(27)第二の覗き穴
波の音だけが耳奥で木霊するわけではない。潮の香だけが鼻先をくすぐるのではない。月の灯りだけが、目元を導いてくれるのではない。それでも漏れ聞こえる粗末な板塀からの楽し気な話し声がこれから漁に向かう男たちの背中を押している。
まだ夜が明けない暗闇の港にはひっそりと小舟が列をなして停泊していた。
その船着場にこっそりと一人でやって来たのは兄だった。もちろん叔父の顔のままだ。
兄は供の者を残すとゆっくりと小舟から降りた。そして、砂地をザクザクと音を立てながら歩きだす。その傍らで、反対に家々から男衆が体を丸めながら出てきたが、さっさと船に乗り込んでいく。
兄は港から離れると後を振り向き、その光景に見入っていたが、一瞬頬を緩めかすかに微笑んだと思うと、大きな溜息をつき、また歩き出した。
一隻一隻と港から漁場に小舟が向かうたびに周囲は白み始め、兄が乗って来た小舟だけになった時には、もうずいぶん陽の光が遥か西の空に向かって昇り始めていた。そして、その輝線と交差するように砂洲が白蛇のように伸びていて、その先には木々が生い茂る平らな島に続いていた。
ナナモはどこかでこの風景を見たような気がしたが、その記憶を探すよりも兄の行き先が気になった。
兄は砂洲とは反対側の小高い丘に登っていく。草木がなく、湿ってはいるが行き交う人々で踏み固められた土の小道が続いていた。
しかし、突然、兄の前に大きな岩が立ちはだかる。兄は立ち止まるが、特に驚きはしない。その岩の前に立ち、二礼四拍し、そして、口を大きく開ける。きっと、自分の名前を告げているのだろうが、もちろんナナモには聞こえない。
兄は懐から何かを取り出すと、岩に付けた。ほんの一瞬だったようにも思うがきらっと光ったので、三角縁神獣鏡だったのかもしれないが、もちろんナナモには見えない。
すると、壁に小さなくぼみが出来た。そして、その窪みは少しずつ広がっていき、ひとひとり通れるくらいの大きさになった時に兄はゆっくりとその岩の中に入って行った。
兄が岩を通り過ぎると、岩は全く物音ひとつ立てないで再び閉じた。しかし、兄はその事を知っていたかのように振り返らなかった。
岩壁が周囲を覆っている。ナナモは嘗てどこかで見たような気がしたが、思い出せない。ただ、何もないと思っていたが、兄が進む岩室の突当りには小さな祠がある。兄はそのままその祠に参拝するのかと思ったが、あたりをゆっくりと見渡した。何をしているのだろうと思ったが、急に祠の右側に向かった。すると、そこの岩壁から水が湧き出ていた。
きっと清水なのだ。
兄は手水舎でするように当たり前に身を清めた。そして、再び祠へ行く。二礼四拍し、また、声なき声で口を動かす。先ほどよりは長い。名を告げただけではなかったのだろう。
兄が参拝を終えると、左側の岩壁が急に開いた。少し奥まっている。きっとちょっとした洞窟なのだろう。その中は蝋燭が灯っているかのようにかすかな灯りで満ちていた。
兄はその洞窟に近づいて行く。すると洞窟の奥から声がする。兄はその声に向かって洞窟の中へと入って行った。
「手紙を読んでくれたのですね」
洞窟の中には大人がゆったりと一人入れるほどの大きさの岩の窪みがある。そしてその窪みをよく見るとひざ下くらいの水で満たされている。しかし、水はたまったままてはない。かすかに動いている。きっと、どこからか湧き出た水がどこかへ流れ出て行っていて、絶え間なく清き水で保たれているからだろう。
もしかしたらもうひとつ手水舎があるのかと思ったが、そうではない。何故なら先ほどの声の主が胡坐をかいた姿勢でその清水に身を浸していたからだ。
蝋燭の灯りがその人物を映しだす。ナナモはハッとした。何故ならその人物はナナモの顔をした弟だったからだ。
ナナモが初めて弟を見た時に比べて幾分大人びている。しかし、子供らしさが全くないわけではない。それにずいぶん疲れているのか、頬が痩せていて、肌の張りがない。
「ここで身を清めておりました。しかし、まだ、穢れが祓えられていません。申し訳ありません」
弟の声は弱々しかったが、それでも何とか兄の前ではと、体面だけでかろうじて踏ん張っている。
「いやかまわぬ。しかし、今まで何をしていたのだ」
