(25)イズミの部屋
生まれたての赤子ではない。しかし、まだ自らが何者かを本当の意味で知らない幼子が、紡ぎたての絹のような、一本一本は透明なはずなのに、真っ白な女性のふくよかな胸に包まれて眠っている。きっと母なのだろう。優し気な瞳はゆったりと息をしている。
ドンドンと、そんな昼下がりの穏やかな静寂をぶちこわすような、板床を激しく踏み鳴らしながら足音が近づいてくる。
あっと、女性は急に鋭い眼光で睨み付けながら半身に構えて幼子を守ろうとする。
「その子を渡すのだ」
女性の目の前には大男が立っている。太い眉で目じりはつり上がっているが、意外にも瞳からは優しさがこぼれている。
「嫌です。私はどうなっても構いません。しかし、この子だけは……」
「定めなのだ。わかっておろう」
充血した瞳だが、うっすらと潤っている。
「この子をどうされるおつもりですか?」
「聞いてどうする」
女性の瞳からは嗚咽のような涙があふれ出ている。
「この子は生まれかわるのだ。いや、生まれ変わらなければならない」
「どうしてもですか?」
「すまん」
大男は先ほどより瞳を充血させていたが、涙だけはこぼさないように必死に踏ん張っている。それでも、女性から幼子を強引に奪い取ると、片手ではあるが、優しく抱え、すぐに踵を返した。
女性からはこの世のすべての音を消し去ってしまうような悲鳴が聞こえて来る。そして、身体中に杭を打ち込むようにすがってくる。一歩も前には行かせないと、母の愛が大男の背中にひしひしと伝わって来る。
大男は一瞬振り返ろうかと躊躇する。しかし、全く起きる気配すらなくすやすやと眠る幼子の寝顔が大男を前へ前へと進める。
ぴしゃりと戸を閉める音がした。すると、幼子の寝息以外、全ての音が無くなった。
「明日への希望なのかもしれないのだ」
大男はそうつぶやきながら思わず立ち止まりそうになる。しかし、すぐに首を振ると、背を丸めしっかりと両腕に抱きかかえながら、今度は音もたてずに、板床を一歩一歩すり足で歩きだした。
先ほど閉めた戸から薄明かりが漏れて来る。だからか、大男は若者ではなく年老いた男性だったことを映し出していた。
ここはどこだろう?そして、僕は何をしているのだろう?
ナナモはまだ朦朧としていたが、急に先ほどの幼子のことが気になった。あのあと幼子は老人とともにどこかへ行ったはずだ。ナナモは記憶をたどってみる。確か……、そう、二人はナナモがカタスクニにではないが、確か異世界で以前目にしたことがあるたいそう立派で荘厳な日本屋敷に入って行ったのだ。
「イズミの部屋」
そう書かれてあったように思うのだが、はっきりしない。
ナナモはその部屋を探そうと当たりを見渡した。しかし、それらしき部屋は見当たらない
でも、イズミの部屋ってどういう意味なのだろう。
ナナモはしばらくそのことに意識が持っていかれたが、すぐに、そう言えばと、誰かが後ろからトントンと肩を叩いたのか思わず反応して過去を振り返っていた。
ナナモは蘇りを模索して、ふらふらと記憶が身体から浮遊していく様に心が耐えきれなくなって、苺院を超えて神社へ向かったのに、結局、カタスクニで試練を受けた。
その試練とは十の的を矢で当てる流鏑馬だったが、確か、矢が当たった的の数だけ贈り物がもらえると言っていたように思うのだが、贈り物とはなんだろうと、ナナモはまだはっきりしない思考をできるだけ揺り起そうと思った。
しかし、折角振り向いたのにやはり何も思い浮かばない。
だったらここは本当に異世界なのだろうか?ナナモはそうつぶやくなり、すぐに、いや、やはりカタスクニには居たのだと思い直した。ただし、ナナモは何らかの使命を帯びてさらなる異世界へ旅立ったわけではない。なぜなら旅立つ前になにやら薬を与えられるのだが、それもないし、そもそもその選択を迫ったコトシロやカタリベはいなかったからだ。
ナナモはここがカタスクニなら、あの幼子が入って行った部屋の事が気になってしばらく体が動かなかった。
ナナモは、それでも、又前を向いたが、もしかしたら自分はその部屋の中にすでに居るのではないのだろうか?と、なんの根拠もなかったが、急にそう思った。なぜなら、ナナモはまるで宇宙に居るようにある空間の真ん中で浮いていたからだ。しかし、無常力ではなく、まるで相撲取りがまさしく今からしこを踏もうといている時のようなきちんと地に足がつき腰がぶれない安定感がある。
胡坐を掻いているのだ。だから、宙に浮いていても安定感があるのだ。それに先ほどより妙に頭がさえる。さりとて何かが閃いてくるのではない。むしろそうさせないようにしている。
もしかしたら、僕から記録を奪い取っているのだろうか?
