61 急報
ルチアノ子爵邸の一室で、サンドラ・ルチアノはルチアノ家私設衛騎士団の訓練報告をまとめていた。
窓の外はすっかり暗くなり、澄んだ空に星が瞬いている。
明かりに照らされた彼女の右のまぶたには深い傷跡があり、視力を失った右目は照明を受けても瞳孔が暗く開いたままだ。
くせのあるオレンジブラウンの髪は顎の下あたりで短く切られ、彼女の白い頬にふわりとかかり頭の動きに合わせて揺れている。
ふと、彼女の持つガラスペンが動きを止める。彼女は耳を澄ますように部屋の一点を見つめ、魔力感知に集中した。
覚えのある魔力の気配が、高速で屋敷に近づいてきていた。
サンドラは無言でペンを置くと、急いで髪を結い黒い半円型の眼帯を装着して部屋を出た。
「サンドラ」
「お兄様」
廊下に出たところで、彼女の兄、ハビエルが声をかけてきた。
背の高いサンドラよりもさらに頭一つ分ほど大きいハビエルが、ずんずんと足早に近づいてくる。その表情には、わずかばかり焦りの色が見えた。
「ノクティスは、お父様の書斎のバルコニーに到着するはずです」
つかつかと歩きながらサンドラがそう言うと、ハビエルも頷いて同意した。
「内容がわからないと何とも言えないが……アロエットに緊急事態だな」
ハビエルの表情が苦痛を訴えるように歪む。
冷静さを装うサンドラも、内心は同じ思いだった。
ロザリンド子爵家の養子であるファルコが所有する、ノクティスという名の魔法生物が、魔力を剥き出しにしたままルチアノ邸に向かって飛んでいること自体が、急を報せるものだった。
(わたくしたちの可愛い妹に、一体何が起こった……!)
兄姉が走るような速さで歩いていると、バン! と音を立てて勢いよく目の前の書斎の扉が開いた。
「二人とも早く入れ」
現れたのは、燃えるようなオレンジブラウンの髪の、聖都デーシデリアの守護神アレッシオ・ルチアノだった。
「ノクティス到着まで、残り一分ほどです」
サンドラが事務的にそう告げると、アレッシオはバルコニーに面した窓を開け放った。
「さて、事態をどう予測する?」
「ロザリンド令息が、何らかの理由でノクティスを動かせない危機的状況にあります。そして、ノクティスの気配と比較して確信しましたが、一時間ほど前のあの落雷はノクティス、ヴィンセント令息、アロエットのいずれかによるものの可能性が高いです」
アレッシオの質問に、ハビエルは即答した。
「アロエット自身が、連絡を急ぐ必要があると判断しています。ノクティスを最初に感知できた位置は、この場所から見て東南東の方角、教会の北東方向の市街地外の空域です」
続いて、サンドラが答えた。
「落雷のあった……旧ペリグリン邸の方角と、学園を結ぶ道の途上だな」
アレッシオは、渋面で呟く。
「ノクティス、到着します」
ハビエルの声とともに、全員が窓の外に目をやった。
夜空を切り裂く勢いで飛んでくる紺色のノクティスの姿を、夜目の利く三人全員が捉えていた。
アレッシオが皮手袋をした右腕を差し出した。
「よくきたな、ノクティス! ……ハビエル」
凄まじい魔力の気配を漂わせるノクティスに眉ひとつ動かさず、労いの言葉をかけて首周りをなでてやりながら、アレッシオはハビエルに首輪に結わえられた手紙を外すように促した。
ノクティスを執務机の椅子の背に乗せてやると、アレッシオは皮手袋を外して、広げられた手紙をハビエルから受け取った。
それを机の上に乗せ、全員でのぞき込む。しばしの沈黙ののち、三人から立ちのぼった殺気に、ノクティスが慌てたように口を開けて羽を広げる威嚇のポーズを取った。
ノクティスの様子に気づいたハビエルが、小さな声で「ごめんな」と呟く。
「……では、事態の予測の続きを」
アレッシオは、先ほどまで滲ませていた、娘を酷く心配する父親としての表情が消え、真顔で静かに促した。
「これはアロエットの文字ではありません。それから……かすかに血の匂いがします」
今度はサンドラが先に答える。彼女は思わず鼻の頭にしわを寄せていた。
「ロザリンドの坊やも『負傷』とあるが、ノクティスを動かせない程度なら、迎えが必要だろうな」
アレッシオが言った。
「『CAN』は……」
「代筆を頼まざるを得ない状況で、わざわざ暗号にしてあるんだ。当然、教会関係者を指すものだ」
ハビエルの言葉に、アレッシオは手紙の文字をトンと軽く指で突いて、そう言った。
「……断罪人か! クソッ」
ハビエルは苦々しく吐き捨てた。
相手が断罪人であれば、相当激しい戦闘になったはずだ。
(どのように決着がついたのだろう。三人とも、よく生き延びてくれた……!)
サンドラは、まだ学生である三人の生還は、恐怖と混乱の中で必死に力を出し合った結果だろうと想像した。
そして、今日の午後、市街地の噴水広場で起きた騒動の情報は、ルチアノ邸にも届いていた。あれが断罪人の仕業だとすれば、すでに事態が動き出してから三時間以上が経過している。
「……噴水広場でのスタートが十六時、旧ペリグリン邸での幕引きを日没としていたのか。手際がいいことだ」
アレッシオは、ぐっと右手の拳を握り込んだ。
「他に共有しておきたい気づきがある者は? ……いないな。それでは手分けしよう」
必要な確認が済んだとばかりに、早々にルチアノ家の会議は終わりを迎えた。
「オルティス学園への迎えは、わたくしが向かいます。アロエットの怪我の度合いや部位にもよりますが、同性の方が何かと都合が良いでしょう」
「では、サンドラに頼んだ。もしも教会の人間が付いていて、アロエットを離さない場合は、多少強引な手を使ってでも連れて帰ってこい」
「承知いたしました」
サンドラは迷いのない所作で、右足を後ろへ引き左手を横に広げ、頭を下げた。それから、素早くアロエットを迎える準備に取り掛かった。
「私がヴィンセント伯に、ハビエルがロザリンド女子爵に手紙の内容を伝える」
「承知」
ハビエルも礼を取り、足早に部屋を出て行った。
アレッシオは窓を閉め、外套を羽織りながらノクティスに声をかけた。
「ノクティス。すまないが、しばらく留守番だ」
アレッシオは執務机の小さな手紙を手に取り、胸ポケットへ大事にしまうと、ヴィンセント邸へと急いだ。
続きは、また明日。11時頃に。




