2話 三島 将生
人は、思っている以上に簡単だ。
少し優しくすれば心を開く。少し褒めれば期待する。
少し距離を詰めれば、勝手に好きになる。
だから、難しく考える必要はない。
「将生さんって、本当に優しいですよね。」
そう言って笑う女性は、これまで何人もいた。
そのたびに思う。違うよ。優しいんじゃない。
そう見せてるだけ。
神谷 莉緒。あの女性も、その一人だった。
最初に見たときの印象は、正直に言えば地味。
それ以上でも、それ以下でもない。
顔も、スタイルも、記憶に残らないタイプ。
街にいくらでもいる。でも、都合がよかった。
合コンで、隣に座ったときから分かっていた。
目を見れば分かる。ああいうタイプは自己肯定感が低い。
人に嫌われるのを極端に恐れ、一度優しくされると離れられない。
つまり、扱いやすい。
案の定だった。少し話しかけただけで、顔を赤くする。
少し褒めただけで、嬉しそうに笑う。連絡をすれば、即レス。
呼べば来る。断らない。楽な女性。
それが最初の感想だった。
付き合うことにしたのも、深い理由はない。
ちょうどフリーだったし、定期的に会える相手がいるのは便利だ。
それに、ベッドの相性は悪くなかった。
ただ、問題もあった。重い。とにかく、重い。
LINEが来る。1通、2通、3通。返さないと、増えていく。
「大丈夫?」
「何かあった?」
「私、何かした?」
最終的には、こちらの気分が滅入っていく。
「嫌われた?」
面倒くさいな。スマホを伏せる。
しばらくすると、また通知が鳴る。
でも、嫌いではなかった。むしろ、こういうタイプは扱いやすい。
少し不安にさせて、少し優しくすればいい。
それだけで、離れられなくなる。
ただ、ずっと続けるつもりはなかった。正直、飽きていた。
そんなときに出会ったのが、桜井 早希。
最初から、完成されていた。顔、スタイル、雰囲気。どれを取っても上位互換。
しかも、何も知らない女を演じるのが上手い。
「こういうお店、初めてで・・・。」
そう言って、グラスを両手で持つ。視線を少しだけ逸らす。
タイミングが完璧すぎる。ああ、なるほど、すぐに分かった。
この女は、演じている。でも、それがいい。むしろ都合がいい。
お互いに嘘をついている関係の方が楽だ。
早希といる時間は、心地よかった。
会話も、空気も、身体の相性も。
何より無駄な感情がない。莉緒とは違う。
莉緒は、俺を本気で好きだ。だから面倒になる。
別れよう。そう思ったのは、自然な流れだった。
でも、一つだけ問題がある。あいつ、何するか分からない。
莉緒の目を思い出す。時々見せる、あの不安定な視線。
笑っているのに、笑っていない目。
もし、別れ話をしたら泣くかもしれない。
すがるかもしれない。それだけならいい。
でも、何かを壊すタイプだ。
最悪、自殺。あるいは巻き込まれる可能性もある。
面倒なことになる前に切るべきか。
そう考えて、昨日、食事に誘った。
結論から言えば、言えなかった。
タイミングが悪かったわけじゃない。
ただ、あの場で泣かれるのが、面倒だった。
ホテルに行ったのも流れだ。
正直、もう触れる気はなかった。夜中、背中を向けて寝た。
莉緒の気配を、意図的に無視した。
朝、適当に理由をつけて、部屋を出る。
これでいい。少し距離を置けば、自然消滅できる。
そう思っていた。
会社に向かう途中、スマホに通知が来ていた。莉緒から。
「昨日、将生の落とし物あったよ。」
ああ、そういえば、鞄に入れていた手紙。芽衣からのものだ。
昨晩、読むつもりだったが忘れていた。内容は分かっている。
妊娠したという報告。正直、驚きはなかった。
可能性は分かっていたし、芽衣ならやりかねない。
面倒だな。ため息が出る。結婚? ありえない。
でも放置もできない。
どう処理するか考えていると、もう一つ通知が来た。
知らない番号。
「もしもし?」
出ると、若い女性の声。
「神谷 莉緒さん、ご存知ですよね?」
一瞬、思考が止まる。
「はい?」
「今朝、駅で事故があって。」
嫌な予感がした。
「彼女、あなたの名前、呼んでましたよ。」
世界が、静かになる。
「どういう意味ですか?」
相手は少し黙ってから、言った。
「突き落とされる直前に、将生って。」
は? 心臓が、一瞬遅れる。
「現場の人が、そう言ってて、知り合いかなって。」
電話が遠くなる。突き落とされた? 俺の名前を呼んだ?
なんで? どうして、俺の名前を?
そのとき、ふとよぎる。昨日の夜、あの女の、最後の表情。
笑っていた。
でも、あれは、本当に嬉しい顔だったか?
違う。あの笑いは、分かってた顔だ。
全部。手紙のことも、俺の気持ちも。そして、これから起きることも。
背中に、冷たいものが走る。なぜだ? どうして、あいつが。
スマホが震える。
画面を見る。莉緒からじゃない。知らない番号でもない。
でも、そこには神谷 莉緒と表示されている。
息が止まる。ありえない。だって、さっき。
「突き落とされる直前に、将生って呼んでた。」
そう、言われたばかりだ。なのに。新着メッセージ。
「ねえ、ちゃんと見てた?」
指が、動かない。
「将生は、どこにいたの?」
心臓の音がうるさい。
「本当に、押してないって言える?」
既読をつけていないのに、もう一通。
「嘘つき。」
その瞬間、画面が暗転した。俺は、気づいていなかった。
自分の記憶の中に、ひとつだけ、抜け落ちている時間があることに。




