41 『器』の娘
※このエピソードには、物語の設定上、非人道的な制度や、それにともなう妊娠・出産に関する重いテーマが含まれます。直接的な性描写はありません。
アロエットは教会に近づく前に、リアに断りを入れてから、いま一度確認のために、道の端で屈んだ。ブーツのボタンを留め直すふりをして、アンクレットの形をした魔道具が、しっかり着けられていることを確認する。
足首を飾る落ち着いた金色のフラットチェーンは、ノクティスの首輪と同じ効果の魔道具で、彼女の魔力の気配を隠す役割を果たしていた。ノクティスの首輪にはON・OFFのスイッチがあるが、アンクレットは着脱でその切り替えを行う方式だった。
ルカとまだ見ぬ幼い妹が確認された中庭から、保養院までの距離は十分にあるが、用心するに越したことはない。
「リア様。お辛くなったら、席を離れてくださって構いません。どうぞ、無理をなさらないでくださいませ」
保養院が近づいてきたところで、アロエットは改めてリアにそう伝えた。
先週の帰り道での様子から、リアを心配して、「ボランティアにも慣れてきたので、次のボランティアは一人でも構わない」と、平日のうちに打診しておいたのだが、リアは頑として首を縦には振らなかった。
そんなリアの態度に、アロエットは好感を抱いていた。
(責任感の強さもだけど……彼女は恐らく『知りたい』と思っている)
彼女は、知らないまま目をつぶるのではなく、痛みとともに知ることを選んだ。
「アロエット様、ありがとうございます。私なりに、気持ちの整理はついておりますので、どうぞご一緒させてくださいませ」
綺麗に梳かれたキャメル色の髪が、お辞儀とともにさらさらと動いた。
(それでこそ、わたくしの友人よね!)
アロエットは静かに微笑んで、リアと共に保養院の入口に立った。
部屋に入った二人に、アルバは椅子に座ったまま「リアンナ」と声をかけてきた。
アロエットとリアは顔を見合わせて頷くと、事前の打ち合わせ通りに動いた。まず、アルバの正面にアロエットが座った。それから、リアが彼女の後ろに回り、髪を結っていたボルドーのリボンをするりと引き抜いて、ライトグレーの長い髪を下ろした。アロエットは、目を閉じてアルバに微笑む。
リアは、用意しておいた櫛で、アロエットの下ろした髪をサッと梳かして整えると、黙って隣に座った。
しばしの静寂。
正面に座るアルバから、視線を感じた。こちらに、会話をする価値があるかを探るような視線。
やがて、アルバの不安げな声がした。
「……リアンナ、わたくしは秘密を抱えてしまった。わたくしは、あなたと同じではなくなってしまった……これは、あなたが十六歳を迎えるまで、お話しできないことなの」
前回と同じく、あどけなさの残る少女の口調になっていた。
(『十六歳』『同じではなくなった』……どういう意味かしら)
デーシデリアの住人は、十六歳で成人とみなされる。先に成人したアルバが、リアンナに明かせない何かに悩んで、苦しんでいた時期を再現しているのだろうか。
アロエットの脳内で、警鐘が鳴る。
リアが、テーブルの下でそっと手を触れてきた。温かい手。アロエットは、踏み込んでみることにした。
「まあ、アルバ。わたくしはもう十七歳になりましたことよ?」
アロエットは、穏やかな声でそう答えた。
「そう……だったかしら? ……それなら、リアンナもわたくしと同じですわね」
ほっとしたように、そしてどこか暗い響きを持ってアルバが呟いた。アルバは、こちらの芝居にうまく合わせてくれたようだ。
「リアンナは、わたくし達が……この義務から解放されるための条件を知っていて?」
アルバは、息が混じるような声で、静かにそう切り出した。
リアが、隣でかすかに首を横に振った気配がした。
「いいえ……わたくしは存じ上げませんが、アルバはご存じなの?」
アロエットは、アルバの話の内容がわからないため、話の続きを促した。
「口が滑らかな典礼省の方が、うっかりお話になるのを聞いたのです」
アルバは、かつてはお喋り好きな少女だったのかもしれない。掠れた声で少し笑うように話を続けた。
(典礼省は、確か教会の儀式を司る部門ね……)
アロエットは、直接は見たことはないが、『器』の交代の儀式や教会の行事を、取り仕切る役割を担っているという知識はあった。
「……次代の『移しの器』を産めばいいそうよ」
アルバがさらりと口にしたので、アロエットは一瞬なんのことか、わからなかった。
(——アルバ様のおっしゃった、『移しの器』の『義務』とは……)
