32 約束と枷
「う……ゲホッ、ゲホッ!」
鼻や口から大量の水が入ってしまったルカは、ぐったりと泥の上に体を横たえて、激しく咳き込んでいた。
「……皆さん……しぶとく生きていますね?」
ルカのすぐ近くで、肺を焼くほどの熱気から自分を守ってくれた、聖騎士の声がした。
「……はい」
咳の合間にルカは答えた。呼吸を乱したまま泥の中に手をついて体を起こすと、木々の根元に引っ掛かるように倒れている聖騎士たちも、なんとか手を振って無事を知らせているのが見えた。
ルカは、全員の命があることにほっとした。
「まったく、危ないところでしたね。大きな怪我はありませんか?」
穏やかに話すその男にしては珍しく、苛立ちを含んだ声が問いかけた。
男の視線の先をたどると、隠れ家は変わり果てた姿になっていた。
壁には内側から裂けたような亀裂が走り、窓硝子も砕け散って丸く穴が開いたままになっていた。開口部からは、水蒸気と煙が混ざり合うように吐き出され、白い壁は黒い煤で汚れていた。破壊された玄関の奥では、執念深く燃え残った炎が揺らめいて見えた。
「……」
いまさらながら、父の殺意のこもった罠に自ら掛かりに行くことが、どれだけ無謀だったかを理解し、体が震え出した。チャリ、チャリ……と手首の鎖が鳴る。
ふと、泥にまみれた両手に、男の手が触れた。その手が驚くほど温かくて、ルカは自分の指先が冷え切っていたことに気がついた。
「枷を解け」
ジャラン! と音を立てて、ルカを拘束していた鎖が地面に落ちた。
「……?」
ルカが不思議そうに男の顔を見上げると、男のやわらかなブラウンの目が、ルカを見つめていた。
「君には、逃げる意思はないようなので。丸洗いするのに邪魔ですしね。さあ、息を止めて……『洗い流せ』」
「え」
間を置かず、ざばーっと降ってきた水が、どろどろになったルカを頭から洗い流した。
ルカが男に付き添われて幌の中で着替えを済ませ、引き上げの準備をしている間に、隠れ家の燃え残った火も消され、細い煙がたなびくだけになっていた。消火活動を終えた聖騎士たちも、重装備から軽装に着替えていた。
ペリグリン家の目指す希望だったはずの隠れ家は、魔道具による目隠しの効果も失われ、もはや無残な焼け跡を晒すだけになっていた。
ルカは、しばらく黙ってその焼け残った壁を見つめていたが、やがて、手が空いた様子の聖騎士に近づき、声をかけた。彼は、ルカに目線を合わせるように、すっと腰を落として耳を傾けた。
「聖騎士様、一つだけ、お願いがございます」
淡いブルーの瞳は、迷いのない決意を秘めていた。
♢
日があるうちに教会に戻るため、四人は速やかに出発した。
ルカの乗る馬は、二人の聖騎士が乗る幌馬車の後に続いて、ゆっくりと歩いていた。
ルカは、背後から抱きかかえられるように、馬の背で規則正しく揺られていた。
その手綱を握る監視役の聖騎士を、首だけ動かして振り返る。視線を少し下げたまま、目は合わせなかった。
「なぜ……聖騎士のあなたが、私のような者を助けたのですか? …… 私が『遍在の檻』を持っているからですか」
炎に包まれた隠れ家で、彼が身を挺して自分を庇った理由を問うように、ルカはそう切り出した。
本当に知りたかったのは、教会の至宝を持ち逃げしようとした罪人に対する、この聖騎士の反応だ。
こちらからこの話題に触れていること自体が、既にかなりリスクの高い行動だった。しかし、隠れ家で『遍在の檻』を使って見せた時点で、教会に戻る前にこの質問を投げかけることは、ルカの中では決まっていた。
男は、その質問にすぐには答えなかった。その体が、かすかに震えたような気がした。
(……笑っている?)
「……君は、自分の体にあるものが、『遍在の檻』だということもわかっているし、意識してそれを使い、あの大量の水を作り出したのですね。隠れ家で起きた危機に私たちを助けてくれたのは、偶然じゃなかった。お礼が遅くなりましたが、ありがとうございました」
身長の高い彼の声は、ルカの真上から降ってくるように聞こえた。
疑いもなくお礼を言われたことで、ルカはうしろめたさに胸がチクリと痛んだ。
「それで、質問の答えですが。君が何者であっても、なくても、君はまだ子どもでしょう。教会の騎士は、誰であれ、必ず子どもを守ります……ついでに大人も守りますけれど」
投げやりに足された言葉に、思わずルカが笑う。
「やっと笑ってくれましたね……私の名前は、アルノルトです。ただのアルノルト」
教会に所属する人間は、特別な事情がない限り名前しか持たないことを、ルカも知っていた。それは、教会で生まれた、あるいは何らかの事情で家と切り離された人間であることを示していた。
「アルノルト様。私の名前は……ルカ・ペリグリンです」
今のルカは、教会で暮らすには重たすぎる家名を背負ったままだった。
アルノルトは、「知っているよ」という調子で「うん」と短く答えた。
「……もし、君が教会からの疑いも晴れて、ただのルカになったら。そのときは、今日のお礼に、食事のお誘いに参りますね。約束です」
ペリグリンの名を背負う間は、ルカが教会に戻れば常に監視がつく。アルノルトはルカの立場を慮って、そう言ったのだろう。
ルカは、その気持ちをありがたく受け止めながら「はい」と頷いた。
まだ見えぬ教会を見据えるように、ルカは目線を上げて、幌馬車のさらに先へと静かに意識を向けた。
♢
ルカは、思い出から現実へと意識を戻し、目を開いてベッドから起き上がった。
(もし、兄姉弟がこの教会の近くまで迫っているのなら、絶対に教会に立ち入らせてはいけない。あの男との『契約』は今も有効だろうが、彼らに興味を持たれたら、私にはあの男を止める手段がない)
手枷はとうの昔に外されたが、教会にいる以上、この契約という枷は外れない。
ルカは息を吸い込み、険しい表情で手早く身支度を始めた。
ふと、洗面化粧台の横に活けられた、何の珍しさもない黄色い野の花が目に入る。
何となく捨てられずに飾っていたものだが、閉じてそのまま枯れるかと思ったら、再びほころんでいた。
『ルカにあげゆ』
花の贈り主の少し得意げな笑顔を思い出して、ルカの口元が緩んだ。
今日は、研究室での自身の検査が終わったあとで、彼女の護衛として検査に付き添う予定になっていた。
教会の研究についての詳細は知らされていないが、あの小さな『移しの器』は自分と同様に、頻繁に何らかの検査や観察をされていた。
(『器』の候補というのは、皆こんな扱いなのか?)
あの独特な……無機質で冷たい印象の空間で、長い時間を過ごす彼女を不憫に思った。
それと同時に、エネルギーの塊のような、じっとしていない二歳児の様子を思い出し、付き添いの自分もなかなかに不憫だなと思い直した。
絵本と人形は多めに持っていくことにした。
続きは、明後日。18:30頃に。




