25 時間切れ
ひとりひとりに言葉を贈りながらのキスが終わる頃、再びモゴモゴとぬいぐるみの口が動いた。手触りの良い、少しくったりとしたぬいぐるみが、『シャノン』とだけ呟いた。
母は目を閉じて、ぬいぐるみにひとつキスを落とした。
短く息を吸って、母は子どもたちを見た。
「最後に、もう一度確認します。 1.これから魔力が私たちの体の中に入ります。 2.体が辛いと思ったら呼吸することだけを考えて。怖かったら……お母様のそばにおいで」
シャノンは、落ち着いた笑みを浮かべて言った。
その笑顔は、決して気休めでも慰めでもない。これから未知の神を受け止める、自分と同じ運命を背負う者への励ましだと、アロエットにはわかった。
「3.体が動くようになったら、速やかに家を脱出します。『隠れ家』がゴールです……さあ、お父様の次は私たちが頑張る番よ!」
シャノンが言い終えるのとほぼ同時に、寝室の床をすり抜け迫り上がるように、ひと抱えはありそうな金色の球体が音もなく現れた。
(これが、『遍在の檻』……!)
薄い膜のようなものに包まれ分けられた『遍在の檻』が、次々と部屋に浮かび上がる。淡く金色に輝きながらゆっくり漂うそれらは、幻想的でどこか神々しくもあった。
ドォン!!
突然、真下から凄まじい衝撃音と共に激しい振動が伝わってきた。
「きゃー!」
悲鳴を上げて抱きついてきたライラを、シャノンが片手でしっかりと抱き寄せた。
(一階の大広間で、お父様が侵入者と戦っている……)
ライラとシャノンの側に、杖を構えたファルコが寄り添うように立つ。
その杖が、唐突に「ワンワンワン!」と鳴いた。
「番犬君が反応してる! 誰かが裏階段の壁を登ってる!」
ファルコは緊迫した声で、その意味を知らせた。
(こんなタイミングで――!)
胸中で舌打ちしつつ、アロエットは「えらいわファルコ!」と短く褒めた。
ファルコの言葉が終わらないうちに、シグナスは『遍在の檻』のひとつに自ら手を伸ばしていた。
それを見たアロエットも、一番近くにあった『遍在の檻』に腕の装置を近づけた。
(これしか、戦う術がない!)
「ううっ!」
腕に埋め込まれた水晶のような装置から、金色の球体が吸い込まれるように入ってくる。腕から広がる、味わったことのない異物感と熱。頭がズキンズキンと脈打つように痛み、息ができなくなるような圧迫感を覚えた。アロエットは両膝と片手を床につき、寝室の扉を見据えたまま嘔気に耐えた。
金色の輝きは、入口となる装置を探し当て、次々と子どもたちの体内へと入っていった。部屋の中に、子どもたちの悲鳴と呻き声が満ちる。
「……ゆっくり息を……数えて……大丈夫。慌てないで」
途切れ気味に、しかし、はっきりとした母の声がする。
シャノンは、ベッドに体を丸めて横たわるライラの背をゆっくり撫でていた。
床にうずくまったカイルムを、ファルコが抱きとめるように支えている。
コルヴスは片膝をついた姿勢で耐え、ルカは膝に両手を当てて体を支えていた。
ルナリアは、目を閉じたまま床にへたり込み、壁にもたれて肩で息をしていた。
シグナスも、辛うじて上体を起こしているが、壁に全身を預けるようにして青白い顔に苦悶の表情を浮かべていた。
(年少組は動けないと思っていたけれど……年長組が二人も動作停止してしまっている!)
