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ジェームズ・ナナモと蘇りの輝跡  作者: まれ みまれ
22/30

(22)解剖体慰霊祭

 真冬のピークが過ぎたのにジェットコースターのてっぺんから急降下するほどの季節の移り変わりはまだ感じられなかった。ありきたりの様だが見慣れた鉛色の雲はまだぶ厚かったからだ。それでも杵築の街を祓い清めるため大陸から幾度も吹き付ける西風は、頬の痛みをともなうような冷たさと強さを幾分弱めていた。

 年によっては多少の日程の変更は致し方ないにせよ杵築医科大学医学部の入学試験の前々日に解剖学慰霊祭は通常通り行われる。一部の職員からはこんな時期にしなくてもという声がないでもなかったが、慰霊祭が終わった十日後に、三回生への進級に重要な意味を持つ正常人体解剖機能学の総合試験が行われることと相まって、いつしか恒例となっていた。

 脳実習が終わった時点でご遺体は荼毘に臥され、遺族や関係者のみで一度葬儀が行われていたが、今年解剖学実習を受けた学生が原則全員出席を義務付けられている、大学が主催する慰霊祭にも、遺族や関係者が少なからず出席されていた。

 ナナモ達は皆正装で、「医の扉」と書かれた慰霊碑に一礼したあと、慰霊祭が行われる体育館に入って行った。

 パイプ椅子に順番に腰かける。前方に設けられた祭壇には解剖実習を行ったナナモ達学生が昨日用意した無数の献花が並べられていて、その中央にはあの解剖学実習の手引書に書かれてあった言葉が立てかけられていた。

 ナナモは席に着くとしばらくその言葉をじっと見つめていた。そしてまだ自ら扉を開けられなくてもがいているのか、この場所にいる学生としては不謹慎だと思われても仕方がないほど、片膝をガクガクと揺らしていた。

「お前はこのままでは決して医の扉を開けることは出来ない。なぜなら、お前はこのものを知りたいのではないのだろう。お前はただ蘇りの力が欲しいだけなのだろう。だから、このものの尊厳や意志など無視して、このものに語らせようとしているのだろう」

「ご遺体にこのものとは失礼だろう」

「もっと失礼なのはお前の方だ。良いか、お前は蘇りの力をこのものから奪おうとしているのだぞ」

「僕はそんなことはしていない。それに蘇りの力など存在しない」

「だったらどうしてお前はメスを探し求めようとしているのだ」

「メス?」

「そうだ。何人をも従わせられるメスだ」

「そんなメスなどないし、僕には必要ない」

「お前は嘘つきだ。なぜなら、そのメスがあれば失われた過去を取り戻せるからだ。お前はお前自身を蘇らせたいのだ」

「黙れ!僕は嘘つきではない」

 ナナモは大声で叫んでいた。いや、叫ぶはずだった。しかし、もし叫んでいたら、ナナモはそのまま石になり、ハンマーで砕かれ砂になり、やがて塵となって北風に吹き飛ばされていただろう。なぜなら、ナナモは解剖実習が始まってからずっと失われた過去に捕らわれていたからだ。

 ナナモの膝は前よりも激しくなる。それなのに、意識が薄れていく。

「ナナさん、大丈夫」

 誰かの声とともに誰かの手がナナモの膝をそっとなだめてくれた。

 マミー……と、ナナモはもう少しで声が出そうになったが、声の主はキガミだったし、ナナモの膝ではなく横腹だったし、何より柔らかな手ではなく硬い肘だった。それでも、ああ……と、辛うじて発せられたことで、ナナモは意識が完全に遠のかずに済んだ。

「医学部生の諸君、黙祷!」

 乾いた冷気が音の波形を増幅させるのか、学長の発した声はそれほど大きくはなかったが、慰霊祭が行われていた体育館内の隅々まですぐに拡がった。

 医学部生だけが立ち上がると、第一解剖学教室の中田教授が、今年、御献体してくださったご遺体の名前を読み上げていく。もちろん、学生たちは初めてご遺体の名前を知る。しかし、ナナモ達だけではなくここに居るすべての学生たちは解剖実習をさせていただいたご遺体と結び付くことはできない。

