12.母の実家はどこ?
まっさらだったペンの先に濃紺色がジュワッと広がる。
マティアスはノートを広げると、見開き1ページ目に「フローラ」と言いながら流れるような美しい字で『Flōra』と記載した。
「これが、私の名前……?」
初めて見る自分の名前の少し下をフローラはそっと撫でる。
「この字は見たことがないです」
野菜を売っている店やパン屋には『F』も『ō』もなかった。
ノートを見つめていたフローラの右手にマティアスの大きな手が添えられる。
そっと持ち上げられたフローラの手にペンが差し込まれ、指の位置を調整された。
そのままフローラの手を包み込むマティアスの温かい手にフローラの胸が高鳴る。
「……力を抜いて」
耳元で響くマティアスの低い声に心臓が持ちそうにない。
今更だが、後から抱きしめられているかのような体勢も恥ずかしい。
マティアスにとっては何の意味もないだろうけれど。
「俺に任せて」
フローラが持ったペンはインクの中へ。
インクケースの縁に軽くトンとペン先が触れた後、ノートの上に移動させられた。
「撫でるように……」
マティアスはフローラの手を握ったままスッと軽く横に一本線を引く。
三本目の途中でインクはかすれてしまった。
「一人でやってごらん」
そっとフローラの手を離し、「インクをつけて」「縁でインクを落として」と指示してくれるマティアスの声に合わせ、フローラは一人でやってみる。
ただ横に一本線を引くだけなのに、マティアスと一緒に引いたときよりも太くうねった線になってしまった。
「少し押し付けすぎだな。もう少しそっと、優しく」
二本目の線は軽すぎたのか、途中で切れる。
「大丈夫、最初より今の方がいい」
切れてしまったのに今の方がいいの?
フローラはスッとペンを横に動かし三本目の線を引いた。
「あっ! キレイ!」
マティアスのお手本と同じくらいの太さで、さっきよりもかなり真っ直ぐに引けた線にフローラが喜ぶ。
思ったよりも大きな声が出てしまい、アレクシスが起きてしまったのではないかと心配になったフローラはベッドの方をのぞき込んだ。
「大丈夫そうだ」
「よかった」
安心したフローラの手をマティアスが再び握る。
「丸は少し難しい」
先ほどの線の下に二人で大きな丸を書き、隣には小さな丸を書く。
線よりもずっと難しい丸に悪戦苦闘しながら、フローラは一人で何度もいろいろな大きさの丸を書いた。
「難しいです」
太さもバラバラ、線はぐにゃぐにゃ。丸というよりも三角に近いもの、いびつな形の物。
全然うまく書くことができない。
「次は名前を書いてみよう」
「えっ、もう名前ですか?」
「一番書きたいだろう?」
そんな笑顔は反則では?
マティアスに再び手を包まれたフローラの胸が高鳴る。
こんなに親切にされたら一年後、ここを出て行く時に寂しくなりそうだ。
書き順、手の動かし方、それぞれの文字の大きさのバランス。
マティアスと一緒に名前を書いてみたが、線や丸とは比べ物にならないほど自分の名前は難しかった。
フローラは何気なく一ページ戻り、表紙の裏の箔押しを見る。
「この紋章はアレクシスのペンダントと同じですね」
「あぁ、ベルンブルグの紋章だ」
ベルンブルグは翼を広げた鳥が燃えているかのような不思議な模様。
「あっ! 見ていただいてもいいですか?」
フローラはベッドの横の鞄から母の日記帳を取り出しマティアスに見せた。
「私、いつか母の日記を読めるようになりたいので、これからも文字を教えてくれますか?」
「……母親の実家はヴェルナー伯爵家だと言っていなかったか?」
表紙をめくりながら不思議なことを尋ねてくるマティアスにフローラは首を傾げる。
「家令がそう言っていましたけど?」
「これはヴェルナー伯爵家の紋章じゃないぞ」
「え?」
ヴェルナー伯爵家じゃない……?
では、母の実家はどこ?
マティアスの言葉にフローラはどういうことなのか理解が追いつかなかった。




