか届かなかった。なぜなら、二人は表情一つ変えなかったからだ。
「中にまだ御君はいるんだな」
あの男が言ったが、大男は黙っている。
「その体ではもはや私には勝てない。だから、三種の神器を私に譲るのだ」
「まだわからないのか!三種の神器は皇家がおられるかぎり蘇る。意味などない」
大男はそういうと、今まで全く動いていなかったのに、身体に突き刺さる矢を折ると、力をみなぎらせ、ざあーっと太刀を抜くとあの男に切りかかった。
あの男は不意打ちだとも思わず、難なくかわすと、我々がその夢を引き継ぐからと、「ごめん」と、一言発すると、大男の肩口から一気に刀を振り落とした。
甲冑が真っ二つに割れ、大男からづれ落ちる。そして、白き鎧直垂からゆっくりと血がまるで白と赤の朝臣が混じるように広がっていく。
「なぜ、一気に撃たぬ」
「夢の続きをそなたに見てもらわなければならぬから」
大男はあの男にそう言われて今まで気丈に社の前に立ちはだかっていたのに、急に膝をくずした。しかし、その表情からは全く悲し気なそして無念さはにじみ出ていなかった。
あの男はもはやこれ以上大男と刃をかわすことがないと、鞘に太刀をしまった。弟はこの時ばかりと、あの男より先にと、社の中に入った。
弟が社の中に入った瞬間、戸が閉まる。しかし、遣戸だと思っていたが、その扉は茶色の塗られた障子戸であった。そして、弟がそのことを知ったのは、障子を通して通過する光子の群れが空っぽの室内を映し出した後だった。
「あっ、してやられた」
弟の叫び声と同時に発せられた、あの男の怒号とが、激しく重なった。
漕ぎ手を失った豪華な社が置かれた大船は速度を落としていた。だからか、後方からやって来る質素な屋形船から、真っ白な半尻を来た童子が、真っ白な絹袴姿に身を包んだ女御達に連れられて出ていく。
弟は思わず扉を開けようとしたが、開かない。だから、障子を破り外を見ていたのだ。
「入水される」
また、弟とあの男の声が重なったが、今度は荒波に消されてしまう。
そして、もはや、あの男は船上には居なかった。
「御君を、お頼み申す」
大男のうめき声が聞こえ、社の扉が急に開いた。
弟も船上から消えていた。
ナナモは童子と女御達に眼を向けたが、ナナモが覗いていた障子の穴から蝋燭の灯りが消えた。