兄はねぎらいの言葉を掛けたが、それ以上弟には近づかなかった。
「あの男をずっと追っていたのです」
「あの男?」
「そうです。不可能を可能にする男です」
「なぜだ」
「あの男はきっと三種の神器を手にしたと思ったからです」
「どうして、そう思ったのだ」
「あの時、私は兄の教えを裏切ったのです。御君を見捨てられなかったのです」
弟はより深く清水に身を沈めながら言った。兄はそれでも悔やむ様子を見せない弟を静かに見つめた。
「しかし、三種の神器は御君が身に付けておられたのではないのか?」
兄はゆっくりそうつぶやいた。
「最初はそう思ったのですが、どうやらそうではなかったようです」
「ようです?」
兄は初めて訝し気に眉を狭め、もしかしてと、発してから言葉を継いだ。
「御君を助けることも、三種の神器を手に入れることも出来なかったのか?」
「御君にもう少しで手が届きそうになった時に、誰かが御君を水中から連れ去ったのです」
弟の言葉からは言い訳めいた感情はひとつも伝わってこない。
「まことか?」
「はい。ただし、あの男でも、モノノフでもありません」
弟は口惜しさより、なぜ?と、あのときの事を思い出すように言った。
「では御君は?」
「御君は、いずこに行かれたがわかりませんが、もしかしたら、我ら同様王家から遣わされた誰かが連れて行ったのかもしれません。それにその誰かは男とは限りません」
「もしかして女御か?」
「さあ、どうでしょう」
弟は兄の表情を探るようにとぼけたが、兄は全く動じなかった。
「でもそれならその誰かが御君とともに三種の神器を持ち去ったのではないのか?」
「それが、三種の神器には眼もくれず、御君のみを助けたようです」
「なぜわかる」
「水中に飛び込む前にまず兄から頂いた三種の神器の模造品を御君の御傍近くに投げ入れたのですが、誰も見向きもしませんでしたから」
「まことか?」
「はい。もしかしたら、御君の御傍の者が、三種の神器を持ち去ろうとしたのかもしれません。あの男はそのことを知っていたにも関わらず、入水させられた御君を助けようとしたのを、誰かが連れ去ったので、慌てて、御傍の者に近寄ったのかもしれません」
弟は不確かなことを連ねるしかなかった。だからか、さらなる可能性として言葉を足した。
「もしかしたら、赤の朝臣かもしれません」
弟には心当たりがあった。
「では、あの男は赤の朝臣から奪ったのか?」
「それは分かりません。しかし、船上で、あの男は赤の朝臣と夢の話しをしていたのです」
弟ははっきりと覚えている。雌雄を決するためにあの船に乗り込んだはずなのに、あの男はわざとそうしないようにしていたように思えて仕方がなかったのだ。ただし、このことを兄にうまく伝えられない。それに、兄の思いは別のところにあるようだ。
「夢?」
兄は尋ねた。
「夢とは、赤も白もない朝臣の世界を創ることです」
弟は答えた。
「では、もはやこれまでと悟った赤の朝臣からあの男は三種の神器を譲りうけたのかもしれないのか?」
「そうかもしれません。」
兄は腕組みこそしなかったが、まるでそうしているように、瞳を閉じ何かを考えているようだった。弟はそんな兄を清水の中からしばらく眺めるしかなかった。
相変わらず岩肌から湧き出た清水が身体を抜けていく。弟はその心地よさに我を忘れる。ただし、自らの穢れが祓い清められるのだろうかと、最後の戦で海中に散った漕ぎ手やモノノフ達の姿が脳裏から離れない。
この岩室では時の推移がわからない。それでも、時は過ぎていく。なぜなら清水だけが弟の身体に祓いを刻んでいたからだ。
「あの男は当地に戻っているはずです。今いずこにいますか?」
身体が軽くなったわけでも、気持ちがすっきりしたわけでもなかったが、やっと何かが抜けていき、前向きの瞳が蘇った弟は口を開かざるを得なかった。
「そうか、おぬしは知らないのか?」
兄には、弟の声が届かなかったわけではない。ただ、この岩室で穢れを清める前に弟にすぐに会っていればと、兄は悔やんでいたのだ。
「朝臣のもくろみがモノノフ達に漏れたのだ。だから、あの男は当地には一歩たりとも入れないし、白の朝臣の棟梁は入らせないようにしたのだ。きっと、二度と戻ることもないだろう」
