第12話 拳聖、陥落
ウェスタリス城の若夫婦の寝室。
分厚い石壁に囲まれた室内には、暖炉の火が静かに揺らめいていました。 ぱちり、ぱちり、と薪が爆ぜる音だけが響く空間――のはずなのに。
今の私には、その音がまるで戦場へ向かう軍鼓のように聞こえて仕方ありませんでした。
(落ち着きなさい、ケルナ・フォン・ウェスタリス……!)
私は鏡台の前に背筋を伸ばして座り、自分に言い聞かせます。
薄桃色のシルクのネグリジェ。 肩口には繊細なレース。 侍女たちが総出で整えた髪からは、淡い花の香油が漂っていました。
辺境伯家の若奥様として、完璧。 王都の淑女としても、完璧。
なのに。
(なぜ、ドラゴン討伐前より緊張しておりますの……!?)
胸の鼓動がうるさい。
魔物の殺気なら瞬時に察知できるのに、今は自分の感情の方がよほど制御不能でした。
しかも問題なのは、拳聖として染み付いた戦闘本能です。
気配が近づく。 背後を取られる。 肩へ手が伸びる。
その瞬間、反射的に「敵襲」と判断しかける。
(今夜のわたくしは淑女……! 決して、夫を背負い投げしてはなりませんわ……!)
必死に理性で押さえ込んでいた、その時でした。
背後の扉が静かに開きます。
「……ケルナ、起きてたのか」
低く落ち着いた声。
振り返れば、そこにはナグルが立っていました。
結婚式後の酒宴を終えたばかりなのか、赤銅色の髪が少し乱れています。 礼服は脱いでいましたが、ラフな黒い寝衣越しでも分かるほど肩幅は広く、鍛え抜かれた身体が男らしい熱を纏っていました。
そして何より。
近づいてくるだけで、胸が苦しい。
「……ナ、ナグル。お疲れ様でしたわ」
どうにか淑女らしく微笑もうとしましたが、声が少し裏返りました。
ナグルは気づいていないのか、ゆっくり私の背後へ回り込み、その大きな手を肩へ置きます。
その瞬間。
(敵襲――!!)
脊髄反射で裏拳が飛びそうになりました。
しかし寸前で、淑女教育と理性が全力でブレーキをかけます。
結果。
私の肩がびくんっ、と大きく跳ねました。
「……?」
ナグルが怪訝そうに眉をひそめる。
「お前、どうした?」
「な、なんでもありませんわ!」
危なかった。
あと〇・三秒遅れていたら、結婚初夜に夫の首が飛んでいたかもしれません。
拳聖とは、かくも業深い。
「……顔、赤くねえか?」
ナグルが心配そうに覗き込んできました。
近い。
近すぎる。
琥珀色の瞳が目の前にある。
「熱でもあるのか?」
額を合わせようと、彼の顔がさらに近づいた瞬間。
「はぅッ!?」
情けない声が漏れました。
「……なんだその声」
「だ、大丈夫ですわ! 本当に!」
私は慌てて彼の胸へ額を押し付けます。
――ミシッ。
不穏な音がしました。
たぶん胸板です。
でも聞かなかったことにします。
「……ケルナ?」
ナグルは困ったように笑いながら、私の背へ腕を回しました。
「お前、身体ガチガチじゃねえか」
「そ、それは……」
私は彼の胸へ顔を埋めたまま、小さく呟きました。
「……殿方と、ここまで近い距離にいることに……慣れていないだけですの……」
言ってから羞恥で死にたくなりました。
すると、頭上から低い笑い声が落ちてきます。
「不慣れ、か」
ナグルの腕に力が入り、私はゆっくり抱き寄せられました。
逃げ場はない。
けれど、不思議と嫌ではありません。
むしろ。
この腕の中は、妙に安心する。
「だったら、慣れてもらうしかねえな」
耳元で囁かれた声は、少し掠れていました。
ぞくり、と背筋が震えます。
「ひぅっ」
また変な声が出た。
そして次の瞬間。
「……っ、ぷ、はははっ!」
ナグルが堪えきれず吹き出しました。
「お前ほんと面白ぇな!」
「わ、笑わないでくださいまし!」
私は真っ赤になって抗議しました。
しかし、ぽかぽか叩いた拳をナグルは軽々と受け止め、そのまま指を絡めて封じ込めます。
大きな手。
熱い掌。
絡まる指先。
それだけで頭が真っ白になりました。
「……ケルナ」
ふざけた笑みが消え、ナグルが真っ直ぐ私を見つめます。
「お前、こんな隙だらけなの、俺の前だけだろ?」
琥珀色の瞳に射抜かれ、私は観念しました。
「……そうですわね」
空色の瞳を潤ませながら、私は小さく笑います。
「貴方以外に、こんな姿を見せられるはずありませんもの」
その言葉に、ナグルの喉が小さく鳴りました。
「……覚悟しろよ」
低い声。
熱を孕んだ瞳。
「今夜は、その鉄壁のガード、全部砕いてやる」
「まあ」
私は挑むように微笑み返しました。
「わたくしも、簡単に降参するつもりはありませんわよ?」
拳聖らしい好戦的な笑み。
しかし次の瞬間には、その唇は優しく塞がれていました。
触れ合う熱。
絡む吐息。
淑女としての羞恥も、拳聖としての警戒も、すべて溶けていく。
私は初めて知ったのです。
戦いではなく。
愛しい人へ身を委ねる、「甘やかな降伏」を。
翌朝。
分厚いカーテンの隙間から差し込む朝日で、私はゆっくり目を覚ましました。
「……ん……」
しかし。
次の瞬間。
「…………」
全身が重い。
いや、重いどころではありません。
腰から下が自分のものではないような感覚。
まるで三日三晩、超大型魔獣と戦い続けた翌日みたいです。
(……わたくし、拳聖の力を失いましたの……?)
