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第四章 冬籠り春去り来れば


          1


「六波羅はともかく、港か近隣の宿からでも、何か知らせは来ないのか」

 半ば苛立つように彰嗣は、兄の頼時に詰め寄った。

「ああ。宮様の行方はもちろん、宮様を攫った連中の行方も、杳として知れない」

 頼時の方は、流石に冷静を保っている。

「宮様が攫われてから、今日で五日。どうやら連中は、まだ鎌倉の何処かに潜んでいると見てよいな」

「院は、宮に執着している。連中は一刻も早く、宮を都へ連れ戻せと命じられているはずだ」

「だからこそだ。宮様はお前と共に鎌倉を、特に市を頻繁に御訪問なされて、街の者達の殆どが、宮様の御顔を知っている。今ここで下手に動くより、時期を見計らって、慎重にことを運ぶ方を選ぶはずだ。何しろ、かえでのことすら調べていたのだからな」

「だが兄上、鎌倉の街は狭い。こんな街の何処に……」

 言いかけて彰嗣は、はっと顔を上げた。

「連中を、匿っている奴がいると言うのか!」

「恐らくな。かねてから院に通じ、宮様のことも、逐一報告していた者がいると見て、相違ないだろう」

「誰だ、それは! この俺を出し抜いて、よくもそのような真似を! 御所か!」

「いや、父子とは申せ、御所は院と犬猿の仲だ。それに御所自身、宮様のことはお気に召しておいでだし、父院に有利なことを、御所自らがなさるはずがない。と、すれば」

「潤子だ!」

 激しい怒りに満ちた声で叫ぶと、彰嗣は非常な勢いで立ち上がり、控えの間にいた郎党達も、それに続いた。

「すぐに侍どもを集めろ! 伯父上の館、潤子の実家だ!」


          2


 潤子の実家、前執権の館は、隆盛を極めた亡父の時代から、左程も経ってはいないのに、今は訪れる者さえ殆どなく、ひっそりとして、潤子の老いた母親が一人、わずかな従者達と共に暮らしていた。気性の激しい娘は家族の誰に似たのか、娘とは反対に穏やかな性格の伯母を、律儀な甥の頼時は、伯父亡き後も時折訪れて、その無聊を慰めていたが、この頃ではその伯母も、病に臥す身となっていた。

「床の下まで剥がして捜せ! 天井もだ!」

 彰嗣が怒鳴る。突然現れた侍達の乱暴狼藉に、館の者達はなすすべもなく、怯えて見守るばかりだった。

「宮! 何処だ、宮!」

 彰嗣はこの数日、まるで人が変わったようになっていた。眼は血走り、常に苛立っていて、時にその顔は鬼のようだと、周囲の人々は囁き合った。

「おやめなさい!」

 突然、甲高い女の声が響き渡った。いつ里帰りしていたのか、潤子がやはり怒りに紅潮した顔で、彰嗣を睨んでいた。

「彰嗣殿、これはどういうことです! 将軍御台所であるわたくしの実家で、何という恥知らずな真似を!」

「黙れ! 何が御台所だ!」

 彰嗣が怒鳴り返す。

「仮にも御台所である者が院に加担し、宮を誘拐するとは言語道断! 院が、討幕を謀っていることを知ってのことか!」

 討幕という言葉に一瞬、潤子の眼に驚愕の色が浮かんだ。

「一体何の証拠があって、そのような世迷言を! 宮様のことなど、わたくしが知るはずもないでしょう! 直ちにやめさせなさい、奥には母上様が寝んでおられるのですよ!」

「伯母上にはすでに、わたしの館に移って頂いた」

 そこへ現れたのは、頼時である。

「伯母上は嘆いておられるぞ、潤子。お前の育て方を間違ってしまったがために、このまま死んでも、伯父上に逢わす顔がないと」

「何という……! 兄弟揃って、何という無礼な! そもそもお前達二人が、わたくしからすべてを奪ったのではないか! 兄上様も父上様も、この館の栄華もすべて、何もかもお前達が!」

 半狂乱になって、潤子は叫んだ。

「北条の一族とは言え、所詮は傍流出のくせに! 執権位が転がり込んできたことを良いことに、皇女など迎え入れて、いい気になっていられるのも今の内ぞ! そもそも無位無官の男が、こともあろうに内親王を妻にするなど、身分違いも甚だしい! それもあのような、おとなしいだけが取り柄の、実の兄に凌辱された娘など、何処が良くて――!」

 潤子はそれ以上、続けることが出来なかった。彰嗣が無言のまま、突然片腕を伸ばし、潤子の首を絞めてきたからだ。

「……黙って聴いていれば、いい気になりやがって」

「……ひ……!」

「俺のことは、何でも好きに言えばいい。だが、宮のことを罵るのは赦さない。宮がどれだけ泣き、どれだけ苦しんだか知りもしないで、勝手なことを言うな」

 いつも横柄な態度で、従兄弟の彰嗣と頼時を、見下すような眼で見ていた潤子の顔が、一面恐怖で歪んだ。

「そのくらいでやめておけ、彰嗣。仮にも潤子は御台所、内大臣家の養女だぞ」

 兄の声でようやく彰嗣は、潤子の首から手を離し、潤子はその場に、へたへたと崩れ込んでしまった。

「最近、お前が雇い入れたという、女房二人は何処だ、潤子。結婚してからろくに、実家へも足を向けたことのないお前が、この処頻繁に出入りし、新しい雇人を、次々入れていたと聴いたが」

 頼時が訊ねても、潤子は震えながら、ぽろぽろ涙をこぼすばかりで、答えることも出来ない。

「……要するにお前は、宮様のことが妬ましかったのだな。彰嗣が宮様を連れて来るまでは、お前自身がこの鎌倉で、最も高貴な女性であったのに、宮様の出現で呆気なくも、その地位から陥落してしまったのだから。后妃腹でないとは言え、畏れ多くも宮様は、一品位にも叙せられた内親王殿下。その上、誰に対してもお優しい御人柄だから、御家人衆にも、市井の者達にも慕われている。お前の高慢な鼻を、宮様はいとも簡単に、へし折ってしまわれたわけだ」

 それが最も顕著に表れたのが、放生会の時である。頼時夫婦と時嗣に付き添われて、北条家の席に臨んだ宮の姿は、その日、鎌倉中の視線の的だった。都から取り寄せた品で、ここぞとばかり飾り立てて、御所の隣で煌びやかに座っていた潤子を、見返す者は一人もいなかった。

「……御所もそうだが、何故お前はそんなにも、将軍位や執権などというものにこだわるのだ。この鎌倉というものが、どれほど脆い基盤の上に成り立っているか、少し考えればわかるものを」

 呟くようにそう言ってから、頼時は、話を元に戻した。

「恐らく新しい女房というのは、院の女官であろう。仮にも皇后に据えた宮様を、低い身分の者に世話させるなど、院の矜持が断じて許さない。わざわざ、御自分の女官を宮様のために下向させるとは、随分と念の入ったことだな」

「宮を拉致した連中も、お前がこの館に匿っていたわけか! この裏切り者が!」

「落ち着け、彰嗣。そう苛立ってばかりいては、冷静な判断も指示も出来ぬぞ。潤子、お前もいい加減観念して、洗いざらいすべて吐け。宮様は今、何処におられるのだ」

 あれ程、驕慢で横柄だった潤子の顔が、今は恐怖でひきつって、髪は乱れ、涙は止まらず、声もなく二人の従兄弟の顔を、交互に見詰めるばかりだったが、ようやくかすれた声で、ゆっくり首を振りながら答えた。

「……し……知らない……知らないわ……」

「嘘を吐くな!」

「本当よ、知らないわ! ええそうよ、確かに連中は、宮様を拉致してここへ連れて来たわ! 奥の部屋に監禁して、館の者はもちろん、わたくしさえも近付けなかった! だってこの五日というもの、連中は生命が惜しければ近付くなと、わたくし達をずっと脅していたのよ! でも、でもたった今、勇気を出して奥へ行ったら、宮様の御姿も、連中の姿も、跡形もなく消えていて――!」

 金切り声でそう叫ぶ、潤子の言葉を最後まで聴かずに、彰嗣達は急いで奥へ駆けたが、宮の気配はもちろん、院の配下の者達の気配も、すべて残らず消えていた。

「くそ! 遅かったか!」

「まだ、そう遠くまでは行っていないはずです、急ぎましょう!」

 光良の言葉で彰嗣達は、潤子などには一瞥もくれず、急いで館を後にしたが、頼時だけは、潤子の前に足を止めた。

「……本来であれば、お前を罰せねばならぬ処だが」

 すっかり打ちひしがれて、以前の高慢な潤子とは思えぬ姿に、頼時も眉を寄せながら言った。

「まずは宮様を、一刻も早く御助けすることが先決だ。お前への処罰は、すべてがすんでからのことになろう。だが、安心致せ。わたしは、お前の生命まで奪おうとは思わない。そこまでしなくても、お前はこれで、お前が大切にしていたものを、すべて失ってしまったのだからな。将軍家の御台所、前執権の娘という立場を、お前は、自らの手で汚してしまったのだ」


          3


「若殿は、ここにおられるんじゃろ! 宮様のことだで、一刻も早く、若殿にお知らせしなくちゃならんのじゃ!」

 彰嗣が館の外に出ると、侍達が囲む中から、聴き覚えのある大声が周囲に響き渡っていた。

「ああ、若殿! 宮様が行方知れずとは、本当なんじゃろか!」

 真っ青な顔をして、必死な声で叫んでいたのは、宮とも親しい、あの反物を売る男だった。だが、男の姿は草や泥にまみれ、身体のあちこちには、血も流れているという、見るも痛々しいものだった。

「どうした、その姿は。何故、こんな処に」

 彰嗣が、問いかける間ももどかしげに、男は、彰嗣の言葉を遮った。

「わしは宮様に、また新しい桐生織を買うて頂こうと、上野国まで行っておったんだがや。じゃが、宮様が攫われたという噂を聴いて、慌てて戻って来たんじゃ」

「それは有難う。宮も聴けば、さぞ喜ぶことだろう」

 ずっと強張っていた、彰嗣の頬が思わず緩んだ。宮のような身分で、これほどまでに市井の者達から慕われているとは、それだけ、宮の人柄が偲ばれるというものだ。しかし男は涙眼になって、尚も噛み付くように言った。

「わしが今朝方、急いで朝比奈坂の切通しを歩いていたら、街の方から網代車が一台、見知らぬ男達に囲まれて、非常な勢いで上がって来たんだがや。まだやっと、夜が明け始めた頃に、しかも網代車があんな道を行くだで、何事かと思って思わず立ち止まったら、御簾の下から、出だし衣が見えたんじゃ。間違いねえ、あれはわしが宮様に、初めて買うて頂いた桐生織で仕立てた、宮様の御召し物じゃ! わしが思わず『宮様!』と叫んだら、男の一人が襲い掛かって来て、わしは、崖の下に突き落とされてしまったんだがや」

「まことか、それは!」

「嘘でねえ! わしは半日も、崖の下で気を失っておったんじゃが、やっと気付いて、急いでここまで……!」

「若殿!」

 郎党達が色めきたった。だが、彰嗣は。

「念の入ったことだな。宮と親しいお前に見せるために、宮を乗せたと偽装した車を仕立てて、わざわざ朝比奈坂まで運んだのか」

「わ、若殿! わしが見たのは、偽者じゃと言うんだか!」

「恐らくな。自分の配下を女官まで含めて、鎌倉へ下向させた院だ。一刻も早く宮を取り戻すために、手間のかかる網代車など使わせはしない。ましてや朝比奈坂は、東海道へ行くには遠回りだ」

「では若殿、連中は」

 光良が言いかけ、彰嗣が遮った。

「船だ!」

 侍達が港へ走り出すのを見送って、彰嗣は、反物売りの男を振り返った。

「すまなかったな。連中は、鎌倉での宮の行動も、お前達のことも事細かに調べ上げ、念入りな計画を立てて宮を拉致したのだ」

「わしなんかに謝る必要はねえ、若殿。一刻も早く、宮様を御助けして差し上げて下せえ」

 男の眼から、ぼろぼろと涙がこぼれた。

「あんなにも品があってお優しい、生まれながらの皇女様が、二度もこんなひどい目に遭うなんて、絶対赦されることでねえ! あの院は、一体何を考えているんだがや! 若殿、どうか宮様を一刻も早く御助けして、誰よりも幸福にして差し上げて下せえ! わしらは皆、宮様が好きなんじゃ! これ以上、宮様がお苦しい思いをされたら、おばばだけでなく、わしらは若殿を、一生赦さねえだがや!」


          4


 大御堂で、突然現れた男達に囲まれ、何か強い薬を嗅がされて、そのまま気を失った。ぼんやりとした意識の中、何処かの館に運び込まれ、二人の女に世話されていたような気もする。

「わかってらっしゃいますな。主上は宮様に、ひどく執着されておられます故」

「はい。わたくしどもも主上に、宮様がお戻りあそばされた時には、心を込めて大切に御世話するようにと、何度も厳しく仰せ付けられております」

 聴き覚えのない男と女の、そんな会話も聴こえていたように思う。主上……主上? 都におられる、帝のことだろうか。帝が、わたくしに執着……? だが宮の意識が、目覚め始めたことに気付いた二人は、宮に無理矢理何かを飲ませたため、再び、頭の中に暗い闇が立ち込めて、宮は何もわからなくなった。

 女の言葉通り、誰も宮を、手荒に扱う者はいなかった。けれども、宮の意識が目覚める気配がある度、女達は繰返し、宮にそれを飲ませた。そして、意識を失っている長い間、宮は何かひどく、揺れている感覚に襲われていた。恐怖と不安が宮を包み、閉ざされた眼から涙がこぼれた。鎌倉から、連れ出される。彰嗣様から、引き離されてしまう。抗いたくても、逃げ出したくても、意識を深い闇の底に閉ざされて、宮はどうすることも出来ない。助けて。助けて、彰嗣様。

 ようやく宮が、長く重苦しい闇の中から解放された時、周囲には誰もいなかった。何度も薬を飲まされたからだろう、頭には激痛が走り、身体がひどく重かった。それでも、やっとの思いで身体を起こしてみると、宮は見事な造りの、しかし、随分と古びている部屋の中にいた。しかも宮は、新しく整えられたばかりの、正装に身を包んでいる。宮はぞっとした。やはり、都に連れ戻されてしまったのだ。早く逃げなければ、院にまた捕まってしまう。