「どうしてですが?あの男は三種の神器をきっと持っていますよ」
「朝臣の棟梁はもはや身動きできないのだ。それほど当地ではモノノフの力が強くなっている。だから、朝臣の棟梁と会う前にモノノフ達にとらえられるだろう」
「あの男は、不可能を可能にする男ですよ」
弟はこれまでのあの男の奇跡を何度も見てきたので言った。
「ここは戦場ではないのだ。それにあの男は朝臣である。それに、モノノフ達の背後には……」
「オンリョウ!」
兄はすぐにうなずくことはしなかったが、弟の言葉を制しながら、その言葉を言ってはいけないのだと自らを律しながら表情だけは曇らせた。
「きっとあの男は亡き者にされるはずだ。朝臣の棟梁もそうなれば仕方がないと半ばあきらめている。だから、あえていろいろな理由を並べて当地へ入ることを拒んだのだ。きっとあの男がいなくなればもくろみは噂になる。そして、噂などいずれ消え去る。そう考えたのだろう」
そうだろうかと、弟はすぐにはうなずかなかった。なぜなら噂が一人歩きすることもある。それどころか、それが記録として残ることもあるからだ。
「では、白の朝臣の棟梁は、あきらめたのですか?」
三種の神器がなければ朝臣は皇家には戻れない。
「いや、そうではない。きっと、あきらめてはいない」
兄はそう言いきったが、確信があるわけではなさそうだ。だから、言葉を継いだ。
「もしかして、白の朝臣の棟梁も同じようにあの男が三種の神器を持っていると思っているのかもしれない」
「そうであるなら、当地にとどめておいた方が良かったのではないですか?」
「さっきも言ったであろう。朝臣のもくろみはモノノフ達に漏れたのだ」
「では……」
「白の朝臣の棟梁はきっと悟ったのだろう。赤の朝臣がいなくなった今、何れ白の朝臣もすべてモノノフ達に亡き者にされると。しかし、あの男さえいれば、もしかしたら良い案がまた出てくるかもしれない。それまでは当地からできるだけ遠ざけようとしたのかもしれない」
兄は白の朝臣に哀れを感じたのか一瞬間を置いたが、乾いたままの瞳で言葉を続けた。
「おぬしの言うことが正しかったとしても、赤の朝臣から譲りうけただけなのだろう。きっとあの男は三種の神器の価値をまだ知らぬ。そうでなくては、モノノフだらけの当地に戻ってなど来ないはずだ。しかし、何れ気が付く。それはあの男も皇家と関わりのある朝臣だからだ」
「ではあの男が、白の朝臣の棟梁の意志を受け継ぐと」
「それは分からぬ。あの男次第だ」
再び二人の間に静寂の声が聞こえる。
「モノノフ達はきっとこれからあの男を追い始めるだろう」
「白の朝臣の棟梁が居ますが?」
「白の棟梁はもはや何も出来ぬ。これから飾りとして一生を終えねばならぬ」
「飾り?」
意外だったのか、弟の瞳が岩室の奥で一瞬丸くなる。
「そうだ。皇家になろうとした朝臣が受けなければならない穢れだ。それほど蘇りとは難しいものなのだ」
兄から急に温かみが消え、身体全体から氷のような霊気が漂ってくる。
「良いか弟よ。あの男をモノノフ達よりも先に探し出せ。そして、三種の神器の意味を教えるのだ。そうすれば、白の朝臣の棟梁も救われるかもしれない」
「兄上、そうすれば、朝臣が皇家に代わってタミを治めることになりますよ」
「それはそれで仕方がないことだ。しかし、弟よ。それは皇家の間での諍いである。諍いは穢れを産む。だから、そうやすやすと行えるものではない。それに譲りとはそう簡単ではない。そのことは王家である我々しか知らぬことだ」
兄は王家の事しか考えていないようだ。そのことが弟には悲しかった。弟はやはり王家は皇家の影となり、オンリョウからタミを守るべきだと思っている。
それに兄は神の託宣だと言ったが、本当だろうかと訝っている。コトシロがそのようなことを本当に言ったのだろうかと、兄を見る。
もしかして兄はこころを読めるのかもしれない。そうであるなら、弟の思いに気づいているのかもしれない。しかし、兄は相変わらず無表情だ。その上、口から発する言葉の端々には棘はなかった。兄は嘘偽りのない真実の口を持っている。もしそうであるなら怖かった。
