62.捕食者の戯れ
二発。
胸ぐらを掴んできた瞬間に合わせた容赦ない膝蹴りと、うずくまったところへの顔面蹴り。
たった二発で、女性同士のケリはついた。
誰が見ても勝敗は明らかだった。
――だが、名乃は手を止める事をしない。
それはつまり、処刑の始まりを意味していた。
「やめろ柊木」
そこで、千歳が名乃の腕を掴んだ。
「……はい? やめろ? え、どうして? てゆーか触らないで? キズナに嫌われちゃう」
眉一つ動かさない名乃の表情を見て、千歳の目元がピクリと反応する。
「アホか、頭冷やせ。警察に捕まりたいのか?」
「何言ってんの? ただこの肉の塊が勝手に勘違いしただけでしょ? 自業自得なんだけど」
そう言って目の前で倒れている鼻血を吹き出しながら白目を剥いた女をまるで虫ケラを見るように眺める名乃。
「何度も言わせんな、頭冷やせ」
「冷静に対処してるのに頭冷やせとかマジで笑えるんですけど。てゆーかホントに力強いなー」
そう言って掴まれている右手を動かそうとするが、千歳の腕力の前ではびくともしない。
ならばと女の首を掴んでいる左手でトドメを刺そうと一旦放した――そのタイミングで千歳に襟首を掴まれ、思い切り後ろへ引き剥がされてしまう。
「――っとっと」
しかし運動神経の優れている名乃は尻餅をつくこともなく、たたらを踏んだだけで平然と立っていた。
「こっちはサイコパス女の巻き添えなんざ喰らいたかねえんだよッ!! もう帰れ!!」
「は? サイコパス? 誰のこと言ってんの? だいたいアンタが勝手に引きずり込んだくせに何言ってんだか。そもそも迷惑してるのはこっちだって――」
「――お前ら何してくれてんだゴラァああ!!」
そこで我に返ったリーダー格の男が声を荒げる。表情を見るに、かなり頭にきているようだ。
「おい千歳ェ!! お前この状況どうしてくブフッ」
目の前の千歳の顔面を力いっぱい殴ろうとした男だが、その前に自分の顔の側面を千歳に掴まれ勢いそのままに壁に叩きつけられる。
脳震盪を起こした男はズルズルとその場に崩れ落ち、足元には無残に折れてしまった歯が二本ほど転がっていた。
「俺が知るかよクソが。そもそもお前らが余裕ぶっこいて仕掛けて来たんだろうがッ!」
千歳が残った男二人に苛立ちをぶつけるよう怒鳴りつける。
すると後ろで見ていた名乃が突然無邪気に笑い始めた。
「アッハッハッハ♪ 人にやめろとか言っておいて自分が警察沙汰な事してるとかある意味天才かも! とても真似出来そうにないわね〜♪」
まるでこの薄暗く汚れた場所には似つかわしくない女子学生の無垢な笑い声に、一瞬男たちに寒気が走る。
「でさぁ、アンタはいつまで寝てるのかな挽き肉さぁん? 私の荷物全部燃やすんでしょう? やってみたら〜? きっとアッタマおかしくなるほど後悔するわよぉ? ねぇ聞こえてる〜?」
そう言って倒れている女の足首をグリグリと曲げてはいけない方向へ踏みつけている楽しそうな名乃。
「オマエなんなんだよッ!? マジで頭狂ってんのかッ!?」
「今すぐさー子から足どけろよこのイカレ女がぁ!!」
あまりに異様な光景に怒気を交えながら叫び散らかす二人の男。どうやらそうすることで、何とかこの狂った状況化で精神を保とうとしているのだろう。
しかしそんな男二人の心情を知ってなのかハナから相手にしていないのか、名乃は全く怖気づく事もなくケロリとした顔で二人に声をかけた。
「ねえ、ライター持ってない? もし持ってたらちょっと貸して――」
「――貸すかボケェ!!」
「マジでふざけんなよクソがぁ!!」
そう言って怒り血走った目で名乃の方へ詰め寄っていく二人だが、その内の一人を千歳が横から蹴り飛ばす。
脇腹をもろに蹴られた男は突然の鈍痛にくぐもった声を上げながら倒れ、残った男は怯え交じりに相方へ声をかけていた。
「こっちのセリフなんだよタコが。おかげで話し合いどころじゃねえよ」
「ふ、ふざけんなァ!! お前の女がメチャクぐおぁッ!!」
やけくそで何かを叫ぼうとした残りの男だったが、即座に千歳が勢いよく胸ぐらを掴むと男にだけ聞こえるような小さな声で言い聞かせた。
「おいマジでいい加減黙れよオマエ? アイツに殺されてぇのか?」
「ッ!?」
冗談とは思えない千歳の口調に男の身体が強張る。
そんな男を千歳が無造作に投げ捨てると、今度は名乃にも聞こえるような声で吐き捨てた。
「オレが一番被害被ってんだよクソがぁ! おい柊木ィ! テメェの男になんざ一ミリも興味ねえんだよッ! 分かったらさっさと消えやがれバカが!」
自分にとって本当に大切な話しをする予定だったところを想定外の人物に全てぶち壊され、とうとう苛立ちの限界を迎える千歳。
だがその直後、名乃の表情がフッと抜け落ちた。
「……こんな奴らの前で当たり前のように人の名前叫ぶとか本当に躾のなってない狼ね。おかげで全員口封じしなきゃいけなくなったじゃない」
そう言ってこの場に居る全員へ一人ずつ視線を向けていく名乃。
「やってみろサイコパス女が」
千歳がそう言うや否や、名乃は倒れて意識のない女の足首から自分の足をどかし、両手をポケットにつっこみながら数歩先の千歳に向かった。