「何処へ行くつもりだね……?」

 その時だ。闇の中からあの、低く響き渡る声がした。宮の身体が凍り付く。灯火の中に浮かび上がったのは、紛れもなく実の妹宮を凌辱し、皇后にまで据えようとした、あの異母兄の院の御姿であった。

「ああ、間違いない。あなただ、宮。誰よりも愛しい、わたしの大切な妹宮」

 宮の身体が後ずさる。震えが止まらず、声も出ない。ただ必死に首を振って、院を拒もうとする。

「どうしたのだ、宮。まさかこのわたしを、お忘れになったわけではあるまい。可哀想に、今までずっとあのような、関東の夷などに囚われて、苦しんでおられたのだろう。だが、もう大丈夫だ。わたしのそばに、こうして戻ったからには、もう何の心配もない。さあ宮、こちらへおいで」

 彰嗣であれば、市での時のように、宮は躊躇いもなく、自らその胸に飛び込んでいたのだろうに。

「……来ないで下さい……来ないで……」

 首を振りながら、かすれたような声で、宮は、それだけ言うのが精一杯だった。

「何を怖がっているのだね。わたしだよ、宮。あなたはこのわたしを、忘れてしまったと申されるのかね」

「いやあああ!」

 逃げる間もなく抱きすくめられて、宮は悲鳴を上げた。

「離して! 離して、嫌! 彰嗣様、彰嗣様!」

「何故、あのような夷の名を呼ぶ。あなたと契りを交わし、夫となったのは、このわたしであるのに」

「違います! わたくしは、わたくしは、彰嗣様の妻となったのでございます! どうか、どうかこの手をお離し下さいませ!」

 この言葉に、院が顔色を変えられた。

「何を申される! あなたは、このわたしの妃! わたしの皇后であられるのだぞ!」

「嫌です、嫌! わたくしは、彰嗣様の妻なのでございます! 院は、上様はわたくしの、実の兄上様ではございませぬか!」

 院は、信じ難いというような御眼で、腕の中で抗う宮をお見詰めになった。以前の宮は、こうではなかった。内裏へ初めて上がった時の宮は、怯えた眼差しで院を見詰めるばかりで、己を護るすべも持たず、院はいともやすやすと、この妹宮を凌辱なさった。院にとって宮は、容易く手折ることの出来る、弱々しく頼りなげな花だった。けれど今では、弱々しいながらも何とかして院から逃げようと、宮は非力な腕で抗い、声を上げて、院ではない男の名を呼んでいた。

「お願いでございます、どうかわたくしを、鎌倉へ戻して下さいませ! 彰嗣様のおそばへ、帰らせて下さいませ!」

「ならぬ! あなたはわたしの皇后! 何故あなたは、わたしの気持ちをおわかりにならぬのか!」

「上様、上様が愛しておられるのは、わたくしなどではございませぬ! 上様はわたくしの中に、母の面影を見ておられるだけでございます!」

 宮は必死で、あくまでも、院を拒むのをやめなかった。院の眼に、怒りの色が浮かび上がった。

「宮……!」

「いやあ、彰嗣様!」

 その時、倒れた宮の懐から、懐剣が転がり落ちた。いつの間に、このような物が……? そんなことを考える間もなく、宮は、急いでそれを拾い上げた。

「来ないで!」

 髪を振り乱し、宮は院に剣を向けた。

「来ないで下さいませ! それ以上わたくしに、近付かないで下さいませ!」

「捨てなさい、宮。そのような危うい物、宮には似つかわしくない」

 それでも院は、余裕のある表情で、宮を諭すように仰せになる。

「さあ、いい子だから、わたしの言うことをお聴きなさい。そんなに怖がる必要はない。わたしはあなたを、一生かけて大切にすると誓うよ。あなたはわたしの、たった一人の妹宮なのだからね」

 その表情は、宮を犯したあの時と、同じものであられた。声は優しくても、まるで魔物が獲物を追い詰めたような、不気味な微笑みを浮かべて、ゆっくりと宮に近付いて来られた。

 触れられるくらいなら。院に、触れられてしまうくらいなら。彰嗣が心を込めて、愛しみ癒してくれたこの肌を、再び院に穢されるくらいなら。

「宮!」

 院が叫ばれるのと同時に、宮は、己の胸に懐剣を突き立てた。


          5


「六波羅の叔父上はかねてから、院の御様子を調べ、逐一わたしに報告して下さっていた。彰嗣、お前にも、これは見せていたな」

 頼時は彰嗣の前に、いくつかの書状を並べながら言った。

「ああ。院は今、鳥羽の離宮にいるそうだが」

「そうだ。宮様も必ず、そこにおられると思う」

「以前、俺も見に行ったことがある。殆ど廃墟同然だったが」

「そんな処でも、御自分の本拠にされたということは、やはり、討幕の意志がおありと見ていいだろう」

 兄の言葉に、彰嗣は、憤怒の表情を浮かべて叫んだ。

「何が討幕だ! 後鳥羽院が何故、いとも容易く敗れたか、院はわかっているのか!」

「内裏の内しか知らぬ人間に、戦など説明してもわからぬさ」

 頼時は鼻で笑った。

「お前の悪い処は、すぐ感情的になることだ。宮様がなかなか、お前に心をお許しになられなかったのも、お前がすぐ感情的になって、宮様を責めたからだろう。わたしも父上達も、宮様がお前に殺されるのではないかと、随分心配していたのだぞ」

「こんな時に、そんな話はやめてくれ、兄上。すべて片付いてから、ゆっくり小言を聴くよ」

「父上が、自分も宮様を救出に行くと言って聴かない。一緒に連れて行ってやってくれ」

「先日、またぎっくり腰になって、まだ床の中のくせに。年寄りなど足手まといだ」

 そう言って彰嗣は、露骨に顔をしかめた。

「お前の父親だぞ、そのようなことを申すな。父上も、宮様のことが心配で仕方ないのだ。わたしとてお前と一緒に、宮様をお救いに行きたいのはやまやまだが、執権ともあろう者が、鎌倉を留守にするわけにもいかぬ」

「心配するな。宮は、俺が必ず助ける」

 頼時は、弟の怒りに満ちた眼を見詰めた。

「院が、憎くて堪らぬのはわかるが、もう少し気を静めてから行け、彰嗣。そんな鬼のような顔のままでは、宮様にまた怖れられてしまうぞ。苛立ってばかりいては、冷静な判断も指示も出来ぬと申したろう」

「兄上は宮を知らないから、そんなことが言えるんだ」

 己の膝を掴んでいた、彰嗣の手が震えた。

「宮は普段、内気でおとなしい分、いざとなれば、大胆な行動を取る癖がある。院の前に引き出された宮が、一体どんな行動に出るか、俺は想像するのも怖ろしい」


          6


『お可哀想に』

 頬に、どなたかの涙が、ひとすじ流れ落ちたような気がした。

『お可哀想に。何故あなたが、このような目に遭わねばならぬのか』

 品のある、低く哀しみの籠った声が、呟くようにそう仰せになった。そしてどなたかが、そっと何度も、髪を優しく撫でてくれる気配を、宮はずっと感じていた。その大きな、優しく包み込むような手は、最初にそうなのかと思ったくらい、彰嗣によく似ていた。

「……彰嗣様……」

 今頃、彰嗣はどうしているだろう。もう二度と宮は、彰嗣に逢えないのだろうか。

「宮様。宮様、お目覚めでございますか」

 聴き覚えのある女の声に、宮はようやく、重い瞼を開けた。

「おお、宮様。良かった、やっとお気が付かれて」

 目覚めた宮の眼に、そう言って安堵の吐息を漏らす匂当内侍と、内侍と共に以前、宮を大原まで迎えに来た、二人の典侍の、やはりほっとした表情が映った。

「……あなた達……」

「控え目で、おとなしい御方と思うておりましたのに、意外にも大胆な真似を、あそばされる御方でございますね、宮様。御自分の胸に剣を突き立てるなどと、そのような怖ろしいことをおさせ申し上げるために、わたくしどもは宮様に、懐剣を御預け申し上げたわけではございませぬのに」

 それではあの剣は、この三人が持たせてくれたものなのか。

「幸い、急所を外れておりましたが……この三日というもの、宮様は、生死の境を彷徨うておられたのでございますよ」

「……わたくしを逃がして……」

 宮の眼から、涙が溢れた。

「あなたはあの時も、清涼殿から、わたくしを逃がしてくれたわ。どうかお願い、もう一度、わたくしを逃がして」

「御無理を申されますな。やっと、意識を取り戻したばかりでいらっしゃいますのに、どうやってその御身で、この離宮から逃れられると仰るのです」

「離宮……? ここは、都の仙洞御所ではないの……?」

「ここは、鳥羽の離宮でございます。別名鳥羽の水閣とも、城南の水閣とも呼ばれておりますが」

 宮は、改めて思い出した。彰嗣に以前、聴いたことがある。都から南、鳥羽にある巨大な池のほとりに、白河院がお建てになられた、都並みの壮大な離宮があると。貴族の別荘や数多くの寺院と共に、まるで遷都したかと思われるような御所で、隠居のための離宮というよりは、帝のおられる都に対し、上皇のための第二の都として、造営されたものだったのだろう。歴代の法皇や上皇に愛されたが、相次ぐ戦乱で荒れ、ことに後鳥羽院が、隠岐の島に流されて後は、今では住む者もなく、すっかり寂れてしまっていた。

 宮が今、寝んでいる部屋も、御帳台や御簾などの調度品は新しく、部屋自体も豪華な造りではあったが、随分と古びていて、傷んだ箇所を直し、ようやく住めるようにしたものだ。恐らくは、殆どの建物が廃墟と化していて、この部屋のように、かろうじて住める御殿を直し、院が、御自分の御所と御定めになられたのだろう。

 怯えた眼差しで、宮が辺りを見廻すのを見て、内侍が宥めるように言った。

「御心配あそばされますな。主上は、南殿の方においででございます。宮様がおられるここは、北殿でございます故」

「主上……?」

「主上は、譲位など認めておられませぬ。主上はあくまで主上、そして宮様は、その皇后であらせられると」

「いやあ!」

 宮が叫んだ。

「嫌よ、嫌! わたくしは、彰嗣様の妻になったのです。皇后などではありません!」

「彰嗣、と申すのでございますか、あの夷は」

 内侍が、忍び笑いを浮かべながら訊ねた。

「大胆にも帝御寵愛の姫宮を、内裏から盗み出したばかりではなく、その御心まで、まんまと我がものにしてしまうとは。確かに、りりしい益荒男振りとは思いますが、あのように野蛮な男、わたくしの好みではございませぬ」

「……野蛮、なんかではないわ、彰嗣様は」

 内侍をまっすぐ見詰めて、宮は言った。

「彰嗣様は御誠実で、お優しい御心映えのある御方よ。あの時、絶望の底にいたわたくしに、生きろと励まし、己の生涯かけて、わたくしを護ると誓って下さった」

 宮の眼から、はらはらと涙がこぼれ落ちて行く。

「彰嗣様がそばにいて下さったから、わたくしは、今まで生きて来られたの。彰嗣様がいなければ、わたくしは、とっくの昔に生命を絶っていたわ」

「宮様、この懐剣に、見覚えはございませんか」

 内侍は、宮が己の胸に突き刺した、あの懐剣を宮に差し出した。

「これはあの時、宮様が、あの男から奪い取った物でございますよ」

 驚きのあまり、宮は眼を瞠った。震える手をその剣に伸ばすと、内侍がそっと握らせてくれた。月明かりの下、清涼殿の渡殿。宮の運命を大きく変えた、彰嗣との邂逅。それらをまざまざと思い出して、宮は涙を新たにした。

「彰嗣様……」


 ぬばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れて更に恋ひわたるかも


 夢にも思わなかった。彰嗣から引き離されて初めて、こんなにも自分が、狂おしいほど彰嗣のことを、愛していると思い知らされるなんて。愛しています。愛しています、彰嗣様。わたくしはこんなにも深く、こんなにも強く、あなただけを愛しています。

「……宮様、哀しいお知らせを、お伝え申し上げなくてはなりません。どうか、覚悟してお聴き下さいませ」

 宮の涙を見詰めながら、内侍は言った。

「御懐妊あそばされておいでだったのですね、宮様。ですが残念ながら、御子は流れておしまいになりました」

 哀しい悲鳴が、部屋の中に響き渡った。

「……彰嗣様……彰嗣様……」

 護れなかった。彰嗣の子を、宮は護ってやれなかった。あんなにも大切に、心を込めて愛しんでくれた彰嗣の愛に、宮は、応えることが出来なかった。

「……まこと宮様は、鎌倉の地で、御幸福にお暮らしでおられたのでございますね。あの夷と共に」

 咽び泣く宮の背を撫でながら、内侍は再び口を開いた。

「あの男のことです。今頃は都への道中を、宮様を目指し、ひた走りに走っていることでございましょう。主上が差し向けた、配下の者達の調べでは、あの男の、宮様への執着振りは、鎌倉でも大層な評判であるとか」

「……赦して、下さるかしら、彰嗣様は……」

 しゃくり上げながら、宮は言った。

「……でも、逢いたい。逢いたいの、彰嗣様……」

「何を申されます。赦すも赦さないも、あの夷にとって宮様は、何者にも換えられぬ、ただ一人の御方でございましょうに」

 典侍の一人が、薬湯を運んできた。

「さあ、今は御心をお安らかに、一日も早くお怪我を治されることに努められて、お寝み下さいませ。主上も、御自分の眼の前で、宮様が御自害を図られたことに、衝撃をお受けになって、今は流石に、こちらへの御渡りは控えておられます故、御心配あそばされる必要はございませぬ」

「い、いらないわ、そんな物」

 怪しげな薬を、散々飲まされた記憶が一度に甦り、宮は、思わず声を上げた。

「この者達が船で、宮様に差し上げた御薬は、主上から命じられた物でございましたが、こちらはわたくしの眼の前で、医師に調合させた、宮様の傷を癒すための、まことの化膿止めでございます。お眠りを誘う御薬も、確かに入ってはおりますが、どうぞここは、わたくしをお信じになって、お飲みあそばされますように」

 宮は尚も躊躇ったが、内侍がこれまで何かと、宮を助けてくれたことを思い起こせば、もうこれ以上は宮を、苦境に落とすような真似はしないはずだった。二人の典侍にしても、院の御命令であったとは申せ、宮の拉致に加担したことは、決して本意などではなかっただろう。

