(21)オオエとの語らい
門松が寮の門から消え、珍しく鏡開きをした餅で作ったぜんざいがヌノさんから寮生に振る舞われた頃、まだ、暦上は正月だったが、もはや神々しいしきたりは姿を消し、例年通りにやって来た冬将軍がもたらしたずっしり重いどか雪が杵築の街を真っ白に祓い清めたあと、寮生にとってはこれっぽちも風情を感じない慌ただしい日常がもはや始まっていた。
ナナモはあの時以来オオエから特に何か具体的なことを尋ねられたわけではなかった。しかし、だからと言ってオオエがナナモに頼んだことを全く忘れているという風ではなく、何かしらぎこちなさが以前より二人の行き交う会話の間に淀みをもたらしていた。
もしかしたらオオエはナナモが小岩からも何がしらを頼まれていることを薄々感じて、ナナモを介して小岩と駆け引きしているのではないかと、そんな邪な考えなど全く持つ必要もないのに、オオエがトイレのために部屋を出た瞬間大きな溜息をついている自分を見て、性格ってそう簡単に変わらないんだなと、ナナモは足を無意識に揺らしていた。
「ナナモ、俺の事避けてるんか?」
寮内の息苦しさと、大学での覆いかぶさってくるような講義と実習と試験の連鎖で、心の居場所を失ったナナモは久しぶりに道場に行った。道場の板の間は、氷が張っているかのように素足には堪えたが、身体を前後に移動させながら竹刀を大きく振り上げ振り下ろす動作を繰り返すうちに気にならなくなった。
ナナモは今年の年末年始をタカヤマと過ごさなかった。タカヤマが冬休みに入ると直ぐに実家に戻ったからだ。ただし、道場に全く来なかったわけではない。再試験があったので自分のペースを守ろうと、黙々と練習課題を終えると、飲みにナナモを誘うことなく、自宅に戻っていた。だから、ナナモは急にタカヤマからそう言われて驚いた。
ナナモは何かタカヤマに言わなければならないことがあったような気がしたし、その何かはとても小さいがとても強く輝いているように思えたが、いくら脳内を走り回ってもたどり着けなかったので、「別に」と、答えたうえで、あまり言いたくなかったが、タカヤマは寮生でなかったので、寮で色々とあって、ちょっと人嫌いになっているんだと、答えた。
普段ならこういう時、タカヤマは自分の鼻を利かせながら、「どうせしょうもないことやろ。それより、飲みに行こうや」と、腕も絡めて強引に引っ張っていくような勢いで誘ってくるのに、「そうか、そりゃ大変やな」と、ナナモは確かに些細なことかもしれないし、二重スパイなんて考えてうじうじしていたので、タカヤマの誘いに前のめりだったが、「ほな」と、道場からそそくさと消えてしまった。
どっちが避けているんだろうと、タカヤマの後ろ姿に声を投げかけようと思ったが、ふと、もしかしたら、自分が避けられているんじゃないかと、足元から冷気が突き抜けたような武者震いがしばらく収まらなかった。
ナナモは大学に来ていて、講義を皆と受けているし、実習ではキガミらと一緒だし、解剖に比べればそれほど濃厚ではないにしろそれなりに話している。
寮でも食堂に行けば他の寮生とも合うし、遠慮がないわけでないがそれなりにたわいもないことも話すし、この頃頼み事が少ないが、イチロウからの手紙が途絶えたわけではない。そして、ルーシーにも連絡しようと思えばリモートがある。
ナナモは再試験を受けていないので時間があるはずだし、苺院へ行ってもカタスクニへいけないことがわかってしまってから、夜出かけることも少なくなった。ナナモには今十分とは言わないが、昨年のように追われるような忙しさは無い。それなのに、ナナモの周りから人が居なくなっていく。ナナモはここ数週間を振り返ったが、大学での講義内容以外の鮮明な記憶がほとんど記録として残っていないことに、僕は一体何をしていたのだろうと、決して物忘れではないはずだしと、自分自身の記録探しに躍起になっていた。
