44.核
『人類適合化計画』
その文字が、無機質なパネルに淡く浮かんでいる。
男は、それをしばらく見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
部屋は静かだった。
防音壁と分厚いカーテンが、外界のすべてを遮断している。
まるで、この空間だけが世界から切り離されているかのように。
──だが実際には、今この瞬間も。
世界は壊れかけている。
男はカーテンをわずかに開いた。
眩しい光。
春の空は、皮肉なほど澄み渡っている。
その下で、人々は逃げ惑っていた。
怒号。悲鳴。焦燥。
空へと打ち上がる輸送船の列。
(……無理もない)
宇宙へ向かうそれらを見て、男はふと思う。
かつて見た小惑星帯。
あれもまた、遠くから見れば塵のようだった。
──ならば今、あの船に乗る人間も。
同じなのかもしれない。
くだらない思考を振り払い、カーテンを閉めた。
静寂が戻る。
男は椅子に腰を下ろし、再びパネルへと視線を落とした。
そこに表示された名前を、指でなぞる。
SHUN SUENAGA
「……瞬」
声は、ほとんど音にならなかった。
たった一人の息子。
自慢の──いや。
もう、その資格はない。
人類適合化計画の舞台がアスリオンへ移ったあの日。
末永壮一は、“父親”であることを捨てた。
捨てたはずだった。
だが。
思考は、否応なく過去へ引き戻される。
***
彼が世界政府の議員になった頃、『人類適合化計画』はもう一議員の一存では止められないほど進んでいた。
五十年。
人類は、あまりにも長くこの計画に縋り続けていた。
実行されてきたそれが第三フェーズに移行する過渡期であった。実験先を10万人規模の火星基地か千人規模のアスリオンかで議論されている最中、火星で事故が起きた。
それは原子炉の大規模爆発だった。
火星は向こう百年、人類が生活出来ない程の放射性物質にさらされる。火星探査機スピリットやオポチュニティから始まった火星移住計画は、たった一度の事故で長きにわたる凍結を余儀なくされた。しかし、たった数年すら計画を止められない事情が人類にはあった。
末永壮一はアスリオン計画に猛反対した。子供たちを実験台とすることは人道に反すると、他にいくつもの候補を見繕い、協力者を募り、文字通り奔走した。
が、残念ながら、 “ソレイユ”という男の鶴の一声で変わる。一時劣勢だったアスリオン計画は障害などなかったかのように、猛スピードで推し進められた。
幼子を諭すような顔で、ソレイユは末永を諭した。それは耳にタコが出来るほど何度も聞いた説明だった。
「2925年4月20日、小惑星が地球に落ちる。地軸変動が起きるほどの、大きな衝撃をもたらし、地球は人類が生活できる場所ではなくなるだろう。もう人類に時間は残されていない。成人以上の実験は第二フェーズまででやり尽くした。次は10代の少年少女を、それでもだめならもっと下の年代を、赤子を、胎児を、最後の可能性まで行きつく為に、今アスリオン計画を推し進めるしかないのだよ、スエナガ」
末永はとっくに目の前にいるソレイユと呼ばれる男が人類ではないと分かっていた。
神のごとき存在は何度も人類に予言を与え、人類はそれを享受してきた。相互関係が揺るぎないものになるほどの長い間、ソレイユは人類の歴史に君臨し続けた。
(けれど、今回の予言が真実かは疑わしい…)
末永は議会の中でもソレイユに与しない議員の筆頭だった。こうも簡単に劣勢をひっくり返された今では、結局泳がされていたに過ぎないと理解している。
口に血の味が広がる。いつの間にか唇を強く噛みしめていたらしい。「瞬」と息子の名前を呼んだが、言葉にならなかった。脳が焼けるように熱くぼうっとした。末永は次の瞬間にはアスリオン計画に承認のサインをしていた。
計画の開始日は2923年4月20日、2年前の春のことだった。
***
無機質な床と壁に囲まれたソレイユの基地の床に、正座する男がひとり。
すでに一時間程、正座をしたままのリヒトは、いい加減痺れてきた足の指を動かし、目の前の瞬を見上げた。瞬は相変わらず、ソファにふんぞり返り、腕を組んでリヒトを見下ろしている。その怒りが収まる様子は全くない。
「独断専行でイチゴを危険に晒した上、情報漏洩と敵の侵入…!」
「情報漏洩と敵の侵入は言いすぎ…」
「言い訳があるなら聞こう」
リヒトは顔を上げた。“聞こう”と言った人間の顔ではないと思いながらも、口には出さない。
「まず、色持ちの適合は若くないと適合に耐えられないってのが“向こう”の情報。
その上で、若返る遺伝子という“餌“を準備して……」
「その餌をまんまと奪われて、奴らは若返りと適合を成功させた、というわけか」
瞬に話の主導権を奪われたリヒトはムッとする。
「その若返り遺伝子は黒専用だし、データはもう使えない。」
瞬はムスッとした表情のまま、続きを促す。
「若返り遺伝子のデータは転送後の時間経過と共に劣化するように組んでもらった。時間が経てば経つほど、データは掠れて、使い物にならなくなる。マオリンの試算では…」
「もう使い物にならない、と?」
「はずだったんだけどね…」
はぁ、と瞬がため息をついた。
「アイツは信用できん。お前も今回のことでよく分かっただろう」
「あー…うん」
でも、とリヒトは続ける。
「なんか憎めないんだよなぁ」
そんなマオリンは今、「戸ヶ崎(少年)を調べたい」とラボに籠っている。きっと扱いに困る彼の処遇を、私情を挟む余地なく決めてくれたのだ。と、思う。…思いたい。連れていかれた戸ヶ崎の仔牛のような顔がリヒトの頭をよぎったが、それには知らんぷりをする。
「戸ヶ崎にしたって、あのまま母星に置いとくわけにもいかなかった。」
「今回の作戦はこれが最善だったんじゃない?」
詭弁だ。そう理解しながら、リヒトは畳みかけるように瞬に言った。
「向こう一カ月の謹慎、と言いたいところだが…一カ月の奉仕活動で妥協してやる。」
「へ?」
「一カ月間、俺の下で馬車馬のように働け。」
「……へ?」
アスリオンは地球の暴動など知らず、平和な一日を過ごしていた。何を平和ともってするかは分からないが。