真剣にそんなことを考えていると。
「くくっ」
隣から笑い声が聞こえました。
「おはよう、ケルナ」
ナグルが片肘をついて、こちらを覗き込んでいます。
その顔が妙に艶っぽく見えるのが悔しい。
「……なんだ、その討ち取られた魔獣みたいな顔」
「だ、だって……」
私は蚊の鳴くような声で訴えました。
「腰が……砕けておりますの……」
「そりゃそうだ」
ナグルは悪びれもせず笑います。
そして。
勢いよく掛け布団を剥ぎました。
「きゃぁぁっ!?」
朝日が容赦なく降り注ぐ。
「ふ、服! わたくしの服はどこですの!?」
「知らねえ。昨夜どっか飛んでった」
「最低ですわー!!」
私が真っ赤になって抗議する一方で、ナグルは妙に満足そうでした。
「昨夜あんなに『降参しませんわ』って言ってたの、誰だったっけな?」
「うぅ……!」
「ほら、立てるか?」
「む、無理ですわ!」
私が涙目で訴えると、ナグルは笑いながらひょいと抱き上げました。
「ひゃうんっ!?」
いわゆる、お姫様抱っこ。
「暴れるなよ、落とすぞ」
「だ、だって……!」
「王都最強の拳聖様が歩けねえなんて、誰が信じるんだよ」
「うう……っ」
悔しい。
でも。
悔しいのに、安心してしまう。
私は観念して彼の首へ腕を回し、その胸へ顔を埋めました。
するとナグルが、楽しそうに笑います。
「よし。まずは風呂だな」
「……え?」
「昨日汗かいただろ」
「ちょっ――」
そのまま私は、有無を言わさず浴室へ連行されました。
そして数時間後。
ようやく寝室へ戻された私は、完全にシーツへ沈没していました。
心身ともに蕩けきっている。
もう拳聖とかどうでもいい。
「……最低ですわ、ナグル……」
枕へ顔を埋めながら恨み言を漏らすと、ナグルは髪を拭きながら笑いました。
「悪かったって」
全然悪いと思っていない顔です。
そこへ。
コンコン、と控えめなノックが響きました。
「姉さん、義兄上。明日の件なのですが」
クリスの声でした。
ナグルが扉を開けに向かいます。
しかしクリスは寝室へ入って来ず、扉の隙間から中を見た瞬間――すべてを察しました。
寝台から起き上がれない姉。
妙に血色の良い義兄。
乱れた室内。
「…………」
数秒の沈黙。
やがてクリスは、悟り切った笑みを浮かべました。
「……なるほど。『ゆうべはお楽しみでしたね』、義兄上」
「クリスッ!!」
私は真っ赤になって叫びました。
しかし腰に力が入らず、上半身を起こすだけで精一杯です。
その姿を見て、クリスはさらに確信を深めたようでした。
「いやぁ。姉さんがここまで使い物にならなくなってるの、初めて見ましたよ」
「うぅぅ……!」
「義兄上。辺境の夜は長いですから、お手柔らかにお願いしますね?」
「おい、余計なこと言うな」
ナグルが苦笑しながらクリスを廊下へ押し出していきます。
なんだか二人の間に、妙な「男同士の連帯感」が生まれている気がして。
恥ずかしいやら。 悔しいやら。
私は再び枕へ顔を埋め、じたばた足を動かそうとして――。
「いたっ……」
結局また動けず、情けない声を漏らす羽目になったのでした。
王都最強の拳聖ケルナ・フォン・ウェスタリス。
その誇り高きプライドは。
愛しい夫によって、見事に陥落させられてしまったのです。