ナナモはその苛立たしさに我慢しきれなくなって、まず、少しぎくしゃくしていた同室のオオエからだと、このところ勉強机に張り付いているオオエが一息つく機会を目立たないように探りながら、思い切って話しかけて見ようと思った。
「僕の父は医者だったんだよ」
ナナモが、なぜ解剖学の、それも、医学部に来て研究されているんですかと、尋ねると、オオエは、前にも言ったかもしれないけどある企業から研究費を支給されているからだと、ナナモはすっかり忘れてしまっていたし、オオエもそう思ったのだろうから、もう一度説明したあとに、ナナモがあっさりとそうですかと引き下がらなかったので、完全にナナモの方に身体を向けてから付け足すようにオオエは答えた。
「何科の医者だったんですか?」
いつものナナモなら、寮生の話しじゃないんだと、オオエの少し曇った顔と重そうな声質から察して、それ以上奥へとオオエの世界へ踏み込むのを止めただろうが、なぜかその夜はナナモから遠慮という言葉は消えていた。
「心臓外科医だよ」
オオエはナナモから視線を外し、もっと遠くを見ながらはっきりとした口調で言った。
「心臓外科医なんて格好いいですね、なんか憧れます」
ナナモはついミーハー的に言ったが、オオエの目つきが鋭くなったのには気付かなかった。
「大変だよ。心臓は動かなくなった死ぬからね」
ナナモが何か言おうとしたが、オオエは制してから話しを続けた。
「親爺が心臓外科医だってことだけで、その頃は子供だったし、何をしていたかは良く知らなかったんだ。家にもあまり帰って来なかったからね。いつも疲れていたし、おふくろは親爺にものすごく気を使っていたから、なんかピリピリしていてね。だから、家にいる時もあったんだけど机に座っていることが多かったし、食事の時も本を読んでいたから、僕は親爺になかなか話しかけられなかったんだ。時代だったのかもしれないし、親爺の性格だったのかもしれないけど、それでも、たまに僕とキャッチボールをしてくれたことがあってね。もちろん会話なんてほとんどないよ。でも子供だったし、キャッチボールって、男の子だったら分かるだろうけど、ミットで受けた時に微妙に力具合が違うだろう。だから、何も言ってないのに、なんかね……」
オオエは、分かるよねと、顔を緩めたが、ナナモは確かに今でも男の子だが、はいとは言えず、黙って頷くしかなかった。
「僕はそんな父を見ていたから、何となく医学部は敬遠しがちだったんだけど、住んでいる所が田舎だろう、だから学校の友達たちと野原を掛け回っているうちに生き物が好きになって、それで農学部を受験したんだ」
「お父さんは残念がっていませんでしたか?」
「わからないよ。でも、農学部に入学したことを報告した時に、お前のやりたいことなんだなと、今までみたことのないようなちょっときつめな口調で尋ねられたときに、はいとすぐに答えたら、とても喜んでくれて、だから、親爺は別に僕が医者にならなくても残念がったりしなかったんじゃないかって、今でも信じているよ」
やりたいことが分からないこともあるし、分かっていてもやれないこともある。ナナモはオオエの顔を改めて見た。
「でも、先生は今、医学部の解剖学教室で研究されていますよね」
ナナモは確かに素直でないところはあるが。あえて嫌味をいうような性格ではない。
「大学に入学してしばらくした時に父が亡くなったんだよ。急性の心筋梗塞だったんだ」
オオエは顔色ひとつ変えなかった。ただ、申し訳なさそうに頷いているナナモを、いいんだよと言わずに笑顔だけで救った。