「あの……他に、どなたかがおいでになられなかったかしら」

 薬湯を飲み、眠りに引き込まれるのを感じながら、宮が訊ねた。

「先程からどなたかに、呼ばれているような気がするのだけれど……」

「いいえ、わたくしどもの他は、どなたもここにはおられませぬ。さあ、どうぞ御安心あそばされて、ごゆっくりお寝み下さいませ」

 怪我と流産からの強い衝撃で、宮は、身も心も疲れ果てていた。薬湯の催眠効果にも誘われ、宮はすぐに眠りに落ちた。その耳に、先程の低く優しい声が響いてきて、あの彰嗣に似た大きな手が、宮の髪を再び撫で始めた。

『お可哀想に、宮。お可哀想に』

 内侍は、他には誰もいないと言った。それでは、先程からのこの不思議な安らぎは、一体何なのだろう。

『待っておいで、宮。あの男は、必ず宮を助けに来る。あの男を信じて、宮は、何も心配せずに待っておいで』

「……父上様……」

 眠りの中でそう呟いて、宮はひとすじ、涙をこぼした。


          7


 ぼんやりとした意識の中で、宮は、自分の顔を覗き込んでおられる、その御方の御顔を見返していた。

 その御方は、律儀な御性格をそのまま表すような、端正で、気品に満ちた御顔をなさっておいでだった。口元には優しい微笑みを浮かべ、愛情の籠った眼差しで、宮の顔を、まっすぐ見詰めておられた。そして宮の頭を、御自分の膝に乗せて、先程から宮の、ぬばたまのように美しい髪を、繰り返し撫でておられるのであった。

 ……わたくしはまだ、夢の中にいるのかも知れない。宮はそう思った。宮がまだ幼い頃、御隠れあそばされたはずの故院が、こうして宮を、抱いておられるなんて。けれどもこんな風に、一度でいいから、故院に抱いて頂きたいと、何度夢に見て来たことか。お願い、夢なら覚めないで。

『お目覚めか、宮。わたしが、おわかりになるか』

 夢の中と思っていたその御方が、突然宮に呼びかけた。思いがけぬことに宮は眼を瞠り、唇が震えた。

「……父上様……? 本当に、本当に父上様でいらっしゃいますの……?」

『夢ではない、宮。わたしは確かに、あなたのおそばにいる』

「父上様……!」

 宮の眼から、涙が滝のように溢れてきた。

「……夢ではないのですね、父上様。本当に、本当に父上様が、わたくしのそばにいらして下さるのですね……」

『わたしも、あなたにずっとお逢いしたかった。まだ幼いあなたを、こうして抱いていて差し上げたいと、何度も夢に見ていた。ああ宮、わたしは今、この上ない幸福を味わっている。ずっと夢見ていたことが、このようなかたちで実現するとは』

 故院も涙を流されながら、宮に語りかける。

『赦しておくれ。あなたをお護りするためとは申せ、わたしは、あなたを宿していたあなたの母君を、心ならずも追放致さなければならなかった。これまで、どれほどそのことを、わたしは悔やみ続けたことか』

「いいえ。いいえ、父上様。謝らなければいけないのは、わたくしの方でございます」

 宮は、故院の御膝にしがみ付いて、しとどに涙を流す。

「わたくしは今まで、父上様の御愛情を信じておりませんでした。父上様に愛されていなかったのだと、父上様に捨てられた子なのだと、勝手に思い込み、勝手に父上様を恨んで……」

『それもすべて、わたしの責任だ。申し訳ない、宮。だが、今はこうして、あなたを抱いている。心ゆくまで、あなたを愛することが出来る』

「わたくしも、わたくしも嬉しゅうございます。父上様の御愛情を、独り占めすることが出来るなんて」

『恵州尼に、感謝してもし切れない。恵州尼は、あなたをわたしの望み通りの、淑やかで優しい娘に育てあげてくれた』

「父上様……父上様……」

 故院の御膝の温かさに、宮は、いつまでも涙を流すのだった。


          8


『今、あの男は、まるで鬼のような顔をして、ひた走りに馬を走らせているよ。あの分だと十日もかけずに、鳥羽まで来てしまうであろう。乗り潰された馬達の、気の毒なことよ』

 再び宮の髪を撫でながら、故院は何やら、おかしがっておられるような御様子で、そう仰せになられた。

『まさかあのような荒武者が、わたしの娘婿になるとは。あなたの母君もさぞ、驚いておられることだろう』

 そして、くすくすとお笑いになる。宮は、閉じていた眼を開けて、故院の御顔を見詰めた。

「父上様、彰嗣様は、彰嗣様の御子を死なせてしまったわたくしを、お赦し下さるでしょうか」

 犯した罪を打ち明ける、愛娘の眼差しは哀しく曇っているのに、それを、お見守りになられる故院の眼差しは、この上ないお優しさに満ちている。

「わたくしはいつも、彰嗣様に愛されてばかり、護られてばかり。なのにわたくしは彰嗣様の、何のお役にも立てないのです。その上、授かったばかりの彰嗣様の御子を、自ら殺してしまうなんて……」

 宮は泣いた。再び故院の御膝の上で、さめざめと泣いた。そんな宮に故院は、いっそうお優しい微笑みをお浮かべになって、繰返し、宮の髪を撫で続けておられるのだった。

『宮はまこと、あの彰嗣という男を、心から愛しておられるのだね。だが宮、あなたがそんなに哀しまれる必要はないよ。あなたはあなたでおられることで、十分、彰嗣の役に立っているのだから』

「父上様……」

『何故なら彰嗣という男も、あなた以上にあなたのことを、心から愛しているのだから。かりそめの恋しか知らなかった彰嗣に、真実の恋を教えたのは宮、あなた御自身なのだから』

「そんな。彰嗣様は、多くの女人方を虜にさせたこともある御方。そのような御方に、わたくしのような者が……」

『だが今は、あなたの虜だ』

 故院の向けた悪戯っぽい眼差しに、宮の頬は真っ赤に染まった。

『あなたの他人(ひと)を疑うことを知らぬ、清らかな御心が、彰嗣を、真実の恋の虜とさせた。女遊びに現を抜かしておった彰嗣を、あなたはいとも容易く、恋の滝壺に突き落としてしまわれた』

「……お赦し下さいませ、父上様。このようなことを申し上げておきながら、それでもわたくしは、彰嗣様にお逢いしたくて仕方ないのです」

 故院に手を合わせて、宮は赦しを乞うた。

「父上様にお逢い出来て、この上ない幸福を味わいながらも、その一方でわたくしは、彰嗣様のことばかり考えているのです。わたくしを抱きしめる、彰嗣様の力強い腕も、温かな胸も、ひとつひとつが恋しくて、今すぐにでもその中に戻りたい、彰嗣様に抱きしめて欲しい、そう思っているのです。このようにはしたない、恥知らずの親不孝な娘を、どうかお赦し下さいませ」

 故院は、変わらない。そのお優しい眼差しが、更に温かく、深く、宮を包み込みはしても、御手は変わらず、宮の髪を優しく撫で続けておられた。

『彰嗣が来るまで』

 そして故院は、宮を慰めるように、更にこう仰せになられた。

『わたしが彰嗣の代わりに、あなたをお護りする。だから、あなたは何も御心配なさらずに、ゆっくりお寝みなさい。いいね、わたしの愛しい姫宮』

「父上様……」

 故院の膝の上で、宮はやがて、安らかな眠りに落ちて行った。


          9


「お待ち下さいませ、主上! 主上!」

 内侍は声を張り上げて、院を追った。

「お願いでございます、北殿に御渡りになることは、どうかお控え下さいませ! 宮様は、一度はお気が付かれましたものの、今は再び深い眠りにつかれて、わたくしどもが呼びかけても、決してお目覚めにはなられませぬ!」

「黙れ! この不忠者が!」

 院が叫ばれる。

「お前が、清涼殿から宮を逃がしたことも、そして恵州尼へ、秘かに手紙を送ったことも、このわたしが何も知らぬと思うてか! 宮はわたしの妃、皇后であるぞ! 帝が皇后と褥を共にして、何が悪いと申すのか!」

 院は、いつになく荒れておいでだった。内侍が、そばにいる典侍に眼で問うと、声を潜めてこう答えた。

「思うように侍が集まらず、こちらに来られる貴族方も少なくて……」

 当然だ。政変で皇位を追われ、廃墟同然の離宮に籠られる院に、味方する者など皆無と言っていいだろう。

「落ち着きあそばされませ、主上。お気持ちはわかりますが、大事を前にして、そのように苛立っておられては、目的を成し遂げることは出来ませぬ」

「あの男が来る……!」

 院の御眼は、血走っておられた。

「あの男は、必ず宮を取り戻しに来る。そのようなことは赦せぬ。断じて宮を、あの夷に渡してなるものか……!」

「主上……!」

 譲位なさって以後、内侍も他の者達も幾度となく、院をお諫め申し上げて来た。だが、院が何故、これほどまで宮に執着し、皇位に執着なさるのか、誰にもわからなかった。

「お待ち下さいませ! どうかお待ち下さいませ、主上!」

 追いすがる内侍や、他の女官達をも振り払い、院は非常な勢いで、宮のいる部屋へと向かわれた。だが、宮の部屋へ続く渡殿を曲がった途端、院のおみ足は、突然立ち止まられた。

 急にどうされたのか、内侍が訝しんで院の御顔を見上げると、院の御顔は、まるで悪鬼でも見たように、恐怖で蒼ざめておられた。

「……父上……!」

 ひと言呟かれ、その御身が震え始めて、院はくるりと踵を返されると、そのまま逃げられるように北殿を飛び出され、御自分の御住まいの南殿に戻られてしまった。


          10


 宮は、ふと眼を覚ました。

「父上様……?」

 先程まで、宮に寄り添っておられたはずの、故院の御姿が忽然と消えていた。気配すら、何処にも感じられなかった。

「父上様……父上様……」

 何度呼んでも、返事はなかった。宮のそばにいて、護って下さると仰っていたはずなのに、突然どうして? 故院は急にお気が変わられて、宮をお見捨てになってしまわれたのだろうか。

「……父上様……」

 宮の眼から、はらはらと涙がこぼれ落ちてきて、宮はそのまま泣き崩れた。やはり、故院は御怒りになられたのだ。あまりにも宮が、彰嗣のことばかり考えて、彰嗣に逢いたがってばかりいるから、故院はあきれられて、宮を見放されてしまわれたのだ。

「……彰嗣様……」

 逢いたい。故院に見放されようとも、やはり宮は、彰嗣のことが恋しくてならない。


 かくのみし恋ひし渡ればたまきはる生命も我は惜しけくもなし


(このように、あなたのことばかり恋い焦がれていると、魂極まる生命とて、わたくしは惜しくもないとまで思うのです)

「……こんな時にも、やはりあなたは、万葉なのだな」

 突然、その誰よりも恋しいと思う男の声が、咽び泣く宮の涙を止めた。驚いて身体を起こすと、御帳台の帳の前に、彰嗣が腕を組んで、衾の中の宮を見下ろしていた。

 引き離された時も突然だったように、再会もまた、突然で思いがけなかった。宮は、あんなにも恋い焦がれた人の顔を、茫然と見詰めた。眼の前にいるのは、本当に彰嗣なのだろうか。何しろ、何処からそんな物を手に入れたのか、立烏帽子に直衣など着て、まるで本物の公達のようである。ましてやここは、鎌倉から遠く離れた鳥羽の離宮。望まぬ皇后に据えられてしまった宮が、軟禁されている御殿の奥の寝所で、逢いたくても逢えないはずの人が、今こうして宮の顔を、まっすぐ見詰めているのだから。

「あなたが攫われた時、何か、あなたが残した手掛かりでもないかと思い、あなたの部屋の中を調べさせてもらった。その時、御所があなたに贈った写本を、いくつか読んだのだけれど、あなたがのめり込むだけあって、意外と面白いものだな、万葉も」

 彰嗣が再び口を開き、宮のそばにゆっくりと近付いても、宮はまだ、声を出すことも出来なかった。

「驚いたのはあの、天智帝の一の功臣だった鎌足公も、後に妻になる女とはいえ、仮にも帝の妃だった鏡王女(かがみのおおきみ)に、大胆な相聞歌を贈っていることだ」


 玉くしげみむまど山のさなかづらさ寝ずはつひにありかつましじ


(玉櫛笥を開けて見る、みむまど山――三室戸山?――のさな葛のように、あなたと褥を共にせずにいるなど、わたしにはとても出来ないだろう)

 宮の頬が、真っ赤に染まる。

「それだけじゃない。他の女のことも、まるで大声上げて詠んでいるような歌がある」


 我はもや安見児(やすみこ)得たり皆人の得難(えかて)にすといふ安見児得たり


(わたしは、安見児を手に入れた。宮廷中の誰もが、得難いと言う安見児を、わたしは手に入れた)

「だが俺は、この歌で、鎌足公に親近感を持ちましたよ。俺も鎌足公のように、あなたを妻にしたことを、大声で都中に叫んでやりたい気持ちだ。『我はもや朝子を得たり皆人の得難にすといふ朝子を得たり』とね」

「彰嗣様!」

 相変わらず、ずけずけとものを言う彰嗣に、驚きと恥ずかしさで口がきけなかった宮も、思わず声を上げた。

「そのようにわたくしの名を、人前で呼ぶのはお控え下さいと、以前にも申し上げておりますでしょう。万葉にも、妻が夫をたしなめる歌がありましてよ」


 あらたまの年の経ぬれば今しはと(ゆめ)よ我が背子我が名()らすな


(あらたまの年が経ったのだから、今ならばもう良いと言って、どうかあなた、わたくしの名を、皆の前で告げたりするようなことは、決してなさらないで下さいませ)

 けれども宮は、それだけ言うのが精一杯で、後はもう何も言えなくなってしまった。これは夢ではない。確かに今、彰嗣がこうして、宮の眼の前にいる。以前と変わらぬ、口の悪さで宮をからかう一方、その眼差しには、宮への激しく強い愛情を込めて、宮の身を、突き刺さんばかりに見詰めている。そう思った次の瞬間には、宮はあの力強い腕で衾ごと、温かい胸の奥に抱きしめられていた。

「彰嗣様、彰嗣様……!」

「宮、ああ宮、確かにあなただ。俺のあなただ」

 宮の温もりを確かめながら、彰嗣は宮の唇を求めた。いつもであれば宮は、それを躊躇いがちに、恥らいながら受け留めるばかりであったけれど、今日の宮は、初めて自ら、彰嗣の唇を貪った。その頬には涙が流れ、これは夢ではないと、確かに彰嗣の腕の中に宮はいるのだと、確かめるように、宮は彰嗣に応じていた。そして彰嗣も、宮のそんな想いに応えるように、息も出来ぬほど深く、宮に口付けていた。

