(24)十我の的
三日目もナナモは過去問と格闘したが、全く記憶が蘇っていなかった。もし、このまま試験を受けたら落ちてしまう。だから、ナナモは過去問だけでもと、もう一度教科書を読み直し、解剖用語とその機能を勉強し直した。
案外、スラスラと頭に入って行く。やはり忘れていなかったのだ。ナナモはこれなら過去問以外にも勉強する幅を広げられるし、小岩やオオエから受けたプレッシャーを跳ね除けられる。
ナナモはその日、一位ではなかったがマラソンを完走し、エアーテープを切ってゴールインした時のように、久しぶりに充実した時間を過ごしたからか、穏やかな気分でベッドに入り、陽射しで覆われたガラス戸の傍でのけぞる猫のように熟睡していた。だから、もし腕組みをして睨み付けている小岩の顔が目の前に浮かんでこなかったら、習慣だから目覚ましが鳴る前にいつもは起きているのに、そのまま寝過ごしてしまっていたかもしれない。
昨日の練習は短時間だったからか、慣れない動きで腕の筋肉を使ったはずなのに、全く痛みを覚えなかった。いや、むしろ、ボート競技で腕の筋肉を鍛えた貯金がまだ残っていたのかもしれない。だから、身を清め、参拝を済ますと、抜き足差し足ではないが、誰にも見つからないように道具部屋に向かった。
扉の鍵はナナモが持っている。だから、小岩が道具部屋の前で待っているかと思ったが、全くそんな気配はなく。それなら、小岩はスペア―キーを持っていて秘密だからと中で待っているのではないかとも期待したが、扉の鍵を開け、中へ入って行ったが誰も居なかった。
やはりひとりか?
ナナモは昨日小岩の言う通りスマホで画像配信を見たが、この通りすぐに出来たら、僕は医学部剣道大会で優勝していると思って途中で見るのをやめた。そのせいだけではないのだろうが、配信されていた画像の記憶がまったく消えていた。それでも、ナナモは、この部屋にもWiFiがつながるんだという驚きや、寮でWiFiを使うって今は危険なはずだということさえも忘れて、一輪車にまたがる前にスマホを取り出し、ほんの少し画像配信の画面を見た。すると、すぐに、ああ、そうだったと、昨日の記憶が蘇ってきて、一輪車にまたがり、矢の付いた弓の弦を引いて的に向かって構えた。
矢は案外まっすぐに飛んで行き的に当たった。
やはり、剣道ではなくて弓道の方が性に合っている。
ナナモは得意げにその後続けざまに何度か矢を放ったが、その後は一発も的に当たらなかった。
そうだよな。そううまくいかないよな。ここは異世界じゃない、現実世界なんだから。
ナナモはそれでも最後の一射だと決めて弦を張って構えた。そして、的の前でバランスを取りながら、構えるのではなく。折角一人なんだし、十分な広さではないが、流鏑馬なんだからと、円を掻くように一輪車を動かしながら、的を狙った。
アソン。
どこからかそう聞こえてきた。ナナモは日本語だとも英語だとも思えなかったので、剣道の掛け声のようなものだと思ったが、弓道でそのような掛け声を聞いたことはなかった。でも、これはきっと何かの掛け声だ。ナナモは先ほどよりスピードを上げながら部屋いっぱいに旋回すると、アソンと心の中で呟くと同時に的に向かって矢を放った。
今まで一度もなかったのに、その矢は的のど真ん中に突き刺さっていた。
ナナモは最後の一矢の感触を忘れないように幾度も頭の中でイメージしながら、隠し部屋から道具部屋を通って扉の前に来た。丁度きっかり一時間だったし、まだ朝食の時間ではない。それでもナナモはべったりとへばりつくように扉に耳を押し付けたあと、全く気配を感じないことを確認してから扉を開け、こっそりと出ていくと鍵を掛けた。もはやこの状態だったら、寮の中をうろうろしていても不自然ではないのだが、それでもつま先歩きは変わらなかった。
「おはようございます」
ナナモは突然後ろから声を掛けられ思わずびくっと身体が震えた。それでも、敬語だ。だったら、トモナミ部屋の誰かだと、嫌な時に会うな。もしかしたらこっそりのぞかれていたのかなと、なぜか嫌な予感がした。
「おはよう」
ナナモが振り返ると、寒いはずはないのだが少し背を丸めたアライが立っていた。
「参拝ですか」
ナナモの日常の始まりはもはや寮の常識となっている。だったら、この時間ではないことを知っているはずなのに、アライはなぜ尋ねてきたのだろうと、先ほどのことを思い出す。
「いいや。ちょっと、気分転換にストレッチをしていたんだけど、部屋の中にいるとなんか窮屈になったんで出て来たんだよ」
もしかしたらうっすらと汗ばんでいるのがばれたのかもしれないと思ってナナモは先手を打った。しかし、アライは、オオエ先生は?と、ナナモの懸念を全く意に返さずに尋ねて来たので、ナナモはオオエから聞いた事情を話すと、じゃあ、一人なんですか、そうですかと、もしかしたら僕と同じなんだと思っていましたと、少し顔をしかめた。
「どうかしたの?」