「親爺は心臓外科医だってさっき言ったけど、小児の先天異常を専門にしていたんだ。先天異常の心臓でも生まれてきたということは、それなりに心臓は働いているんだ。ただし、十分な形態ではないし、十分な機能ではないんだ。それでもその心臓で生まれて来た子供は必死に生きようとしてる。心臓移植は別にして、親爺は残された心臓の機能を何とか使ってちゃんと生きつづけられるような心臓に造り代えようとしていたんだよ」
ナナモはさっき格好いいとつい言葉にしたことを悔やんだ。
「先生はお父さんが亡くなられた時に、医学部を受け直そうとは思わなかったのですか?」
ナナモはつい自分と重ねた。
「少しは心が動いたよ。だって、心臓外科医が、いくら働きづめだったとはいえ急性心筋梗塞で亡くなったんだからね。でも、僕はその時農学部に行きたかったし、勉強したかったし、そして何より父の満足そうな笑顔が忘れられなかたからね」
それに、あの時の僕の成績だったら医学部に入学出来なかったし、もう一度勉強机に座り続けるくらいなら、動物や植物と触れあった方がよっぽど良かったからね、と、オオエは頭を掻きながら照れていた。
「今思うと、親爺の仕事をよく知らなかったからかもしれないな」
オオエの悲し気な遠くを見るような呟きはナナモにも十分届いた。
「それでも、今、先生は医学部へ来られて勉強されているじゃないですか」
ナナモは知らずにもう一度同じ質問をしていた。
「ああ、そうだね。確かに親爺の影響が全くなかったわけではないと思うよ。いや、むしろ、あったかもしれないな。だから、僕は最初はある動物を研究していたんだけど、人間も動物の一種だと思い始めて、だったら、どうして、発生学上、正常ではない臓器が形成されるんだろう。そして、形態的には正常じゃないのに、生を受けて生まれて来るんだろうと、疑問に思ってね。それで、発生学を勉強することになったんだ」
ナナモは、オオエがゆっくりと息を吐いているのをただ見ていた。
「僕が医学部の解剖学の教室で発生学を学び始めた時、これはたまたまなんだけど、ある先生が、お父さんには色々と教えて頂いたことがありましてと、お悔やみとお礼を言いに僕の所にやってきてくれたんだ。その先生ももちろん心臓外科医だったんで、僕はさっき言ったように父の仕事ぶりなんかまったく知らなかったから、父のことを教えてくれませんかって、頼んだんだよ。そうしたら、その先生は喜んでと言って、父のことをとても熱心に話してくれたんだ。父は色々な術式を考案していたらしくて、その先生はできるだけわかりやすく話してくれたんだけど、僕にはわからなくて、それでもその先生の熱意に押されて、結局、一方的に話しを聞いて終わったんだ。でもね、僕は親父の業績よりも普段どうだったのか知りたかったんだけど、そのことは結局わからずじまいになったんだ。だからね、その後も心臓外科医の先生に会うと、親父のことを聞いたんだけど、皆、すごいって、術式のことだけを強調してね」
「でも、それほど、皆さんがすごいって話してくれたんだったら、お父さんはかなり優秀な心臓外科医だったんですね」
ナナモは解剖実習の時に心臓全体を見て触ってそして解剖してみた。もちろん保存液で固定されているので、固く、しなやかさはないし、この心臓が本当に動いていたのだろうかと不思議に思った。しかし、その後、生理学や生化学の観点から心臓の正常機能が少しずつ頭の中で構築されて行くと、解剖学の実習の時の印象ではなく、まさしく心臓が体の隅々まで血液を送っている映像が鮮明になった。
しかし、先天的に教科書通りでない心臓が、どのように動くのか、そして、どことどこを直せば、ある程度正常な構造と機能を取り戻せるのか、そこまでは今のナナモにはわからない。
オオエはわかっているのだろうか?
