第13話 旅立ちの朝と、若奥様の決意
翌朝――。
ウェスタリス城の重厚な石門の前には、王都へ帰還するアストレア伯爵家のための豪奢な馬車が用意されていた。
朝霧が辺境の大地を薄く包み込み、吐く息は白い。
昨夜までの宴の熱気が嘘のように、空気は静かで澄み渡っていた。
その静寂の中、石畳の上に並ぶ二つの家族。
アストレア伯爵夫妻。
弟のクリス。
そして――ウェスタリス家の若き当主夫妻。
「…………」
ケルナは、一見すればいつも通りの優雅な淑女の姿を保っていた。
淡い空色のドレス。
朝日に煌めく金色の髪。
凛と伸ばした背筋。
だが。
一歩、歩くたびに。
「っ……」
腰の奥に走る鈍い痺れのような感覚に、彼女は密かに唇を噛みしめていた。
その隣では、ナグルが当然のような顔で彼女の肩を抱いている。
しかも、微妙に支えるように。
(な、何故そんなに自然に支えるのですの……!)
羞恥で顔が熱くなる。
昨夜どころか、今朝の浴室でも散々好き放題された記憶が蘇り、ケルナは危うく拳を握り潰しかけた。
そんな新妻の羞恥など露ほども気にせず、ナグルは飄々とした顔で伯爵と向き合っていた。
「……ナグル殿」
ケルナの父、アストレア伯爵は、深く頭を下げた。
その瞳には、父としての複雑な感情が滲んでいる。
「娘を……ケルナを、くれぐれもよろしく頼みます」
ナグルの大きな手を、伯爵は両手で何度も握りしめた。
幼い頃から、自分の力を恐れていた娘。
強すぎるがゆえに孤立し、不器用なまま育ってしまった愛娘。
その人生を、今この男へ託す。
父として、これ以上に重い願いはなかった。
ナグルはいつもの不敵な笑みを少しだけ引っ込め、真っ直ぐに頷いた。
「任せてください、伯爵。……絶対に泣かせません」
「…………」
その言葉に、伯爵は一瞬だけ目を見開き――。
「……いや、既に何度か泣かせておる気がするのだが」
「親父殿!?」
思わぬ反撃に、ナグルの顔が引きつる。
すると、隣にいた伯爵夫人が上品に扇を口元へ当て、にこやかに微笑んだ。
「まあ。でも昨日から今朝にかけては、随分“可愛がって”いただけたようですし?」
「お母様っ!!」
ケルナの悲鳴が朝霧に響いた。
母は優雅な所作で娘の金髪を撫でる。
「辺境伯家に迷惑をかけてはいけませんよ、ケルナ」
「は、はい……」
「それから――」
母の視線が、娘の歩き方へ落ちた。
「少しは『妻の務め』も理解したようですね?」
「っ~~~~!!」
ケルナの顔が一瞬で真紅に染まった。
見抜かれている。
完全に。
昨夜から今朝までの全てを。
母はさらに追撃する。
「良いですか。殿方を立て、支え、癒やし、家を守る。それが妻の役目です」
「……はい、お母様」
「ただし」
そこで伯爵夫人は、すっと笑みを深めた。
「もしナグル様が浮気などしたら、拳で沈めなさい」
「おい待て義母上」
「女は時に強くあるべきです」
「教育方針どうなってんだよアストレア家!?」
ナグルが思わず叫ぶと、辺境伯夫妻まで真顔で頷いた。
「うむ」
「当然ね」
「全員そっち側なの!?」
ウェスタリス城の門前に笑い声が広がる。
そんな中、最後にクリスが軽やかな足取りで歩み出た。
姉と同じ金色の髪。
けれどその瞳には、年齢以上の聡明さが宿っている。
「義兄上、姉さん」
クリスは柔らかく微笑んだ。
「次に会う時は、僕に似た可愛い甥っ子か、姉さんに似た“拳の強い”姪っ子ができているのを期待していますよ」
「クリス!!」
ケルナが反射的に拳を握る。
しかし。
「おっと」
クリスはひらりと回避し、そのまま馬車へ飛び乗った。
「いやあ、でも本当に驚きましたよ。あの姉さんが、朝になってもベッドから出られないなんて」
「やめなさいクリス!!」
「義兄上、お手柔らかに。辺境の夜は長いですからね?」
「お前ほんといい性格してんな……」
ナグルが苦笑すると、クリスは悪戯っぽくウィンクした。
「姉さんの愛は重いですから。潰されないよう気を付けてくださいね」
「はっ、今さらだ」
ナグルは肩を竦めながらも、どこか誇らしげだった。
クリスはその答えに満足そうに笑い、御者へ合図を送る。
馬車がゆっくりと動き始めた。
「姉さん! 元気でねー!」
「クリス……!」
ケルナは空色の瞳を潤ませながら、大きく手を振った。
王都で過ごした日々。
家族との思い出。
不器用だった幼い自分。
その全てが、ゆっくりと遠ざかっていく。
「…………」
馬車が地平線の彼方へ消えるまで、ケルナはずっと見送っていた。
そして。
不意に、隣から大きな手が彼女の頭へ置かれる。
「……行っちまったな」
ナグルの低い声。
「寂しいか?」
ケルナは少しだけ彼へ寄り添い、小さく首を振った。
「いいえ」
その声は、どこまでも穏やかだった。
「わたくしには、貴方がいてくださいますもの」
ナグルの琥珀色の瞳が、わずかに柔らかく細められる。
「……それに」
ケルナは頬を染めながら、そっと視線を逸らした。
「クリスの言った“未来”のために……わたくしも、頑張らなくてはいけませんし」
「……お前」
ナグルは吹き出した。
「まだ腰引けて歩いてるくせによく言うぜ」
「~~~っ!!」
羞恥で真っ赤になったケルナが、勢いよく拳を振り上げる。
「ナグルのせいでしょう!? 誰が、あんな、朝まで……っ!」
「おっと危ねぇ」
ナグルは笑いながらその拳を受け止め、そのまま指を絡めた。
「まあ安心しろ。次はちゃんと加減してやる」
「次がある前提で話を進めないでくださいまし!!」
「え、ないのか?」
「~~~~っ!!」
ケルナは言葉を失った。
そんな彼女を見て、ナグルは心底楽しそうに笑う。
その笑顔を見た瞬間。
ケルナはふと、思ってしまった。
(……ああ、わたくし)
この人となら。
きっと、この先どんな人生でも。
笑って歩いていけるのだと。
朝日に照らされたウェスタリス城。
西の盾を守る若き夫婦は、ようやく本当の意味で、同じ未来へ歩き始めたのだった。