何とか動けそうなのは、母、コルヴス、ルカ、自分、そして『遍在の檻』を受け入れていないファルコだけだ。
階下からは、絶えず爆発音やガラスの砕けるような音が聞こえていた。
(――お父様)
アロエットは重たい体を起こし、自らの内に侵入してきた未知の力を、早急に飼い慣らそうと試みる。脳内に描くイメージを、外に取り出す……
ファルコの杖が、「クゥ~ン」と弱った声で鳴いた。
「……今度は何?」
アロエットは額の汗を手の甲で拭いながら、ファルコを見る余裕もなく尋ねる。
「……裏階段の二階の扉が開きました!」
返事とほぼ同時に、寝室のドアからドガン!! と重たいもので力任せに殴りつけられた衝撃音が響いた。ドアは開かない。
金色の鎖が、ジャラ……ジャラ……と硬質な音を立て、ドアの前に伸びていく。ライラの横たわるベッドサイドに立ち、その鎖を形作っているのは母だった。
「妹を隠せ!」
ファルコが、カイルムの背中を後ろから抱き抱えるように支えながら、ベッドに杖を向けて詠唱すると、ライラの存在がフッと無くなったかのように感じた。弟は、認識が阻害される魔術で、妹を敵から隠そうとしていた。
コルヴスは、自分と同じように魔術を出力するための試行錯誤をしている。シグナス、ルナリア、カイルム、ライラはまだ動けない。
やがて、廊下側から静かにドアハンドルが押し下げられると、ドアは唐突にカチャリと音を立てて僅かに開いた。
(お父様の魔術が、解除されてしまった……!)
途端に、金属や木材が焦げたような匂いが、一気に部屋に入り込んでくる。ドアは、ジャリン! と金の鎖に引っ掛かり、それ以上開かない。
「ペリグリン家の皆様。扉を開けて、大人しく投降してください」
丁寧だが、有無を言わさぬ声がドアの隙間から聞こえた。まだ若い男の声だ。
「今なら、あなた方の罪は問われません。全てクレイグ・ペリグリンの計画で、あなた方は巻き込まれただけ、という形にできます。どうか、指示に従ってください」
(この男は、全てを知った上で交渉してきている!)
アロエットは、愕然とした様子のコルヴスと目が合った。おそらく、自分も同じような顔をしているだろう。
シャノンは、壁を突き抜けて扉をドア枠ごと縛っている鎖をギリッと引き絞った。
シグナスは、うつむいたまま壁にもたれ、痛みをこらえて必死に首を横に振った。
「……交渉に、乗るな! ……こんなド修羅場にいる下っ端に、そんな権限、あるはずねぇ……! ……生き残る道は、『逃げる』一択だ」
頭が割れそうな激痛に脂汗を滲ませながらも、シグナスは確信した様子でそう言った。この部屋の中にいる人間で、その手の嗅覚に最も優れているのは、間違いなく兄だった。
(最初にドアを壊そうとした一撃は、交渉をしに来た人間のそれではなかった……お母様の鎖の魔術を見て態度を変えた?)
アロエットも、兄の言葉によって冷静さを取り戻した。
扉の向こうの男は、部屋に踏み込んだらどう振る舞うか、考えるまでもない。今が逃走の最善のタイミングだ。
それでも、アロエットは待っていた。
追手から逃げ切るために、取り込んだ魔力を使えるようになるまで……と考えたが、それは言い訳だ。アロエットが連れて逃げられるのは、動けるようになった兄弟姉妹のうち一人が限界だ。
気がつけば、特定の誰かの回復を待っている自分に、アロエットは嫌悪を催した。
だが、迷っている時間は、そう長くは与えられなかった。
ずぶり……ギチギチ……と、隙間から差し込まれた真っ黒な刀身が、肉を削ぐような不気味な音を立てて金の鎖を切断していく。
やがて、切られた鎖はシャラン! と床に落ちると、ふわっと細かく砕けて空気に溶けるように消えた。
「皆様すみません。時間切れです」
全く悪びれる様子もなく、黒いブレードを手にした黒装束の青年が、開いた扉の向こうに立っていた。
続きは、また明日10時頃に。