実はね……と、オオエは話そうか話さないでおこうかと、顔色からはっきり伝わるほどしばらく行き来していたが、きりっと瞳を輝かせたあとに口を開いた。
「親父の業績がすごいってあまり皆が言うものだから、実家に帰って、今の研究に役立たないかなあって、親父の部屋を調べていたら、研究ノートが見つかったんだ。僕は心臓外科医じゃないから、よくわからなかったんだけど、心臓の絵が一杯書いてあって、同じ絵のように見えて、よく見たら微妙に違っていて、当然心臓なんだけど、クニツ君が解剖実習でみた心臓の形じゃなくて」
ナナモが言いかけたのを制してオオエは、そう、先天異常の心臓を、ああでもないこうでもないって、何度もその治療法を考えていたんだよと、言葉を足した。
「そんなノートがいくつも出てきて、やっぱり親父ってみんなが言うようにすごいひとだったんだなあって、改めて親父のことを知ったんだけど、あるノートの最後のページに、私は罪を犯したって、走り書きがあって、思い付きで手術は行ってはいけないって、書いてあったんだ。それでね、その事が気になったんで、僕に話しかけてくれたあの先生の所にそのノートを持って行ったんだよ。あの先生はそのノートを始めっから時間をかけてずいぶん熱心に読んでいたというか見入っていたんだけど、最後のページの言葉を読んだ時、急に顔が強張って、それでも、ハッと、多分僕が居ることを思い出したのか、スッと、ノートを閉じると、顔は明らかにひきつっているんだけど、無理に笑顔を作って、ありがとうって一言言ったあと、慌てて勉強になりましたって付け足したんだ。いくら僕でも、何かあるんだなあと思ったんで、あの先生に、なんでもいいから教えてくださいと、僕はどんなことがあっても父を尊敬していますからって言ったんだよ。そうしたら、先天異常の手術にマニュアルはないんだって、でも、心臓の場合は生き死につながる。だから、いくらいいアイデアが浮かんで患者さんに良かれと思って手術をおこなっても、死に至らしめることがあったら、いくら画期的な手術であっても、その先天異常の心臓を持って生まれた患者さんには全く意味のないものになるんだ。つまり、おとうさんの名声は必ずしも勝ち続けて来たから得られたものではないんだよって、最後に一呼吸置いてから話そうかどうしようか迷いながら、でも僕に気を使ってはくれたけど是非話さなければと、言葉を選んでくれたんだ。いや、僕に伝えようとしたのかもしれないね。親爺の苦悩と努力を」
オオエは、だから、僕は今徹底的に正常な心臓の発生と解剖を研究しているんだと、顔を真っ赤にさせていた。それでも、ナナモが何も言えずにいるとフ―ッと一息、二息ついたあとに、僕は心臓外科医として父の記録を手にすることは出来たんだけどその記憶はないんだ。でもその反対に親父としての記録は残せなかったけど記憶がはっきりしている。それぞれ同じ人間なのに同じ人間ではないような気もして、とても不思議だなあって時々思うことがあってねと、でも僕は親爺の息子だからと、聞こえてきそうなほど澄んだ瞳でしばらく時をさまよっていた。
ナナモはしばらく自分の世界に浸っているオオエに何も声を掛けられなかった。
「ナナモ君のお父さんも医者なのかい?」
ナナモに見つめられていることにハッと気が付いたオオエがもしかしてクニツ君も何かあったのという顔で尋ねた。
「はい。そう聞いています。でも、何か事情があったのか分からなかったのですが、僕は小さい頃祖母に預けられていて……、僕は、先生よりももっと父のことを知らないんです」
ナナモは本当の事を言いたかったが、忘れてしまいたいあの記憶から話さないといけないし、日本に戻ってきてからの二年間はマギーの家に居候していたので、とりあえず、あまり話したくないんですがというオーラを少しにじませるながら創り噺をした。
「御婆さんって……」
オオエは、ナナモの表情を見て察したところがあったのだろう。遠慮気味だった。
「祖母は母方なんでイギリス人です」
「だから、クニツ君はロンドンに居たんだね」