 その反対に、ナナモ達学生の後ろには解剖実習のご遺体の家族や関係者が居る。しかし、どの学生達によって解剖実習を受けたのかはわからない。そして何よりも、ご遺族や関係者たちは生者の彼らを知っているが、死者としての彼らは知らないし、学生たちは生者の彼らを知らないが、死者としての彼らを知っている。   

 それが規則だと言えばそれまでだが、解剖学実習はそれらを超越した次元に存在すると、大学側の教官たちの瞳は、ゆるぎない信念と畏敬の念を混在させながらも、荘厳だが純粋な思いとして、医学とはそもそも何なのかを、改めて慰霊祭に参列している皆に問いかけていた。

 死者は決して自ら生者に何も語れないが、生者も決して死者に何も語れない。だったら、何故あの言葉は解剖学実習の手引き書の第一ページに書かれてあるのだろう。

 ナナモに先程の声がまた思い出される。そして、あの声の世界に引きずり込まれそうになる。

今日は慰霊祭なのだ。

 ナナモはそのこと以外の思考を停止させた。そして、粛々と進んで行く慰霊祭に身を任せようと思った。だからか、式典を最初から最後まで全うすることが、ご遺体に対する畏敬の念であるとはわかっていても、身体中から冷汗は流れ続けているような不安は消えなかったが、ナナモは途中で意識を失うことなく慰霊祭を終えることが出来た。

 ナナモは皆がそうしている様に、体育館から出ると、医の扉の石碑前で一礼した。何も聞こえてこなかったし、あれほど止まらなかった冷汗がピタッと止まり、朦朧と揺れる身体がしゃきっとした。

「ナナさん、まだ、あのことを気にしているの?」

 慰霊祭が終わった後に、なんか今日は帰ってもすぐに勉強する気になれませんねと、キナミの言葉に、試験に通らなければご遺体に対して失礼よと、いつもならその言葉を遮りそうなキガミでさえ、そうね、と頷いたことで、四人は、キガミの車で、あのイタリアンの店に行った。もちろん、食事を摂るためではなかったが、マスターは嫌な顔一つせずテラミスとエスプレッソで迎え入れてくれた。

「あのことって?」

 珍しくキナミが尋ねて来たのでナナモはとぼけたわけではない。いくつものことが重なり合って、ひとつに絞り込めないでいたからだ。

「医の扉を自ら開けた者のみに、ご遺体は一度だけ蘇り語りかけるって、解剖学手引きに書かれていた言葉ですよ」

 キガミの言葉にナナモはハッとする。

「あれからずいぶん時間が経ったからね。でも、やはり、僕は医の扉をまだ開けられていないし、もしかしたら、ずっと開けられないのかもしれない」

「それって、進級出来ないってことですか?」

 キナミの声のトーンが幾分沈んだ。

「ナナさんが進級出来ないって、だったら、私たちの実習グループはどうなるの?」

 キガミの声が珍しく高音で揺れていた。

「私もご遺体は決して蘇られないし、何も語ってくれないと思っていたのよ」 

クツオキの声は冷静だった。

「僕もクツオキがいう通り何も語ってくれないと最初は思っていたんだ。でも、解剖学実習が終わってから始まった生化学や生理学を学んでいたら、それはもっと微細な、ある意味分子レベルの事かもしれないんだけど、あの臓器の中で行われているんだと、より明確につながってきて、もしかしたらこれがご遺体が語りかけてくれているってことじゃないのかなあって思ったんだ」

 クツオキはキナミからその事を以前聞いていたのかもしれない。だから、軽く頷いていた。そしてナナモではなく、キガミに向かって、「キガミは解剖実習が終わった時、ご遺体が何か語ってくれたって言ってたわよね」と、トーンを変えず、そして、無理に言わなくてもいいのよという優しさを添えて尋ねた。

キガミの顔が少しだけ紅潮しながらうつむいて固まっている。だから、クツオキは話題を変えようと、今度はナナモに向かって視線を向けたタイミングで、キガミはさっと顔を上げると、いつも通りの体温で、それでも、あくまでも私の感想だからと、前置きしてから口を開いた。