「これから先、皇家やモノノフ達がどのようになるのかなど分からぬ。だから、王家にとって神紋が必要なのだ。そして、その神紋は、我ら王家のものしかその意味を知り得ないし、用いられない。だがとてつもなく我々にとってはカチがあるものだ」
「カチとは?」
価値なのか勝なのか?兄は弟の呟きなどまったく聞き入れてはくれない。
「皇家に伝わる神器をそう簡単に見せてくれるでしょうか?」
「見せてもらうのではなく。見るのだ。そのための手立てを考えるのだ」
兄は穢れを清めている弟に初めて兄の顔をした。
「良いか、我々は三種の神器には興味はない。我々が知りたいのは神紋だ」
風の音だけが耳元で惑わすわけではない。雪の粒だけが鼻水を招くわけではない。陽の陰りだけが、目先をかわしくれるのではない。それでも打ち寄せる堅固な屋敷からの意気上がる唸り声がこれから山狩りに向かうモノノフたちの両腕を引いている。
雪深い山道をやっとのことで登って来た。それでもまだ峠の中腹にしかたどり着いてはいない。
あの男は、女御二人と数名の御家人とともに、行者の身に扮しながら、あてもなくただ桜の地にやって来たのだ。白の朝臣に追い返され、皇家から疎んじられ、不可能を可能にすると言われてもてはやされたあの男は、あれほどの闊達な身なりだったのに、見る影もなく、無精ひげだけが目立っていた。
桜の地であるはずなのに、木々には見る者を豊かなこころでもてなす肉厚で薄紅の花びらの代わりに、きっと少し風が吹けば飛び散ってしまうだろうが、白雪の花びらが振り落とされまいと枯木に懸命にしがみついている。
一行はその様を七度も振り返ると、足を捉えられまいと踏ん張りながら追っ手から逃れるようにやっと休息の館にたどりついた。
それでも、あの男だけは自らが朝臣であることだけは忘れていなかったのかもしれない。家来に持たせた行李の中には、今は完全に皆の心から消え去ってしまっている戦場での栄光の記録である武具が閉じ込められている。
行李の中に三種の神器も収められているのだろうか?
弟は以前からあの男にずっと従ってきた家来であるかのように、自然とこの一行に加わっていた。だから、他の家来から行李の中身のことを聞かされた時には、その行李を奪って素早く逃げてしまおうかとも思ったが、三種の神器なら家来に持たせるわけはないと、一行が仮の住処でしばらく休息するまでは、早急な行動には出ないようにしていた。だから、寒風が身体を凍らせ、山雪が足元にしがみついてきても、あの男の一行に黙って付き従ってきた。
ただしそれだけが理由ではない。ただ、今は誰にも言えない。
「足跡はすぐに新雪が消し去ってくれるだろう。それにモノノフ達はまだ我々がここにいるとは気が付いてはいない。ここは館でもあるが院でもある。したがって、皇家と親しい私をしばらくは加護してくださるだろう。ただし、そういつまでも続くわけではない。何故なら私は赤の朝臣を滅ぼした白の朝臣である。私のことはきっと早馬が千里をも駆け巡るようにすぐに拡がっていくに違いない。さすれば誰かがその噂をする。噂は噂を呼び、いずれ私に会いに来たくてしょうがなくなる」
あの男は、屋根の形こそ違うが、まるで兄がでてきた建物のように、垣根に囲まれた館に落ち着くと家来達に向かって言った。
あの男はまだ自分が偶像であると信じているのだ。確かにそうかもしれないが偶像は恐ろしほどの風圧でいつしか忘れ去られる。どんなに華やかでもどんなに魅力的でも、その時どれほど輝いていてもだ。だから潔さが必要なのだ。逃げてはいけない。
弟は末席に身をひそめ低身になって聞きながらそのことに気が付かないあの男が憐れで悲しかったのかもしれない。それでも何も発しなかったのは、他の家来と同様、あの男がとてつもなく好きになっていたからだろう。
もしかしたらあの男だけは永遠の偶像なのかもしれない。ナナモも館の一室に晴れやかな瞳で座するあの男にいつのまにか魅了されていた。
外ではまだ小ぶりの雪粒がゆっくりと地面に落ちては消え、落ちては消えを繰り返しながら、それでもゆっくりとその衣も分厚くさせていた。北風が意外にも弱く寒さで館を締め付けることもなかったので、隙間風が全くないわけではないが、あの男や家来達や、それになんといっても、ここまで付き添って来た女御達を交えての語らいは、やっと休息を得ることができたという安堵感と相まって、これまでの疲れを少しずつ薄くさせていった。それでも、一行は、瞳を閉じることはなく、危険なことは承知で夜遅くまであの男の華々しい活躍の思い出話しに、つい笑い声とともに蝋燭の灯りを漏らしていた。