ナナモは、あっ、はい、と返事をしたうえで、でも、今、祖母は日本の鎌倉に住んでいますと、嘘ではなかったので、やっとはっきりと言えた。オオエはもしかしたら御婆さんの家に、ご両親が書き記した何かがあるかもしれないよと、自分と重ねた。ナナモは、実は東京に住んでいた時に家じゅうを隅から隅までとはいかなないまでもずいぶん両親の痕跡を探したんですが、何もありませんでしたと答えようと思ったが、寸でのところでやめた。
「そう。でも、御婆さんはご両親の事をご存知なのだろう」
オオエの問いは至極当たり前だった。
「それが、母は家を飛び出して父と結婚したようなので……」
ナナモはこれ以上の創り噺はと、わざと悲し気な顔をした。オオエは、そうと、すまなそうに言った切りナナモの意図したとおり、それ以上ナナモに尋ねて来なかった。
あの……と、少し気まずくなりかけたので、ナナモは、先ほど先生が話されていたある心臓外科医って以前先生が僕に話してくれたクニツっていう名前の先生ではなかったですか?と、尋ねた。 オオエは、最初はなぜという顔をしていたが、そう言われればと、しばらく眉間に皺を寄せていたが、あの時、色々な先生と会っていたからと、でも、あの先生にノートを見せたからね。名前を思い出せないなんて失礼だねと、苦笑いだった。
「父はハーフじゃないですから」
ナナモは気を利かせたつもりだったが、オオエはクスリともしなかった。それどころか、もしそうならクニツ君のお父さんの事を何か話せたかもしれないねと、えらくすまなそうな口調で、少しだけぺこりと頭を下げたので、ナナモは慌てて、大きく広げた手を振って恐縮した。
「でも不思議ですね」
ナナモは場の空気を代えようとしたわけではなく、何気なく口にした。
「何がだい?」
「だって、先生のお父さん像と、ノートの存在を知らないで評価していた心臓外科医のお父さん像と、ノートを見せたあとで心臓外科医が抱いたお父さん像と、そして何よりお父さんが自分自身を評価したお父さん像とは、同じ人間なのにそれぞれ違うんですよね」
「親爺が手術した患者さんやその家族も親爺に対して色々な像を抱いていたかもしれないね」
オオエはナナモの意図した所がわかったようだ。
「だったら、ちゃんと記録に残していても、人物像は変わってしまうかもしれませんね」
「クニツ君は意外なことを言うんだな。でもその通りかもしれない。だって、僕も自分がどういう人間なのかわからないからね」
オオエは笑いながら言ったが、ナナモの胸の奥深くに突き刺さって来る。それでも、ナナモは、でも、先生は誰に何を言われようが自分はこうなんだと思えるところがあるでしょう?と、真顔で尋ねると、そうだね、僕のことは僕自身が一番良く記憶しているからねと、オオエは口元を引き締めた。
「でも、あの先生の名前を忘れているし、もしかしたら、僕が覚えていると思っている記憶も、両親や友達や、もしかしたらクニツ君が、違うよって指摘してくれるかもしれないね」
ナナモはふとイチロウと話していたAIのことを思い出した。
「反対も真ですか?」
ナナモはまた何気なく言った。
「どういうこと?」
「僕の周りが僕について記憶していることも、実は僕の記憶とずれているかもしれないということです」
「なぜそう思ったんだい?」
「前に話しましたよ、今年から日記を付けようと思っているって」
オオエはそうだったっけという顔をしている。
「でも、僕の性格が悪いんですけど、その日の日記をその日のうちに書けなくて寝てしまうことがよくあって、次の日やしばらくしてから書くことがあったんです。そうしたら、忘れていることやあやふやなことがあって。それで、昨日のこと覚えてるって、例えば授業のことや行った場所なんかを友達に尋ねたら、友達はすぐにはっきりと答えてはくれたんで、じゃあ、その時どんな話をしていた?って、訊いたら、それはあやふやで。でも、友達は友達の記憶で僕とのことを思い出して話してくれたんで、きっと大きな間違いはないだろうと、いざ日記を書こうしたら、あれ、僕の記憶と少し違う、って思うことがあって。それは、話していた内容だけじゃなくて、場所なんかも違うことがあったんで。きっと、友達の勘違いだったんだろうだと思ったんだけど、でも、もし、そのまま書いていたら僕の記録は友達の記録になるし、僕の記憶は友達の記録で創られることになっているじゃないかって、ふと思ったんです」