それでもいやな気がしない。
ナナモはしばらくこの空間でなすがままにいようとした。
ナナモはゆっくりと視線を動かす。すると、それまで透明でどこまでも拡がっている空間だと思っていたのに、急に四方八方から、神木が迫って来る。
やはり、ここは幼子が入って行った部屋なのだ。
真四角の部屋は神木の壁ですべて囲まれていると思ったが、一面だけが格子状の木枠になっていて真っ白な紙が貼られている。ここはカタスクニだ。きっと清められた神紙なのだろう。それでもその紙を通した微光が、部屋全体で乱反射しながら明るさを保っている。
障子?
ナナモはその言葉が急に思い浮かぶと、懐かしさとともに心が穏やかになってくる。
でも、どこで見たのだろう?ロンドンの叔父叔母の家にもマギーの家にもなかったはずだ。
ナナモはそれでもその微光のぬくもりに心をゆだねてみようとした。
ナナモは無の世界に身を置いていたはずなのに、それでもまわりに気を取られている。このままこの部屋で何もしないままいていいのだろうかと邪念が湧く。さらに何をすれば良いのだろうと欲も出る。きっと断片的なのだろうし、瞬時の事なのだろうが、ふと色々と考えてしまった。すると、どこからか、平たい板のようなものが伸びてきて、ナナモは左肩をびしっと音を立てて叩かれた。痛みはない。しかし、電流が走ったように体が硬直し、息が詰まった。
ナナモはまた心を無にしようとした。しかし、今度はそう簡単にはいかない。それどころか、無重力でどうしようもできないのに、それでも前に進もうと懸命に空間を蹴ろうとさえしている。
もう左肩を叩かれることはなかった。それに無になることなど出来ないとナナモは思った。そのためにここに来たのではないと、もはや意識ははっきりしていた。だから、今度は反対にあらゆる選択肢を考えてみようと思った。
だからか、ナナモはここはカタスクニだということに気が付いて二礼四拍すると、クニツではなく、オホナモチ・ジェームズ・ナナモだと自らを名乗った。
しかし、何も起こらない。
でもこの部屋に導かれたのだ。この部屋には何かがあるはずだ。
ナナモはこの部屋で唯一の光揺らめく障子を見た。
障子の格子は縦五横五の二十五の格子の升に神紙が貼られている。
いや……。
ナナモが視線を下げると、一番下段には一升だけが残っていて、その横には神木の板が貼られている。
二十六の升目。
ナナモはその数字を何気なく呟きながらも意味を考えることなく、それよりも障子全体のことが気になった。
この障子から僕は何を与えられるのだろうか?