「美しすぎるのです」
あの男は、館の小部屋で家来の一人であり、もっとも忠義に厚い田辺という、がっしりした体格だがあの男同様小背の男にそう囁かれた。そしてその小部屋にはなぜか弟も出来るだけ身を縮ませながら同席している。
「どういうことだ」
逃避行を行っていた間は主従関係をわざと置き去りにしていたが、この館で落ち着いてからは、元の通りになっていた。
「この者が申すには、皆流浪人の格好でこれまで付き従えさせて頂きましたが、この館に着くや平服に戻ったのですが、御前の美しさがもはや家来だけではなく、この館のものまでも魅了し始めているのです」
弟は無言でただ平伏した。
「我妻ぞ」
あの男は珍しく怒鳴った。
「正室にあらず」
お静かにという意味を込めて田辺はあの男を気遣いながら諭す。
「二手に分かれましょう」
田辺の声は静かだが、まるで糸電話のように確実にあの男の耳元に届いている。
「どういうことぞ」
あの男が動揺している。弟はその顔色の変化がこのところ少しずつ増えてきていることに憂いをいだいている。しかし、仕方がないのかもしれない。この館にたどり着き主従関係が戻ったといっても不可能を可能にする後光はすでに無くなっている。ただ、誰もがその事を何となくは悟りながらも口にはしない。きっといつか復活すると信じているからだろう。
「殿のお噂はもはや御前とともにこの館から今か今かとはち切れんばかりに膨らんでいます。しからば、いくら雪化粧されているとはいえ、麓の里からでも目立つようになります。その時は一斉に我々に迫って来るでしょう。さればその前にこの館を発たなければなりません。殿は御前にご執心です。そのことは御前の美しさから誰もが知り得ます。さすれば殿は御前をけっしてお放しされないと皆が思っています。しかし、そこが策です。御前は正室ではありません。したがって、大きなお咎めは受けないでしょう。されど殿は違います。さすれば逃げ続けなければなりませんし、命さえあれば白の朝臣として蘇ることができるのです。従いましてここは懇情の別れですが、なにとぞご決断を賜りたく存じます」
気丈な物言いだが、顔はいつもより紅潮し、眼も釣りがっている。しかし、決して威圧的ではなく、主を慮る心遣いが瞳を少し潤わせる。
あの男は思わず瞳を閉じると、奥歯を強く噛みしめながら、両手の拳を握りしめている。きっと自分ではそのような素振りは微塵も見せていないと思っているのだろう。しかし、あの男は感情が抑えきれないほどの葛藤で揺れ動いている。
「避けられぬことか」
あの男から先ほどの感情が消えた。きっと、何かを悟ったのだろう。いや、自分自身を悔やみそして攻め立てたのだろうが、ついに力尽きたのかもしれない。
「殿も御前も二人が生き延びる策はこれしかないのです」
今生の別れではありません。命さえあればいつかまた巡り合うことができますと、田辺のいたわりの声が続く。それでもあの男にはト書きのようにしか聞こえていないように弟には思えた。
「御前は承知したのか?」
あの男からはきっとそうさせたのだろうと思いながらも最後の望みが見える。
「はい」
田辺はあの男のわずかばかりの期待をわざとあっさりと断ち切った。
「御前はいずこに」
「春になれば万本桜が連なると言われる高台の小屋敷で殿をお待ちしております。
田辺が初めて言葉を濡らした。
あの男もつられて瞳が揺れている。しかし、顔を紅潮させ、瞳からほんの一滴でも雫がこぼれ出てこないように踏ん張っている。
「ぜひお会いください」
会ってどうするのだ。あの男からため息だけがもれてくる。しかし、遭わないわけには行かない。
突然、あの男から悲しみが消えた。そのことを弟は見逃さなかった。そして、何かひっかかるものがあったが、それまでと異なってあの男からはまったく読みとることが出来なかった。だから、弟はわざと、いや、催眠術をかけるきっかけのような所作で、田辺の身体を刺激した。