「いや、試験期間に入ってから、皆ピリピリし出して、特にナンジョウとフルタがぎくしゃくしてて、トモナミが何とか間に入ってくれたんですけど、なんかねえ」
アライは、それ以上は言いたくなかったのか、言葉を継ぐのをやめた。
「試験勉強だったら、皆で助けあえばいいんじゃないのかい。同級生なんだから」
ナナモはタカヤマに英語のヒヤリングをアドバイスしたことを思い出した。
「受験勉強の名残というか、まだ、癖が残っているんですかね。皆、自分だけでって思っているんですよ」
確かにそうかもしれない。それにタカヤマもそれほど素直ではなかった。もし、ナナモが英語が話せるハーフでなければタカヤマの態度も変わっていたかもしれない。
「アライ君は別に皆とぎくしゃくしていないんだろう。でも、部屋から出てきたの?」
「まあ……」
アライはナナモから視線を外した。
「トモナミ君と一緒に、部屋の雰囲気を変えてあげればいいじゃないか」
ナナモは視線を戻せとばかり少し語気を上げた。
「二十歳ではないですけど、法律的にはもう成人ですよ。寮生を増やそうと思っているんだったら、もう少し大人になってほしいですよね」
アライはそう呟きながらも、ナナモに具体的にあの部屋で何があったかまでは話さなかった。ただ、オオエ先生が居ないんだったら、クニツさんの部屋で勉強させてくれませんかと言ってきた時にはぴしゃりと手を叩くかのように断った。アライはその勢いに少し狼狽していたが、なぜか、じゃあ、小岩さんに頼んでみますと言った。
ナナモはアライがへそを曲げてわざとナナモにそう言ったのかと思ったが、アライの顔はしごくまじめだった。そして、本当に小岩の部屋に向かって歩き出したので、慌てて止めようと思ったが、きっとナナモより大声で断わられるだろうし、そうされることはアライにとっていい経験だと、自室に戻った。
えっと、僕は……。
そうそう、隠し部屋に行っていたんだ。ナナモは、アライにあったことで最後に的に当てた感触が全て無くなっていたことに愕然としたし、記憶ではなく身体に刻み込まれた記録ですら、忘れてしまうのかと、悲しかった。
もしかしたら、僕は、いくら覚えても記録されないのではないか?
ナナモは慌てて先日勉強した過去問をもう一度見直した。
僕からすべての記憶がなくなっている。いや、記録が無くなっている。いや、記憶と記録が紡がなくなっている。
ナナモは石像ではなく、砂像として身動きできなかったし、何時崩され砂塵となって消え去ってしまうのかと、その恐怖で身震いしそうだったが、それすら出来ないので我慢するしかなかった。
蘇るどころかこのままでは消えてしまう。ナナモは単純に得体のしれない底なし沼に足を踏み込んでしまったのではないかとただただ途方に暮れた。
どうしよう?
ナナモはイチロウに相談しようと思った。イチロウなら、いや、イチロウのAIなら、何か力を与えてくれるのではないかと思ったからだ。でも、イチロウから聞いたパスワードも忘れてしまっていた。それでも、そのことを聞くために、今更、イチロウに言い訳出来ない。いや、きっとイチロウならナナモの言い訳を言い訳だと思わないだろう。でも、俺たちの思い出を忘れたのかいとおそらく悲しい顔をするだろう。
でもこのままでは前に全く進めない。やはり、イチロウに相談するしかないと、部屋の中を何周か回ったあとに、ナナモは普段使っている自分のパソコンではなく、イチロウから送られてきたパソコンを取り出す為に、押し込んでいたベッドの下に視線を向けた。
ナナモの目にすぐに入ってきたのは、パソコンではなく、潰れた段ボールだった。ナナモはこれって何だろうと取り出すと、あれほど記憶がなくなっていたのになぜかキリさんから送られてきたみかんが入っていた段ボールだとすぐに思い出せた。そして、そう言えばと、つい先ほどの記憶すらあいまいなのになぜかキリさんからの伝言、いや、キリさんを介したマギーからの伝言がはっきりと蘇って来る。
あまり後ろを振り返らないこと。それでも、どうしても迷いが生じるなら、駆け足であの社に詣でて一生懸命お祈りすること。
ナナモはまだ日が沈んでいないのに、リュックに神木のタブレットを慌てて押し込み、首にかけていた道具部屋の鍵の代わりに、あのブローチをかけ、陽は沈んでいないがまだ午前中だ、だったら、まだ神様は神社に居られると、その前に苺院にたどりつかなければならないのに、たとえ砂粒となって跡形もなく崩れ消えても良いと思えるくらいの、でも決してもそうならないように身体中の細胞を固めて踏ん張りながら、寮から勢いよく飛び出た。
この時期の杵築にしては珍しく、透き通るぐらいの青空だけが支配していた。だから昼間だとしても月が見えないことはない。
ナナモは寮から充分に離れるとリュックから神木のタブレットを取り出し起動させた。しかし、いくらたってもネコマネキは作動しない。ナナモはあれだけ張り切って飛び出してきたのに、立ち止まらざるを得なかった。