ナナモは先ほどまで身体全体を動かそうともがいていたのに、また、身体を止めた。しかし、なすがままではない。心を無にすることもしない。ナナモは必死に考えていた。
ナナモは瞳を閉じていたのだが、弱弱しい光なのに、なぜか、閉じた瞼をこじ開けて入って来る。
そうか、頭だけで考えても仕方がないのだ。
ナナモは瞳を開けてもう一度障子を見た。先ほどとは変わりない。しかし、それはざっと見ただけで、今度はしっかりとくまなく見てみようと思った。
障子の紙に違いがあるのではないかと、ナナモはじっくりと見てみる。少し色が変わっていないかとか、透かし絵が描かれていないかとかを注意してみた。
しかし、何度注意深く見ても、どの障子の紙も同じだった。
神紙なのだ。清らかで穢れのない紙に違いない。
それでも、ナナモは障子に何かが隠されていると思わざるを得なかった。なぜなら、清らかで穢れがないものだから、かえってナナモを蘇らせてくれると思ったからだ。
ナナモはもう一度一升目から視線をゆっくりと動かしていった。しかし、やはりかわらない。だから、最後の升目をつい溜息交じりにしばらく見つめていたら、急に視野の端に何かが動いたように感じた。何だろう?ナナモは気のせいかと思ったのだがよく見ると、最後の升目ではなく、その横に続く板張りから 何かが浮き出ていた。
何だろうと、ナナモは必死になって身体を進める。すると、ミミズのような文字が横に続いているのが目に入った。ここはカタスクニだ。きっと、神代文字なんだろうと、ナナモはじっとそのミミズ文字を眺めた。
これは……、もしかしたら、神代文字ではなく、生まれたての平仮名文字ではないかと、目が点になった。
だったら、僕が読めるわけはない。ナナモは折角の好機だったのにと、何時しか顔がつきそうになるくらい近づいていた身体を障子から遠ざけた。
それでも視線はあの文字から離れない。
でも平仮名だったら、縦に書かれていなければならないはずだ。ナナモはもしかしたらと、一瞬、嫌な気がしたがそれでも、ナナモだからありえぬこともないと、睨み付けるようにもう一度身体を近づけてミミズ文字を見た。
英語ではなかった。ただし、ナナモの眼力が聞いたのか、それまでひっきりなしに動いていたミミズ文字は急に身体を止めた。
今度は動いていないので何とか読める。現代のカナ文字だ。
ナナモは自らのために声に出して読んでいった。
「ムイコヤミトココトミ」
何だろう?全く意味が分からない。でも、何か意味があるはずだ。ナナモは暗唱できるほどその言葉を繰り返し口にしたが、やはり分からなかった。でもこういう時は何かひらめきが……と、思った瞬間、文字が十個であることに気が付いた。
そうか、これは言葉ではないのだ、数字なのだ。ナナモが、あっと、でも、またどういう意味だろうと、三一五三十九九十三と、読んでいると、その文字がかすかに動いた。
「ム イ コ ヤ ミ トコ コ トミ」
十個の数字ではないのだ。確かに永遠は十我だが、ここはカタスクニだ。永遠の数字は八なのだ。八我なのだ。
ナナモはもう一度数字を読んでみた。
「ろく いち ご はち さん じゅうきゅう きゅう じゅうさん」
この数字と障子にどのような関係があるのだろうか?
ナナモはもう一度流鏑馬の時の事を思い出した。
矢が当たった的の数だけ贈り物がもらえる。
ナナモは確か五番目と七番目と、そして、あまり思い出したくはないが、おそらく十番目の的を射抜いたはずだ。だったら、三つの贈り物がもらえる。でも、その三つとは何だろう。三という数字に一瞬何かひっかかるような記憶が生じたが、すぐに首を横に振った。やはり、ナナモは見当もつかなかった。
ナナモはもう一度文字を追って、数字を諳んじた。特に何かがひらめいたわけではなかった。しかし、何か違和感はある。それは、平仮名なのに横に綴られているからだ。
そうか、これは和数字だ。だから違和感があったんだ。洋数字に直すのだ。
「6 1 5 8 3 19 9 13」
ナナモはその瞬間あっと叫んでいた。二十六の升目の障子の意味に気が付いたからだ。いや、何故気が付かなかったんだろうと、あきれて思わず笑みがこぼれるほどだった。
「アヤベさん……」
ナナモは思わず言葉が漏れると、溜息とともに、26だったなと、障子が貼られた升目にアルファベッドを順に重ねていた。
アルファベッドは横書きだ。だから、ナナモは数字の順に文字を重ねた。
「FEIHCSIM」
何だろう?