「当面の間は、この者が御前をお守りします」
田辺は忠実に台詞を述べる。そして、その声をきっかけに、弟は少しだけ前に進み、顔をあげ名を名乗る。もちろんナナモであるがあの男は驚きはしないし、ナナモにその声は聞こえない。
「ではこの者に私の甲冑を授けよう。赤の朝臣を打ち破った誉高い甲冑ぞ」
あの男に少しだけ感情が戻ったように見えた。
「いえ、この館にも家来を残します。そのものにその甲冑を着させます」
田辺は二手ではなく、三手に分かれることを奏上すると、あの男からは再び先ほどのように感情の灯火が消えた。
「でも、何かを戴ければ御前もきっとお喜びでしょう」
田辺はすかさず言い添えたが、あの男は意外にも即答せず、御前に合うまで考えておくと言ったきり黙ってしまった。
「して、逃げきることができれば御前をどこに連れて行くつもりだ」
あの男は弟ではなく田辺を見た。
「平安の都です」
「平安の都だと!」
そんな場所にいたらすぐにつかまるのではないかと、あの男からはそう言う声が滲んでくる。
「皇家が居られます」
田辺は即答した。
「わたしは、皇家にも見限られたのだぞ。その事を承知で申しておるのか?」
あの男は語気を荒げなかった。それよりも、これまでともに過ごしてきてつぶさに現実をともに観て来た忠臣がなぜそのようなことを言うのか不思議そうな声色だった。
「それは良く存じています。されど殿は朝臣です」
「朝臣だから皇家も棟梁もモノノフも、私を利用し、そして、疎んじたのではないのか?」
「そうでしょうか?殿は朝臣だから、皇家のために、そして、棟梁のために働いたのではないのですか?ただ、誤算だったのは、棟梁をモノノフ達が操り、棟梁が皇家を操ろうとしたことです。されど、皇家は決して操られたりはしません」
「ではなぜ私を執拗に捉えようとするのだ……」
「皇家も棟梁もモノノフ達も皆殿を恐れているのです」
「私の何を恐れているというのだ。もはや赤の朝臣はいないのだ。それに私にはもう欲などない。御前と静かに暮らせればよいのだ」
「殿は皇家の正当なる継承者である方の朝臣です。と同時にこれまで数々の奇跡を生み出しました。だから、殿のお気持ちとは裏腹に殿に誰かが必ず近づいてきます」
「私にはもはや世を動かすようなものは何も残っていないが、何故……」
田辺は家来でありながらうつむくことなどせずにしばらくじっとあの男の瞳の奥を覗くかのように静かに見つめていたが、そうでしょうかと、吐息を耳元に吹き込むように呟くと言葉を継いだ。
「殿にはあれがあられます。もし、御前にその一部を託せば、皇家は御前をお守りくださるはずです」
田辺があの男と話している間、弟は平身低頭したまま一度も顔を挙げなかったし、一言も発しなかったし、相槌を打つどころが完全に気配を消していた。それでもあの男の無表情な視線が、田辺ではなく、時折弟に向けられていた。弟はその事に気づいている様で、やはり不可能を可能にする男だと改めて恐ろしいと思ったし、まだ侮れないと行く末が不気味だった。
涙の音だけが耳底で囁くわけではない。思いの丈だけが鼻声を誘うわけではない。星の輝きだけが、目裏に蘇りを映しだしてくれるのではない。それでももつれあう男女の絆が檜皮葺の簡素な小塔の中でいつまでも紡がれている。
もし、聳え立つ杉木立とさらに強まった降雪がなければ、これから別れなければならないという情が方形屋根を突き破って飛び出していたに違いない。
ひとしきり流した涙がお互いに通じあったあとは、あの男はただ黙って御前の舞に見入っていた。平安の都で会わなければと、朱色の橋をお互いの想いが行ったり来たりしている。それでもこれまでの月日がお互いをおもんぱかるのか、時折ぐっと身体の奥からこみあげてきて、目頭が熱くなり涙があふれる。
しかし、それもいつまでも続いているわけではない。いつしか御前はあの男に優しく包まれて胸の中で安らんでいる。
「ルーシー!」
ナナモは思わず叫んでいた。と同時に瞳を閉じてしまう。まさかという思いでもう一度目を開けると、そこにはルーシーはいなかった。
もちろん二人がその声に驚くことはない。
でも、どうしてルーシーに見えたのだろう?