ナナモ、自分を信じるのじゃよ。
なぜかマギーの声が聞こえてくる。
そうだ。ネコマネキが作動しなくても苺院へたどりつけたことがある。それは記憶でも記録でもない、導きだ。
ウサギが飛び跳ねたわけではなかったが、ナナモは神木のタブレットをリュックに戻すと、うっすらと浮かぶ白夜月に向かって歩き出した。もちろん確たる証拠などない。けれどきっと苺院にたどり着ける。そう改めて信じた。
どこをどのように通ってナナモが苺院にたどり着いたのか分からなかったが苺院の外門は開け放たれていて、扉も難なく開いたので、ナナモはこんばんはではなく、こんにちはと、あえていつもより大きな声を出して中に入った。
いつもならナナモが入ると、アメノが笑顔で迎えてくれる。しかし、今日に限ってそのような歓迎は全くなかった。しかし、ナナモはその方が良いと思った。椅子に座り、アメノが煎れてくれた紅茶を口にしていても、これまで全く前には進まなかったからだ。だから、神木のタブレットをリュックに入れたまま、ナナモは大きく深呼吸をしたあと、奥へ奥へと進もうと身構えた。まるでオリンピックの百メートル走の決勝がこれから行われるのではないかと思えるほどの心臓の鼓動がしばらく鳴りやまなかったが、この先どのような障害があっても、どのような誘惑があっても、アメノ弟の居る武具店を通り抜け、店の扉を開けて、あの神社にたどり着かなければならないと思うと、それ以上の興奮と身震いで威勢よく構えたのになかなか第一歩が踏み出せないでいた。
パーンとスタートの合図としての甲高い単音が鳴ったのではない。ガシャーン、そしてバキバキと、台所の鍋や食器が崩れ落ちる金属音と、廃材を踏みつぶしてへし折った時のような鈍い音が混じった不協和音がした。
きっとアメノ兄弟が奥にいる。ナナモはそれがアメノの思いやりであるのか、アメノ弟の思いやりであるのか分からなかったが、どうしてもあの神社に行かなければならないと自分を律して、目を閉じ、走り出した。それほど長い距離ではないはずだが、以前とは違い、ナナモは無意識ではなく手指のように半ば強引に絡みつく雑念を払いのけ、倒れてくる丸太のような障害物を潜り抜けたり飛び越えたりしながら、行け、行くなと、爆竹のように連呼する怒号の中、時々かかる得体のしれない液体を自らの汗で弾き飛ばし、挙句の果てに、瞳を通しても入り込んでくる真っ赤な閃光をもろともせず、鼻を劈くようなにおいと煙に何度も咳き込みながらも、道具屋の木製枠の硝子戸を開けるまではと、大型扇風機で顔がひしゃげるくらいの逆風にも負けずに、ただひたすら匍匐前進してでもという気概だけで、本当はさっそうと駆け抜けたかったのに、一歩一歩と、大地を掴むように前に向かった。
身動きできない程の圧で囲まれ、もう少しで砂漠に埋もれてしまうと、口先だけの呼吸で踏ん張ったナナモは、「いのち」と、大声で叫んでいた。
その瞬間、ナナモは宇宙空間にほうり投げ出されたように軽くなった。ナナモはまだ瞳を閉じたままだったが、目の前に道具屋の出入り口である硝子戸があることだけは感じた。だから、手を伸ばし、木の感触を実際感じると、そのまま、横に動かした。
ガラガラと音がする。
ナナモはそのまま、前に進み、また振り返ると、また、硝子戸を閉めた。しかし、今度は音がしない。と同時に、あれほどナナモの鼓膜を揺さぶっていた雑音もすっかり消え、少しだけひんやりとするが心地よいそよ風が頬をかすめた。
通り抜けることが出来たんだと、ナナモはそのままゆっくりとまた振り返るとやっと目を開けた。目の前には路地をはさんで鳥居が見える。陽が落ちていない真っ青な空間に立つその鳥居はナナモが今まで見た中で一番大きかった。
ナナモは苺院を訪ねた時のリュックの中へ神木のタブレットを忍ばせたままの姿で、一礼したあと鳥居をくぐった。何か先ほどよりも大きな力が働いて、ナナモは弾き飛ばされるのではないかと一瞬のためらいはあったが、社に参拝するものを拒むカミ様は居ないはずだと、先ほどとは異なる、霊気のような風が頭のてっぺんから入って足の先から抜けていったような厳かさに包まれただけで、一礼したナナモは吸い込まれるように難なく境内に入れた。
目の前の注連縄で飾られている小さな社は変わらない。絶え間ない湧き水が一滴も零れ落ちない甕も変わらない。だから、ナナモは手水舎のようにその甕で手口を清め、ピシッと姿勢を正し、二礼二拍してから手を合わせた。すると、ナナモの身体からスーッとハッカ飴を舐めたあとのように力が抜けていく。と同時に、ナナモの脳裏にはヒースローに初めて降り立った時のあの光景から始まった記憶が走馬灯のように映し出されていた。
叔父、叔母、ルーシー、そして、サマーアイズの面々。ナナモは項垂れ、眉間に皺を寄せていたのに、次第に、顔を上げ、その思い出に自然と微笑みだしていた。そして、久しぶりにジェームズとして過ごした日々をまるでやっと皆と来られたテーマパークの中ではしゃいでいるかのように、時の経つのも忘れて、次から次へと歓声を上げながらアトラクションを乗り継いでいた。