「私は解剖実習が終わったあと、これからも頑張れよとか、真面目に勉強しろよとか、そんな叱咤激励が飛んでくるのかなあと思ったの。だって、解剖実習のために御献体してくれたのよ。だから、私は私自身一生懸命だったんだけど、全身全霊でいつも実習に臨んでいたかって、疲れたとか、時間に追われてつい作業を早めに切り上げなかったかって、いつも自責の念との闘いだったわ。でもね、解剖実習が終わったあとに、あのブルーシーツにご遺体を治めた時に、ありがとうって、とっても優しい声が聞こえてきたの。本当はこっちがありがとうございますと、深々と頭を下げなくてはならないのによ」

 キガミの瞳は少し潤っている。その潤いにキガミもクツオキもしばらく黙っていた。

「僕らはなにも知らないから」

 キナミがしばらくしてぽつりとつぶやいた。そして、学長が解剖実習の意義についてご遺族に感謝とともに諭してはいたが、やはり、僕は、学生達の気持ちとご遺族の気持ちとの間の乖離がわだかまりとして消えなかったと、言葉を継いだ。

「ナナさんはどう思います?」

 キナミはキガミをちらっと見てから尋ねた。

「僕が、あんなこと言いだしたから、却って混乱させたのかもしれないけど。僕は感情を出来るだけなくして医学の専門分野をただ淡々とこなしていただけなんだ。だから、解剖学の筆記試験以外は一発で合格したんだと思うんだ」

 ナナモがそう言ったので皆は驚いた。

「でも、ナナさん、医の扉が開けられなかったら進級出来ないって……」

「医の扉が開けられなくても試験に通れば進級出来るよ」

 ナナモはなぜかすんなりと口にしていた。

「でもそれって……。私はてっきりナナさんこそ、さっきのキガミの話じゃないけど、ご遺体がどんな人生を送ってきて、どうして献体しようと思ったのかを一番知りたがっていると思ったわ」

 クツオキの声がとがっている。

「でも、今日の慰霊祭でわかったんだ。ご遺体と遺族は交わりがあるけど、僕達学生とご遺族と交わりがないし、交わってはいけないんだって。それに、もし、交わっていて色々な話を聞いていたら、僕達は解剖実習を最後まで行えただろうかって思うし、たとえ解剖実習を終えたとしても、何かを引きずって、もしかしたら大きな重荷を背負ってこれから医学の道を進んで行かないといけなくなるじゃないかって」

 ナナモの声はまったく揺れていない。でも、ナナモは自分の意志で話しているという実感がまったくなかった。


「やはりお前は嘘つきだ」

 その声に包まれたナナモは三人の前から消え、さきほど慰霊祭が行われていた体育館にいた。ただし、教官も学生もご遺族もいない。ただナナモがひとりあまた並べられたパイプ椅子に座っていた。

 壇上には献花が先ほどよりも大きくなって、穏やかだがまさしく人の顔でナナモを見つめている。

 僕は誰なんだろう?だって僕は一度命を自ら断とうとしたし、絶っていたかもしれないし、その時を境に僕の過去は消えてしまっている。だから僕が死者に寄り添えば、きっと死者は蘇り、自分の事を語ってくれると思っている。それは父や母や僕自身の事と重ねているからかもしれない。でももしそうであるなら、父も母も僕も全て死者であらねばならない。そして、生者としてこの世に生まれて来た父も母も僕もこの世に存在していないことになる。だったら僕は何者なのだろうか?もしかして、クニツ・ジェームズ・ナナモとして生きている僕は僕ではなく、オホナモチ・ジェームズ・ナナモとして存在している僕が僕なのだろうか。異世界にいる僕が本当の僕で、この世と呼ばれている地上の世界に居る僕は偽物なのだろうか。僕はどちらでもかまわないが、今医学を学んでいる。だから、ご遺体が一度だけでも蘇り何かを語ることがもし出来るのなら、クニツでもオホナモチでもなく、ジェームズ・ナナモとして、僕はその術を知りたい。そして、父と母を見つけ出して、現実の僕に僕の過去を語ってもらいたい。

「クニツ・ジェームズ・ナナモ」

 壇上の献花の一柱から声が聞こえてくる。

 僕?

