第9話 拳聖夫婦の平和な朝
辺境伯邸の朝は早い。
東の山脈から昇る陽光が、巨大な城塞の尖塔を赤く染め始める頃には、騎士団はすでに朝の巡回を終え、使用人たちも忙しなく働き始めている。
――しかし。
そんな規律正しい辺境伯邸において、毎朝必ず発生する“災害”があった。
「――ナグル!! 起きてくださいまし!! 朝の鍛錬の時間はとっくに過ぎていましてよ!!」
凛とした声が廊下に響く。
次の瞬間。
ドォォォォォォン!!!!
寝室の扉が、内側へ向かって豪快に吹き飛んだ。
蝶番が悲鳴を上げ、粉砕された木片が宙を舞う。
辺境伯邸名物。
拳聖夫人による『愛のノック』である。
「ぐはぁっ!?」
ベッドで爆睡していたナグルは、扉を破壊した衝撃波だけで床へ転がり落ちた。
「……っつぅ……」
剣聖、寝起き五秒で満身創痍。
床に突っ伏したまま、彼は恨めしげに顔を上げた。
「け、ケルナ……お前……毎日毎日、扉の修理代をいくらだと思ってるんだ……」
そこには、朝日を背負って仁王立ちする美しい女性の姿。
金糸のような髪。 空色の瞳。 フリル付きの純白エプロンドレス。
見た目だけなら理想的な新妻。
ただし、右手には人の頭ほどある『特製・魔力鋼の重り』を軽々と持っていた。
「まあ、そんな端金」
ケルナは優雅に微笑む。
「エントランス山脈で少し魔獣を狩れば問題ありませんわ」
価値観が脳筋である。
「さあ、早く支度をなさい。今日は裏山の雑草抜きをお願いしましたでしょう?」
「……雑草抜きって、あの魔蝕草の群生地のことか?」
ナグルの顔が引きつった。
魔蝕草。
辺境でも危険指定されているA級植物である。
根から毒瘴気を撒き散らし、触れれば麻痺、繁殖すれば土地を汚染する厄介極まりない魔性植物だ。
一般兵なら討伐隊が編成されるレベルである。
「雑草では?」
「どこの世界に討伐報酬が出る雑草があるんだよ」
「剣聖様ともあろうお方が、草ごときに弱音ですの?」
にっこり。
ケルナが微笑む。
同時に、拳をポキリと鳴らした。
ナグルの生存本能が即座に警鐘を鳴らす。
――逆らうな。
――それは死だ。
「……すぐ行きます」
剣聖、即座に降伏。
「喜んで根こそぎにさせていただきます」
「よろしい」
ケルナは満足げに頷いた。
その笑顔は大変美しい。
なお、辺境の騎士たちは『あの笑顔が出た時のナグル様は逆らってはいけない』という共通認識を持っていた。
◇
朝食の席でも、ナグルの受難は続く。
広い食堂。
焼き立てのパン。 スープ。 新鮮な果物。
そして。
明らかに禍々しい紫色のサラダ。
「……なあケルナ」
「何ですの?」
「これ、本当に食い物か?」
「お野菜ですわ」
「野菜が発光するな」
皿の中央では、怪しく光る葉物がビリビリと放電していた。
辺境名産『痺れ草』。
耐性のない者が食べれば、数時間ほど舌が麻痺する危険食材である。
ただし、継続摂取で麻痺耐性が向上する。
辺境では騎士の訓練食として用いられていた。
「強靭な肉体は、バランスの良い食事から作られるのですわ」
ケルナは上機嫌で説明する。
「わたくしも食べておりますもの」
「お前は参考にならねぇんだよなぁ……」
拳聖の耐久力を基準にしてはいけない。
しかし拒否権は存在しなかった。
ケルナは優雅にフォークを取り、痺れ草を突き刺す。
「あーんしてくださいまし」
「…………」
「ナグル?」
にっこり。
「……あーん」
剣聖、敗北。
口に入れた瞬間。
「ッッッッッ!!??」
ナグルの全身が跳ねた。
「し、舌が!! 舌が痺れ――」
「まあ、もう効き始めましたのね。良い傾向ですわ」
「よくねぇよ!!」
遠巻きに見ていた侍女たちがヒソヒソと囁き合う。
「今日もナグル坊ちゃま、完全敗北ですわね……」
「でも、幸せそうですわ」
「ええ。あんな顔、昔は全然なさらなかったもの」
実際。
ナグルは文句を言いながらも、時折どうしようもなく優しい目でケルナを見ていた。
その視線に気づくたび。
ケルナはほんの少しだけ頬を赤くする。
しかし絶対に認めない。
辺境伯家の日常とは、そういうものであった。
食後。
ナグルはふと、何気ない調子で言った。
「……なあケルナ」
「何ですの?」
「草むしり終わったら、街へ行かないか」
「街?」
「ああ。中央通りに新しいスイーツ店が出来たらしい」
ナグルは椅子に頬杖をつく。
「お前、甘いもん好きだろ」
「――っ」
ケルナの肩がピクリと揺れた。
「べ、別に……」
「限定の果実タルトが人気らしいぞ」
「……」
「あと特製パフェ」
「…………」
「一緒に食いに行こうぜ」
沈黙。
数秒後。
ケルナは扇代わりのナプキンで口元を隠しながら、そっぽを向いた。
「……そ、そんなものでわたくしが釣られるとお思い?」
耳まで真っ赤だった。
「まあ……」
もじもじ。
「あなたがどうしてもと言うなら、付き合って差し上げなくもありませんけれど?」
その瞬間。
ナグルは確信した。
(勝った)
精神的勝利である。
だが。
次の瞬間。
ゴッッッ!!!!
「ぐはぁッ!!?」
ケルナの照れ隠し裏拳が炸裂。
剣聖ナグル、床に頭から突き刺さった。
食堂が揺れる。
使用人たちは慣れた様子で破損状況を確認し始めた。
「床板、今日で三枚目ですわね」
「大工を追加で呼びましょう」
「もう鉄板敷いた方が早いのでは……?」
そんな周囲の声を聞きながら。
床に埋まったナグルは、血を流しつつ笑っていた。
「……はは」
「何を笑っていますの?」
ケルナが頬を膨らませる。
ナグルは彼女を見上げた。
「いや」
本当に幸せそうに。
「毎日、楽しいなって思ってよ」
「……っ」
ケルナの顔が一瞬で真っ赤になる。
「ば、馬鹿!! 朝から何を言ってますの!!」
ドゴォン!!
二発目。
剣聖、完全沈黙。
しかし。
床に埋まりながらも、ナグルの口元は幸せそうに笑っていた。
王国最強夫婦の日常は、今日も平和だった。
――物理的破壊を伴いながら。