しかし、二歩歩いたところでピタッと止まると、ゆっくりと女の方に目をやった。
「……しまったな〜、踏み潰す前に動いちゃった。くだらない挑発なんかして、もしかしてこの挽き肉さんを助けたかったの?」
表向きは特に気にしている様子のない名乃が淡々と言葉を紡ぐ。
千歳はじっと名乃を睨みつけたまま言葉を返した。
「これ以上テメェにこの場をぶち壊されたくねえんだよッ。生徒会ってのはこんなイカれた連中ばっかなのか!?」
「生徒会? どうでもいいわよそんなこと。とりあえず、私の事は誰にも言わない方がいいわよ? でないと先にアンタの大切な人が壊れちゃうかもね」
瞬間、今度は千歳が表情を激変させる。
顔中の血管がブチギレそうなほど無数に浮き上がり、明らかに殺意を含んだ目つきが明確に名乃を標的として捉える。
「オイ、オマエ、なにを知ってんだ?」
「『そんなに大事な奴なら一度拝んでみたい』。その男がさっきそう言ってたけど?」
僅かに口元を吊り上げ意味深に目を細めた名乃が今も千歳に蹴られて苦しそうに跪いている男を指さす。
男は急に話しを振られた事に苦しみながらも戸惑いの表情を浮かべ、続いて余計な事をしやがったと鬼の形相で見下ろしている千歳と目が合い、生まれて初めて死を覚悟していた。
「アンタのその顔を見たら、なんだか私も気になってきたわね。身内? 親友? それとも恩人かな? 何にしろその大事な人っていうのが――」
「――もう喋んなクソ野郎が。ぶち殺すぞ?」
本当にそうしかねないような雰囲気を漂わせている千歳が不気味なほど静かに言い放つ。
しかし、名乃もまた、常人なら本能で逃げ出したくなるような殺意満載の視線を解放していた。
「本当にメンドくさい狼ね。一番の被害者はこの私だっていうのに、心外過ぎて頭痛いわ。どいつもこいつも私の邪魔ばかり……その他全員この世から消えてくれないかな」
「オマエの事情なんざ知るかボケが。今後オレの周りで妙なことしたらぶっ殺す。女だろうが知ったことか。分かったか」
「ハァ……もうツッコむ気にもならないわね」
ほとほと呆れながら溜め息を吐いた名乃が額を押さえる。ほんの数分前に自分は路地裏へ引きずり込まれた身だと説明したばかりだというのに、何故に千歳がいつまでも被害者ぶっているのか名乃には到底理解出来なかった。そんな中で再度同じ説明をする気など、ある訳がない。
それに、名乃は既にこの場を掌握することを諦めている。
ただでさえ腕力では手も足も出ない千歳相手に挑発も効かないままこれほど本気で警戒されれば、無力化などまず無理だろう。運がよくて道連れに出来ればと言ったところだろうか。
いくら身体能力が優れているといっても、所詮は平凡な女子学生の身体である名乃が屈強な男に勝つ手段など、油断しているところへの致命的な一撃をお見舞いする他に方法はなかった。
とりあえず最低限《大事な戦利品》を燃やすなどとほざいたこの愚かな肉塊だけは尊厳と自由もろとも粉砕する予定だったが、それも千歳に釘を刺されたこの状況では一先ず手を出さない方が利口だろう。これに関しては今後その機会はいくらでもあるのだから。
「アンタが何も話さなければ良いだけの簡単な話しよ。まったく……とんだ無駄足だったわ」
そう吐き捨てた名乃が千歳から視線を外すと、自分が置いた荷物の方へと歩いていく。
それを見た千歳は目の前の狂った女に舌打ちをしながら、さっさと失せろと言わんばかりの視線を投げ続けていた。
「最後に忠告しておくけど」
全ての荷物を両手いっぱいにぶら下げた名乃が、意識のある男二人へ呼びかける。
「貴方達も私の事は忘れた方がいいわよ? それがお互いの為だから」
簡潔にそれだけ告げると、名乃は返事も聞かずに表通りの方へと踵を返した。
男二人は、その気持ち悪いほど不可解な女子学生の振る舞いに一言も言い返せないまま、彼女が消え去るのを眺めていた。
「クソが……」
名乃の姿が完全に見えなくなってから、千歳が吐き捨てるように呟く。
しかし、それは決して相手を見下すような気持ちから出たものでなければ、大切な話し合いの場をぶち壊された苛立ちからでもない。
信じられない事に、今しがた目の前にいた柊木名乃という女が、力でねじ伏せるには一筋縄ではいかない人間だったからだ。
(どんだけ狂った生活したらあんなサイコパス女が出来上がるんだ?)
普通これほどの体格差があれば、余程自分の腕っぷしに自信がない限りどうしても気持ちが萎縮してしまうものである。それが暴力とは無縁のような人生を歩んできた華奢な女性であれば尚更のことであろう。
だと言うのに、歴然とした体格差があろうがどれだけ高圧的な態度を見せようが全く怯む様子もなく、それどころか迂闊に手を出せば思わぬ場所から致命的な一撃が飛んできそうな、そんな嘘みたいな危険性を秘めていた。
(ああいう頭のネジがぶっ飛んだバカは放っておくのが一番だ)
千歳は先程まで存在感を爆発させていたクラスメイトを思考から除外すると、ようやくここに来た本来の目的を果たす為に、かろうじて会話出来る状態の二人の男どもに詰め寄った。