「……う……!」

 しかし宮が、突然、胸を抑えて顔を歪めた。すぐに彰嗣の顔色が変わり、彰嗣は突然、宮に襲い掛かってきた。

「彰嗣様、嫌! やめて!」

 以前、彰嗣に手籠めにされた時にも、宮の抵抗は無駄な努力に終わった。ましてや今は、宮の身体に、抗えるほどの力はない。彰嗣は、宮の夜着も、巻かれた晒しもはだけ取って、宮の左胸に無残にも残る、ようやく血が止まったばかりのその傷を、蒼ざめた顔で茫然と見詰めた。

「……お赦し下さい、彰嗣様。お赦し下さい……」

 宮が縋り付くように、謝罪の言葉を口にする。

「わたくし、あなたの御子を殺してしまいました。せっかく授かった生命を、わたくしは自ら殺してしまったのです。もしお赦し頂けないのなら、今すぐここで、わたくしを殺して……!」

「俺に、そんなことが出来ると思うのか!」

 殺気立ったような声で、彰嗣が叫んだ。

「……いや、こうなることは初めからわかっていた。己を傷付けることくらい、あなたならやりかねないと」

 震える声で、彰嗣は続けた。

「だが宮、どうして俺を待っていてはくれなかった。こんなことをすれば、俺がどれだけ哀しむか、一度も考えてはくれなかったのですか」

「……触れられたくなかったのですもの。わたくしの肌が、彰嗣様以外の方に触れられるなんて、絶対に嫌だったのですもの……!」

 宮は泣きながら、ようやく答えた。

「それとも彰嗣様は、わたくしがもう一度、院に穢されてしまっても、構わなかったと仰るのですか」

 彰嗣はそれに答える代わりに、再び宮の唇を貪り始めた。


          11


 晒しを巻き、夜着も直してやってから、彰嗣は、宮を衾に包んでそっと横たえた。幸福そうに微笑みを交わして、二人はどちらともなく、相手に問いかけた。

「あの、彰嗣様」

「宮、先程」

 思わず互いに笑ってから、宮は彰嗣に質問を譲った。

「宮、先程、俺がここへ入って来た時、あなたは『父上様』と、何度か呼んでいたようだが」

「ええ、そうなのです。故院が、父上様が、先程までここにおいででございましたの」

「故院が?」

 彰嗣は、眼を瞠った。

「父上様は、必ず彰嗣様は、わたくしを助けに来て下さるから、あなたは、彰嗣様を信じて待っておいでなさいと、わたくしを励まして下さいましたの。彰嗣様がいらっしゃるまでは、父上様御自ら、彰嗣様の代わりに、わたくしを護って下さるからと。そして、御自分の膝にわたくしの頭を載せて、ずっと髪を撫でていて下さいましたのよ。でも先程、わたくしが眼を覚ました時には、父上様の御姿は、もう何処にもおいでではなくて……わたくしが、彰嗣様のことばかり考えていたから、やはり父上様は御怒りになって、御姿を消しておしまいになられたのではないでしょうか」

「故院が、ね」

 初めは彰嗣も、宮の話を唖然とした顔で聴いていたが、やがて、己の膝の上に頬杖を付くと、ひどく不機嫌な顔になった。

「あ、あの。わたくしが嘘を吐いていると、彰嗣様は疑っていらっしゃいますの?」

 宮は慌てた。

「嘘ではありませんわ。本当に、ここに父上様が……」

「別に、宮を疑ってなんかいませんよ。あなたが、嘘など吐けるような性格でないことは、誰よりも俺がよく知っている」

「でしたら……」

 彰嗣は頬杖を付いたまま、宮の、不安そうに自分を見上げる眼を見詰めた。

「あのですね、宮」

「はい、彰嗣様」

「俺は、あなたの夫です」

「はい、わたくしは、彰嗣様の妻でございます」

「故院は、唯一の姫宮であるあなたを、御自分の代わりに生涯かけて愛し、護れる男があなたの夫となるようにと、望んでおられました」

「はい……」

 宮は頬を染めながら、少し訝しそうに答えた。

「そして俺は、あなたを生涯かけて愛し護ると、故院に誓いを立てました。なのに何故、故院御自ら宮を護っておられるのですか」

「え? な、何故って」

 彰嗣の顔は、ますます気難しくなっていく。

「宮を護るのは、俺だけのはずなのに。今更俺を差し置いて、そんなことをしなくても」

「あ、彰嗣様。どうしてあなたが、御怒りになられるのです」

「宮、あなたはいつになったら、俺の気持ちをわかってくれるのです」

 宮は戸惑い、彰嗣は溜息を吐く。

「あなたは、俺だけのものだ。俺はあなたを、故院にも誰にも渡したくないと思っているのに」

「あ、あの。彰嗣様、あの」

「いくら父親だからって……俺に譲った以上、宮のことは、俺に全部任せておけばいいのに」

 そう言いながら彰嗣は、言葉が見付からず、ますます焦る宮の唇を塞いでしまう。

「……我儘過ぎると、御自分でお思いになりませんか、彰嗣様」

 ようやく唇が解放されると、宮が珍しく、彰嗣を詰るような言葉を口にした。

「何を今更。俺が我儘だってことは、あなたもよく御存知のことだと思いますが」

 宮の上に覆い被さるような姿で、宮の顔を両手で包み込みながら、彰嗣は答えた。

「俺に愛しているかと問われれば、その度に何度でも、愛していると答えればいい。尼御前様は、そう仰ったのでしょう?」

「尼御前は、尼御前は無事ですか!」

 忽ち蒼ざめた顔になって、宮は叫ぶように問うた。

「あなたが攫われたことに、いち早く気付かれた時には随分と危ぶまれたが、大丈夫、おふさの献身的な看護のおかげで、今は何とか落ち着かれていますよ」

「かえでは!? かえではどうしています!? どうか彰嗣様、かえでを責めないであげて下さいませ。あの子は、彰嗣様のことが好きなのです」

「大丈夫、かえでも無事です。それにしても宮、あなたはやっぱり、俺の気持ちがわかっていない」

「え?」

「あやめもそうだが、あなたは少しも、俺に関わる女達に嫉妬しようとしない。かえでは俺の、許婚だった娘ですよ」

「だって……」

「俺はここに来る前、都に寄って、あなたを大原へ迎えに行った公達に、俺に協力してくれるよう頼んだのです。以前にも言ったが、皆、あなたにひと目惚れしていた連中だ。あなたが院に攫われたと聴けば、喜んで手伝ってくれるかと思ったが、皆、あなたを妻にした俺が赦せないのでしょう、散々罵られて終わりました。文句ひとつ言わず、喜んで俺に協力してくれたのは、結局、宰相中将殿だけでしたよ」

 彰嗣が今着ている直衣も、中将が貸してくれた物だという。

「俺は我儘な上に、嫉妬深い男です。故院のみならず、あなたに関わろうとする男はすべて、俺に殺される覚悟をしていた方がいいでしょうね」

「……どうしてそんなにも、わたくしを想って下さるのですか」


 多摩川に晒す手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき


「愚問だ。でも真実の恋に落ちるのに、理由などいらないでしょう。それを、俺に教えてくれたのはあなたです、宮」

「彰嗣様……」

 今の彰嗣の眼には、宮しか映らない。それは宮も同じだった。

「……あなたの直衣を召した御姿、とてもお似合いですわ」

「惚れ直して下さいましたか」

「はい……」

 頬を染めながらも、こういう時の宮は素直だ。

「流鏑馬の時も、本当に素敵な御姿でした。わたくしあの時、あなたをずっと見詰めていたらしくて、後でお義兄様とお義姉様に、からかわれてしまいましたの」

「陣中に戻ったら、今度は鎧姿をお見せしますよ。しかしこの直衣というのは、実に動きにくい。これではあなたを、かき抱くことも出来ない」

 そう言いながら、不意に彰嗣は、立烏帽子を投げ捨てた。

「あなたに逢えば、俺の胸の内も、少しは静まるかと思っていたけれど」

「彰嗣様……?」

「ひと月近くも、あなたから引き離されていたせいだ。宮、赦して下さい。もう俺は、我慢の限界だ」

「あ、彰嗣様!」

 彰嗣が、一度直した夜着の襟元をはだけ、晒しの巻かれていない右のふくらみに、非常な勢いでむしゃぶり付いてきた。まるで飢えた獣が、久し振りの獲物に飛び付いたように。

「いやあ、彰嗣様! いやあ!」

「ああ、あなたの肌だ、宮。そうか、あの時俺が狂ったのは、あなたのこの肌のせい……」

 こういう男だと、わかっていたはずなのに。このような時でも、己を忘れるほど荒々しく、宮の肌を貪る男だとわかっていたのに。

「あなたは御存知か、宮。あなたの肌からはかぐわしい、不思議な香りがする。焚き染めた香などではない、あなた自身の肌から香る、このかぐわしい香りが……」

 宮の胸のふくらみを咥えながら、彰嗣は恍惚とした様子で言い、鼻と舌とで思う存分、宮の肌を味わう。

「……やめて、いやあ……あ……あ……」

 宮は、気付かない。何とか彰嗣の唇から逃れようと、身体を仰け反ったり、彰嗣の肩を押し返したりしても、言葉とは裏腹に、彰嗣からの、久し振りの愛撫を受けて、宮の肌が、喜びの声を上げていることに、初心な宮は気付かない。

「宮!」

 だが突然、再び宮の胸に激痛が走り、宮が苦痛の声を上げて苦しみ始めた。

「いい加減になさい、この野蛮な夷が!」

 そこへ突然、御帳台の帳が乱暴に開かれ、内侍の咎める声が響いた。

「宮様は、つい先日まで、生死の境を彷徨っておられたのですよ。一体誰のせいで宮様が、そのような目に遭われたと思っているのですか。仮にも宮様の夫と名乗るのなら、少しは宮様を、いたわって差し上げたらどうなのです」

「色事の邪魔をなさるとは、あなたも気の利かない御方だ」

 宮の肌から顔を上げた彰嗣は、冷静な顔に戻っていた。

「しかも、夫婦の寝室に踏み込むとは、内裏に仕える女官のやることとも思えない。それとも、雲上人の夜伽の相手にもなる方は、他人の色事を透き見する趣味がおありか」

「彰嗣殿……」

 宮は、愕然とするしかなかった。御帳台の前には内侍ばかりではなく、宮が初めて顔を見る公達が、頬を染め、困り果てたような顔で立ち尽くしていたのである。わかってはいたが。彰嗣が人前も憚らず、むしろわざと、宮の肌を貪る真似も、辞さない男なのだということは、宮もよく、わかっているつもりでいたのだが。

「仮にも、皇后であられる御方の御寝所ですよ。少しは、身分というものをわきまえなさい」

「皇后などではない。宮は俺の妻です。夫が妻の寝所で何をしようと、咎められる言われはない」

 逃げようともしたが、傷の痛みにも阻まれ、腕の中でもがいているだけの宮を、彰嗣はますます、力強く抱きしめてしまう。

「それにしても、この直衣というのは動きにくい。公達の方々は、よくもこんな姿で、夜這いなど出来るものだ」

「いい加減にお黙り。中将様とわたくしを見張りに立たせて、わざと宮様の、房事の御声を聴かせたくせに」

「本当はあなた方ではなく、院にお聴かせしたかったのですがね」

「何という下賤な。宰相中将様、おわかりになりましたでしょう。所詮は、こういう男なのですよ。こんな男に手を貸すなど、あなた様もお人好し過ぎるのではありませんか」

 だが宰相中将は、不意に真顔になると、急ぎ御格子へ行き、その隙間から外の様子を覗き込んだ。

「彰嗣殿! 見て下さい、人の声がすると思ったら、急にあのように沢山の侍達が……!」

 彰嗣も、途端に厳しい顔になり、同じく御格子から外を覗いた。見れば確かに多くの侍達が、続々と御殿の庭へ集まっている。

「何故、こんなにも急に……主上は、お味方を集めることが出来なくて、あんなに苛立っておいでだったのに」

 内侍が狼狽えたように言うと、彰嗣がそれに答えた。

「恐らく、冷遇されていた貴族達や、我々北条に滅ぼされた、御家人達の生き残りや残党どもに、院に味方すれば、昇進や家の再興が望めるとでも言って、手当たり次第にかき集めたのだろう」

「わたしも、院に御声をかけられた者の一人です。でもおかげで怪しまれることなく、御機嫌伺いなどと称して、彰嗣殿をここまで、お連れすることが出来たのですが」

「宰相中将様は人当たりも良く、将来を嘱望されている公達の御一人。宮様もお前如きではなく、中将様のような御方を、御夫君にお選びになれば宜しかったのに」

 内侍の嫌味を無視し、彰嗣は宮のそばへ戻った。

「すまない、宮。あなたを、ここから連れ出すつもりで来たが、今はそれが、不可能になってしまったようだ」

「わたくしを、置いて行くと仰いますの……!?」

 宮の顔が蒼ざめ、彰嗣にしがみ付いた。

「御殿の庭にまで、あのように侍どもを詰めさせるとは、院は相当焦っているらしい。俺一人ならともかく、傷を負っているあなたを連れては」

「嫌です、嫌! もうこれ以上、彰嗣様と離れていたくはありません!」

「宮、落ち着いて下さい」

 再び、傷の痛みが宮の胸を走り、彰嗣が宮を抱え込む。

「俺だって、せっかくここまで来たのに、あなたを残すのは心外だが」

「宮様をお連れして、さっさと逃げ出せば良かったのに。妙な嫉妬心を起こすからですよ」

 内侍が咎め、宮の眼からは涙が溢れた。

「お願いでございます、どうかわたくしもお連れ下さいませ。わたくしを、彰嗣様のおそばにいさせて下さいませ」

「宮」

「嫌……もう離れるのは嫌……嫌……」

 泣き崩れる宮を、優しく抱きしめながらも、その一方で彰嗣は、内侍と中将にあの挑戦的な眼差しを向け、にやりと笑ってみせた。宮が、自分に取り縋って泣いているのを、明らかに楽しんでいるのだ。よく見ておくがいい。宮は、俺の女だ。院であろうと誰であろうと、俺から宮を奪える者などいない。一瞬で、彰嗣の眼にそれらを読み取って、宰相中将は空咳をしつつ、再び御格子から外を覗く振りをし、内侍は、彰嗣をすごい眼で睨み付けてから、ふいと横を向いてしまった。

「心配しなくてもいい、すぐに光良達を引き連れて、あなたを迎えに来る。木幡の関に、軍勢を待機させているのだが、あなたが、この広い離宮の何処にいるかまではわからなかったので、中将殿に協力を頼んだまでだ」

