第10話 拳聖の花嫁と、剣聖の覚悟
辺境伯領の女神神殿には、澄み渡る青空から柔らかな陽光が降り注いでいた。
王都の大聖堂のように、天を貫く白亜の尖塔も、黄金に輝く巨大なステンドグラスもない。
けれど、この西の地に生きる人々が、数百年に渡って祈りを捧げ続けてきた「重み」が、古びた石造りの神殿には確かに宿っていた。
荒野を渡る風に晒され続けた外壁。
幾度も塗り直され、磨き抜かれた床石。
祭壇へ続く通路には、辺境の民たちが朝早くから摘んできた野花が飾られている。
豪奢ではない。
だが、誰よりも誇り高く、温かい。
それはまるで、この土地そのものだった。
神殿の最奥――。
女神アルフェリア像の前に、新郎新婦が並び立っていた。
赤銅色の髪を整え、深紺の礼装に身を包んだナグル・ヴォルグ・フォン・ウェスタリス。
普段の粗暴な冒険者然とした雰囲気は影を潜め、その立ち姿には辺境伯家嫡男としての威厳が宿っている。
そして、その隣。
純白の花嫁衣裳を纏ったケルナ・フォン・アストレア。
魔力を帯びた銀糸で刺繍された月見草の紋様が、光を受けて淡く輝く。
長いヴェール越しでも分かるほど、その美貌は圧倒的だった。
輝く金色の髪。
晴天を映したような空色の瞳。
可憐で、儚げで――しかし同時に、鋼のような芯を感じさせる花嫁。
まさしく、“拳聖”。
神父が、静かに誓いの言葉を読み上げる。
「ナグル・ヴォルグ・フォン・ウェスタリス。
あなたはケルナ・フォン・アストレアを妻とし――」
神殿の空気が張り詰めた。
「――その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
ナグルは、真っ直ぐケルナを見つめた。
かつて王都の冒険者ギルドで、初めて出会った時のことを思い出す。
可憐な令嬢姿で、冒険者を壁に埋め込んでいた金髪の少女。
拳を振るうたび、誰よりも真っ直ぐで、不器用で。
放っておけなかった女。
気づけば隣にいて、
気づけば背中を預けていて、
気づけば――誰よりも大切になっていた。
「誓います」
低く、力強い声が神殿に響いた。
続いて神父はケルナへ向き直る。
「ケルナ・フォン・アストレア。
あなたはナグル・ヴォルグ・フォン・ウェスタリスを夫とし――」
ケルナは静かに瞳を閉じた。
脳裏をよぎるのは、王都での日々。
ギルドでの喧嘩。
討伐競争。
報酬の奪い合い。
そして、何度も助けられた背中。
この男だけは、全力で殴っても止まらなかった。
自分の力を恐れず、
拳聖ではなく、“ケルナ”を見てくれた。
「――その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
空色の瞳が、ゆっくりと開かれる。
「誓います」
その声は、どこまでも澄み切っていた。
神父は満足げに頷き、静かに告げる。
「では新郎新婦、誓いの口づけを」
ナグルが、そっとヴェールを上げた。
間近に見えたケルナの顔は、戦場で見せる凛々しさではなく、年頃の少女そのものだった。
「……まさか、お前とこんな格好で向き合う日が来るとはな」
ナグルが苦笑混じりに囁く。
「わたくしだって予想外ですわ。
貴方、昔はもっと野良犬みたいでしたもの」
「今も大して変わってねぇよ」
「ふふ、違いますわ。
今はちゃんと、“わたくしの夫”の顔をしていますもの」
その瞬間、ナグルの耳まで赤く染まった。
「……お前、たまに反則級のこと言うよな」
「今さら気づきましたの?」
ケルナが悪戯っぽく微笑む。
そして二人は、静かに唇を重ねた。
歓声が湧き上がった。
神殿の外へ出た瞬間、領民たちの祝福が爆発する。
「若様ぁぁぁ!!」
「ケルナ様、お綺麗です!!」
「末永くお幸せにー!!」
花びらが舞う。
歓声の中、ケルナは一人の少女から野菊の花束を受け取った。
「女神様のお花……!」
「ありがとう。とても綺麗」
ケルナは膝をつき、少女と目線を合わせて微笑む。
その姿に、領民たちは息を呑んだ。
王都で「拳聖」と恐れられた女。
アースドラゴンを拳一つで沈めた化け物。
だが今、彼女は確かに、この辺境を愛そうとしていた。
ナグルはそんな彼女を見つめながら、小さく笑う。
(……ほんと、綺麗だな)
夜。
披露宴も終わり、ウェスタリス城の応接室には穏やかな時間が流れていた。
ケルナの父、トール・フォン・アストレアは、ハンカチで何度も目元を拭っている。
「あんなに小さかった娘が……嫁ぐなんて……」
「あなた、さっきから五回目ですよ」
母エレナが呆れたように言うが、彼女自身も目を潤ませていた。
「だってなぁ!? あのケルナだぞ!?
庭木を素手で引き抜いて遊んでいた娘だぞ!?」
「三歳の頃から拳圧で窓ガラスを割っていましたものねぇ」
「笑い事じゃない!」
そんなやり取りを、少し離れた場所でナグルとケルナが眺めていた。
「……お前、ほんと大事にされてたんだな」
ナグルがぽつりと呟く。
「当然ですわ。わたくし、可愛い娘でしたもの」
「自分で言うか普通」
「事実ですもの」
ケルナは胸を張る。
その仕草がおかしくて、ナグルは吹き出した。
だがその後、不意に真顔になる。
「……なあ、ケルナ」
「何ですの?」
「お前、ほんとに見合い多かったのか?」
ケルナがぱちりと瞬きをした。
「えぇ。山ほどありましたわよ?」
「……マジか」
「毎回、拳で解決しておりましたけれど」
「だろうな……」
ナグルは遠い目をした。
もし、自分がもう少し遅ければ。
もし、ケルナの隣に別の男が立っていたら。
そう思った瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
「……お前、結構モテたんだな」
「何ですの急に」
「いや別に」
視線を逸らしたナグルを見て、ケルナが小さく笑う。
「あらあら。
もしかして、嫉妬ですの?」
「っ、してねぇ!!」
「ふふっ」
その笑顔を見た瞬間、ナグルは観念したように額を押さえた。
(……駄目だ。勝てる気がしねぇ)
夜風に当たるため、ナグルがバルコニーへ出ると、そこにケルナの弟クリスが現れた。
「義兄上。姉さんのことで悩んでますね?」
「……お前、鋭すぎるだろ」
クリスはくすりと笑った。
「でも安心してください。姉さん、昔から義兄上の話ばかりでしたから」
「……は?」
「『全力で殴っても止めてくれる人がいた』って、すごく嬉しそうでしたよ」
ナグルは絶句した。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
「姉さん、ここへ嫁ぐ前、泣いてたんです」
その言葉に、ナグルは目を見開く。
「本人は隠したつもりだったみたいですけど。出発の朝、目が真っ赤でした」
クリスは真っ直ぐナグルを見る。
「だから義兄上。姉さんを、幸せにしてくださいね」
それだけ言うと、少年は微笑み、去っていった。
一人残されたナグルは、夜空を見上げる。
辺境の星空は、王都よりずっと近かった。
そして、その胸には。
剣聖としてではなく、
一人の男として、
一人の夫として、
絶対に守り抜きたいものが、確かに宿っていた。
「……任せとけよ」
誰に聞かせるでもなく呟いたその声は、静かな夜風の中へと溶けていった。




