第11話 泣き虫おチビと剣聖
ウェスタリス城の夜は静かだった。
昼間の婚礼の喧騒も、領民たちの祝福も、今は遠い夢のように薄れている。 高い塔のバルコニーに立ったナグルは、冷えた夜風に赤銅色の髪を揺らしながら、遠く連なる黒い山脈を眺めていた。
辺境の夜空は王都よりずっと近い。
無数の星々が、まるで凍てついた大地に散りばめられた宝石のように瞬いている。
「……そっか。あの泣き虫、泣いてたのか」
クリスの言葉が、今さらのように胸へ沈み込んでくる。
――姉は父からここへ嫁ぐよう言われたあと泣いてました。
ナグルは深く息を吐いた。
これまで、ケルナが自分をどう思っていたのか、正直まともに考えたことがなかった。 いや、考えないようにしていたのかもしれない。
あいつは強い。 自分よりよほど真っ直ぐで、覚悟が決まっていて、拳一つでドラゴンを沈める女だ。
だから勝手に、「平気なんだ」と思い込んでいた。
だが実際は違った。
あの女は、自分が辺境へ連れ戻されたあと、一人で泣いていたのだ。
「……最低だな、俺」
苦笑が漏れる。
その時、不意に脳裏へ浮かんだのは、遥か昔――まだ自分が十五歳だった頃の記憶だった。
夕暮れの王都大聖堂。
赤く染まったステンドグラスの光が、静かな礼拝堂の床に長く伸びていた。
当時のナグルは、辺境伯家の窮屈なしきたりが嫌で、王都へ逃げるように遊び歩いていた頃だった。 剣の才能だけで生きていけると本気で思っていた、どうしようもないガキだった。
そんな彼が偶然入り込んだ神殿の隅で、小さな泣き声を聞いた。
「……ひっく……ぅ……」
祭壇の陰。
そこにいたのは、小さな少女だった。
五歳くらいだろうか。 金色の髪は涙で濡れ、華奢な肩は小刻みに震えている。
少女は女神像の前で、ぎゅっと拳を握りしめながら嗚咽していた。
「おねがい……かみさま……これ、かえします……」
震える声。
「いらない、です……こんなの……」
ナグルは思わず足を止めた。
少女の周囲だけ、空気が妙に張り詰めていたからだ。 床石には小さな亀裂が走り、少女の足元には粉々に砕けた花瓶が転がっている。
ただ泣いているだけの幼女ではない。
何か、とてつもなく危ういものを抱えている。
「……おい」
声をかけると、少女はびくりと肩を跳ねさせた。
空色の瞳が涙で濡れたまま、恐る恐るこちらを見る。
「なんで泣いてんだ?」
すると少女は、しゃくり上げながら答えた。
「……わたし、おとうさまの、あし……おっちゃったの……」
「は?」
「だっこ、してほしくて……でも……」
小さな拳が震える。
「こわれちゃった……」
ナグルはそこで事情を察した。
――ギフト暴走。
稀にいるのだ。 幼少期に強力すぎる加護を得て、自分の力を制御できない子供が。
少女はぽろぽろ涙を零しながら、必死に言葉を続ける。
「わたし、わるいこ……ばけもの……」
その言葉を聞いた瞬間、ナグルは妙に腹が立った。
何に対してかは分からない。
泣いているこのガキか。 こんな小さい子供に「化け物」なんて思わせた周囲か。 あるいは、神様とやらか。
ナグルは少女の前へしゃがみ込み、震える拳へ自分の手を重ねた。
少女がびくっと息を呑む。
「……なあ、おチビ」
「……?」
「女神様はな。お前なら、その力をちゃんと使えるようになるって信じてるから、それを渡したんだ」
少女はきょとんとした。
「……しんじてる?」
「ああ」
ナグルは笑った。
「今は溢れてるだけだ。そのうち上手くなる」
「……でも……」
「大丈夫だ。お前、そのうち絶対、誰かを守れる」
根拠なんてなかった。
ただ、この泣き虫の目が、まっすぐだったから。
だから何となく、そう思ったのだ。
少女は涙を拭いながら、小さく頷いた。
「……ほんと?」
「おう。だから泣くな」
ナグルがそう言うと、少女はぐしゃぐしゃの顔のまま、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔が、なぜか妙に記憶へ残った。
「……で、そのおチビが、今じゃ俺を地面に埋める女か」
現在へ戻ったナグルは、思わず吹き出した。
人生とは分からない。
あの時の泣き虫が、今では王国最強の拳聖だ。
しかも自分の嫁。
「女神様も、だいぶ雑な采配しやがる」
苦笑したその時。
「――誰が雑ですって?」
背後から、涼やかな声が聞こえた。
ナグルが振り返る。
そこには、湯上がりらしいケルナが立っていた。
金色の髪を下ろし、白い寝衣を纏った姿は、昼間の花嫁姿とも、戦場の拳聖とも違う。 ただ年相応の、美しい少女に見えた。
もっとも。
その細腕でドラゴンを殴り飛ばすのだが。
「……盗み聞きかよ」
「夜風に当たっていただけですわ」
ケルナはすました顔でナグルの隣へ並んだ。
二人で夜空を見上げる。
しばらく沈黙が続いた後、不意にケルナがぽつりと呟いた。
「……わたくし、昔。神殿で変な男の人に会ったことがありますの」
ナグルの肩がぴくりと揺れる。
「ほう?」
「赤い髪で、口が悪くて、でも妙に優しくて……。『お前なら誰かを守れる』って」
ケルナは空色の瞳を細め、懐かしそうに笑った。
「顔はよく覚えていなかったのですけれど」
「…………」
「最近になって、ようやく分かりましたわ」
ケルナがゆっくりナグルを見上げる。
「わたくし、あの時からずっと、貴方に救われていたのですね」
その言葉に、ナグルは何も返せなかった。
ただ、胸の奥が熱い。
困ったように頭を掻き、視線を逸らす。
「……今さら気付くなよ」
「ふふ。だって貴方、何も言わないんですもの」
ケルナは悪戯っぽく微笑んだ。
そしてそっと、ナグルの袖を掴む。
「でも、安心しましたわ」
「何がだ?」
「わたくしだけじゃなかったのですね。昔からずっと、貴方に振り回されていたのは」
「……いや、お前の場合、振り回す側だろ」
「まあ。失礼ですわね」
くすくす笑うケルナ。
その笑顔を見た瞬間、ナグルはふと思った。
――ああ。
守れてよかった。
泣き虫だったこの少女が、今こうして笑っている。
それだけで、十分だった。




