第14話 金剛の盾
第14話 金剛の盾
ナグルとケルナの結婚式から、幾年もの月日が流れていた。
西の果て――ウェスタリス辺境伯領。
かつて魔獣の咆哮が絶えず響き、王国でもっとも過酷と恐れられていたその荒野は、今や別の名で語られている。
――『金剛の盾』。
王国西方を守護する、絶対不落の要塞領。
夕暮れの空の下、灰色の巨大な防壁が、燃えるような茜色に染まっていた。
防壁の上では、巡回する騎士たちが胸を張って歩いている。
兵たちの表情に、かつてのような怯えはない。
領内には豊かな畑が広がり、魔獣避けの結界塔が整備され、荒野だった土地には緑が根付き始めていた。
それら全ては、この地を守り続けた二人の存在によるものだった。
夕暮れの風を切り裂き、一騎の馬が荒野を駆ける。
黒馬の蹄が土煙を巻き上げ、防壁の門へ一直線に飛び込んできた。
「――戻ったぞ、ケルナ!」
馬から軽やかに飛び降りた男に、門兵たちが敬礼する。
「お帰りなさいませ、辺境伯様!」
ナグル・ヴォルグ・フォン・ウェスタリス。
かつて“剣聖”と呼ばれた男は、今や西方全軍を束ねる若き辺境伯となっていた。
赤銅色の髪を夕陽に煌めかせ、琥珀色の瞳には猛獣めいた鋭さと、家へ帰ってきた安堵が同居している。
討伐帰りらしく黒い外套には土埃がついていたが、その歩みは軽い。
彼が視線を向けた先――。
そこには、一人の女性が静かに立っていた。
「お帰りなさい、ナグル」
金色の髪を潮風になびかせ、空色の瞳を柔らかく細める美女。
ケルナ・フォン・ウェスタリス。
かつて“拳聖”と呼ばれた彼女は、今や辺境伯家の女主人として、この西の地そのものを象徴する存在となっていた。
薄青のドレスの上からでも分かる華奢な身体。
だが、その立ち姿には、山を砕く拳を持つ者だけが纏う絶対的な静寂が宿っている。
手首には、昔と変わらぬ銀のカフス。
それは彼女にとって、拳聖として生きてきた誇りであり、ナグルと共に戦ってきた証でもあった。
「随分と早かったわね?」
ケルナが微笑む。
「私が出向くまでもなかったのかしら?」
「当然だろ」
ナグルは鼻を鳴らした。
「A級魔獣が三体程度で、お前を呼び出したら部下に笑われる」
「あら。でも貴方、一体は素手で殴り飛ばしたのでしょう?」
「……誰から聞いた」
「兵士たちが『辺境伯様がまた奥様みたいな戦い方をしていた』って」
「裏切り者どもが……」
ナグルが苦々しく顔をしかめる。
その様子に、ケルナは思わず小さく笑った。
すると――。
「父上ーっ!!」
「お父様、おかえりなさい!」
城館の方から、二つの小さな影が勢いよく駆けてきた。
一人は赤銅色の髪を持つ少年。
年は八歳ほど。
父親譲りの快活さと、母親譲りの恐れ知らずを併せ持つ、ウェスタリス家の長男レオン。
もう一人は、ふわりとした金髪を揺らす六歳の少女。
空色の瞳を輝かせるその姿は、幼い頃のケルナをそのまま映したようだった。
名前はリリア。
ただし――。
「見てくださいお父様! 今日、兄様を投げ飛ばせました!」
「おいリリア! あれは不意打ちだろ!」
「でも三回転したわ!」
「床に頭埋まったんだぞ!?」
「…………」
ナグルは無言で空を仰いだ。
ケルナはそっと目を逸らした。
「……ケルナ」
「な、何かしら」
「娘が順調に“お前化”してるんだが」
「き、気のせいではなくて?」
「六歳児が兄をジャイアントスイングするか普通」
しかし当のリリア本人は、きらきらした瞳で父を見上げていた。
「お父様! 今度わたしにも剣を教えてください!」
「ん? ああ、もちろん――」
「その前に」
ケルナの笑顔が差し込む。
「リリア。貴女はまず“加減”を覚えましょうね?」
「はぁい」
にこにこと返事をする娘に、ナグルは確信した。
(絶対分かってねえ顔だこれ)
一方、レオンは呆れたように肩を竦めている。
「母上、リリアはこの前も庭石を殴って粉々にしてました」
「……まぁ」
「しかも『軽く叩いただけ』って言ってました」
「…………」
ケルナは優雅な笑みを保ちながら、ほんの少しだけ遠い目をした。
ナグルが吹き出す。
「ははっ! 血は争えねえな!」
「笑い事ではありませんわ!」
そんな夫婦のやり取りを見ながら、門兵たちも使用人たちも穏やかに笑っていた。
誰もが知っている。
この辺境を守る最強の夫婦は、今やこの領地そのものの“家族”なのだと。
遠くでは、女神神殿の鐘が静かに鳴り響いていた。
あの昔。
幼いケルナが、自分の力を恐れて泣いていた神殿。
今では、その鐘は平和の象徴となっている。
「……ナグル」
ケルナが静かに夫を呼んだ。
「今夜は、お義父様とお義母様も一緒に晩餐にしましょう? クリスから、また王都の珍しいお酒が届いたの」
「お、あいつまた送ってきたのか」
「ええ。“姉上と義兄上が相変わらず仲良しで安心しました”って手紙付きで」
「……あいつ絶対面白がってるだろ」
ナグルが苦笑する。
だが、その顔はどこか嬉しそうだった。
ケルナはそんな夫の横顔を見上げ、ふっと微笑む。
かつて孤独だった少年。
かつて自分の力を恐れていた少女。
二人は出会い、戦い、傷つき、支え合いながら、この西の地に居場所を築いた。
そして今。
その背後には、守るべき家族がいる。
守るべき領民たちがいる。
「……ああ」
ナグルはそっとケルナの肩を抱き寄せた。
「最高だな」
夕陽の中、彼は愛する妻の額へ静かに口づける。
防壁の向こうには、荒野。
防壁の内側には、温かな灯火。
王国の盾。
西の守護者。
赤銅色の剣聖と、金色の拳聖。
二人の物語は、この先もずっと――。
幾つもの笑い声と共に、語り継がれていくのだった。
――終幕――