 ナナモはその声が身体中に巻き付いたのか、身動きできない。それなのに、ナナモの身体から汗が吹き出し、心臓が高鳴り、脳が揺さぶられる。それでもナナモは、はあはあと呼吸を整えることすら出来ない。

 頭痛が全身に拡がり、ナナモはなすすべもなく祭壇に吸い込まれそうになった。

 刹那。

 一人だと思っていたのになぜかいつの間にかキガミが真横に居てナナモの腕をしっかりと掴んでいた。もちろん二人には会話などない。それでもキガミからはもっと大切なことが伝わって来る。しかし、優しくそして柔らかい声色は、ナナモの鼓膜を揺らさない。

 ナナモがキガミの手を払いのけ、キガミの瞳に直接語り掛けようとした時、ナナモは意識を失った。


 ナナモが意識を失ったことは、慰霊祭の終わりにまっすぐに家に帰らず寄り道したこともあって、四人だけの秘密となった。

 ただし、どうしたのと、ナナモ以外の三人がその話題をたとえヒソヒソ噺としても蒸し返すことはなかったので、事実がどうかは当事者であるナナモもあやふやなので分からなかった。

 つい最近の事だし、四人であの時何かを話し合っていたのに、ナナモの記憶から完全に消えている。

僕はあのとき何かを考え、もしかしたら何かをしようとしていたのかもしれない。それなのに記憶がない。だったら、僕はあのとき存在していなかったことになる。だったら、僕からまた僕が消えていく。

 ナナモは思わずスマホを手にした。なぜなら、その事を解決したければ、ただ単に、他の三人に事実かどうか聞けば良いだけだからだ。それなのに、うじうじとナナモはなぜか聞けずにいた。

 ほんの些細な事なのに僕はもし知らないと言われたらどうしようと恐れている。あれほど、昔の自分のことを、そして父と母の事を知りたいと、蘇りのことばかり考えていた自分とはなんなんだろう。

 大事な試験だから、しばらく帰ってこないからと、慰霊祭が終わった翌日からオオエのいなくなった寮の部屋で、ひとり、何かをするわけでも、何かを考えるわけでもなく、ほんの少しだけ広くなった部屋の中をただ行ったり来たりしていた。

「ナナモ、おるか?」

 オオエがいないことを知らないはずなのに、タカヤマがノックもせずにナナモの部屋に入って来た。

 ナナモは、最初久しぶりにタカヤマの顔を間近で見られて頬の筋肉が自然に緩んでいくほど嬉しかったが、すぐに何かがひっかかって顔が強張った。ただ、なぜ強張ったのだろうとその理由が分からなかった。

「俺、ナナモと違って、再試験に追われていたから、俺を誘いにくかったんちゃうかなと思ってたんやけど、なんか慰霊祭の時に久しぶりにナナモの顔見たら、青白かったし、また、倒れるんちゃうかなあと思って心配やったんや」

 思いもよらない言葉だったが、もし、そうなら、タカヤマはナナモの記憶を完全に否定している。

「でも、その後、ナナモに声かけようと思ったら、実習のメンバーに抱えられるように車に乗ってどっかへ行ったから、もしかしたらって、心配してたんやけど、大丈夫やったんやな」

 今日のタカヤマはいつもとは違う。でも、ナナモの記憶をまたあやふやにする。

「慰霊祭の事あまり覚えていないんだ」

 ナナモは、正直に言った。タカヤマはホンマかと、解剖実習の初日と同じくらい印象的だったはずなのに、どうしてや、という怪訝な顔をしていたが、ナナモが解剖実習の筆記試験で最後まで再試験を受けていたことを知っているので、何か言いたそうな顔をしていたが、珍しくぐっとこらえていた。

「飲みの誘いかい?」

 ナナモはもやもやした気分が晴れなかったし、試験勉強に到底集中出来そうになかったので、タカヤマにそう言ってもらいたかったのかもしれない。しかし、ナナモの思いとタカヤマの意図とはかなりの温度差があった様だ。

「なに寝ぼけたこと言うてんねん。それとも、俺に対する当てつけか?」

 タカヤマは少し語気を荒げたが、すぐに、さっき自分が言ったことを思い出して、トーンを下げると、話しを継いだ。

「ナナモは解剖学の筆記試験以外ぜんぶ一発合格してるから余裕があるのかもしれんへんけど、俺はそうやないからな。でも、ナナモ、油断してたらえらい目に遭うぞ。解剖用語が使えへんかったら、機能について何一つ説明でけへんからね」