ナナモは一瞬、もしかして母はルーシーに似ていて、だからナナモはルーシーのことが頭から離れないのかと思ったが、いやそんなことはない。御前は弟ではなくあの男を愛している。だから母であるなんてあり得ない。それでも、ナナモは、なぜ弟が田辺に取り入ってまで御前をあの男から引き離そうとしたのか、そして、もしかしたら三種の神器をあきらめようとしているのか、思わず自分と重ねてしまって、胸が重くなった。
しかし、その刹那、急に一本の蝋燭が灯り、これまで何となく誰かに似ているとしか思わなかったあの男の顔をより鮮明にする。
「確か……、えっと……、そうだ、小谷だ」
小谷は解剖実習の時の教官であり、ボート競技の仲間だ。一度だけだったが眼鏡を外して厳しい目つきをされたことがあったが、あの男はあの時の小谷そのものだ。ただし、あの時の小谷はすぐに眼鏡をかけ直したし、実習中も厳しかったが威圧することはなかった。ただ、今思い返すと時折見せる無表情な不気味さは確かにあの男と似ているかもしれない。
「御前、あのものは何者なのだ。なぜその事を知っている」
あの男の声に応じて御前も胸元から顔を挙げる。
「キガミ!」
つい先ほどルーシーに似ていたと思っていた御前の顔がくっきりと映し出される。でも、どうして、キガミなのだろう。それに、どうしてナナモの瞳に一瞬ルーシーが蘇ってきたのだろう?
しかし、ナナモはそれ以上の事を今は考えるべきではない。いや、考えるのが恐ろしくなって、二人を注視することにした。
「あのものとは、どなたのことです?」
あの男と御前はあれほど別れの辛さをついさきほどまで憂いていたのに、なぜか急にあの男の瞳からは涙が消え、鋭い眼光が御前に向けられていた。
「田辺が連れて来た男だ。あのものが御前を平安の都に誘ってくれるというのだ」
御前も最後の逢瀬となるであろうのにその余韻を自ら消し去り、立烏帽子、純白の水干に、紅の長袴を身にまとった白拍子の姿で、あの男から離れると着座してかしこまった。
「御前はあのものを知っておるのか?」
塔の外に漏れないような小声だ。
「いいえ。ただ、おはなしは田辺様からお聞きしました」
「それでは田辺とあのものとはどういう関係なのだ」
「どういう関係?殿は知らないのですか?」
「ああ、ただ、あのものは私が朝臣として彼の地に赴き棟梁に服してから、ずっと私に憑き従えてくれている。それもいつも私とともに先頭にたって戦ってくれていた。いや、そのはずだ」
「はずとは?」
「あまりにも近すぎて私の瞳に入らないのだ。それなのに傷ひとつ負っていない」
あの男はこれまでの合戦を思い出すようにしばし黙った。
「棟梁の差し金だとお考えなのですか?」
御前は心配だったのか、ついそう言ってから思わず蝙蝠を口にあてがった。
「いや、棟梁が送り込んだモノノフ達は皆私を見限って彼の地に帰って行った。もはや、私に従っても仕方がないと思ったのだろうし、私になぞに従っても何の得もないし、命がいくつあってもたりないだろう」
「そんなことはありません」
御前はそう言うと今度は蝙蝠で瞳を隠した。しかし、すぐに蝙蝠を少しだけ降ろすと心配そうな目元で、
「信頼が置けないのですか?」と、尋ねた。
「いや、そんなことはない。それに田辺の推薦だ。田辺が私を裏切ることはない。ただ……」
「ただ?」
「田辺にしては妙なことを言ったのだ」
「どのようなことです。これから三手に別れようと言ったのだ。それはよい。田辺は何とかこの苦難を回避し、敵を分散し、そして、皆がまた再会出来ることを案じてのことだからだ」
あの男はそこで一呼吸置く。
「しかし、田辺はあれのことをいきなり言い出したのだ」
あれと、聞いて御前は完全に蝙蝠を降ろした。その表情はあの男同様に鋭い。
「あれをどうしろと?」
「三手に分かれてそれぞれが身に付けるようにと言い出したのだ」
「むろん、それはあれが持つ力を分散させることと、全てがそろわないとその力が発揮されないことを知っている誰かが無碍には扱わないだろうという配慮なのだが……」
