58.薄幸のマリオネット
十畳ほどの部屋の中はこれと言って派手さの無いとてもシンプルなデザインだったが、フローリングの床、円形のカーペットに設置してある小型のテーブル、テレビ台、勉強机、本棚等々、どこを見ても綺麗に整理整頓されており、その部屋主の育ちの良さが一目で明白となった。
しかし部屋の隅に置かれたベッドだけはシーツが皺だらけのまま床まで垂れており、ベッドの上には壁を背にした状態で身体中を布団で覆った女性が、かろうじて顔と指先が見える程度の姿で座り込んでいた。
彼女の名前は藍川 涙花
平均的な背丈だが少し痩せ細った体型で、大人しく内気な性格からかあまり周囲に馴染む事が出来ず人付き合いを苦手としている。それが直接的な原因となっているのかは定かではないが、同性から何かと下に見られるような態度をとられ、その事を本人は人知れず嫌悪していた。
腰まで届く長い黒髪は健康的でサラサラとした艶を帯びていたのだが、登校拒否になってからはそれもナリを潜め、手入れの行き届いていないボサボサの髪へと変貌している。
うっすらとそばかすを覗かせる愛嬌のある顔立ちをした瞳も今は赤々と腫れており、目元にも大きなクマが出来ている。
(この人が最後か……)
部屋のドアをゆっくりと閉めながら相手の顔を伺う名乃が優しい笑みを携えながら「お邪魔します」と囁くと、両手で鞄を持ったまま相手の反応を待ってみた。
するとすぐに相手が鼻をすすりながら敵意のない声をかけてきた。
「ゴメンね、こんな格好で。ホントに柊木さんなんだ」
「えっ?」
一瞬言われた意味が分からなかった名乃が思わず声を出す。
しかしすぐに平静を取り繕うと、ごく自然に首を傾げながら尋ねた。
「はい……そうですけど、どうしてですか?」
「だって柊木さん、学校じゃ有名人だから。まさか私の家に来るなんて思いもしなかった」
「そんな、私なんて……」
そう言ってとりあえず自嘲気味に軽く否定する素振りを見せる名乃。ファンなのかアンチなのかは知らないが、そんなどうでもいい話をする為にここまで来た訳ではない。
「本当に可愛いよね、羨ましい……」
無理に微笑みながらも何やら俯いて両手を握りしめている藍川涙花を見て、名乃がすぐに分析を開始する。
(学校休んでる原因に恋愛系の話が絡んでいそうね。おおかた思い切って告白したけど断られたか、付き合ってる相手にフラれたか、もしかしてそこに千歳彼方が関わっているのかな?)
タイプの違いすぎる二人が揃って話しをしている光景をあまりイメージ出来ないが、それも次の質問で全て分かる事だと判断した名乃が早速切り出す。
「それでさっき言った言伝の事なんだけど、えーとたしか、……ち……ちと……せ? っていう――」
「――千歳くんッ!?」
惚けながら『ちとせ』という単語を名乃が言った瞬間、ガバッと身を乗り出した藍川涙花がすぐに続きを促す。
「千歳くんがどうかしたのッ!? 教えてひいらッ……ぎ…………さん?」
しかし、話しの途中で突然名乃がドアと壁に半分ずつもたれかけさす形で鞄を立てかけると、無表情で涙花の元へ近づき片膝をベッドの上に乗せた。
「な……なに? ひいらヒィッ……!!Σ」
間近に迫ってきた名乃の顔を見た藍川涙花が、一変して表情を硬直させる。
自分の瞳を覗き込む目の前の女性は、学校で周囲の人達に向けている笑顔でも、つい先程まで見せていた人気者の顔でもなく――
「アンタ昨日ナニシテタ?」
――感情の抜け落ちた不気味な眼をしていた。
――――
――
リビングで涙花の母親から大まかな事情を聞き終えた月下は、一向に戻って来ない名乃に僅かに気がかりを覚え始めていた。
「部屋の中で話しているみたいですけど、涙花さんの方は大丈夫なんでしょうか?」
「トラブルが起きている様子はなさそうですから、一先ず安堵はしているんですけど……」
「他人と話せる状態ではあるんですね?」
「そう……みたいですね」
何やら親御さん自身も今の状況に少し驚いているようで、お互い顔を見合わせるとほぼ同時に立ち上がった。
「少し様子を見に行った方が良いかもしれませんね」
「そうね、行ってみましょう」
二人して逸る気持ちを抑えながら涙花の部屋の前まで来ると、母親がノックをしながら声をかける。
するとすぐに柔らかな表情をした名乃が、ドアを開けて微笑みを返してきた。
「長々とすみません、涙花さんのお母さん。ちょうど今お話が終わったところなんです」
「あ……そうだったんですね。わざわざごめんなさい、何もご迷惑かけていないかしら?」
そう言いながら母親がチラリと娘の涙花に目をやる。
涙花は放心したようにベッドの上でへたり込み、ただ真っ直ぐ一点を見つめていた。
「ご迷惑だなんて、お話しの合間に涙花さん何度もお返事してくれましたし、私みたいな歳下をこうしてお部屋の中に招いてくれただけでも嬉しかったです。ありがとう、涙花さん」
そうしてニコっと笑う名乃を、彼女は「うん」とだけ言ってゆっくりと頷いた。
「こんにちは藍川さん、二宮です。僭越ながら事情は伺わせていただきました。僕達生徒会で力になれることがあれば、遠慮なく言ってください。もちろん、貴女のペースで構いません。僕達はいつでもお待ちしています」