 出会いがしらの一発って、恐いからなと、タカヤマは一呼吸置くと、ナナモを威圧するような視線を送ってから言い足した。

 ナナモは確かに今回の試験も何とかなるだろうと思っていた。解剖学実習の筆記試験の時は蘇りに惑わされてどうかしていたが、その後はなんともなかったからだ。それに、日本語はあやふやだが、英語では解剖用語は記憶していたので、生理学や生化学と結びつかないということはなかった。

「ひよっとして、ナナモ、過去問、なんなく解けたんか?」

 ナナモの冷静な顔付きに珍しくタカヤマは目を丸くする。

「過去問?」

「やっぱりな。ナナモ、メールまた見てへんかったんやな」

 メールは大学側が発信するメールだけではない。学生たちが、試験に打ち勝つために色々な情報というか対策を、先輩から聞いて共有していたのだ。

 もちろんそのようなことをしなくても授業を真面目に受けていて、教科書を暗記していれば問題はないし、教授や教員が試験問題を学生に教えることなど今どきないので、まったく役立たないこともあるが、それでも、試験に通らなければ進級出来ないし、進級出来ないと、卒業出来ないし、医者になるかどうかは別にしても、卒業できなければ医師国家試験は受けられない。

 単純だが、そう単純ではないのが、医学は急速に進歩していていて、学ぶことも年々多くなっているということだ。中田教授が、忘れたら何度でも試験を受けたらよいと言っていたが、時間が永遠にあるわけではない。一年は三百六十五日で、一日は二十四時間だ。いくら医学部へ合格するほどの勉強をしてきたと言っても、その膨大さに溜息が出る。

 それでも、ナナモは憶えるだけだから。それに、特に正常人体解剖機能学はナナモ自身の事でもある。電子工学基礎理論のように、ナナモに一ミリも重なるところがないということはない。だから、ナナモには気が楽だったのかもしれない。

「結構な量やったけど、プリントアウトしてきたから」

 タカヤマはもしナナモのパソコンだけ学生間メールが送ってきていなかったらと思ってわざわざ持ってきてくれたのだ。

 タカヤマからどっしりと紙の束を渡されたナナモは、しばらくタカヤマを見つめていた。そして、その時、あっと、あのことを思い出して叫びそうになったが、反対にそのためにタカヤマから離れようとしていた自分に対してとてもなさけない気持ちになって、悲しくなった。

「どうしたんや?」

 きっと瞳が潤んでいたのだろう。ナナモは申しわけない気持ちで一杯だったが、ありがとうと、ぼそっとつぶやくだけで精一杯だった。

「そんな顔するなら、なんか去年の英語学の再試を受けていた時の俺を思い出すわ。あの時はナナモが俺を助けてくれたやろ。それから、おあいこや。一緒に進級しよな」

 タカヤマはきっと自分の事で精一杯なはずだ。それなのに、こうやって……。

 ナナモはマギーからの伝言がますます言いにくくなったと思いながらも、それでも都合がよすぎるかもしれないけど、前に進もうと後ずさりしている場合ではないと、タカヤマに、ああと、力強く答えた。

「そやけど、なんでナナモはメールのこと知らんかったんや。祭壇造りの時には、今年は解剖学の教授が代わったから過去問も当てにならんかもしれんなあって、皆、そんな噂ばっかりやったから」

 ナナモはやはり記憶がなくなっているのだと、失望するとともに、何かよからぬ力が働きだしているのではないかと、背筋がぞっとした。

「なあ、タカヤマ、解剖学実習の時に、ご遺体が蘇って色々なことを話してくれたらって思わなかった?」

 ナナモは唐突に聞いた。

「蘇るって?ご遺体やで。怖いことを言うなよ。それに、蘇ってきて何か話し出しても、俺はどうしていいかわからんし、だいたい、俺はご遺体の人ときっと出会ったこともないから、色々話されてもホンマかどうかわからんし、ホンマやっても、そうですかって、頷くしかないやろ」