僕はロンドンでの六年間で生まれ変わったのかもしれない。いや、生まれ変わらないといけなかったのかもしれない。
ナナモが最後にそうつぶやいた時、走馬灯は動かなくなった。
ここはどこで、僕はどういう目的で来たのだろう。
再び動き出した映写機が残り少ないフィルムで映し出した場所は、黄色に輝く電光掲示板だけがナナモを見つめている、彼の地へ向う列車が発車する駅舎だった。
アヤベさん……と、ジェームズからナナモへと戻った時、自然と漏れ出てきそうだった言葉を誰かがブシャと大槌で押しつぶした。
「コトシロは来んのじゃ」
ナナモが担いでいたリュックが激しく動きながら、今にも飛びだそうとするような声が聞こえてきた。
ナナモはその暴れっぷりに、思わずリュックを降ろし、きっとここからだろうと、神木のタブレットを取り出し、起動させた。もちろん、今にも画面から飛び出してきて、目じりを上げながら怒鳴って来たのはカタリベだった。
「いつまで、ここにおるのじゃ」
いつまでってと言いそうになって、ナナモはハッとした。あんなに青空が支配していたのに、もはやすっかり黒く塗りつぶされていた。ナナモが電光掲示板だと思っていたのも、実は黄色に輝く月の灯りの霞だった。
ナナモは時間の枠から飛び出していたのかもしれない。
「ここは異世界なのにと思っていないだろうな」
ナナモはドキッとした。なぜなら、ナナモは異世界と現実世界に同時に居るはずだからだ。
でも、先ほどの走馬灯はナナモの思い出だ。異世界ではない。
「もう、試験は終わってしまったのでしょうか?」
ナナモはそれでも恐る恐る尋ねた。。
「もし、そうなら、どうするんじゃ?」
「僕は、きっと、試験に合格していないと思います」
それは再試験でも合格できないことを意味し、三回生に進級出来ないことになる。そして、この場所にも来られないことになる。
ナナモは胸が熱くなった。そして、干からびる前に身体中の悲しみが瞳に集まって来る。
「試験のことより、ロンドンに居た時の頃に戻りたいんじゃな?だから、あれほど嫌がっていた勾玉の首飾りを今日はしてきたんじゃな?」
そうじゃない。カタリベに返そうと思ったのだ。きっと、カタリベはその事を知っている。もしかしたら、ナナモを試したのかもしれない。
「その首飾りがナナモを誘惑から守ってくれるのじゃぞ。ナナモは医学の勉強を続けたいんじゃないのか?」
「もちろんそうです。でも、単に僕をジェームズの記憶だけにしておきたかったんでしょう」
ジェームズもナナモも僕は僕です。だから、これからナナモだけから目を背けることなんて出来ないんです。なぜなら、僕はクニツ・ジェームズ・ナナモとしてやっと杵築医科大学で医学の専門分野を学び始めることが出来るようになったからです。
ナナモはあえて口にしなかった。なぜなら、ジェームズは嫌いか?と聞かれたら答えらなかったからだ。それでも、その思いはカタリベに十分伝わると思った。
「ナナモよ。どうして、蘇りにそれほどこだわるのじゃ」
カタリベは珍しく困っている。どうして、折角ロンドンで生まれ変わったのに、そして、王家の継承者としての道を歩むことを決意したのにと、涙声が漏れている。
医学を学ぶのにナナモが過去を知ることがそれほど必要なのか?前だけを見ていてはいけないのか?過去には喜びばかりじゃないし、悲しみもある。それに、記憶がなければいくら振り返っても、確かめようがないではないか?
カタリベから声は聞こえない。ただ、歯ぎしりの音だけがする。
「もし、ナナモが蘇りの世界を知ったことで、今のナナモではなくなったらどうするのじゃ?」
「とても悲しいですが、僕はきっと前に進むと思います。ただ、僕のどこかでその思い出は生き続けると信じるだけです」
ナナモから血の気が引いた。と同時に、ある思いにたどり着く。きっと、カタリベはその事をすでに知っている。だったら、その前に……。
「だから、コトシロは来ないんじゃ。何度言ったらわかるんじゃ」
口調は激しかったが、カタリベは怒っていない。それどころが、喘ぎ声が伝わって来る。
もしかしたら、あえてアヤベさんは来ないんではないだろう。来たくても来られないんではないだろうか。
ナナモはジェームズとしてアヤベに初めて出会い、ナナモとして初めてアヤベと語り合ったことを思い出していた。
ナナモは首飾りを静かにはずした。きっと、カタリベはタブレットのデイスプレイから手を伸ばしてきてナナモの胸ぐらをつかんでくるのではないかと、期待するところもあったが、デイスプレイのカタリベはフリーズしたままで、ナナモに気遣う気配すらまったく伝わってこなかった。
もしかしたら、このまま何も起こらないのでないだろうか?
いや、そうではない。カタリベは誰かになにがしかの決意を求められている。
でも誰だろう?
