57 「おやすみなさい。ペリグリンの子どもたち」
「っ……はぁっ、はぁ……っ」
コルヴスは、仰向けに倒れたまま、肩を上下させて息をしていた。
指先一つ動かす力も残っていなかった。手にした黒檀の杖は、放った魔術の大きさに耐えられずに炭化し、砕け散った。
『遍在の檻』の圧倒的な力を目の当たりにし、動きを止めていたマキュラは、感情を失った人形のような表情をしていた。
突然、その腕がぴくりと動き、白く細い指からは想像できないほどの力で、コルヴスの首を締め上げた。
「……!!」
「お兄……さま……!」
アロエットは、至近距離で放たれた強烈な魔術に、視力も聴力も戻り切っていなかった。
それでも、腹這いで激痛に耐えながら、満足に動かない右手をマキュラの頭部に向け、金の矢を放つ。
集中力を欠いたそれは、マキュラの元に向かっていたヴェスの黒いブレードに、あっさりと断ち切られて霧散した。
何度も何度も矢を放つも、ヴェスに面倒な様子で振り払われるだけだった。
あの晩の、悪夢の光景と重なる。
今や見る影もなく荒れ果てた、大切な記憶が詰まった庭で――アロエットは必死で絶望に抗うも、次の手は残されていなかった。
そのとき、暗闇で金属が擦れ合う音がした。
「あやうく、私も一緒に召されるところだったぞ」
抑揚のない女性の声が聞こえた。
鋼の鎧をまとった長身の騎士が、いつの間にかテラス上の断罪人二人の傍らに立っていた。
「教会戒律第三十一条『不従順の罪』並びに同第四十条『聖域攪乱の罪』を適用し、刑を執行する」
よく通る声で厳かに略式の宣言をし、それから彼女は動いた。抵抗の構えを取ったヴェスとマキュラの攻撃をいなし、斬り伏せる。
驚くべき早業だった。
アロエットは、痛みに耐えながら、その妙技をつぶさに観察していた。
影のような黒装束に包まれた二人の体は、冷たいテラスに倒れた。
マキュラのフードからこぼれて無造作に広がった白い髪は、ヴェスのものとも彼女のものともつかぬ混ざり合った血に染まっていく。
階下の主庭では、フュイと呼ばれた断罪人が、物言わぬ塊となって静まり返った闇に溶け込んでいた。
断罪人たちの開いたままの目が、群青色の空に瞬きはじめた星を、静かに映していた。
♢
焦げ臭さと血の匂いが混ざり合う凄惨な廃屋敷のテラスに、まるで似つかわしくない気品あふれる出で立ちで、その人物は現れた。
その男――ヴァレリウスは、セレスティス教会最高権力機関・聖枢院の一員であることを表す、漆黒の位階布を身に着けていた。
彼はその青い目を、テラスの端で意識を失っているファルコ、血だまりの中で事切れた二人の断罪人、咳き込みながら荒い息を吐くコルヴスへと順番に向けた。
それから、コルヴスの傍らに歩み寄り、服が汚れるのも構わず膝をつくと、「体を起こしても構わないかな?」と柔らかく声をかけた。
コルヴスは、うっすらと目を開けてヴァレリウスを観察している。
「ヴァレリウス様、彼は頭を打っていますので、あまり動かさないでください」
テラスの階段を上ってくる鋼の鎧を身に着けた人物――コルネリアが、ヴァレリウスを諫めるように言った。
その腕には、グレージュのクロークに包まれたアロエットの姿があった。
「この方が、呼吸が楽になるかと思ってさ」
ヴァレリウスはフォーマルグローブをはめた手を伸ばし、慎重にコルヴスを抱き起こして背後から彼を支えた。
「……ぅ……ゲホッ……あ、なたは?」
咳き込みながら、かすれた声でコルヴスは問いかける。
「これは失礼。僕は、セレスティス教会の聖枢卿、ヴァレリウスだ」
「……っ……あ」
コルヴスは思わず彼から離れようと身をよじり、声を漏らした。
「大丈夫、僕は君たちの敵じゃない。無理にしゃべらなくていい。君たち兄妹弟は、みんな無事に帰してあげるからね」
ヴァレリウスが、穏やかにコルヴスへ語りかけた。
耳に心地よく、不思議とその言葉を素直に信じたくなるような、そんな声だった。
(聖枢卿……教会の意思を決める機関の人間)
彼が何を語ろうとしているのか、何を隠そうとしているのか、コルヴスは静かに耳を傾ける。
「君たちを付け回していた三人は、独断で動いていた。君たちの今の状況は、教会の意思によるものではないよ」
コルヴスよりもいくらか小柄な男の、背中を支える腕は意外なほど力強い。
「僕は今日、教会に逆らって動いた不心得者を処罰するためにここへ来て、行きがかり上、君たちを助けただけ」
背後の男は、子守歌でも歌うようにそう言った。
(三人が独断で動き、全員が片付いた……教会の中枢が、僕たちを回収しないメリットはなんだ? ……僕たちに恩を売っているのか?)
コルヴスは思考がまとまらず、めまいと頭痛に顔をしかめる。
ヴァレリウスは、やってきたコルネリアに視線を送る。
彼がしゃべる間に、コルネリアは応急処置をしたアロエットを、門前に停まるスプリングを備えたヴァレリウス私有の馬車に乗せ、従者とともに戻ってきていた。
「さて、急いで学園に戻らないと、子どもたちは眠る時間になってしまうね。おやすみなさい。ペリグリンの子どもたち」
たくましい従者の背中に身を預けながら、コルヴスはヴァレリウスを見た。
薄暗い中でもわかる、こちらの価値を推し量るような、静かで冷徹な目線が向けられていた。
(これはおそらく、貸しなのだろう。今は……それでもいい……)
コルヴスの意識は、そこで途切れた。
続きは、また明日。18:30頃に。