 タカヤマはナナモは時々おかしなこと言うなと、それ、シュールな笑いかと、あまり気に留めていないようだったが、それでも、なんでそんなこと聞くんや、というタカヤマの質問に、ナナモは解剖実習書の言葉のことを話した。

「ナナモの答えになるかわからんけど、俺は解剖学実習の時ご遺体を扱ったけど、正常解剖と機能を勉強するためやとその事だけを考えていたんや。だから、ご遺体は死んだ人やけど、生きている人やと思って解剖させてもらったと俺は思てる」

 ナナモは確かおなじようなことを誰かに話していたように思ったがはっきりしなかった。

「ナナモは俺と大学で出会うまでの事を知りたいか?」

 タカヤマはにやりとした。ナナモは、はいとも、いいえとも言えなかった。

「俺ら友達やけど、付き合っているわけやないし、俺の子供の時のことを話しても別に興味ないやろ。それに、たとえ、聞きたいって言ってきても、医学部に来たからかもしれへんけど、最近、新しいことばっかり記憶せんとあかんから昔のことをどんどん忘れて行くから、自分でも分からんところもあるからな」

 ナナモは、だったら……とすんでのところであの話を切り出しかけたが、タカヤマのにやけ顔を思い出して慌てて止めた。

「でも、修学旅行の事なんか話してくれただろう」

「そりゃ、全て忘れているわけないからな。ナナモだって同じやろ」

 タカヤマは記憶とは印象付けされたことは忘れないと言いたげだった。

 だったら、僕はやはりいじめが原因で自ら命を絶とうとしたのだろうか?でもその原因は僕がハーフだということだ。だったら、父さんと母さんが全く関係していないことはないと思うし、記憶されていないこともない。

「ナナモ、あまり、深く考えすぎたらあかんで。俺みたいに、留年するんちゃうかって思てたら、余計なことは考える暇なんてないからな」

 タカヤマは最後にそう言うと、それでも、あの……と、何か言いたげだったが、わざと口をしっかりと閉じ、うんうんと頭の振動で頷きながら、ナナモの部屋から出て行った。ナナモは帰り際、もう一度、ありがとう、試験、お互い、がんばろうな、と言うべきだったのに、言えないどころか、タカヤマにはちゃんと自分の過去の記憶があって、その上で、今の自分があるのだと、タカヤマはその事を意識しているかどうかは別にして、ずしんと心臓をえぐるように伝わってきて、ナナモは思わずもらったコピー用紙を落としそうになった。


 僕は自分の過去を知ってはいけないのだろうか?だから、王家の継承者として選ばれたのだろうか?オホナモチになるためには、過去の自分を完全に捨て、リセットしなければならないなんて、それなら、それで、悲し過ぎる。

 僕はやはり僕を知りたい。そのために蘇りたい。

 ナナモは折角タカヤマから過去問のコピーをもらったのに全く目を通すこともなく、タカヤマが来たことも忘れて、また同じように、一日中、部屋の中を行ったり来たりしながら、ただ答えのない問答を繰り返していた。

 オオエが居ないといっても、寮には寮生が居るし、ヌノさんもいる。だからナナモは一人ではない。だから何がしら寮に居たら気がまぎれるはずだ。しかし、実際は、寮生を多くしようとしたのは仲間を増やすためだし、この寮を有効利用するためだし、なんといってもそのために規則というかしきたりを話し合うべきだと、あれだけ盛り上がっていたのに、寮生は医学部の大学生であり、この時期は皆が進級試験の真っ最中だったので、一時休戦というほどリラックスしたものではなかったが、皆、お互いを気遣いながらもピリピリしていたので、食堂や風呂場で一緒になっても、あいさつ程度で、さっさと自室に戻っていた。

 僕は結局一人だ。そして、寮にいるのに、また、あの時のように「わ」からはみ出ている。また、僕はあの時に戻るのだろうか。あの時が僕のすべての始まりだ。でも、また、繰り返すのだろうか。でもなぜ?なぜ、また繰り返さなければならないだろうか?

 ナナモは何かに憑りつかれたように、イチロウからもらったあの楽器に呟いていた。きっと、僕が呟けば、メロディーを付けてくれる。でも、ナナモはもはやそんなことはことはどうでも良かった。ただ、楽器に語り続けていたかった。

 


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