もしかしたら、コトシロ、いや、カミガミ、いや、ここが異世界ならツワモノかもしれない。
それでも、ナナモがそう思ったのは一瞬で、静かで透明な世界が、ナナモが憂いていたその記憶も記録も祓い清めていく。
「ナナモ、蘇りの軌跡をどうしてもたどってみたいのじゃな?」
急にカタリベは口を開いた。ただし、どのような怪力でもこれ以上曲げることが出来ない程閉じられた口元からこぼれ出てきた声は、いつもよりずいぶん低く、いつもよりずいぶん重かった。
「はい」
ナナモはまるでずっと待ち望んでいた問いにやっと答えられる参観日の小学生のようにまっすぐ手を上げるくらいの勢いだが、それでいて低くも重くもないいつもの声で頷いた。
「ナナモにとってつらい事になるかもしれないのじゃぞ」
「構いません。そうしなければ僕は三回生に進級出来ないと思います。いや、何時まで経っても正常人体解剖機能学の試験に合格出来ないような気がします」
「蘇りは生者でも死者でも決して起こらない。だから、死者が蘇って何かを語ってくれることはないし、生者も決して聞く事は出来ない。ただし、もし、蘇りが死者の記録であり生者の記憶ならば、死者は何かを残し、生者は何かから学ぶことはできる」
デイスプレイに一瞬アヤベの顔が映ったように思えたが、どこからか音楽が聞こえてきて、その淡さを持ち去った。
それにしてもずいぶん古めかしい音色だ。しかし、雅楽ではない。それに楽器はひとつだ。
もしかして……、いや、きっとこの音色は琵琶の響きに違いない。
ナナモは始めてその音色を聞いたわけではなかったが、懐かしいとほっと一息つくという風ではなかった。ただ、思わず身体の一部を隠したくなる。それでいて、その音に合わせてこれから聞こえてくる語りに期待している。そんな旋律だった。
ナナモはもう少しよく聴こうと、片耳だけをその音に向けようとした。しかし、その刹那、ナナモは耳がもげそうな勢いで神木のタブレットに吸い込まれた。
「カタスクニに行きましょう」
誰かではない。アヤベさんだ。
ナナモは、やっとこの神社に来た意味を思い出した。
ナナモは使命ではないが決意を問われたように感じたので、いつものように見知らぬ彼の地へ送られるのではないかと思ったが、その前に何かを摂取することを選ばされることはなかったし、列車に乗ることも、いわんや宇宙船に乗って時空を旅することもなく、瞬きをしたかしないかのうちに、カタスクニにきていた
ナナモがなぜすぐにそう思ったかというと見慣れた場所に見慣れた人物が立っていたからだ。
デヒラ師!
ナナモはアヤベではなかったことで多少は気落ちしたが、それでも、あの時以来、馬術から遠ざかっていたし、また、タイフに乗って、さっそうとグランドを駈け廻ることができるのかと思うと、遠距離恋愛の恋人に急いで会いに行くような高揚感でただスキップすることしか考えられなかった。
でも、僕はそのためにこの場所に来たわけではないはずだ。
もし、ナナモをデヒラが両手を上げてハグするように迎えてくれていたら、きっとそのまま蘇りのことなど忘れて、デヒラが創った難コースをまたタイフに乗って延々に走り回っていたかもしれない。
しかし、ナナモの瞳に映ったデヒラは以前のデヒラでなかった。洋装ではなく、神職のように真っ白な裃に身を包み、烏帽子をかぶっている。そして、いつも穏やかな顔でナナモを迎え入れてくれていたのに、ナナモに会っても挨拶どころか無表情で、遥か遠くを見ているという風ではないのだが、微動だにせず、 もしかして誰かからの指示を待っている。そんな佇まいだった。
「こんにちは」
ナナモはデヒラの顔色を伺いながら、それでも、埒が明かないと思い切って声をかけた。
デヒラはナナモの声にまったく気が付いていないかのように、無表情を続けている。それでも、ナナモが幾度か声を掛け、その音量を上げていくうちに、老練な紳士であるのに急に目を真ん丸にそして微妙に揺らしながらナナモに視線を向けた。
「あっ、ジェームズ・ナナモさん」
デヒラはやっと、ナナモが目の前に居ることに気が付いたようだ。それでも、ハグどころか、微笑みすらない。もしかしたら、デヒラはカタスクニの面々から唐突に色んな情報を注入されていたのかもしれない。
「神代五種の事を覚えていますか?」
デヒラは相変わらずの無表情だが、やっとナナモに話しかけて来た。だから、ナナモもその真っ白な裃姿、どうされたんですか?と、別に意図はないが、もう少しフランクになればと、そのきっかけにしようと思っていたのに、どこかにぶっ飛んでしまった。
「ええっ……と」
医学部での生活が現実世界ならその記憶は不安定だが、カタスクニでの授業が異世界ならその記憶はほとんど薄れていないはずだと思ったが、もしかしたら異世界ではナナモの記憶を誰かが操作しているのかもしれないと、デヒラの奥に潜む誰かしらの顔がちらほらする。それでも、ここはやはりカタスクニだ。 だからナナモは記憶を絞り出す。
「確か……、水泳、馬術、剣術、射的、そして、陸上でしたよね」
ナナモは自信がなかったが、そう記憶はナナモに命令した。
「そうですね。よく、覚えておられます」
デヒラは特別驚いた様子ではなかった。だから、すぐに言葉を継いだ。
「水泳はボート競技をされたそうですので、もう私の手から離れましたし、陸上も、コトシロさんにもう少しで追いつけるほどの走りの持久力と俊敏性を兼ねそられていますから、私が改めてトレーニングすることはないでしょう」
デヒラがどうしてその事を知っているのかとナナモは勘ぐったが、やはり先ほどデヒラが瞬きひとつせずに無表情でいたのは、身体を機能させることより、ナナモの色々な記録を見せられていたからなのではないかと、ナナモは思った。
でも、どんな記録を見せられていたんだろう?