ナナモは、「こんな単語しらないよ、アヤベさん」と、それでも、ロンドンで今流行っている何かのだろうかと、でもそれならお手上げだと、視線を上げながら叫ぼうとして、またあっと、今度は笑みはこぼれなかったが、気が抜けた。
ここはカタスクニだ。それに、異世界の入り口かもしれない。だったら、この文字は反対から読まなければならない。遠い記憶がナナモにそう命令する。
「MISCHIEF」
イタズラ。そうかとナナモは、思わずガッツポーズを取りたかったが、誰の、誰に、そして、何を意味しているイタズラなのかまるきり分からなかった。
イタズラって?ナナモはそうつぶやくと、はたと思考が停止した。なぜならナナモはイタズラの記憶がなかったからだ。いや、子供のころの記憶があやふやなので思い出せないのかもしれない。それに、イタズラはいじめの始まりに繋がる。いじめとイタズラはおおきな違いがあるが、いじめられた記憶がその差をつい縮めてしまう。
ナナモに色々な思いが交差する。部屋に閉じ込められ、身動きできない状態にされたのだと、先ほどの思いも重なってのしかかってくる。
ナナモは危うく窒息しそうになった。それでも、手足を懸命に動かすと、まるでもがきながらもやっと水面から顔を出せた時のように、呼吸の粗さだけが支配する。
ナナモはあるはずもないのに真っ青な大空を見上げながら、ゆっくりとそして、大きく息を吸い、そして吐いた。
僕はなぜここに来たのだろう。
やっと落ち着いたナナモは自問した。
僕は僕に会いに来たのだ。だから、誰も僕に声を掛けてくれないのだ。
ナナモは自分のためにイタズラをしなければならないのかもしれない。ただ、もし、そのイタズラがいじめにつながるのなら、ナナモはもう一度あの時に戻るだけだろう。けれどもそれでもかまわない。ナナモ自身が傷つくだけだ。ナナモは誰も傷つけない。それにあの記憶から立ち直ったのだ。だから、ここに居る。
でも、僕は何をすればと、また、振り出しに戻る。ただし、今度は自分ではなくあの幼子のことが頭に浮かんだ。
あの幼子は何かここでしたのだ。それはもちろんイタズラなのだろう。ただ、幼子が自ら行ったのかどうかわからない。もしかしたらあの老人が幼子にさせたのかもしれない。
幼子……?ナナモはどこかで見たような気がしてきた。いや、もっと大きかったかもしれないし、何となく似ているだけで別人なのかもしれない。それでもかまわない。なぜなら幼子もどこかで見た子も子供だし、子供はイタズラをする。それに、もしかしたら、ひとつやふたつ、罪の意識を持ちながら、誰にも言わなかったり言えなかったりしたイタズラもあったはずだ。
そう言えばと、ナナモは、神社で、ラジオで体操をした時の神主さん言葉が思い浮かんだ。
「体操にこれなくてハンコが押されていないのに、そのところだけくりぬいて、カードを持ってくる子がいてね。でも、不安げなんですけど、くりくりした瞳でカード越しに見つめられると、ついね。もしかしたら誰かの入れ知恵なんじゃないかって思ったりもするんですけど、本当はその子供は皆勤賞ではないってわかっていて、意味がないとは思っているに違いなんですけど、何らかの理由でお菓子を持って帰らなければならなかったのでしょうね」
でも、あの神主さんは、もうすこし、何かを付け足して僕に話してくれていたように思うんだけど……。
ナナモはその記憶をどうしてもたどらなければならないと、薄れかけていく記憶と記録と懸命に戦った。
ナナモの背中から冷汗が滲み出てくる。と同時に、なぜ、ここにきてしまったのだろうかと後悔した。
この部屋はイズミの部屋だ。泉湧くという意味なんだろう。だからナナモがやってきたのだ。それはナナモの過去がこの部屋に眠っているからだ。でもその過去をイタズラで起こさなければならない。
もし、僕が僕の欲のためにイタズラしてしまったら、僕はまた穢れてしまう。僕はあの時誓ったはずだ。もう二度と穢れないと。
やはり、蘇りなどないのだと、あきらめようと思った。そして、この部屋から出て行こうとも思った。 それでも手足が動かないのは、ナナモがこの部屋から出れば、泉の中に今までのナナモの記憶も閉じこまれてしまうような気がしたからだ。もし、そうなってしまったら、ナナモは自分の過去を顧みるどころか、せっかく学び始めた医学の専門分野をすべて忘れてしまう。そして、なん度受けても試験に合格できなくて、退学しなくてはならなくなってしまう。
アヤベさん、僕はどうしたらいいんですか?
