11.読めない
もっと早く言えばよかった。
フローラはグッと下唇を噛みながら後悔した。
サインをしろと言われたけれど、自分の名前をどうやって書くのかも知らない。
「……読め……ません、私、字が……」
フローラが教わったのは数字だけ。
そろそろ文字の勉強をしようと父は一冊の本を買ってくれたが、そのあとすぐに父が亡くなり、母のドレスも父の服や本も全て処分された。
その後は勉強する機会もなく、買い物でなんとなく目にするパンや野菜の名前はあっているかはわからないが読めるようになった程度で、こんな難しい文字はわからない。
「……ごめん、なさい」
今すぐ追い出されたとして、誕生日までにヴェルナー伯爵を探すのは間に合うだろうか?
家令がくれたお金で足りるだろうか。
フローラはマティアスの次の言葉が怖くて顔を見ることができなかった。
マティアスはテーブルから静かに契約書を手に取ると、ビリッと破りゴミ箱へ。
やっぱり追い出されるのだと覚悟したフローラは抱きかかえたアレクシスに泣きそうな顔で精いっぱい微笑んだ。
「すぐ出て行きますので、侍女長を呼んでくだ……」
「配慮が足りなくてすまない」
「……え?」
なんで謝っているの?
公爵子息なのにどうして?
悪いのは文字も読めない私の方なのに!
「あ、あの」
「出て行かないでくれ」
悪かったと再び謝罪してくれるマティアスに、フローラはコクコクと頷いた。
「あの、マティアス様。私に字を教えてくれませんか?」
自分の名前だけでも書けるようになりたいとお願いすると、マティアスは「すぐ戻る」と部屋を出て行く。
急いで出て行ってしまったマティアスに驚いたフローラは、マティアスの黒髪が見えなくなるまで扉の方を見続けた。
「あぶぅ」
うとうとし始めたアレクシスをベッドに寝かせたが、ほんの少し手が離れただけで文句を言うアレクシスが可愛い。
「おやすみアレクシス」
ポンポンとお腹を優しく叩くと、アレクシスは目を閉じ、でも頑張って目を開き、すぐに再び目が閉じていく。
この頑張りも可愛すぎる。
しばらくリズミカルに叩き続けたフローラは、アレクシスの寝顔を見ながら手をそっと離した。
執務室に戻ったマティアスは左手で額を押さえながら天井を仰いだ。
五歳から叔父に使用人として働かされ、叔母と従妹に虐待されていたと報告されたのに、なぜフローラが字を読めないと想像すらできなかったのか。
この公爵邸で働けるのは全員それなりの出身の者。
読み書き計算ができて当たり前の人しか採用していないせいで、貴族なら誰でも当然できるのだと勘違いしていた。
『引き止めるためなら金も宝石も惜しまない』
その方法ではフローラは引き止められないと思い、契約結婚の話を持ち出したのに、フローラを傷付けたせいで出て行かれそうになってしまった。
もっと言葉や行動には慎重にならなければ。
彼女がいなくなったら困るのだから。
マティアスは執務机の引き出しからペンの買い置きを取り出した。
『私に字を教えてくれませんか?』
侮辱されたと怒り出すのではなく、学びたいと言われるなんて思ってもみなかった。
インクは棚に置かれた中から一番気に入っている濃紺色を選ぶ。
新品のノートは美しくもないシンプルなノートしかなかった。
「そういえば、マナーを学んでもらうと一方的に言った時も嬉しそうだった気がするな」
文字の他にも興味を持ったことはなんでもやらせよう。
行きたいところがあれば連れて行き、食べたいものがあれば何でも取り寄せると伝えよう。
マティアスは三点セットを手に持ちながらフローラの部屋へと戻った。
ノックの音が聞こえたフローラは、扉を少しだけ開けながら「アレクシスが眠ったばかりなんです」と答えた。
「それならちょうどいい。今から書いてみないか?」
マティアスの手にはノートとインク、そしてペン。
急いで出て行ったのはこれを取りに行くためだったの?
マティアスは部屋に入ると、ベッドですやすや眠るアレクシスの寝顔を眺めてから部屋の奥のテーブルへ歩いてく。
「フローラ、ここに座って」
「は、はい」
目の前でインクのふたを開け、ペンにインクを吸わせるマティアスの手元をフローラはジッと見つめてしまった。