「彰嗣様……」

 すると今度は、彰嗣がいきなり直衣を脱ぎ始めたので、宰相中将が驚いて言った。

「彰嗣殿、何をされる」

「この格好では動きにくくて、あの人数の中を逃げるには無理なのでね」

「一人で戻られるおつもりか。無茶をせずとも、わたしが木幡までお送りしますぞ」

「有難う。だが、やはり俺には、この格好はまだるっこしくてね。身軽になれば俺一人で、こんな御殿なぞ簡単に抜け出せる」

「流石は夷だこと。ならば、さっさとお行き」

 内侍の嫌味はやはり無視して、彰嗣は宰相中将に、明るくこう言った。

「あなたが、何処ぞの姫君に夜這いをかける時には、いつでも俺に声をかけてくれ。今夜の御礼に、俺が女遊びに興じていた頃に愛用していた、直垂をお貸ししますよ。直衣なんかよりよっぽど、女を抱くのに動きやすい」

「彰嗣様!」

 わかっているが。高位の貴族や女官の前で、こんな軽口も平気で叩ける、そういう男なのだとわかっているのだが。彰嗣は宮に素早く口付け、明るい笑顔を残すと、非常な速さで御殿を出て行った。

「……彰嗣様……」

 残されれば、やはり不安が募る。彰嗣が脱ぎ捨てて行った直衣に、宮は涙を落とした。

「さあ宮様、まだ横におなりになっておられなくては。全く、あのような色好みで野蛮な地下人のせいで、宮様のお怪我がひどくおなりにでもなられましたら、どうあそばされます」

 内侍に促されるが、宮は横になろうとはせず、

「……宰相中将様」

 初めてその名を呼ばれ、宰相中将は驚いて顔を上げた。

「彰嗣様を、ここまでお連れして下さいましたこと、心より御礼を申し上げます。わたくし先程まで、彰嗣様には、もう二度とお逢い出来ないのかも知れないと、そう覚悟を決めておりましたの。ですから本当に、心から感謝を申し上げますわ」

「そのような。姫宮様から直々に御礼の御言葉など、勿体のうございます」

 中将は、嬉しそうな笑顔を浮かべて跪いた。

「今更、このようなことを申し上げては失礼なのですが、わたしは畏れながら、大原へ姫宮様を御迎え申し上げた折り、姫宮様に、ひと目で恋をしたのでございます。以来、姫宮様が鎌倉へ御下向あそばされましても、彰嗣殿と御結婚されたとの噂を耳にしても、姫宮様への想いが募るこそすれ、薄れることはございませんでした」

 思いがけない告白に、宮の頬は真っ赤になった。

「いえ、どうぞ御心配あそばされませんように。何もわたしは彰嗣殿から、宮様を奪おうなどとは思っておりませぬ。彰嗣殿が心底羨ましいのは、事実でございますが」

「中将様、告白なさったのなら、どうぞ御遠慮なく宮様を、あの夷から奪ってしまえば宜しいではありませんか。宮様も、今からでも遅くございませんわ。あんな男とはさっさと別れて、中将様と御一緒になられてはいかがでございますか」

 内侍に何を言われても、全く相手にしなかった彰嗣とは違い、宮は、彰嗣の着ていた直衣に顔を埋め、宰相中将も、やはりその顔を真っ赤に染めた。

「……いえ、たとえわたしが、宮様を彰嗣殿から奪ったとしても、宮様の御心まで奪うことは叶わなかったことでしょう」

 中将はもう一度、にっこり笑って言った。

「それにわたしには、そんなことをする権利などない。あの時、わたしも内裏の中にいながら、宮様が、囚われの身となっておられるのを嘆くばかりで、宮様を御救いしようなどとは、考えもしなかった。けれど彰嗣殿は、失敗するなどとは微塵も思わず、清涼殿の中から、見事に宮様を御救いしてみせたのです。宮様に惹かれたことは同じでも、院を怖れて何もしなかった、わたしや他の公達に、彰嗣殿に嫉妬する資格はございません」

 顔を上げた宮は、中将の言葉にじっと耳を傾けた。

「ですが、宮様。あの時、何もしなかったお詫びと申しては憚りがありますが、わたしに何か、お手伝い出来ることがございましたら、どうぞ何でもお申し付け下さいませ。少しでも宮様のお役に立てるのであれば、これに勝る喜びはございません」

「……わたくしは、彰嗣様のお役に立ちたいのです」

 新たな涙を浮かべて、宮は答えた。

「大原を離れてから、わたくしは、彰嗣様にずっと護られ、愛されて参りました。でもわたくしは、彰嗣様が繰り返し、わたくしを愛していると告げて下さっても、どうしていいのかわからず、それどころか、そんなことを仰る彰嗣様を、ずっと怖れ続けていたのです。けれども今なら、わたくしも彰嗣様を愛していると、はっきり申し上げることが出来ます。わたくしは本当に、心からあの方を愛しているのです」

 宮は、中将の眼をまっすぐ見詰めて、言葉を続けた。

「中将様、教えて下さいませ。彰嗣様のために、わたくしがして差し上げることはないのでしょうか。わたくしは、彰嗣様の御子を殺してしまいました。たとえ彰嗣様にお赦し頂いても、わたくし自身はどうしても、自分を赦すことが出来ません」

「宮様」

「このままずっと護られて、愛されてばかりでは嫌なのです。わたくしも、彰嗣様が注いで下さる御愛情に、少しでも応えて差し上げたいのです」

「お気持ちは、よくわかりました。ですが、どうか姫宮様、もう二度と御自分を殺めるような、そのように無謀なことは、決してなさらないで下さいませ。そんなにお嘆きにならなくても、彰嗣殿にとって、宮様の御存在そのものが、十分お役に立っていらっしゃるのですから。今はともかく傷の御養生に努められ、彰嗣殿が救出に来られるのを、信じてお待ちになることです」

「……父上様と、同じことを仰いますのね」

 宮が初めて、笑顔を浮かべた。

「それは嬉しい。故院も彰嗣殿のことを、よくわかっていらっしゃるのですね」

「ええ」

「宮様も彰嗣殿の御気性を、よくわかっておいでのはず。あのように宮様を、激しいまでに愛しておられる彰嗣殿のことです。すぐにも軍勢を率いて、この御殿に戻って来られることでございましょう」


          12


「それで? 故院に嫉妬したから、宮様をそのまま置いて来たと、若殿は申されるのですか」

 あきれた様子で光良が問えば、高春も溜息を吐く。

「仮にも故院は、宮様の御尊父であられるのですよ。幼いうちに御隠れになり、しかも、一度もお逢いしたことのない父院を、宮様がお慕いなさるのは、むしろ当然のことではありませんか」

「俺が宮の御帳台に入った時、宮は俺の名前より先に、『父上様』と呼んでいたんだ。実に気に入らん。宮は、俺のことだけ考えていればいい」

 素早く鎧を身に付けながら答える彰嗣に、二人とも頭を抱えてしまう。

「宮様の恋心を募らせるためだけに、宮様をわざと置いて来るなんて……子供じゃあるまいし、どうして若殿は宮様のことになると、そんなに我儘になるんですか」

 それでも彰嗣は取り合わず、更にこう言ってのけた。

「未だに、俺に逢いに来ようとしない様子を見ると、故院はまた、宮にべったりくっついているようだな。忌々しい。嫁がせた以上、娘のことは、婿の俺に任せておけばいいと思わないか」

「若殿!」

「御隠れあそばされているとは申せ、仮にも雲上人であられる御方に、そのようなことを申されてはなりません!」

 わかっている。二人とも幼いうちから北条の館で、彰嗣と共に育った仲だ。彰嗣のこういう気性は、二人ともよく知り尽くしているのだが。

「父上はどうしている?」

「またぎっくり腰が再発して、寝込んでおられます」

「だから無理せずに、鎌倉で待っていろと何度も言ったのに。年寄りは、これだから扱いにくい」

「若殿……」

 またも二人で溜息を吐いたが、不意に彰嗣が話題を変えたため、途端に真顔になった。

「院に、味方する者などないと高をくくっていたが、短期間で、よくもあれだけ侍を集めたものだ。それだけ幕府に、不満を持つ者が多いということだな」

「そんなに集まっているのですか、院方は」

「だが、慌ててかき集められた、所詮は烏合の衆だ。すぐに蹴散らすさ」

「油断はなりません。院は、宮様の御夫君である若殿のことを、誰よりも憎んでおられるはずです。どんな罠を、仕掛けているやも知れませぬ」

「あんな男に何が出来る。内裏の奥ではせいぜい、ごてごてに着飾った武官や、流鏑馬のような華々しい儀式しか見たことがないだろう。そんな男に、戦の駆け引きなど出来るものか」

 軽蔑の籠った声で、彰嗣がそう言った時だ。不意に幕営の外が騒がしくなり、思いもかけず、宰相中将の取り乱した声が響き渡った。

「彰嗣殿! 彰嗣殿はおられるか!」

 三人が揃って飛び出すと、蒼ざめ、激しく息を吐いている宰相中将が、彰嗣の姿を認めた途端、叫びながら走り寄って来た。

「大変だ、彰嗣殿! 院が、宮様を御自分の御殿に押し込めてしまわれた!」

「何だと!」

 彰嗣の顔が、再び鬼のように変わった。

「わたしが宮様の御殿へ、あなたを忍び込ませたことに、院はお気付きになられたのです。あなたが御殿を出た後、南殿から多くの侍と院の女官達が来て、宮様は無理矢理、あちらへ連れ出されてしまわれました。内侍殿は宮様を追い駆けましたが、わたしは御殿を追い出され、急いでこちらに……!」

 更にそこへ、院方の諜報に出ていた侍が、非常な勢いで駆け戻って来た。

「申し上げます! 院の軍勢が鳥羽を出て、一斉に都へ向かっております!」

「都!? 木幡ではないのか!」

「間違いございませぬ! 院方はこちらではなく、まっすぐ都を目指しています!」

「彰嗣殿、どういうことです。院は、あなたや幕府を倒すのが目的ではないのですか」

 宰相中将が、蒼ざめた顔で口早に訊ねても、彰嗣は答えず、駆け回る侍達の姿を見詰めていた。


          13


「主上! どうか乱暴な真似はお控え下さいませ!」

「黙れ! わたしに逆らうな!」

 院の御手が内侍の頬に飛び、その身体が、宮の足元まで吹き飛んだ。

「内侍の君……!」

「わたくしは大丈夫でございます。宮様、どうぞご案じあそばされますな」

 涙を浮かべながら手を差し伸べた宮に、内侍は笑顔を向けて言った。宮は夜着の上に、ようやく小袿を幾枚か羽織った姿のまま、院のおられるこの南殿へ引き出されてきたのである。その小袿を両手で掴んで、院の豹変された御顔を、先程から怯えた眼で見詰めていた。

「お可哀想に。震えておられるのだね、宮。だが、案ずることはない。わたしは、あなただけにはこんな、乱暴な真似をしたりはしないよ。何故ならわたしは、あなたを心から愛しているのだからね」

「……違います……主上、それは違います……!」

 恐怖と必死に闘いながら、宮は首を振った。こんなのは愛じゃない。宮を拉致し、監禁することが、愛などであるはずがない。

「怖がらないで、宮。あなたはわたしのものだ。幾度も申し上げているだろう、わたしはあなたを大切にするよ。わたしこそがあなたの、まことの夫であるのだから」

「いやあ、来ないで!」

 宮が悲鳴を上げ、内侍が宮を庇った。

「主上、お願いでございます! もうこれ以上、無謀な真似はおやめ下さいませ! 一体、どれほど宮様をお苦しめあそばせば、お気がすむのでございますか! どうか宮様を、鎌倉へお帰し申し上げて下さいませ!」

「黙れ!」

 もはや院は、誰の言葉にも耳を貸そうとなさらない。

「宮を、こちらに渡せ。素直にわたしの申す通りに致せば、お前の罪を問いはせぬ。宮は、わたしのものだ。あの男にも、父上にも、宮を渡しはせぬ……!」

 狂気に満ちた院の御眼を、宮は、恐怖に満ちた顔で見上げた。そう、狂っている。畏れながら院は、狂われてしまっている。院が、本当に愛しておられるのは宮ではなく、宮の亡くなった母の方であるのに。

「もう、これ以上はおやめ下さいませ、上様」

 不意に宮が、内侍の前に立ちはだかった。

「上様、畏れながら上様は、御自分が、一体何をなさろうとしておられるのか、よくおわかりになっておられないのでございます。けれどもどうか、戦を起こすことだけは、おやめ下さるようお願い申し上げます。わたくしを辱め、苦しめただけでは、お気がすまないのでございますか。わたくしは、わたくし以外のどなたかが、苦しんでいるのを見るのは嫌でございます。苦しむのは、わたくし一人だけで十分でございます。無用な戦など起こして、沢山の人々を苦しめることだけは、どうかおやめになって下さいませ」

 その毅然とした宮の姿に、院も、内侍も、思わず呆気に取られてしまった。つい先程まで、院を前に怯え続けていた宮が、まるで生まれ変わったかのように、まっすぐ視線を院に向けて、堂々と院をお諫め申し上げている。

「御存知でございましょうか、宮様。男を知ったおなごの肌は、潤いが増し、輝きを帯びてくるものなのでございます。宮様の御肌もあの夷によって、なまめかしく輝いておられます」

 先程内侍は、からかい半分で宮にそう申し上げた。彰嗣は、宮の肌に潤いを与えただけではなく、宮自身が、院に立ち向かえる勇気をも、宮に与えていたものらしい。

「彰嗣様の、お役に立ちたいのです」

 愛されてばかり、護られてばかりでは嫌なのだと。宮も彰嗣のために、何でもしてあげたいのだと。そう宰相中将に語った、宮の言葉。そのひたむきな、彰嗣への深い愛情こそが、こんなにも宮を美しく、強く変えていたのか。

 いや、彰嗣だけではない。宮の父上であらせられる故院の、この世を去られた後も尚、我が子を想う深き御愛情が、御二人に、不可思議なめぐり逢いをもたらしたほどの強い御執着が、宮に、内親王としての自覚を目覚めさせたのである。大原ではいつも、日陰の身と己を卑下していた宮が、今では、彰嗣という男の炎のような愛情と、父院の、陽射しのような御愛情とを一身に浴びて、内親王の自信と誇りに満ちた姿を見せていた。

「お願いでございます。どうか、わたくしを解放して下さいませ。わたくしは、北条彰嗣様の妻でございます。わたくしは心から、あの方をお慕いしております。彰嗣様と御一緒に、これからもずっと、鎌倉で生きて行きたいのでございます」