ナナモはリバプールからロンドンへ戻る車内で聞いたアヤベの言葉を思い出していた。これだけは忘れない。どんなことがあっても。ナナモはどうすることも出来ないもどかしさの中でただ目の前の障子を見ることしか出来なかった。
「思い出すのです。あれはカミからの託宣なのですよ」
障子の奥からあの時と同じように声がする。その声に導かれるようにナナモの脳が反応した。
「唾をめい一杯つけた人差し指で障子に穴をあけて覗いているように……」
そうか、いたずらとはそういうことなのか。
ナナモは障子から透ける灯りが一瞬ふあっと明るくなったように思えた。しかし、すぐに、障子の紙は神紙だ。だから、その紙に指を突っ込んで破るなんて許されるはずがない。それにここはカタスクニだ。神聖な場所だ。だから、イタズラなど許されない。
「ナナモよ。いや、ジェームズ・ナナモよ」
どこからか懐かしい声がする。誰だろうと一瞬思ったが、ナナモはすぐにその声の主がわかった。ただ、どのように話しかければよいか分からなかった。それでも、ナナモは思い切って声に出してみる。最初は、口ごもるような小さな声だったが、何時しか大声で叫んでいた。
「これは試練なのですか?それとも、選択なのですか?」
ナナモは何度も叫んだはずだったが、無常にも障子に吸収されて増強も反響もしないことにただ落胆するしかなかった。ただ、その声の主には聞こえているはずだと思った。何故ならここはカタスクニだからだ。そして、ここにはあの方がいる。そうツワモノだ。
「ナナモよ」
やはりあの方の声だ。
ナナモは気持ちが舞いあがって、ただハイとしか言えなかった。だからか、その声の主はしばらく黙っていた。どこからか見られていると思うとナナモは紅潮する顔が余計に熱を発するように思えて恥ずかしかったが、次第に、それどころではないのだと、自分を諫めていると次第に冷静になれた。
「ナナモはイタズラを知らない。だから、わしもあの神主と同じように許そうと思う。なぜなら皇家も子供のころはイタズラをしたのだ。ただ、誰からも怒られなかったから、イタズラだと思わなかったのかもしれないし、もしかしたら最初のイタズラは大人が教えたのかもしれないからな」
再び話しかけてきた声の主は思ったより穏やかだった。
「僕は子供ではありませんし、王家です」
ナナモは別に甘えたわけではないが、今度はなぜかはっきり言えた
「障子を持ってきたのは元人だ。元人は王家と繋がっておる。だから安心するのだ。それに、障子に穴をあけることはイタズラかもしれないが、その穴からのぞくことはイタズラではもはやないのだ。それに、そこから見える風景がもしナナモの記憶とかかわりがあったとしても、そのことでナナモの人格が形成されたのではないのだ。ナナモにどれほどの愛情を両親が注いでくれていたかによって人格は決まるのだ。しかし、その愛を最初のイタズラと同じようにほとんどの子供は憶えていない。だから、その後の記憶の目覚めが、人格を形成したと錯覚するのだ」
「僕はここにくるために何かを失ったのですか?」
ナナモは思い切って声にした。
「的は確実に二つ射抜いた。だから、二度障子に穴をあけて中をのぞくことは許される。ただし、最後のトワノマトを射抜いたかどうかはナナモしかわからない。だから、ナナモの意志に任せる」
声の主はナナモの質問には答えてくれなかったが、最後にそれだけ言うと気配を消した。その代り、障子の向こう側に太い明かりがぽっと灯った。
見えるはずがないのに、きっと蝋燭だろうとナナモは思った。そして教えられたわけではないのに、きっと蝋燭が消えるまでの間だけ蘇りの世界へ行くことが出来るのだろうと悟った。それでもいくらここがカタスクニだと言っても時間に限りはある。千倍速どころか二倍速でもないだろう。
ナナモは大きく息を吸ってから、人差し指にたっぷり唾をつけるように銜えると、ゆっくりと口元から抜きとり、イ、すなわち五番目の障子紙にゆっくりと人差し指を押し当てた。かすかな抵抗がナナモを一瞬躊躇させたが、それでもさらに力を入れると、かすかな物音がして、ナナモの指は障子の中に吸い込まれていった。ビリビリと身体中に電気が走るような感覚を抱くと思ったが、唾をつけたためか指先にスーと冷気が走っただけだった。それでも好奇心と後ろめたさが交差する不思議な感覚に包まれながらも、障子を破り入れた指をゆっくり引き抜くと、ナナモはくっきりと開いた穴に片方の瞳を忍ばせるように近づけて中を覗いた。