体を硬直させたアロエットは、リアに悟られないように、ゆっくりと細く深呼吸をした。リアは黙って座っていたが、アルバの不穏な空気に怯えているようだった。
「裏を返せば、次の『移しの器』を産むまでは、わたくし達の体調が許せば、『顔の見えない義務』はずっと続くということ……わたくしを手ほどきした、姿を見ることもできない、誰かもわからない先生は『神の意思』とおっしゃいましたわ! わたくし、しばらく笑いが止まりませんでした! いつから……ふふっ! あはは! いつから『教会』は『神』になったのでしょう!」
アルバは思い出したように、言葉の途中からケタケタと声を上げて笑い出した。
アロエットは、その事実のあまりの痛ましさに、目を見開き両手で口元を覆った。
小さな談話室に、アルバの笑い声だけが響いていた。
「わたくし、頭がおかしくなってしまったのかしらね……」
急に、ピタリと笑うのを止めたアルバが、うつむいて小さな声で呟いた。
リアは、ぎこちなく椅子を動かして立ち上がり、アルバに歩み寄ると、
「シスターアルバ、これをお使いください……」
と、震える手でハンカチを差し出した。アルバは礼を言ってそれを受け取った。
目隠しの下をそっと押さえるようにハンカチを使い、息を整えてから、アルバは口を開いた。
「わたくし自身は、子の顔を見ることも叶わないのに、蒼鉛色を持つ子を残せば終わりだなんて……これで終わりなのか、まだ続くのかさえ、わたくしには知ることができなかった。わたくしにとって、その十二年は永遠にも等しい時間だったのです」
アルバは白いレースの下から二人を順番に見た。
「気が狂ってしまえたら、どんなにか楽だったことでしょう」
アロエットは深い赤色の目を向けて、アルバを真っ直ぐに見つめ返した。
「わたくしは、リアンナを教会に差し出して、生き延びてしまった。だけど、リアンナが眠りに就いた後も、わたくしは『義務』からは逃げられなかった……それで、何かの許しになるとは、つゆにも思いませんけれど」
アルバは、口を引き結んで黙った。口元に刻まれた皺が一層深くなり、憐れみとも無念さともつかない思いが混ざった表情になった。
施設長が、前回のように突然お茶を持って部屋を訪れる前に、リアはこちらのタイミングでお茶を準備しようと動いた。
リアを心配してアロエットは目で追ったが、リアは気丈にもウインクを一つ残して部屋を出て行った。
アロエットは、全てを語り終えたように静かに座っている、全身に白をまとう華奢な老女を見つめた。
どんな思いで、自分たちにあのような話を聞かせてくれたのか。長い歳月、隠してきた教会の正体を、自らの演技を捨ててこちらに伝えた彼女に、どう応えるか……
アロエットは席を立ちアルバに歩み寄ると、傍らに膝をついた。
「アルバ様。わたくしにアルバ様のこと、リアンナ様のことをお話しくださり、ありがとうございました」
アルバは、テーブルに体の正面を向けたまま、じっとアロエットの声に耳を傾けているようだった。
アロエットは、ひと呼吸置いて、自身の秘密をアルバに差し出した。
「わたくしは、『夜空の器』——シャノンの娘でございます」
アルバは、椅子に座ったまま、ゆっくりとアロエットに体を向けた。白いレースの向こうで、目が見開かれているのが微かに見える。
「……そうか。そなたから、母を奪うことになってしまったことを、何と詫びたらいいか。もっと早く、抗うことができなかったことを、心から申し訳なく思う……すまなかった」
アロエットは、アルバの細い体を優しく、強く抱きしめた。その体から、仄かにマグノリアの香りが立ちのぼった。
「アルバ様のせいではございません。これまでご無事でいらっしゃったことが、わたくしには何よりありがたいことでございます」
アロエットの背に、そっとアルバの手が回された。アロエットの体内で、『遍在の檻』がざわめく気配があった。
(この方の中に、行こうとしては駄目よ。わたくしが『遍在の檻』を使って差し上げるのだから……)
自らの内にあるものを宥めるように呼びかける。それが意味のあることなのかは、わからないけれど。
アロエットは、アルバのこの先の人生が、彼女にとって優しく、穏やかなものになることを願った。
戻ってきたリアは、椅子に座ったアルバと抱擁しあうアロエットを見て、少し驚いた様子だったが、静かに三人分のお茶をカップに注いだ。
すっと漂うローズマリーの香りが、三人だけの空間を、やさしく満たしていった。
続きは、また明日。10:45頃に。




