第5話 辺境の朝と、すれ違う想い
第5話 辺境の朝と、すれ違う想い
翌朝。
広大な辺境伯邸の食堂には、柔らかな朝陽が差し込んでいた。
高い天井から吊るされた魔導灯は既に消され、巨大な窓から流れ込む黄金色の光だけが、長い食卓を静かに照らしている。
焼き立てのパン。
香草の香るスープ。
辺境特産の燻製肉。
新鮮な果実と、王都では滅多に口にできない濃厚な乳製品。
どれも一流。
だが、その豪奢な朝食の席に流れている空気は、妙に重かった。
「…………」
食卓の一角。
ケルナは完璧な姿勢で席についていた。
昨夜泣き腫らした痕など微塵も感じさせない完璧な化粧。
乱れ一つない金髪。
気品に満ちた微笑み。
誰が見ても、理想的な伯爵令嬢。
――ただし。
彼女の隣の席だけが、ぽっかりと空いていた。
「……ケルナさん」
静寂を破ったのは、辺境伯夫人エレナだった。
彼女は優雅にティーカップを傾けながら、にこやかな笑みのまま告げる。
「うちのごくつぶしのバカ息子が、朝から顔も出さず、本当に申し訳ないわねぇ」
声は穏やか。
しかし。
その琥珀色の瞳には、氷点下の怒気が宿っていた。
「後で庭の土にでも埋めておくから、許してちょうだい」
「お母様、それ埋める前提なんだ……」
向かいの席で呟いた少年――テオが、半眼になっている。
ケルナは慌てて首を振った。
「あ、あら、お気になさらないでくださいませ」
完璧な笑顔。
「ナグル様もお疲れなのでしょう。わたくし、全然気にしておりませんから……おほほほ」
澄んだ笑い声。
だが。
彼女の手元では、フォークが小刻みに震えていた。
皿の上のレタスが、執拗なまでに細切れにされていく。
シャッ、シャッ、シャッ、シャッ。
もはやサラダではなく草の残骸である。
それを見たテオが、呆れたように溜息を吐いた。
ナグルの弟、テオ・フォン・グランフェルト。
十二歳とは思えないほど落ち着いた少年で、知的な灰色の瞳と整った顔立ちを持っている。兄と違って非常に礼儀正しく、既に「次期辺境伯補佐」として周囲から期待されている存在だ。
なお本人は、「兄貴を反面教師にしているだけ」と主張している。
「……ケルナお姉さま、無理しなくていいよ」
テオは淡々と言った。
「兄貴があんな子供だとは思わなかった。初夜に新妻を泣かせて窓から逃亡とか、普通に最低だよね」
「テ、テオ様……」
「僕なら絶対そんなダサい真似しないのに」
「お前は十二歳だろうが」
辺境伯エドワードが低く突っ込む。
テオは真顔だった。
「でも将来的な話として大事でしょう?」
「妙に現実的だなお前は……」
朝から始まる親子漫才。
だがケルナは、それでも必死にナグルを庇った。
「ナグル様は、その……夜風に当たりたかっただけですわ」
「初夜に?」
「…………」
「窓から?」
「…………」
「花嫁泣かせた直後に?」
「…………」
ケルナの微笑みが引き攣る。
食卓の空気が、さらに冷えた。
そこで。
今まで黙っていた辺境伯エドワードが、大きく息を吐いた。
「……ケルナ嬢」
その声には、昨夜までの威圧感ではなく、父親としての苦悩が滲んでいた。
「本当に済まない」
ケルナは顔を上げる。
エドワードは深く頭を下げていた。
「ナグルには後できつく言い聞かせる。……そもそも、この縁談を無理に頼み込んだのは、私なのだ」
「……辺境伯様が?」
ケルナの空色の瞳が揺れる。
エドワードは静かに頷いた。
「王家主導という形にはなっているが、実際には皇太子殿下が仲介役だった」
「あやつとナグルは学園時代からの腐れ縁でな。『いい加減、あの馬鹿を落ち着かせろ』と散々言われていた」
夫人エレナが小さく笑う。
「皇太子殿下、“あの子はケルナ嬢の前でだけ人間らしくなる”って仰っていたものねぇ」
「余計なお世話だと本人は怒るだろうが、事実だから困る」
エドワードは肩を竦めた。
「私は、アストレア伯爵――君の父上に直接頼み込んだのだよ」
その金色の瞳が、真っ直ぐケルナを見る。
「『ナグルを御せるのは、この国広しといえどケルナ嬢しかいない』――そうな」
ケルナの胸が、小さく震えた。
「……わたくし、しか」
「うむ」
辺境伯は苦笑する。
「あれは昔から不器用でな。剣だけは天才的だが、人付き合いは壊滅的だ」
「好きな相手ほど雑に扱う悪癖があるのよねぇ」
夫人エレナが呆れたように補足する。
「子供の頃なんて、仲良くなりたい子に木剣で決闘申し込んで泣かせてたもの」
「最悪ですわね……」
「しかも本人は“遊んでた”つもりなのよ」
「なお悪いですわ!?」
思わず素でツッコむケルナ。
だがその反応に、夫人は少し安心したように微笑んだ。
エドワードは続ける。
「ナグルにとって、君との時間は特別だったのだろう。……だが、あやつは“失うかもしれない”と思った瞬間、恐ろしく臆病になる」
「だから、自分が傷つく前に相手を傷つけるような真似をする。……本当に情けない息子だ」
静かな声だった。
だがそこには、父としての深い理解があった。
ケルナは俯く。
胸が苦しい。
家のためだと思っていた。
義務だと思っていた。
けれど。
この結婚には、両家の親たちなりの願いが込められていたのだ。
――踏み出せない二人の背中を押したい。
ただ、それだけの。
(……お父様ったら)
ケルナは心の中で呟く。
(最初から言ってくだされば良かったのに)
そうすれば。
あんな夜にはならなかったかもしれない。
自分は泣かずに済んだかもしれない。
ナグルも、あんな顔をしなかったかもしれない。
けれど。
もう遅い。
昨夜交わした言葉は、鋭い棘となって胸に残っていた。
空元気で貼り付けていた微笑みが、少しだけ崩れる。
その儚げな横顔を見て、夫人エレナは静かにティーカップを置いた。
「……ケルナさん」
「はい?」
「もし、あのバカ息子を殴りたくなったら、遠慮なくやってちょうだいね?」
「お母様?」
「ただし城壁の外でお願いするわ。屋敷が吹き飛ぶから」
「夫人!? わたくしそこまで加減を失っておりませんわ!」
「昨日、門番詰所の壁に拳型の穴が開いていたけれど?」
「…………」
「兄貴が逃げる時に巻き込まれたんだと思う」
「…………」
「……あのバカ、本当に後で埋めるか」
辺境伯の低い呟きに、食堂の空気が少しだけ和らぐ。
ケルナもまた、小さく――本当に小さくだけ笑った。
けれど。
その胸の奥にはまだ、昨夜の冷たい痛みが残ったままだった。




