17.明日
「そういえばホルス王国から来たんだったね。魔法を使える者がいないって本当だったんだ」
「はい。魔法はないです」
「じゃあ、英雄の話は知っている?」
ヨハンに聞かれたフローラはわからないと首を横に振った。
「知らないのか……」
誰でも知っていると思っていたとマティアスが呟くと、俺ももっと有名だと思っていたとヨハンは声を上げて笑った。
ヨハンの声にアレクシスの赤い目がパチッと開く。
「ごめんごめん、アレクを起こしちゃったね。説明は明日でいいかな? 英雄の絵本も準備しておくよ」
「はい。お願いします。ヨハン様」
英雄の本? 魔力塊と英雄が関係するってこと?
「部屋まで送っていこう」
マティアスに誘われたフローラは、アレクシスを抱えながら立ち上がった。
「あうぅ~」
「アレクちゃん、また明日ね」
「きゃい」
まるでヨハンと会話しているかのように返事をしながらアレクシスは手をバタバタする。
「あ、マティ。今日はこの結果をじっくり見たいから食事は別々で」
「わかった」
部屋の扉を開けながらマティアスが合図を送ると、侍女長はかしこまりましたとお辞儀をした。
「あぅ~」
廊下を歩いている途中もご機嫌なアレクシスは、眠気がすっかり冷めてしまったようだ。
「ヨハンはアレクシスが生まれた時からずっと成長を見守っていたから、なんでも相談するといい」
「はい。でも、三歳なんて驚きました」
マティアスが部屋の扉を開けると、カーテンが大きく揺れる。
アレクシスを抱っこしているフローラの代わりに、マティアスは窓を閉めてくれた。
「もうこんなに書けるようになったんだな」
テーブルの上のノートに気づいたマティアスはフローラの名前の練習成果を確認する。
「あうぅ~!」
フローラの白髪を小さな手で引っ張りこっちを見てとアピールするアレクシスではなくマティアスを見つめたまま、フローラはゴクッと唾を飲み込んだ。
「マティアス様、私、自分の名前だけは何も見ないで書けるようになりました」
マティアスは本当に私と結婚してくれるのだろうか?
今日は十二月二日。明日、私は十八歳になる。
契約結婚に合意したのは一週間前だけれど、私が字を読めないと知ってからマティアスに新しい契約書を出されることはなかった。
どうしよう。結婚をなかったことにすると言われたら困る。
「それで、あの、サインできますので契約書を。お願いします! ランス伯爵から助けてください!」
フローラはアレクシスを抱きかかえたままマティアスに頭を下げた。
もし連れ戻されたら結婚できる年齢になってしまった自分では拒否できないし、明日までにヴェルナー伯爵に親戚なので助けてくださいと言うのは無理だ。
自分が今、頼れるのはマティアスしかいない。
「お願いします、マティアス様」
必死なフローラに驚いたマティアスは窓際からフローラのもとへ。
フローラの正面に立ったマティアスはフローラの髪を握り締めるアレクシスの小さな手をそっと包み込んだ。
「アレクシス、ダメだろう? こんなに髪を掴んだら、ママが痛いぞ」
キョトンとしたアレクシスはゆっくりと手を開く。
「偉いぞ」
フローラの髪の代わりに、マティアスは自分の指をアレクシスにギュッと握らせた。
「明日からは俺がパパだ。よろしくな、アレクシス」
「え?」
「先日、結婚に同意してもらったと思い込んでいて、ちゃんと伝えていなくてすまない。俺と結婚してアレクシスの母親になってもらえないだろうか?」
「……母親?」
「あぁ。俺たちの養子にしたい」
ダメだろうかと少し不安そうに尋ねるマティアスに、フローラは「ありがとうございます」と微笑んだ。
よかった。これでランス伯爵と結婚しないですむ。
それにこの子が私の義息になるのも嬉しい。
一年だけだけれど、私も家族ができるんだ。
「よろしくお願いします、マティアス様。よろしくね、アレクシス」
「あぅあ!」
まるで返事をしてくれているかのようなアレクシスに、マティアスとフローラは顔を見合わせて笑った。
……というのが今日の午後の話。
そしてなぜか今、夜の十時だというのにウェディングドレスを侍女長に着せられている。
フローラはどういうことなのか困惑した。
「どうしてこんな時間に試着を?」
マティアスがドレスを準備してくれていたことにも驚きだけれど、試着は昼間でもよかったのではないだろうか?
アレクシスはお昼寝だってしていたのに。
「本当はもっと豪華なドレスにするべきですけどね」
「これも豪華すぎます」
Aラインの純白のウェディングドレスは胸元にレースがあしらわれ、美しいドレープが華やか。
綺麗すぎて私にはもったいない。
「しかもこんな時間だなんて、本当に坊ちゃまはせっかちで」
「……坊ちゃま?」
「あっ、坊ちゃまと呼ぶと怒られるので内緒です」
背中の紐をギュッと締めながら侍女長は絶対に内緒ですよと念を押した。
パールのネックレスとイヤリングだけでも豪華なのにピンについたパールを髪に散りばめる。
「試着ってこんなことまでするんですか?」
ドレスのサイズの確認だけではない状態にフローラは困惑した。