 院も茫然と、宮の顔を見詰めておられた。宮の顔は蒼ざめ、眼には涙を浮かべており、小袿を握る両手も、かすかに震えていたが、それでも院の御顔から、一瞬たりとも眼を逸らすことなく、言葉を選ぶようにゆっくりと、はっきりとした声でひとつひとつ、院に向かって、己の思いを申し上げていた。

 思えば、この離宮へ連れて来られた時にも、宮は怯えながらも必死で、院に抵抗してみせた。内気で臆病で、弱々しいばかりであった宮が……あの宮をこんなにも強くしたのが、あの彰嗣という、院から見れば物の数にも入らぬ、無位無官の鎌倉の夷だというのか。

「赦さぬ……!」

 院が、顔色を変えられた。

「あの男になど渡さぬ。あなたは、わたしだけのものだ。わたしこそが、あなたの夫なのだ。あの男になど、あなたを渡してなるものか……!」

 宮が悲鳴を上げた。

「主上! なりませぬ!」

 内侍の阻止も振り切り、院は宮の腕を乱暴に掴んで、無理矢理、寝所の中へ宮を引き摺り込んだ。

「いやあ、彰嗣様!」

 宮が泣き叫ぶ。

「やめて! やめて、離して! 彰嗣様! 彰嗣様!」

「その名を呼ぶな!」

 初めて院が、宮へ怒りを顕わになさった。

「忌々しいその名を呼ぶな! お前のような者が、このわたしに逆らえるとでも思うのか! 日陰者のお前を、皇后に据えてやったこのわたしに……!」

「違います! わたくしは皇后の地位など、一度として望んだことはございません!」

 必死な声で、宮は叫んだ。

「一品位も、内親王位も、わたくしはそのようなものを望んだことは、一度としてございません。所詮、わたくしのような者には皆、過ぎたものでございます。たとえ生涯、大原から離れることなく、そのまま朽ち果ててしまっていても、わたくしはそれを、不満になど思わなかったことでございましょう。けれど」

 もう一度、院の御眼をまっすぐ見上げて、宮は申し上げた。

「けれどもただひとつだけ、上様に、感謝申し上げていることがございます。それは上様が、わたくしを捜せと御命令下さいましたお蔭で、わたくしは彰嗣様に、出逢えることが出来たからでございます。彰嗣様はわたくしに、強く生きる勇気と、溢れるほどの愛情を、惜しみなく与えて下さいました。彰嗣様に出逢わなければ、わたくしは今、こうして生きていることもなかったのでございます。まこと運命とは、恋とは、なんと不思議なものでございましょう」

「……宮……」

「たとえどんなに上様が、わたくしをお望みになられても、わたくしの身と心は、彰嗣様だけのものでございます。上様は決して、わたくしを手に入れることはお出来になれません。それに上様は、わたくしのことなど愛してはいらっしゃらない。上様が本当に愛しておられるのは、わたくしの母でございます。畏れながら上様は、わたくしの上に、母の面影を求めていらっしゃるだけなのでございます」

「黙れ!」

「宮様!」

 宮の身体が、床に投げ出された。夜着が赤く滲み、宮が激しく苦しみ出す。

「……可愛さ余って、憎さ百倍……」

 院の御顔が、鬼のようにお変わりになる。

「内気でおとなしいと侮っておれば、慇懃無礼なものの言い様。このわたしを、誰と思っているのか。いいだろう、あの男の許になど二度と戻れぬように、その身体を、ずたずたになるまで穢してくれる……!」

「なりませぬ! 主上、どうか正気にお戻り下さいませ!」

「うるさい!」

 御身に取り縋った内侍を再び床に叩き付け、院は、痛みで起き上がることも出来ない宮に、怖ろしい、狂っておられるような微笑を浮かべて、にじり寄られた。

「どうした、逃げぬのか。あの男のものだと申すお前の肌を、このわたしが再び犯したと知れば、奴は一体、どんな顔をするであろう」

「……嫌……嫌……!」

「いっそのこと、奴の眼の前でお前を犯してやれば、お前はもう、鎌倉へ帰りたいなどとは申せぬであろうなあ」

「いやあああ!」

「主上!」

 宮と内侍が、同時に叫んだ時だった。御殿の外がにわかに騒がしくなって、激しく物が壊れる音と、怒号の声が一斉に沸き起こった。思わず院が狼狽なさったその時、

「そのまま、動かないで頂きましょう」

 涙が溢れる宮の眼に、髻を下ろし、鎧を身に纏った彰嗣が、院の御首にぴたりと、刃を当てている姿が映った。

「院には申し訳ないが、どれほどあなたが宮を穢そうと、宮が、あなたのものになることなどあり得ません。宮は、夫である俺のものです。今更あなたが宮を犯しても、宮は決して穢されはしない」

「おのれ……! 貴様、地下人の分際で、よくもこのわたしを……!」

「こちらへ、宮」

 院は、彰嗣の刃に阻まれて動けない。宮は身体の震えが止まらず、ふらついてはいたものの、それでもすぐに、愛しい彰嗣の胸の中へ飛び込んだ。

「彰嗣様……彰嗣様……!」

「すみません、宮。迎えに来るのが遅くなって」

 激しく泣く宮を左腕に抱きしめて、彰嗣は、内侍に声をかけた。

「手をお貸ししますか」

「結構よ。夷などに手伝ってもらわなくとも、自分で立てます」

 相も変わらず、つんとした態度でそう答えると、内侍はさっさと立ち上がり、すぐに小走りで院のそばに駆け寄った。

「もういいでしょう、お前。この御方を、一体どなたと心得ているのです。刃を持たぬ御方にいつまで、このような御姿をおさせ申し上げているつもりなの」

 彰嗣は黙って、院の御首から刃を外した。

「さ、主上。大丈夫でございますか」

 内侍に助けられて、院は急いで御立ちになった。だが彰嗣の刃は、院へまっすぐ向けられたままだった。

「どうやってここまで来た。お前は、陣に戻ったはずではないのか」

「簡単ですよ。軍勢をふたつに分け、一方は俺の叔父である、六波羅の南方探題と共に都に向かわせ、もう一方は、俺がここまで連れて来ただけです」

「わたしの軍を侮るな! すぐにも都を、火の海にしてくれようぞ!」

「失礼ですが、院。鎌倉方は総勢十五万、あなたがかき集めたのは、せいぜい三万にも満たないでしょう。後鳥羽院もそうであられたと聴くが、あなたはやはり、戦というものを御存知ない」

 それから彰嗣は、心配そうに宮の顔を覗き込んだ。

「大丈夫ですか、宮。苦しくはないのですか」

 宮の顔は蒼ざめ、涙に濡れてはいたが、それでも、彰嗣の腕の中に戻れた安堵感から、笑顔を浮かべてみせた。

「ところで、俺の鎧姿はいかがです。直衣なんかよりよっぽど、こちらの方がりりしく見えるでしょう」

「あ、彰嗣様」

 こんな時でさえこの男は、余裕あり気に軽口を叩いてみせる。宮は戸惑うしかない。

「どうなのです、宮。似合うとは思いませんか」

「彰嗣様、こんな時にそんなこと」

「思いませんか」

「お、思います。先程も申し上げましたでしょう、流鏑馬でのあなたの御姿に、見惚れておりましたと」

 勢いに押されて宮が頷くと、彰嗣が満足そうな笑い声を上げた。

「陣には、医師も連れて来ています。急いで戻りましょう。光良達も、あなたを待ちかねていますよ」

「待て!」

 院が叫ばれた。

「宮を、連れて行くことなど赦さぬ! 宮は、このわたしの皇后であるぞ! お前のような者に、宮は渡さぬ!」

「何度申し上げれば、おわかりになるのです。宮は、この俺の妻です。宮からも度々、院に申し上げていたはず」

「黙れ! 地下人の分際で、仮にも内親王を妻にするなど言語道断! そのようなこと、このわたしが赦すとでも思うのか!」

「俺はすでに、宮の父上であられる故院に、宮の夫と認めて頂いております。あなたの御許しはいりません」

「うるさい! 何を証拠に、父院の御名を語る!?」

「嘘ではありません。宮は俺を愛し、俺も宮を愛している。俺達を、引き離せる者など一人もいない」

 彰嗣が、にやりと笑う。

「仕方がない、宮。義兄上(・・・)に、俺達が夫婦だという証をお見せしようか。俺達が、心から愛し合っている証を」

「え……!?」

 唇が再び彰嗣に塞がれて、宮は忽ち、夫の激しい色情に翻弄されてしまう。

「……嫌……やめて……」

 先程と同じだ。宮が、逃げようともがけばもがくほど、彰嗣はそれを赦さず、右手は院に刃を向けたまま、籠手をはめた左手だけで器用にも、宮の夜着の襟元をはだけ、あの熱い唇で、宮の肌を丹念になぞっていく。

「……お願い……彰嗣様、やめて……」

「俺だけだ、朝子。あなたの肌は俺だけが、その隅々まで知り尽くしている。何処をどう優しくすれば、あなたが喜んでくれるのか……」

「……い……や……」

 彰嗣は宮の、血の滲んだ胸に顔を埋めたが、不思議と宮は、傷の痛みを感じなかった。だが宮の眼には涙が溢れ、脚ががくがくと震えて、とても立ってはいられない。堪らず逃げようともしたが、彰嗣は宮の腰に腕を廻して支え、それを赦さなかった。

「……あ……ああ……」

「どうした、朝子。義兄上にもっと、お前の声をお聴かせしないか」

 宮の声はかすれて、言葉にならない。内侍はまたかという様子で顔をしかめ、そのまま横を向いたが、院は凍り付いたような御眼をして、宮の顔を見詰めておられた。院は一度もこのような、宮の顔を見た覚えがおありではない。院が宮を手籠めになさった時、宮はまるで院を、魔物でも見るような眼差しで見上げていた。けれども今の宮は、院ではない他の男の腕の中で、あのきめ細かな肌を晒して、男の思うがまま、男の執拗な愛撫を受けて、自分では無意識のうちに、喜びの声を上げていた。そして彰嗣は、宮の肌を味わいながら、あの挑戦的な眼差しを、あからさまに院に向け、にやりと笑ってみせた。

「やめよ! やめぬか!」

 嫉妬の炎で、院の御顔が熱く燃え上がる。

「汚らわしい手で、宮に触れるな! よくも貴様、わたしの皇后にそのような真似を!」

「……何故そんなにも、宮に執着されるのです。御覧になられておわかりになりませんか、宮は決して、あなたのものにはならない」

 宮の肌から唇を離して、彰嗣は冷静沈着な顔を上げた。宮は疲れ果てて、彰嗣の腕の中に崩れ落ちる。

「それに、あなたにとってまこと宮は、口で言うほど大切な存在なのですか。宮は確かに、あなたが唯一愛した女性が産んだ娘だが、大原に宮が、隠れ住んでいるという噂を聴き付けるまでは、あなたは宮のことなど、思い出しもしていなかったはずだ。もし宮の他に、あなたに姉宮か妹宮がいれば、皇后にはその方を据えていたことでしょう。つまりは、あなたの異母姉妹でありさえすれば、別にこの宮でなくても、誰でも良かったということだ」

 この言葉に、院が一瞬怯む様子をお見せになった。

「宮が攫われた時、俺の兄は、あなたが討幕を謀ろうとしていると言った。俺も、他の者達もそう思った。いや、確かにそれも謀のうちでしょう。だが、後鳥羽院の仇を討つことだけが、あなたの本当の目的ではない」

「お前達には、後鳥羽院の怨念が纏わり付いている。わたしがわざわざ手を下さなくても、北条の人間で、天寿を全うした者がどれほどいるのか」

 院は、薄気味悪い微笑を浮かべて仰せになったが、彰嗣は、声を上げて笑い出した。

「確かに。俺の伯父や従兄弟が死んだ時も、巷では散々、後鳥羽院の怨念だと叩かれましたよ。だが、我々北条の一族が、全部で一体何人いると思うのです。後鳥羽院が、北条の人間を一人残らず呪い殺すまでには、あと何年かかることか」

 共に承久の乱を戦った、北条義時の弟時房は六十六歳、息子の泰時は六十歳で亡くなったと言われているが、泰時の子孫、特に男子には、短命の者が目立つ。時が平安から鎌倉へ移っても、平均寿命も短く、怨霊信仰が未だ根強かった時代だ。彰嗣のように、怨霊の存在など相手にもしないような人間は、ごくわずかなものであっただろう。

「怨霊ならば俺達北条より、院の方が後鳥羽院よりも、更に強力な怨霊に憑りつかれておられるではありませんか。保元の乱に敗れ、讃岐へ流された崇徳院は、あろうことか皇室を呪い、頼朝公に古狸と言わしめた、あの後白河院をも震え上がらせた。その怨念は未だに、我々幕府という存在によって、朝廷から実権を奪うかたちで続いている」

「黙れ! お前のような者が、皇室を侮蔑することなど赦さぬ!」

「では、話題を変えましょう。あなた方から見れば、我々北条も平家や源氏のおこぼれに与り、ここまで成り上がってきた、ただの陪臣に過ぎません。けれども院、不思議なことに、権力とは時代と共に、下層から下層へと流れて行くもの。たとえ、北条の一族が一人残らず滅び去ろうとも、また次の、新しい実力者がのし上がってくるのです。始まったばかりの武士の世が、そう簡単に終わるわけではない」

 彰嗣は先程から、超然とした眼差しで、院の御顔を見詰めている。

「あなたが木幡ではなく、都に軍を差し向けたことで、俺はあなたの、真の意図を読み取ることが出来ました。政変で皇位を追われたこともあるが、朝廷を、己の意のままに動かすことが出来る院ではなく、あなたがあくまで帝の地位にこだわるのは、天皇親政の復活を謀っておられるからだ。だが、あなたの真の狙いはそれだけではない」

 この言葉に、院の御顔が強張った。

「今の朝廷は、いちいち俺達幕府の顔色を窺わなければならない。ひと昔前でも帝は、藤原一族の単なる傀儡に過ぎなかった。あなたが夢見ていたのは、帝自身が権力を掌握していた、天智帝や天武帝のような時代に戻ることですね」

 半ば気を失いそうになっている、腕の中の宮を見下ろして、彰嗣は続ける。

「宮を大原から引き摺り出し、無理矢理皇后に据えようとしたのも、その頃の帝にあやかろうとしたからでしょう。あの時代、皇后となれるのは殆ど、皇族の血を引く娘に限られていた。天智帝も天武帝も、自分の姪を皇后に迎えている。もっと時代を遡れば、聖徳太子の御両親は異母兄妹、仁徳帝も、嫉妬深い皇后が死んだ後は、御自分の異母妹を、二人目の皇后に迎えていますね」