ナナモがその事を尋ねようと思ったら、デヒラは急に柏手を4度大きく打った。
何かが忍び寄ってくる。そんな黒い気配が耳元に聞こえてくる。しかし、ナナモは驚かない。むしろ喜びの鼓動が心地良い。なぜなら、まだはっきりとは見えないが、ナナモはもうわかっていた。
土煙を上げながら、激しく近づいてくるという劇的な襲歩ではないが、大地からのかすかな振動を次第に大きくし、そして音になるという変化とともに、湿った土を削り、力強く蹴り上げ、そして、舞い上がるという駆歩で、タイフがナナモに向かってまっしぐらに駆け寄ってきた。
ナナモはまるで改札口で恋人を待つように大きく手を広げて、タイフを抱きしめたいほどの気分だったが、いつもならひひーんと鼻息交じりで、久しぶりに会ったナナモについうなじをよせてくるのに、十数メートル手前でスピードを急に落とすと、ゆっくりとした常歩で、ぴたっとデヒラの横で立ち止まった。
もしかしたらタイフもデヒラと同じように誰かから、何かを指示されているのかもしれない。ただし、タイフはわざとそうしているとバレバレだ。なぜなら、デヒラに気づかれないように先ほどから視線をナナモからわざと外して素知らぬ顔をしているのに、鼻孔だけは大きく開けたり閉じたりして、モールス信号のように、ナナモに何やら合図を送っている。
しかし、ナナモはせっかくのタイフからのメッセージを理解することができなかった。だから、ついタイフの方へ歩み寄ろうとしたが、デヒラがすっと前に出てナナモの行く手を遮った。
「私からの卒業試験です」
デヒラがとうとつに言った。
「卒業試験?」
以前、ここでレースに参加するように言われたことがあるが、それは試験ではなかったようだ。
「あれは臨時です」
いつものことだがデヒラの後ろで誰かが耳打ちしている。
「まあ、そのことはさておき、先ほども言いましたが私はナナモさんに神代五種競技を教えることを、命じられていましたが、ナナモさんはもうすでにすべてをクリアされたようですね」
ナナモは唐突にデヒラに言われたので驚いた。もしかしたら、蘇りにこだわるナナモをカタスクニから追い出そうと思っているのかもしれない。
「ひねくれ坊主じゃの」
デヒラがそう口ずさんでから慌てて手で自分の口を押えた。
「私からのという意味ですよ。カタスクニでの試練はまだまだ続きますから」
デヒラは今度は冷静さを取り戻したのか、無表情だったがその声は一定だった。
でも、確か、射的は……と、ナナモが答えようと口を開きかけたが、手を持ってはいかなかったが、慌ててその言葉を飲み込んだ。
寮の、それも、道具部屋の地下の隠し部屋での出来事をどうして知っているのだろう。神木のタブレットを寮では使用しないように言われていたからこれまで一度も寮ではあの清き白き布から出さなかった。それなのに、どういうことだろう?
ナナモはデヒラではなくタイフを見た。タイフはナナモが視線を向けた瞬間、首をうなだれ、前足でしきりに土を掻いている。ナナモはそれでも視線をなかなか戻さなかった。タイフはそれでも同じ動作をしばらく続けていたが、ナナモの視線に耐えられなくなったのか、上下に動かしていた前足を突然丸く円を描くように動かすと、最後に真ん中を思いっきりついた。
ナナモはハッとした。でも、あれは……。
「偶然だったんですよね」
デヒラが再び口を開いたが、ナナモは考えないように考えないようにしながらも、あれは偶然でも、もちろんナナモの実力でもない。あの瞬間だけ誰かが乗り移ったのだ。
でも、なぜ?
「どのような理由でも構わないでしょう。とにかく的を射抜いたのですから」
デヒラはナナモが考えるのをわざと遮った。
「偶然だったのか、誰かが力を貸してくれたのか、それとも僕の隠れた才能だったのかわかりませんが、流鏑馬に似たことを行って的に矢を当てたのは事実です。でも、馬術やボート競技のように時間をかけたのではありません」
ナナモは、ナナモだけが知らない、もろもろのことに不満だったが、だとしても今さらどうしようもないと開き直った。
「それでは、その射的を私の卒業試験としましょう」
えっと、ナナモは一番不得手なところを突かれて戸惑った。
「でも、それだったら、少しは練習させてください」
ナナモは正直に言った。
「いいですよ。でも、千倍速ですから」
デヒラは、いつの間に持ってきたのか、弓と矢じりの入った箙を、ナナモに渡すと、タイフに目配せする。
「やはり、偶然だったんですね」
ナナモは何が起こったのかわからなかったが、身体が火照っていて、両腕がやけに重かった。デヒラは全く無表情のままだったが、真っ白だった裃に多少の泥の斑点がにじんでいた。そして、タイフの体中から白い蒸気が揺らぎながら上がっている。そして、相変わらずうつむいて前足で土を掻いていたが、はにかんだ瞳を一度だけナナモに向けた。
ナナモは何が起こったのか、記憶も記録もないことに唖然とした。しかし、千倍速の練習はすでに終わっていて、ナナモがこれから前に進むためには試験に臨まなければならないと、デヒラが言ったことだけが蘇る。
「僕は何をすればよいのですか?」
射的に決まっているのだが、競馬の時もナナモが想像しえないことが起こったような気がしたので、ナナモはあえて尋ねたのだ。
「流鏑馬です」
デヒラは、それだけ言ったあと、「十の的をタイフに乗りながら射抜いて行っていただきます。タイフは全速力で走りますが、先ほどのタイミングを微調整していただければ、そう難しくはないはずですし、的はずいぶん小さかった印象だと思いますが、顔と一緒で、心の持ちようで大きくも小さくも見えますから、あまり気にしなくても良いでしょう」と、さも、誰かの代弁者のような口ぶりだった。