「話が入り組んできたけど、クニツ君は何が言いたいんだい?」
ナナモはオオエの問いに答えず、自分の世界に入ろうとしていた。
もしかして、僕の記憶がなくなっていると思っているけど、そう思わされているだけなのかもしれない。でも、東京のマギーの部屋には何もなかった。だから、マギーは何も知らないのだと思いこんでいたが、どこかに隠しているのかもしれない。だったら、アヤベさんも……。
ナナモはまた頭痛がした。
「クニツ君大丈夫?」
オオエの声がして、ナナモはハッとした。おそらく数秒ほどだったのだろうが、ナナモはオオエと会話しているという記憶が飛んでいた。その代わり、なぜか小岩の顔が浮かんだ。
「でもだからと言って、日記を書くことが無駄なんて僕が思っているわけではないですよ」
ナナモは、オオエのお父さんの記録を否定するつもりはなかった。
オオエは全く気にしている風ではなかった。それでも感じるとこがあったのだろう、軽くうなずくと、「じゃあ、クニツ君は寮の規則を知らないって前言っていたけど、本当はそう思い込まされているのかもしれないね」と、言った。
そういうつもりで言ったんじゃないですと、ナナモは強く言い返したかったが、じゃあ、どういうつもりと聞かれてもあのことは話せないので黙っていたが、寮の規則って今までの歴史があってこそ創られたって聞いていますと、実際ナナモは小岩からしか聞いていなかったが、そのことはつい小岩から聞いたこととして口走った。
「歴史?」
オオエの問いにナナモは栄光寮について少し話した。むろん、ある企業がかかわっていた話はオブラートに包んでぼかした。オオエは少しは知っていたのかナナモの話に別段興味を示さなかったが、その歴史って本当だと思う?と、ナナモに尋ねた。ナナモはどういうことですかと尋ね返した。
「歴史は記録の積み重ねなんだけど、さっきのクニツ君の話じゃないけど、正しいのか正しくないのかはわからないんだ。色々な人の色々な感情のフィルターを通してだから奥深いんだけど複雑で怪しいからね。その一方で書き物という記録の産物もある。これは一人の物書きだから、歴史に比べてあやふやさは少ない。それに、物語なのに事実が反映されることもある」
「僕が聞いた寮の歴史は物語だっていうんですか?」
「いや、そこまでは言わないけど。ある意味歴史と物語は表裏一体のところがあるからね」
物語は歴史から作られ、歴史は物語から作られる。両者には事実でつながっている部分もあればそうでない部分もある。
「例えば?」
ナナモは源氏物語ですかと、オオトシを思い出してつい口にしそうになった。
「コジキだよ。だって、ここは杵築だよ。神代の場所だからね。ただね、日本の神話というけど事実かもしれないからね」
「事実?」
「いや、事実に基づいた話しかもしれないということだよ」
「神々の話なのに?」
「ああ、だって、その話を創ったのはヒトだよ」
ナナモは急にこめかみにツーンと痛みが走った。
「ヒトはカミから生まれたんじゃないのですか?」
「そうだね。でも本来、日本はヤオヨロズのカミガミが花鳥風月に限らず、あらゆるところに居られると今でも信じられているだろう」
ままならないもの。ナナモは口にこそ出さなかったが心の中で叫んでいた。
「先生はオンリョウを信じますか?」
ナナモは最後にそうオオエに質問したはずだし、オオエからなにがしかの答えを訊いたはずなのに、同時に生じた頭痛が激しくて、どこからなのか分からないし、誰かの意図があるのかないのかわからなかったが、最後の二人のやり取りの記憶はナナモからきれいさっぱりと消え去ろうとしていた。