あの男は御前に自ら近づくと、御前の手を持ち上げ、蝙蝠越しに耳元で何やら囁いた。ナナモの瞳はこれ以上というほど大きくなったが、その口元を全く捉えられなかった。
ただし、白狐のように真っ白な御前の顔肌からは血液が息を止めたのか、青味が加わるどころかみるみるうちに氷のような透明さだけが増していた。
「でも、その事をなぜ田辺は知っている?あれのことは私と御前だけしかしらぬことだ」
「だからあのものが怪しいと……。されど、もし、あれのことを知っているのなら、わざわざ分散させないでしょうし、わたしにそのひとつを託して、わざわざ、私を都まで届けようとなどしないでしょう」
御前はより声を潜めたが今度ははっきりと聞き取れた。
「だから、分からないのだ。しかし、もし、あのものがそのことを知り、田辺に何らかの術で吹き込んだとしたら、これから田辺を私は信じられぬことになる」
あの男の眉間に皺が寄る。
「あのものはこれからひとつひとつ三手に分かれても、あれを全て手にするつもりなのでしょうか?」
「それは分からぬ。それにあれは私がもっているとは限らない。それにあれのひとつにはもうひとつのあれが要る」
御前からは先ほどまでの悲しみは微塵もなかった。と同時に、今までにない大きな瞳であの男を見つめている。
「殿はあれについて、棟梁に何も言われなかったのでしょう。だから追い返されたのではないのですか?」
あの男は黙っている。
「だから、あのものはあれの力を殿が知らないと思っているのかもしれません」
「私は知っている。いや、知ったのだ。あの最後の合戦で赤の朝臣から聞いたのだ」
あの男はそう言った途端、あっと、何かに気が付いたのか、乾いた音を出した。
「もしかして、田辺のように……」
あれほど湿気で覆われていた二人の空間には喉が枯れるくらいの乾気しかなかった。だからだろうか、あの男の声は固体になった瞬間粉々に崩れていく。
「殿がもしあれをお持ちなら、いっそ私には何も授けてくれなくてもよいのです」
御前の瞳からもはや涙は出ない。その代り、強い決意がうかがえる。
「それは出来ぬ。もし、そうすればあの男は御前に何をするかわからぬ」
あの男は御前をいたわりながら、珍しく小鳥のさえずり声のように優しく引き寄せた。
かすかな潤いが二人をまた包み始める。そして、御前はまたあの男に身体を任せる。あの男もそのことを拒みはしない。それどころか、先ほどよりも強く御前を抱いた。
「殿が気になさらなくとも、あのものはきっとわたくしを都に無事届けてくれて、その後も守ってくださるのではないかと信じております。だから、殿も生きてさえいただければきっとまたお会いできる時が必ず来るでしょう」
御前の瞳からは絶え間なく涙が溢れている。
「寂しくはないのか?」
御前はその言葉を聞いて、指先まで透き通るような真っ白な手を軽く握るとあの男の胸を何度か軽く叩いた。
「あれは兎も角、私のゆかりの品だけは持っていってほしい。例えばこの鼓、皇家から賜った由緒ある代物だ。これまで幾たびか、御前の舞を思い出して、私に勇気と知恵を授けてくれたが、今やただの鼓になった。都でもその力は失せ、そなたを守ってはくれぬだろう。ただし、これはもはや皇家にお返しできぬのだ。そのことは分かっておるな」
御前はまだあの男に臥したままだった。
「泣いてばかりじゃ分からん」
その言葉に御前は、やっとあの男の胸から顔を離すと、それでも涙声だが何かを決したかのように口を開いた。
「申し訳ありません。されど、私には殿からもはやいただいたものが……」
嗚咽まじりで御前の続きの言葉ははっきりとは聞こえなかったが、あの男の顔がみるみる紅潮していく。
あの男は、御前をより一層強く抱きしめるのではなく、より大きく包み込むように抱きよせると、時の推移に抗おうと、しばらく御前をただ見つめるだけで黙っていたが、「マスカガミに非ず」と、御前をいたわるように言った。
その最後の言葉だけはナナモの耳にはっきりと残ったが、そのあとあの男が御前に向かって何かを囁いたのだが、その言葉は、御前の泣き声でもろくも消されてしまった蝋燭の灯りとともに、障子の穴に吸い込まれたままナナモには届かなかった。




