33 試験飛行
ヴーン……と低い作動音がして、天体ドームのスリットが開いていく。
外からすーっと爽やかな風が滑り込んできた。今日は、風も穏やかで日差しも強すぎず、実にいい観測日和だった。
明るい時間帯にこの場所を利用するために、ファルコはあらかじめアルベリヒ教授に相談を持ちかけ、そして教授が出した許可証を片手に、ドームのレールの潤滑油塗りという名目でこの場にいた。
兄の合流時間まで、普段は触れることのない大型の装置を動かして感動し、今はブラシを片手に虫の死骸やごみの除去を行っているところだった。学園のドームのサイズでは、古いグリスを拭き取るだけで半日はかかりそうだったので、ファルコはこれ幸いと数日に分けて清掃することにした。
ノクティスは退屈そうに、作業机の椅子の背で毛繕いをしていた。
「お待たせファルコ」
軽いノックの音がして、コルヴスがドアから顔を覗かせた。明るい緑色の目が、ファルコを見つけて優しく細められる。
「兄さん! ちょうど掃除が一段落したところなんだ。いま道具を片付けるね!」
ファルコは笑顔でそう答えると、テキパキと後片付けを始めた。
「ありがとう。掃除も手伝う予定だったのに、遅くなってごめんな」
コルヴスが申し訳なさそうにいうと、ファルコは頭を横に振って応えた。
「大丈夫! 何日かに分けて、少しずつ進めていく予定だから」
目的が何であれ、引き受けた仕事は引き受けた人間が、最後まできっちりこなさなければならない。
ファルコは部屋の片付けは得意ではないが、掃除は割と好きなのだった。
ファルコは、モノクルをつけるとブローチを起動させた。
「それでは、試験飛行を始めたいと思います。隠れ家の方で何度も周囲を探る飛行をやっていたから、たぶん大丈夫。久しぶりだけど、頑張ろうね!」
右腕の皮手袋に止まるノクティスの首輪のあたりをなでながら、ファルコはそう声をかけた。
「僕の目になって」
ノクティスは、羽の星を一度ふわりと光らせて、ドームのスリットから外へと力強く羽ばたいていった。
ノクティスは、あっという間に目視できない場所へと飛び去った。あとはファルコの魔術による操作と、モノクルによる視界の共有だけが頼りだ。
ときどき、隠れられそうな大きな木の中で羽を休めるふりをしながら、上から見た警備の情報などをコルヴスに伝えつつ、ゆっくりと迂回しながら大聖堂へと接近していく。
メモを取るコルヴスの手元には――セレスティス教会の観光案内があった。なんだかんだ言っても、もっとも教会敷地に詳しい、親切な地図はこれだった。
ノクティスは目立つこともなく、順調に試験飛行を進めた。あとは大聖堂の上空を一周し、遠回りして学園に戻り、今日の偵察を終了しようとしていたときだった。
ファルコが突然、「あっ!」と大きな声を出した。コルヴスは何事かと立ち上がり、スリットから空を覗くファルコに歩み寄った。
「兄さん、大変だ! 小さい子が茂みで倒れてる!」
コルヴスに訴えるように手をパタパタさせながら、弟が慌てた様子でそう言った。
「なんだって? 今の位置は、大聖堂の中庭の上を横切ったあたりだったろう?」
コルヴスの怪訝な声に、ファルコが気まずそうな顔をして答える。
「ごめんなさい! 中庭を注意して見ていたら、小さな人影が動かないで地面に丸まっていたから、心配になって降りてしまいました。これ、髪の毛が蒼鉛色だ! ……『移しの器』?」
コルヴスは顔色を変えて、ファルコに注意を促した。
「近づいては駄目だ。ノクティスは閉じ込められていない『遍在の檻』だから、中身のない『器』に触れると、なにが起きるかわからないぞ!」
そう釘を刺すが、ファルコは酷く心配した様子だ。
「了解です! まだ距離はあるよ。どうして一人なんだろう? ……なんとかして、誰かに知らせられないかな」
コルヴスは、慌てるファルコの肩を強めに掴んで引き留める。
「ファルコ、落ち着いて。ノクティスを使って教会の誰かを呼ぶのは、絶対に駄目だ。『移しの器』の特徴を持つ子どもなら、必ず近くに見張りがいるだろうし、その中庭からは出られないようになっているはずだから! ノクティスを茂みから出すんじゃないぞ!」
ファルコは不安げに頷いた。ふと、その体が急にこわばって、コルヴスに助けを求めるように口を開いた。
「……兄さん。この子、茂みでじっとしていただけみたい……こっちを見てる」
羽ばたきの音や風で、ノクティスに気づいたのだろう。
コルヴスは頭を抱えた。
「ファルコ、僕に共有を頼む!」
コルヴスの短い指示に、弟はハッとしたようにノクティスを共有する魔術を唱えた。
「コルヴスと共有する」
詠唱が終わると同時に、コルヴスはファルコのモノクルを借り受けた。モノクルを通して、左目の景色が大聖堂の中庭へと切り替わる。
(――そっくりだ)
真っ先に思い浮かんだ感想はそれだった。
まだ二歳くらいだろうか。蒼鉛色の、顎の下辺りまで伸びた細い髪に枯葉を絡ませて、子犬を思わせるような垂れ目を神秘的な色に輝かせた幼児は、ファルコにそっくりだった!
(思ったよりも距離が近いな――)
この小さな女の子を、泣かせたり騒がせたりすることなく、何とかここからノクティスを脱出させなければならない。
小さな口が、何かを繰り返し伝えている。
画面がゆっくりと斜めになった。
(ノクティスが首をかしげているのか。この子に興味を示している)
幼児の口は、少し唇を突き出すように開き、「ウ」とすぼめられ、横に引かれてまた元に戻る。この繰り返しだ。
(……ノ? ノ……イ……? ……まさか、『ノクティス』か?!)
突然、画面の映像が乱れた。
画面の下から、暗い帯状の縞が、スクロールするようにじりじりと上に動いていく。
(こんなときに! ルカが接近している!)
「低く飛べ」
コルヴスが静かに唱えると、ノクティスは身体を反転させ、そのまま茂みの間を低く飛び、大きな木の影を利用して上昇すると、中庭を脱出した。
続きは、また明日。18:30頃に。