 図星を刺されたかたちとなった院は、唇を噛みしめ、彰嗣を睨み付けておられる。

「あなたの真の目的は、幕府のみならず今の朝廷をも潰し、古の時代に戻って、その手に強大な権力を握ることだ。ですが、時代とは大河の如く流れるもので、誰もその流れに逆らうことは出来ない。何故それが、あなたにはおわかりにならぬのです」

「黙れ! たとえ政の実権が、お前達幕府に奪われてはいても、数百年の長きに亘って、帝が藤原の傀儡に成り下がっていたとしても、お前達や藤原に抗えぬものが、我々皇室にはある」

「何です?」

「血だ! 古より脈々と受け継がれてきた、この国を統べることを許された者の血、わたしと宮に流れる、最も高貴な血筋だ! たとえこの先、お前達北条や藤原に代わる者が現れようとも、誰も我々と同じ地には立てない。お前がどんなに宮の夫と名乗ろうと、お前は宮と同格にはなれない」

 院がにやりとお笑いになるのを、彰嗣は身動きひとつせず見詰めていた。

「……父上様は、たとえわたくしが、皇女として生きることが叶わなくとも、一人の娘として、愛する御方と共に、幸福に生きることをお望みでございました」

 その時、彰嗣の胸に顔を埋めていた宮が、ゆっくりと顔を上げて、院の方を振り返った。

「彰嗣様のおそばにいられぬのであれば、わたくしは、皇女としての身分など欲しくはございません。一品位も内親王位も、この場で上様にお返し申し上げます」

「宮……!」

 血を流し、今にも消え入りそうな様子で、彰嗣に抱かれている宮を、院は、憎悪に満ちた眼で凝視なさった。

「それ以上ほざくな! 二人とも、わたしがこのまま無事に帰すとでも思うのか!」

「主上!」

 内侍が叫ぶと同時に、院は、そばにあった灯火を掴むと、いきなり御帳台に投げ付け、そこからあっと言う間に炎が燃え上がった。

「狂われましたか」

 彰嗣は、あくまで冷静な顔を崩さない。

「ここだけではないぞ。御殿に残っている侍どもに、お前達が攻め入ってきたら火を付けるよう、あらかじめ申し付けておいた。すぐにこの御殿は、火の海となろう」

「今更、あなたが何をされようと、所詮は無駄な悪あがきに過ぎぬのに。いい加減、眼をお覚ましになられてはいかがです」

 けれど院は、魔物のような微笑みを浮かべるばかりで、もはや、誰の言葉も受け付けようとはなさらない。

「……彰嗣様……」

 宮のか細い声に、彰嗣がはっとなった。見れば宮の顔色はますます悪くなり、いかにも苦しそうだ。どうやら、熱も出てきたらしい。

「若殿!」

「若殿、宮様は御無事ですか!」

 そこへ光良と高春が、手勢を引き連れて駆け込んできた。彰嗣は太刀を下ろして、宮を抱き上げる。

「院、もういいでしょう。ここは危険です。これ以上抗うのはやめて、我々に従って下さい」

「うるさい!」

 しかし突然、院の御顔が恐怖に歪んでしまわれた。

「父上!」

 全員が院の叫ばれた方向に振り返ると、果たしてそこに、不思議な光に包まれた故院の御姿があった。宮や彰嗣はともかく、光良達は流石に動揺の色を浮かべたが、院の狼狽は尚更だった。

「お赦し下さい! お赦し下さい、父上!」

 故院は怒りに満ちた御顔で、院の方へとまっすぐ、非常な勢いで進んで行かれた。

「わ、わたしはただ、父上に認めて頂きたかっただけなのです。父上は昔から、わたしよりも、弟宮の方を愛しんでおられた。弟宮はあなたに似て、すべてにおいてわたしより優れていて……!」

 院は、それまでの傲慢な態度とは打って変わり、その場に崩れるように座り込んで、じりじりと後ずさってしまわれる。

「そしてあなたはわたしから、わたしの大切なものを奪われたのです。皇位も、愛した女も、何もかもすべてをお奪いになられたのです! 『そなたは、帝になれるような器ではない』と罵られた、あの時のわたしの気持ちが、父上におわかりになりますか! 奪われたものを奪い返そうとして、何が悪いと仰せになるのですか!」

 だが、そう叫んだ院の御声は恐怖に満ち、故院の御手が院の御眼に大きく映ると、その御声は御殿の中に、更に大きく響き渡った。

「……父上様……」

「上様、どうかお願いでございます! 主上をお赦し下さいませ!」

 宮が震える手を、故院に向かって伸ばしたのと、内侍が故院の前に跪いたのは、ほぼ同時であった。

「主上は、姫宮様と同様、上様の実の御子であらせられまする! どうか、上様ともあろう御方が、我が子を殺めるような真似など、決してなさらないで下さいませ! そのようなこと、宮様も決してお望みではございませぬ!」

 故院がはっと我に返って、宮の方を振り返った時、その御眼に愛娘の涙が映った。

「父上様、わたくしからもお願い申し上げます。どうか兄上様をお赦しになって、御怒りをお静め下さいませ。わたくしはこうして、彰嗣様の腕の中に戻ることが出来ました。父上様から、その限りなく深い御愛情を、沢山頂くことも出来ました。それにわたくしは、わたくし以外のどなたかが、苦しんでいるのを見るのは嫌でございます。どうか元のお優しい父上様に、お戻りになって下さいませ」

 院は、その場に蹲っておしまいになり、内侍が庇うように院の御身を支えた。

『行きなさい。宮を哀しませることは、わたしも望まぬ』

 内侍は故院に一礼すると、院を抱きかかえ、急いでその場を離れた。

『宮。宮、お苦しいのか』

 院を厳しい表情で見送られてから、故院は急いで、宮のそばへと歩み寄られた。宮の顔色はひどかったが、それでも父院に笑顔を見せた。

「ちょっと待って下さい、故院」

 故院が、宮の胸に手をかざした時、彰嗣が突然声を上げた。

「最愛の姫宮のことが、御心配なのはよくわかります。だがその傷は、あなたではなく俺のために負ったもの。どうか、俺が治してやる分を残しておいて頂きたい」

「わ、若殿!」

 光良と高春が同時に叫び、二人とも真っ青になってしまった。

『……全くたいした男だ、宮の夫は』

 二人の動揺をよそに、院は、声を上げてお笑いになられた。

『確かにわたしは、宮を心から愛し、護れる者が宮の夫となるよう望んでいた。だが、これほどまで独占欲の強い男とは』

 宮は羞恥のあまり、傷を治して頂きながら、故院の御顔を見上げることも出来ず、袖で顔を隠したままだ。代わりに故院は、異様に光る眼差しを、彰嗣に御向けになった。

『なかなか、聡明そうな眼をしている。お前ならば、わたしの娘を娶ることの意味を、よくわかっていような』

「俺はあなたに誓った通り、宮を生涯護り抜く覚悟です」

 故院の御眼をまっすぐ見返して、彰嗣はたじろぎもせずに言い放った。

「愛する娘の顔も見ずに、御隠れになられたのです。それだけ、宮への想いが強いのはわかりますが、宮はもう俺の妻です。ですからいい加減、宮のことは全部、婿の俺に任せてはくれませんか」

「若殿!!」

 再び、光良と高春が叫んだが、故院はやはり、更に愉快そうな笑い声を上げられた。

『非常の時だというのに、大胆不敵な。だが、気に入った。宮、あなたはなかなか、面白い男を夫になさった』

「父上様……」

『わたしの望みはただひとつ、あなたの幸福だけだ。あなたはその男を誰よりも愛し、ずっとそばにいたいと申されたね。それがあなたの御望みなら、そうなされるがよい』

「父上様、わたくし」

『幸福におなり、わたしの可愛い姫宮。わたしは雲居の上から、いつもあなたを見守っているよ』

「父上様!」

 父院に申し上げたいことが、沢山あるはずだった。だが、涙が止め処もなく溢れてきて、宮はもう、何も言うことが出来ない。

「皆様、お急ぎ下さい! 火が!」

 侍達が騒ぎ出した。彰嗣達が我に返ると、火はすでに、御殿のすべてを舐め尽くそうとしていた。

『行きなさい』

 故院が手を大きくかざされると、火の勢いが急激に押し留まった。

『行きなさい、宮。その男と共に』

「父上様!」

 彰嗣は故院に頭を下げると、宮を抱きかかえ、光良達と共に、故院がお作りになられた火の中の道を、一気に駆け出した。

「父上様! 父上様!」

 宮が泣き叫んだ。その眼に、故院の優しい眼差しが映って、宮は改めて、父院の大きく包み込むような愛を、全身で感じていた。

「故院! 火は全部消さないで、俺が宮のために消す分を残して下さい!」

「若殿! いい加減にして下さい!」

 若者達の賑やかな声をお聴きになりながら、故院は優しい微笑みを残して、眩い光の中へと消えて行かれた。


          14


 侍達が歓声を上げる中、無事に陣中へ入った宮は、その片隅で、地面に額をこすり付けている娘を見付けた。

「かえで、良かった。無事でいてくれたのね」

「お赦し下さい、宮様。お赦し下さい」

 かえでの眼から、どっと涙が溢れた。

「わかっていたのに……若殿が宮様を、どんなに愛していらっしゃるか、わかり過ぎるくらいわかっていたのに……!」

「あやめは結局、わたくしの処に帰って来てはくれなかったけれど」

 宮は、優しく微笑みながら言った。

「かえではこれからもずっと、わたくしのそばにいてくれるわね。尼御前も、おふさに優しくしてくれるあなたのこと、とても気に入っていたのよ」

「わたしの一生を、宮様にお捧げ致します。今度こそ心を込めて、宮様に御仕え申し上げます。だからどうか、いつまでもわたしを、宮様のおそばにいさせて下さい。わたしに罪を、償わさせて下さい……」

 だが鎌倉方が宿所としている、近くの寺まで運ばれた時、宮の態度は突然変わった。

「燃やしてしまえ、そんな物。院が与えた物だろう」

 かえでが、宮の着ていた小袿を衣桁にかけ、夜着の赤い染みを見詰めていると、寝所に入って来た彰嗣が、顔をしかめてそう言い放った。かえでは素直に、それらを抱えて出て行ったが、更に彰嗣は、褥に身を横たえている宮の、晒しを乱暴に取り除けて、忌々しそうに呟いた。

「やっぱり、傷が殆ど治っている。俺が治す分を残してくれと言ったのに」

 その言葉に、宮の眼からは、みるみる涙が溢れ出した。

「あ、彰嗣様なんか」

「どうしたのです、宮」

「彰嗣様なんか……彰嗣様なんか!」

 いきなり、彰嗣の胸を叩き出す。だが、思わず狼狽えた彰嗣にその腕を取られ、宮は泣きながら叫んだ。

「どうして、あなたはそうなの? いつもそうしてわたくしを、御自分の思いのままになさろうとするの? わたくしはいつも、あなたに振り廻されてばかり……!」

「宮、落ち着いて」

「あなたはいつだって、わたくしの気持ちにはお構いなく、御自分の感情のままにわたくしを……!」

 いつにない様子で、宮は怒りをぶつけてきたが、彰嗣はすぐさま、そんな宮の唇を塞いでしまう。

「これが俺だから」

 興奮した上に息を止められ、力なく横たわる宮に、彰嗣が囁く。

「俺はこんな風にしか、あなたを愛することが出来ない。わかっているくせに、宮」

 わかっている。そう、宮はよくわかっている。それなのにどうしてこんなにも、彰嗣のような男を、宮は愛してしまったのか。

「……愛しています、彰嗣様……」

「俺は、あなたよりももっと、あなたのことを愛している、朝子」

 宮が彰嗣の背に腕を廻し、彰嗣は、先程よりも深く宮に口付けながら、夜着を優しく剥がしていく。

「朝子……」

 その肌に、彰嗣が愛を囁き始めた時だった。宮の耳に、あの懐かしいがなり声と、簀子をどすどす歩いて来る音が響いてきた。

「彰嗣! これ、彰嗣! 宮様はいずこにおられる? お前ときたら、父親のわしを年寄り扱いして、寺なんぞに置き去りにしおって! わしとてまだまだいくらでも、戦で手柄を立ててみせようものを! よいか、彰嗣! 宮様はな、畏れ多くもこのわしを、『お義父様』と呼んで下さるのだぞ! のう彰嗣、宮様がこのわしに、故院の分まで、孝行を尽くしたいと仰って下さったのだぞ! 聴いておるのか、彰嗣! 宮様は、いずこにおられるのじゃ!」


          15


「この大馬鹿者が――!!」

 執権館に、雷が落ちる。

「馬鹿!! 馬鹿、馬鹿、馬鹿!! 本当にお前は、どうしようもない大馬鹿者だ!!」

「そんなに怒鳴るなよ、兄上。怒鳴らなくたって聴こえてるよ」

 耳を塞ぎながら、彰嗣がのんびり答える。

「お、お、お前という奴は」

 頼時の方は、激しく息を吐いている。

「いいか、勅使だぞ。み、み、帝の御使いなのだぞ。帝が、畏れ多くもこの鎌倉まで、わざわざ勅使をお寄越しになられたのだぞ。そ、そ、それをお前は、お逢いもせずに門前払いにしたと」

「俺じゃなくて、宮に逢いに来たんだよ。宮はまだ、床に臥せているっていうのに、勅使だろうが何だろうが、わけのわからん連中を宮に逢わせられるか」

「お前にも逢いにいらしたのだ、馬鹿者!! お前は宮様の夫だろうが!!」

「帝が俺に、何の用だよ」

「お、お前に、帝や皇室への、畏敬の念を持てと言う方が、愚かだとはわかっているが」

 半分泣き声のようになって、頼時は弟の顔を見詰める。

「こんなことは前代未聞だ。仮にも鎌倉執権の弟が、勅使を門前払いにするとは。勅使の方々は、お前に門前払いにされて、仕方なくここまで御出ましになられたのだぞ。ああ、何たることだ。こんな大恥をかかされたのは、生まれて初めてだ」

