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拳聖ケルナの結婚  作者: 小兎


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第4話 喧嘩別れの初夜



辺境伯邸の夜は静かだった。


昼間、剣聖と拳聖が盛大に暴れたとは思えないほどに。


分厚い石壁は外界の風を遮り、広大な城は深い静寂に包まれている。

遠くから聞こえるのは、夜警の足音と、荒野を渡る風の低い唸りだけ。


その静寂の中心。


辺境伯家嫡男夫妻へと与えられた寝室には、柔らかな魔導灯の明かりが落ちていた。


天井には繊細な金細工。

床には深紅の絨毯。

壁には西方の山脈を描いた巨大な油彩画。


そして部屋の中央には、豪奢な天蓋付きベッドが静かに鎮座している。


王都の一流貴族ですら息を呑むであろう、辺境伯家に相応しい婚礼の寝室。


だが。


その部屋に満ちている空気は、甘さとは程遠かった。


「…………」


「…………」


夜着姿のケルナとナグルが、互いを挟んで向かい合っている。


昼間までの騒がしさはどこにもない。


拳も飛ばない。


軽口もない。


あるのは、肌を刺すような沈黙だけだった。



---


先に口を開いたのは、ナグルだった。


「……ケルナ」


低い声。


いつもの気怠げな調子ではない。


押し殺した感情が滲んでいた。


「お前……なんでこんな縁談、受けやがった」


ケルナはわずかに目を伏せた。


予想していた問いだった。


だからこそ、彼女は“淑女”として答える。


「王家からの正式な要請ですもの」


声は静かだった。


「アストレア家が拒絶すれば、お父様のお立場にも関わります。……貴族として当然の判断ですわ」


完璧な回答。


理性的で、正しく、非の打ち所がない。


だが。


ナグルの表情が、険しく歪んだ。


「……当然?」


その一言に、怒気が滲む。


「お前、俺がいない間に、見も知らねぇ男の寝所にはべる覚悟してたってことかよ」


「……っ」


「俺がどんな気持ちでお前の隣にいたのか、お前、これっぽっちも分かってなかったんだな」


心臓が跳ねた。


まるで拳を叩き込まれたような衝撃。


ケルナは息を呑む。


だが次の瞬間には、胸の奥に積もっていた感情が噴き上がっていた。


「……何を仰いますの!」


彼女は一歩踏み出す。


空色の瞳が揺れていた。


「あなたこそ! あの日、わたくしを置いて突然消えたではありませんか!」


「あれは親父の危篤だって――」


「理由なんて知りませんわ!!」


ケルナの声が震える。


「挨拶もなく、何の説明もなく! ……どれだけ、どれだけ心配したと思っているんですの……!」


その言葉に、ナグルの顔が苦く歪んだ。


だが彼も引かなかった。


「それでも、お前は受け入れたんだろ」


低い声。


責めるような声。


「家のためだの何だの言って、知らねぇ男に嫁ぐ覚悟決めて……」


ナグルは拳を握り締める。


「そんなにアストレアの名が大事かよ」


その一言が。


ケルナの胸を深く抉った。


ドラゴン以下と言われた時よりも。


昼間、簀巻き姿を見た時よりも。


ずっと痛かった。


彼女だって好きで頷いたわけじゃない。


家族を守るためだった。


ナグルがもう隣にいないのなら、せめて貴族としての義務だけは果たそうと。


夜通し泣いて。


苦しんで。


それでも覚悟を決めたのだ。


なのに。


「あなたに……何が分かりますの……!」


ケルナの声が掠れる。


「どんなにS級冒険者なんて呼ばれても、わたくしは貴族令嬢ですのよ!」


感情が溢れる。


「親の決めた相手に嫁ぐ義務がある! 家を守る責任がある! ……貴方だって貴族の嫡男なら、それくらい分かるでしょう!?」


空気が震えた。


拳聖の魔力が無意識に漏れ出す。


窓ガラスがビリビリと鳴る。


だが今の彼女は、怒っているのではなかった。


悲しかったのだ。


「わたくしが……どんな思いで……ッ」


ぽたり。


涙が落ちた。


一粒。


また一粒。


空色の瞳から、大粒の雫が零れ落ちる。


それを見たナグルの顔が、苦しげに歪んだ。


だが。


彼は優しい言葉を選べる男ではなかった。


「……泣けば済むと思ってんのか」


その声音は、酷く冷たかった。


「勝手に絶望して、勝手に身を売るような真似しやがって」


「……っ」


「お前の“覚悟”なんて、安っぽいもんだぜ」


ケルナの肩が震えた。


違う。


そうじゃない。


そんなつもりじゃなかった。


否定したいのに、声にならない。


涙ばかりが溢れてくる。


ナグルは、その涙を見ていられなかった。


乱暴に舌打ちすると、彼は背を向ける。


そして。


バンッ!!


勢いよく窓を開け放った。


夜風が吹き込む。


冷たい空気が、熱を帯びた室内を切り裂いた。


「今日は……お前の顔なんか見たくねぇ」


低い声。


「……勝手に寝ろよ」


「ナグル、待ちなさ――」


呼び止める声より早く。


ナグルの身体は窓の外へ飛び出していた。


剣聖らしい、馬鹿みたいな跳躍。


一瞬で闇へ消える背中。


その姿を、ケルナはただ見送るしかできなかった。



---


静寂。


広すぎる寝室。


豪奢な天蓋付きベッド。


高価な絨毯。


美しい調度品。


けれど。


今のケルナには、その全てが酷く冷たく見えた。


「……っ」


膝から力が抜ける。


そのまま床へ崩れ落ちた。


「……バカ」


涙が止まらない。


「ナグルの、大バカ……っ」


好きだった。


ずっと。


誰よりも。


だからこそ苦しかった。


どうして、あんな言い方しかできないのか。


どうして、自分の気持ちを分かってくれないのか。


どうして。


どうして。


一番大切な相手なのに、こんなにも傷つけ合ってしまうのか。


月光が差し込む。


銀色の光が、泣き崩れる拳聖令嬢を静かに照らしていた。


最強と呼ばれる彼女は。


今夜だけは。


恋に傷ついた、ただの少女だった。


そして。


彼女はまだ知らない。


窓の外。


夜風に吹かれながら、城壁の上に座り込んだナグルもまた。


頭を抱えながら、自分の最低な言葉を死ぬほど後悔していることを。

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