ナナモは何を言っているんだろうと思いながらも、もう後戻りすることなどできないのだと、先の見えない不安を楽しみに変えねばと腹をくくった。
「もし、試験に合格しなければ、僕はどうなるんですか?」
本当は十の的のうち、いくつ、射れば僕は試験に合格できるんですかと、前向きに尋ねたかったのだが、ナナモは先ほどまであれほど大きく手足を振っていたのに、小石が目に入って立ち止まった。
「試験?いや、試練です。だから、合否はありません。じゃあ、何のために行うのかと、思われたでしょう。実は、私からの贈り物なのです」
「贈り物?」
「そうです。矢が当たった的の数だけ贈り物がもらえます」
もらえます?あげますではないのか?だったら、その贈り物はデヒラからではないのかもしれない、だったら誰……。
つべこべ、うるさいのおと、どこからか声が聞こえてきそうでナナモはそれ以上考えるのをやめた。それでも、少し癪に障ったので、その贈り物は僕にとって役立つものですか?と、たぶんそうなのだろうと思って独り言をつぶやいたのだが、役立つものでなかったら、試練を受けないのじゃなと、デヒラの口だけが動いている。
「いいえ」
ナナモはきっと自分に役立つものに違いないと思ったし、試験であれ試練であれ、ナナモにとって必要なものだと自分に言い聞かせるしかなかったし、何よりもナナモが自らあの神社に飛び込んだことを信じたかった。
「ではこれから始める」
デヒラは初めて感情のある声を張り上げた。と同時に、これまでのナナモの記憶では常に下を向いていたタイフが急にひひーんと頭を上げると雄たけびを上げて、ナナモに寄り添ってきた。
「トワノマト(十我の的)」
どこからか声がする。ただし、声だけでは意味が分からない。それでもナナモはタイフに騎乗すると片手でしっかりと手綱を引いた。
「やあ!」
ナナモは、雄叫びを挙げると、タイフの横腹をついた。
タイフはデヒラの言うとおり、全速力でまっすぐに駆けて行く。ナナモは最初手綱を持っていたが、本当に千倍速で先ほど練習していたのか、すぐにタイフの動きに合わせて手綱なしで騎乗することが出来た。そして、そのうち、まるで一滴もこぼさないように作られたバイク後方に付けられた出前機のように、上半身だけはタイフの動きに全く影響されることがなかった。
これなら自由に弓矢を使える。
ナナモはそう思った瞬間、拡声器を通したような大きいが濁った声が聞こえる。
「ヒワノマト(一我の的)」
タイフの身体がほんの一瞬痙攣した。ナナモはあっと叫びそうになって思わず箙から矢を取り出そうとしたが、慌てて落としてしまう。
「的があんなに小さいなんて」
ナナモの記憶には寮の地下室で見た一メートルほどの黒白の的がある。しかし、馬上からとは言え、その的は菱型でトランプほどの大きさだ。
あの的を射抜くなんて、……。
ナナモは先ほどまでの自信がもろくも崩れ去って、あれほど微動だにしなかったのに、もう少しでバランスを崩して落馬しそうだった。
ナナモを助けてくれたのはタイフだった。もちろん、あからさまではない。それでも、速度を落とさず疾走するタイフからは微妙なやさしさが伝わってくる。
「的は心の持ちようで大きくも小さくも見えますから、あまり気にしなくても、良いでしょう」
デジャヴの声が聞こえる。しかし、気にしないわけにはいかない。ナナモはそれでも、今度はいつ的が現れてもいいように、タイフの脇腹をしっかりとはさみ、そして弓に矢を付けて、的が現れるのを待った。
「フワノマト(二我の的)」
ナナモはその声と同時に的を見た。先ほどよりは幾分大きく見える。それにタイフはナナモをしっかりと支えてくれている。
ナナモは今度こそと矢を放った。しかし、やはり、そう簡単に当たるわけはない。ナナモは自分は選ばれしものであり、あの競馬の時のようにこの苦難を難なく打ち破って的に次々と矢を当てることができると思っていたが、それほど甘くないと、三本目の矢をなかなか取り出せなかった。
そんなナナモにタイフから初めてナナモに鼻息が伝わる。きっと、いつものようにひひーんと雄たけびを上げたいのだろうが、タイフはタイフの役割を懸命に果たそうとしている。
皆それぞれが頑張っているし、皆それぞれが助けあっているのだ。
この試練に臨んでいるのは僕一人だけではないのだと。
ナナモはそう何度も自分を鼓舞しながら、冷静にどうしたら的に当たるのかを考えた。
「ミワノマト(三我の的)」
ナナモはその声を聞いてから的に向かって矢を放つまでの時間を一、二、三……と、数えた。もちろん、矢の方向と矢を引く強さも計って、身体に刻むように懸命に覚えた。
すると、「ヨワノマト(四我の的)」では、当たらずとも的を掠ることができたし、「イワノマト(五我の的)」では、ついに的に矢を当てることができた。
ナナモは医学部剣道大会で初めて相手から一本とれた時のように、やった、やったと、何度も大声で叫びたい気持ちだったが、ここはカタスクニである。道場と同じく王家にとって神聖な場所だ。それに、一つ的に当てただけであと五つ残っている。まだ試練は続いているし、医学部剣道大会の時のように意識が無くなったわけではない。
この調子でいけばと、ナナモが思ったのも無理はなかった。イワノマトに矢が当たったのは偶然ではない。それにタイフのスピードは変わらない。
ナナモは矢を手に取り、いつ声が聞こえてきても良いように、先ほどの間合いを準備した。
しかし、今まで同じような間隔で声がしていたのに、今度は、なかなか声がしない。ナナモはなぜか不気味さを覚え、武者震いする。そして、まるで、今から真剣で切り合おうと対峙する素浪人のように緊張が身体を駆け巡る。
まるで時代劇の名場面のようだ。だからか、どこからか空っ風が吹いてくる。
うん、風?