月下はダラダラと長話することなく、簡潔に、そして安心させるような優しい笑みを携えながら声をかけた。
依然として放心状態の涙花は、やはり「うん」と反応するだけだった。
「ルイカ、せめて皆さんの顔を見て――」
「――いえ、私達は大丈夫ですので」
あまり態度の良くない涙花に注意しようとした母親を、名乃が気を遣わせまいと静止する。
「そうですね、こうして藍川さんと顔を合わせる事が出来ただけでも十分ですので、今日はこれで失礼しようと思います」
月下も名乃に賛同する形で涙花の母親に声をかける。涙花本人の無気力な姿を見た結果、今は必要以上に刺激を与えないことが最善と判断しての行動だった。
「……分かりました。ではお見送りさせていただきますね」
二人の気持ちを汲んだ涙花の母親も、申し訳ないような笑みを浮かべながら肩の力を抜いた。
名乃と月下が部屋を出る時にもう一度娘の涙花に声をかけたが、反応は返ってこなかった――
――――
涙花の母親から何度も感謝と謝罪の言葉を受け取りながら藍川宅を後にした二人は、エレベーターの中で涙花の現状について話し始めた。
「藍川さん、予想以上に精神的ショックが大きいみたいですね」
「そんな感じでしたね」
「少し前にも街で怖い思いをしたらしいんですけど、不幸体質とでも言うのでしょうか、ともかく何とか学校に復帰出来るようサポートしていきたいですね」
「怖い思い?」
少し眉を顰めた名乃が月下をチラリと見る。
「ええ。さっき藍川さんの親御さんから話を伺ったんですけど、本人曰く、どうやら今年に入ってすぐに素行の悪い連中に襲われそうになったらしいんです。でもその時に助けてくれた方がいて、大事にはならなかったと言っていたようです」
「藍川さん……そんな事があったんですね」
と、感想を述べながら心の中で考え込む名乃。
先程まで涙花本人と話しをしていたが、彼女からそんな話しは一切出て来なかった。
「警察とかには話しをしたんでしょうか?」
「それが頑なに拒否したみたいなんです。思い出したくないのか、公にしたくないのか、結局理由は分からず仕舞いのようです」
「そうですか……」
声のトーンが落ちた名乃の返事と共に、エレベーターが一階に到着する。
そのまま二人並んでエントランスホールから外に出たところで、一つ伸びをした月下がゆっくりと息を吐く。
「さて、予定よりだいぶ早く終わってしまいましたけど、貴女はこれからどうしますか?」
「そうですねえ、私は……」
そう言ってポケットから取り出したスマホの画面を見る。
「せっかくなので、このまま街でお買い物してから帰ろうかと思います。月下君は?」
「僕は会長に呼ばれているので、学校にとんぼ返りですね」
「うわぁ、大変ですね。というより私も戻らなくて大丈夫なんですか?」
「まあ、あくまで呼ばれているのは僕だけなので、柊木さんはこのまま解散していただいて大丈夫ですよ」
「分かりました、ではお言葉に甘えさせていただきますね」
「はい」
確かに今からまた学校に戻るのは面倒くさいが、わざわざそれを相手にまで気負わせる必要はないと配慮した月下が嫌な顔一つせずに頷くと、最後にもう一度高層マンションを見上げた。
「藍川さん、一日でも早く学校に来てくれたらいいですね」
「来ますよ」
「えっ?」
唐突に言われた、まるで確定事項のような言葉に思わず声を発した方を見ると、年下の女子生徒は何も説明することなく明るい口調で『今日はお疲れ様でした♪』とお辞儀し、颯爽と背を向けて歩いていった。
「……柊木さん、いったい藍川さんに何を伝えたんだろう」
遠ざかる後輩の背中に向けて呟いた月下だが、当然その答えを知る由もなかった――
――――
娘の為にわざわざ様子を見に来てくれた二人の生徒を見送った涙花の母親は、玄関を閉じると軽く溜め息を吐いた。
「礼儀正しすぎて、こっちまで緊張してしまうわ。それにしても、最近の学生って美形が多いのね」
さっきの二人の顔を思い出し、こんな子達が自分の娘と友達になってくれたら少しは自信を持ってくれるのかと淡い希望を抱いていた。ついでに男の子の方は是非自分の息子になってくれないかと思ったりもしたが、それは余談が過ぎる。
彼女は目先の問題へ気持ちを切り替えると、娘の部屋をノックしてから再度部屋を開ける。涙花はさっきとまるで変化のない姿勢で一点を見つめ、ただ呼吸の度に小さく肩が動いているだけだった。
「ルイカ、私はいつでもアナタの傍に居るから、何かあれば遠慮せずに言うのよ?」
それだけ言って部屋から出て行こうと背を向けた時――
「……おかあさん」
「え?」
娘の自分を呼ぶ声が聞こえ即座に振り返ると、娘は表情も視線もそのままに、口だけを動かしてこう続けた。
「……私…………明日学校に行くね……」
名乃が中途半端な位置に鞄を置いた理由について
これは、仮に外部の者がノックせずに部屋のドアを開けてきた場合、ドア越しに引きずられたり倒れたりした鞄に少しでも注意を逸らし(相手に罪悪感を与えられれば、より効果的)自分の素顔や振る舞いを可能な限り目撃させない為に設置した、謂わば保険です。
結果的には唐突にドアを開けられる事はなかったので不発に終わりましたが、名乃は必要とあらば毎度このような保険を施します。ちなみに効果は過去に実証済みです。