「そんなに嘆く必要ないだろう。代わりに兄上が逢ってくれたのなら、それでいいじゃないか」

「馬鹿者!! お前はわたしの顔に、泥を塗ったのだと申しておろう!?」

「だからあまり怒鳴るなよ、兄上。怒鳴ってばかりいたら、そのうち禿げてくるぞ」

「誰が禿げるだ!! わたしはまだ二十九だ!!」

「俺も二十三になったよ」

 根負けした頼時は、がっくり肩を落とす。

「どうしてお前はそうなのだ、彰嗣。都から勅使が御下向されたと聴けば、誰もが狂喜し、有頂天にもなるであろうに。お前は本当に、欲というものがない」

「いいんだよ。どうせ俺に、官位を与えるとでも言うんだろう」

「御所と同様、帝も宮様とは同い年であらせられるし、伯父上の院には、同じように苦しめられた御方だ。叔母宮であらせられる宮様のことも、とても他人事ではないと思し召して、色々とお気遣い下さっておられる」

 頷きながら、頼時が説明した。

「帝は内裏の近くに、宮様のための御殿を、建てて差し上げようとの仰せだ。もちろんお前にも、内親王の夫にふさわしい官位をと」

「ごめんだね。俺は義経公の二の舞になぞ、なるつもりはない。第一、兄上は俺が内裏に上がって、他の公達どもと仰々しい儀式だの何だの、こなせるとでも思うのか」

「お前なら、そう言うと思っていた」

 頼時は笑い出したが、急に真顔になって話題を替えた。

「院も先日、隠岐へ御幸なされた」

「そうか」

「討幕のみならず、朝廷への反逆も謀られたのだ。寸前で、都への危害は食い止めたものの、遠流は免れぬ。後鳥羽院と、同じ場所となったのは奇遇だが」

「匂当内侍も、院に付いて行ったそうだな。あの内侍は性格悪いが、色々と宮のことを助けてくれた。宮もそのことを、哀しんでいたが」

 そこで彰嗣は、ふてくされた顔になった。

「俺が不本意なのは、宮が兄上に、院の減刑を願っていたことだ」

「そんな顔をするな。宮様らしいではないか。それに、院にとって幸いなことに、戦の方も奇跡的に小競り合い程度ですんだのだ。すぐにではなかろうが、いずれ赦されて都へ帰ることも、不可能ではない」

「くそ、これも故院のせいだ。何だかんだと結局、故院がすべて丸く収めてしまった。おかげで俺は宮に、いい処を見せることが出来なかった」

「畏れ多くも、お前の舅であらせられる御方なのだぞ。全く、光良達から話を聴いた時は、とても信じられなかったが」

 弟の言葉に、頼時はあきれた顔になった。

「宮様の御様子は?」

「ああ。だいぶ元気になってきたよ」

「そうか、良かった。宮様には、御心を痛めることばかり続いていたからな」

 恵州尼は、宮が鎌倉へ帰館したその日、宮の腕の中で静かに息を引き取った。

「故院は、わたくしの許にも御出まし下さったのですよ」

 泣き崩れる宮のために、恵州尼は最後の最期まで、宮の幸福を祈る生涯を、慈愛に満ちた微笑みと共に閉じた。

「宮様は、故院と彰嗣殿が護っているから、あなたは何も心配せず、宮様の帰りを待っているがよいと、故院は、そうわたくしに仰って下さったのです。そして、宮様をここまでお育て致しましたこと、とても感謝しているとの御言葉をも、わたくしは頂けたのでございます。宮様、わたくしは今、とても幸福でございます。これで心置きなく、故院のおそばに参ることが出来ます」

「義姉上はいないのか」

「ああ、行き違いになったようだな。先程、お前の館に出掛けて行った」

「年始の挨拶に来たというのに、今日も朝から宮の処か。都から宮が帰って来てから、見舞いだの付き添いだのと称して、義姉上は宮に付きっ切りじゃないか」

「あれも、宮様に心酔している者の一人だ。宮様から『お義姉様』と呼ばれると、自分もまるで、雲上人になれた心地がするなどと申してな。それに、お前だって悪い。父上は鎌倉へ戻る道中、お前に散々当て付けられたと、愚痴をこぼしていたぞ」

「息子夫婦が、ひと月振りの再会を味わっているというのに、年寄りが邪魔するからだ」

「それに宮様は、まだ御身体が優れぬのに、お前は毎夜、宮様を離さぬというではないか」

「夫が妻を愛して、何が悪い」

「程度というものを、考えろと言っている」

「それなら、義姉上に持たせている薬も、もういい加減やめさせろよ。兄上が心配しなくても、宮はもう子供は出来ない」

 この言葉に、頼時の顔色が変わった。

「安心しろ、俺以外は誰も気付いてはいないから。義姉上も宮の身体によく効く、宋渡りの薬だという兄上の言葉を信じ切って、毎日いそいそと持ってくる。だが宮は、院に拉致されていた間も、堕胎だの何だのと、大量の薬を飲まされていたんだ。宮の回復が遅いのは、度重なる心労のためばかりじゃない」

「……わたしも、宮様のことは大切に思っている。妻や父上と同様、あの御方に『お義兄様』と呼ばれると、つい口元が綻ぶ」

 頼時は、ゆっくりと口を開いた。

「せめて宮様が、ただの貴族の娘であらせられたらと、今でもそんな思いを抱く。万一、お前達の間に男子が授かれば、その子は皇孫として、将軍位でも執権位でも望むがまま。いずれ、わたしやわたしの子供達の、大きな障害となるであろう。いや、いくら無欲なお前とて、宮様の夫である以上、御所の申される通り、いつ何時、わたしと対立する立場になるやも知れん」

「俺は、余計なことを兄上に吹き込んで、妻の失態にも気付かないでいた、御所のような馬鹿じゃない」

 彰嗣が鼻を鳴らす。

「今では奴も、兄上や俺の前でびくびくしている有様だ。怒りを越えて、哀れすら覚える」

「いずれ二人とも、都に追い返すさ。勅使の方にも、次の将軍職は帝の御子にと、内々に伝えてある」

 頼時は、不気味な微笑を浮かべた。

「お前の言う通り、馬鹿な男さ。おとなしくわたしの傀儡に徹して、余計なことに口出しなどしなければ、最後まで職を全う出来たものを。将軍位や幕府というものが、どれほど危うい存在か、何もわかっていないのだからな」

「伯父上達も、兄上が殺したんだろう?」

「わたしは一生、伯父上達にこき使われて閑職で終わるような、父上の二の舞にはなりたくない。お前のように、官位も望まず飄々と生きていられるような、無欲な人間でもない。わたしの望みはただひとつ、我が血筋こそが北条嫡流として、政の実権を握ること。だが待っているだけでは、望むものは手に入らない」

 そう語る頼時は、泰然としていた。

「何度も繰り返すが、鎌倉は都の朝廷と比べて遥かに、歴史も浅く基盤も脆い。今回は院が、大それたことを謀った割には、無能だったおかげで助かったが、反幕府、反北条の者など数え切れないほどいる。油断すればいつでも、この鎌倉は呆気なく崩壊してしまうだろう。それを避けるためには、絶大な権力を握り、政を司る強い統治者が必要だ。わたしには、そのための十分な能力がある」

「だから俺は、兄上が執権になった時、一生結婚はしないと決めたんだ。兄上の災いとなるのを避けたければ、家族など持たぬ方がいい」

 彰嗣も、泰然とした様子で言った。

「それなのに俺は、宮に恋した時、すっかりそのことを忘れてしまった。宮に夢中で、他のことは全く考えていなかった。だから局に、宮の懐妊を知らされた時には、そのことを思い出して、思わず茫然としてしまったよ。だが、俺の望みは宮だけだ。院が子供を殺してくれて、むしろ助かった」

 故院は、こんな残酷な婿の思惑に、少しでも気付いていたのだろうか。最後に見た、故院の笑顔を思い出しながら、彰嗣は考えていた。――お前ならば、わたしの娘を娶ることの意味を、よくわかっていような。

「わたしもお前が皇女を助けて、しかも惚れてしまったと知らせてきた時ほど、驚いたことはない。お前に限ってまさかとも思ったが、お前をけしかけて、幕府を操ろうとするような娘だったらと、慌てて駆け付けた。だがお逢いした宮様は、本当に純真で可憐な、生まれながらの皇女でおられた。しかし宮様の意思とは関係なく、宮様を利用しようとする輩は、世間にいくらでもいる」

「兄上に宮を殺させるくらいなら、俺が宮を殺して後を追うさ」

「それだけの覚悟があるのなら、わたしもお前の言葉を信じよう。だが、誤解しないで欲しい。わたしも皆と同様、宮様の御幸福を、何よりも願っている者の一人なのだからね」


          16


 彰嗣が館に戻ると、宮は暖かな陽射しを浴びながら、簀子でくつろいでいた。

「お帰りなさいませ」

「起きていて大丈夫ですか、宮」

「こんな良い日和に、寝んでなどいられませんわ。それよりも御覧になって、かえでがこんな、可愛い子達を連れて来てくれましたのよ」

 見れば、宮の腕の中で小さな子ねこが三匹も、愛らしい仕草を見せている。

「実家のねこが産んだのです。まだ乳離れはしていないのですけど、宮様が、きっと喜んで下さると思って」

 そばに控えているかえでが、嬉しそうに説明する横で、おふさも言った。

「もう少し大きくなったら、宮様が飼いたいと仰っています。宜しいでしょう、若殿」

「あと二匹いるのよ、おふささん。わたしとおふささんとで、一匹ずつ飼わない?」

「そんなことを言って、この館をねこ屋敷にする気か」

「いいじゃありませんか、若殿。局様もこの間、ねずみが出たと大騒ぎしていらしたし」

 そう言って、かえでは立ち上がった。

「さ、おふささん。わたし達は退散しましょう。若殿は宮様を独占していなくちゃ、気がすまないのだから」

「かえではすっかり、元気を取り戻したようですね」

 二人が、はしゃぎながら下がって行くのを見送って、彰嗣が言った。

「はい、いつもおふさと一緒で。市でも、本当の姉妹のようだと言われたそうですわ」

 宮は、背中から抱きしめてきた彰嗣の腕に、子ねこごと身を委ねながら答えた。

「梅が、もう咲いております」

 彰嗣が見上げると、確かに庭の梢にいくつかの、梅の花が咲き()めている。

「早いものですわ」

 宮が呟くように言った。

「もうすぐ、一年になりますのね」

 宮が彰嗣と出逢い、大原を離れたあの日から。

「幸福ですか、宮」

 その言葉に、宮は今更、何故そんなことを訊くのかという顔で、彰嗣を見上げた。

「幸福ですか」

 彰嗣が、もう一度訊ねた。宮は、微笑んで頷く。

「はい、とても」

「俺もです」

 満足そうに微笑み返して、彰嗣は、宮の髪に唇を寄せる。すると今度は、何処かで鳥の泣く声が聴こえてきた。

「鶯が」

「鳴くにはまだ、早いのではありませんか」

「いいえ。たどたどしいけれど、確かに鶯でしたわ」


 冬籠り春去り来れば(あした)には白露置き (ゆうべ)には霞たなびく 風が吹く木末(こぬれ)が下に鶯鳴くも


(冬が過ぎ去って春が来れば、朝には白露が降りて、夕べには霞がたなびく。春風吹く梢の下では、鶯が鳴くよ)

「愛している、朝子」

 夢見るような眼差しで、万葉を口ずさんだ宮の唇に、彰嗣は、己の唇をそっと重ねた。





 武家に嫁いだ皇女と言えば和宮が有名ですが、今回、この物語を書き始める時に「和宮様御留」を学生以来、久し振りに読み返しました。面白かったのですけど、でもやはり替え玉説というのは、後書きの「和宮降嫁は大掛かりな無駄」という文言と共に、本人に対して大変失礼なのではと思ってしまいました。確かに結婚生活が四年、人生も三十二年と短かったけれど、夫家茂と和宮が愛し合っていたこと、慶喜が和宮のことを、生命の恩人として生涯感謝していたこと、最初は対立していた天璋院でさえ、和宮の薨去時には嘆き悲しんだこと、すべて紛れもない史実だし、わたし自身は決して和宮は、悲劇の皇女などではないと思っています。

 以前から、皇女という存在やその歴史に興味があって、色々と本を読み漁るうちに、いつしかわたしの中に、わたしの姫宮が生まれていました。作中にも書きましたが、実際、幸福な生涯を送ることが出来た皇女は、本当にごくわずかです。この物語のように、不幸な境遇にありながらも、愛する人と結ばれ、少しでも幸福に生きられた皇女が一人でもいてくれればと、そう願わないではいられません。

 時代を鎌倉と、漠然と決めたのはいいけれど、鎌倉時代なんて全く知識がないことに気付き、慌ててにわか勉強をしながら、この物語を書いていました。そのため一旦投稿しても、読み返す度に「あ、ここ変」と、直し直しやっておりましたので、特に後半は、書くスピードが遅くなってしまいました(現在も、この作品は加筆訂正を繰り返しております:2018.6.16)。けれども、自分でも意外なほどこの物語にのめり込み、主要人物はもちろん、その他の人物も、初めはそこまで考えてもいなかったのに、作者が思う以上に色々動いてくれて、楽しく書くことが出来ました。

 実はわたしはタイトルを考えるのが苦手で、今回は特に辞書を引き引き、何日も考えていました。そのうちに、サブを万葉集から引用してみてはと思い付き、結局、物語にもそれを活用することになってしまいましたが、これは自分でもなかなかいいアイデアだったと思っています。

 それからわたしは自分の書く物語に、イメージソングを考える癖がありまして、この「姫宮」には、ケルティックウーマンの「YOU RAISE ME UP」と勝手に決めています。でもやっぱりこれも、書き始める時に漠然と決めたのですが、物語自体が歌に合うよう頑張ってくれました。

 しかしながら相変わらず、つたない文章、つたない内容で、ここまで読んで下さった方には、本当に申し訳なく思います。けれども、この物語を書く機会を与えられたことに、心から感謝しているというのが、今のわたしの素直な気持ちです。

  【参考文献】

「歴史のなかの皇女たち」服藤早苗・編 小学館 二〇〇二年

「内親王ものがたり」岩佐美代子 岩波書店 二〇〇三年

「万葉集 (一)~(四)」中西進 講談社文庫 一九七八~八三年

「日本の歴史09 頼朝の天下草創」山本幸司 講談社学術文庫 二〇〇九年

「日本の歴史10 蒙古襲来と徳政令」筧雅博 講談社学術文庫 二〇〇九年

「とはずがたり全訳注(下)」次田香澄 講談社学術文庫 一九八七年

「日本史年表・地図」児玉幸多・編 吉川弘文館 一九九五年

「新装版 京都千二百年(上)」西川幸治 高橋徹 穂積和夫 草思社 二〇一四年

「日本女性服飾史」井筒雅風 光琳社出版 一九八六年

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