ナナモが、その事を幻想ではなく実際肌で感じた時、そのことを見計らっていたようにさきほどと同じ口調で声がした。
「ムワノマト(六我の的)」
ナナモに一瞬のためらいが生じたが、今まで身体に刻んだ記録が、先ほどとまったく同じように反応して矢を放っていた。
しかし、矢は風に流されて的から外れた。
そう言うことか?
ナナモは別に驚かなかった。試練は同じじゃつまらない。だから、レベルを上げて来る。
ナナモは別にゲームを楽しんでいるつもりではなかったが、自然と、その対策にと冷静さが戻った。風向きと強さは変わるのだろうか、もしそうなら、矢の強さや方向は測れない。
どうすればと思った途端、タイフの鬣が目に入る。タイフは始めから走る速度を変えていない。そうであるなら、鬣が微妙に揺れ方を変えるのは、風の力に違いない。
ナナモは先ほどの風の向きと動きを覚えている。矢を放つタイミングと強さも覚えている。しかし、だからと言って身体が記録しているだろうか?
ナナモはそれでも、やるしかないと矢を取り出し、弓を弾きながら構えた。
「ナワノマト(七我の的)」
ナナモの身体に覇気が溜まる。そして、それ以上に記憶と記録が身体中を駆け巡る。
ナナモは、タイフの鬣を何度かチラチラと見つめながら、計りごとの修正に留意した。
風に負けるな!
ナナモは、やあと、最後は気合の雄叫びを胸に秘めながら、矢を放った。矢はナナモの意志を忠実に果たしながら、見事的に当たった。
しかし、やったという先ほどの喜びは全くわかなかった。なぜなら、的に当たったのは偶然だと思い知ったからだ。もちろん、ナナモの記憶と記録とタイフの鬣が助けになった。しかし、ナナモはデヒラやタイフなどの生き物の中だけで暮らしているのではないことを思い知る。ささやかな風であったとしても自然の中にいる。なくてはならない必要なものだ。だからといってそのすべてがナナモを助けてくれるとは限らない。だから、ヤオヨロズのままならぬものがいる。
ナナモがそんなことを考えていたら、先ほどはなかなか声がしなかったのに、すぐに声がする。それに風が先ほどよりも強くなってきたし、ぽつりぽつりと雨粒も落ちてきた。
「ヤワノマト(八我の的)」
ナナモはその声にまったく準備が遅れてしまったし、タイフの鬣も雨粒で先さきほどより靡きが鈍っている。それでも、先ほどまでの記録と記憶を頼りにナナモは矢を放った。しかし、矢は無残にも大きく的を外れて消えてしまった。
迷いが鈍らせたのだ。でも、もっと風も強くなり、雨粒が大きくなる。タイフの鬣はもはやぐったりとした海苔のように身体にへばりついている。
もはやこれまでか?ナナモは、項垂れかけたが、タイフは掟破りなのかもしれないが、そのことを知りつつも、ヒヒーンと、走り始めの時よりも激しく雄たけびを上げた。
もしかしたら空耳かもしれない。それでも、タイフからの励ましはナナモが冷静さを取り戻すのには十分だった。
ままならないものはカミになる。だから、楽しもうとは思わないが、敬い、そしてともに生きよう。ナナモは前向きになった。
記憶と記録。
タイフの鬣はもはや雨粒で役に立たなくなったが、相変わらず同じ速度で駆けてくれる。だから、タイフのおかげでナナモは直接顔肌にぶつかる風や雨を自ら感じることが出来た。
記録と記憶。
ナナモに新たな勇気が芽生えて来る。
「コワノマト(九我の的)」
ナナモは今までのすべてを吐き出すように矢を放った。しかし、無情にも的へはもう少しだったが、わずかに失速した矢はうなだれながら消えてしまった。さらに激しくなった雨と風に、ナナモのこれまでの記憶と記録に元づく計りはへし折られたのだ。
やはりままならないものに打ち勝つには敬うだけではだめだ。ままならないものに打ち勝つ術を考えないといけない。試練だが仲間が要る。それも自然とともに要る。しかし、その全てを最後は自分でコントロールしなければならないし、矢は未来に向かって射らないといけない。
ナナモは今までの記録や記憶は大事だが、リセットすることにした。ナナモが前に進むためにはナナモの使命という力を最大限活かすことが最も重要だと信じようとした。だから、ナナモは、無心になって矢を構え、渾身の力で弓を大きく引いて身構えた。クニツでもオホナモチでもない、ジェームズ・ナナモとして生きてきたすべてをこの矢に託そうとした。
「トワノマト(十我の的)」
永遠の……?
ナナモは、その声を聞いた時、目を閉じた。すべてを感じようと心を無にした。すると、瞳の裏側に寮の道具部屋の地下室に置かれていた丸い的のように、ひし形の的が急に大きく浮かび上がってくる。ナナモは、あの時と同じように、ただ、この的のど真ん中に矢を打とうと弓を手からはずした、その刹那、どこからか、「ジェームズ、ジェームズ・ナナモ……」という穏やかな声が聞こえてきた。ナナモは目を開き、最後の的に矢がもう少しで当たろうとするさまを瞳で追っていた時に、ハッとした。何故なら矢が当たる行き先であるその的には、優しそうな瞳でナナモを見つめる女性の顔が浮かんでいたからだ。
「お母さん……」
ナナモがそう叫ぼうとした時、ナナモは稲妻に撃たれて意識をなくした。




