第2話 嫁入りは突然に
第2話 拳聖令嬢、嫁ぐ
王都の一角。
貴族街の中でも、アストレア伯爵家の屋敷はどこか異質だった。
他家のように、金箔を貼り付けたような豪奢さはない。
白亜の塔も、無意味に広い庭園も、来客を威圧するだけの巨大門も存在しない。
あるのは、堅牢で実用性を重んじた石造りの屋敷。
磨き抜かれた床。
無駄なく整理された調度品。
華美ではないが、一流の職人による確かな品質。
まるでこの家そのものが、「実務」を体現しているようだった。
ここはアストレア伯爵家。
領地を持たぬ代わりに、王国中枢でその才を振るう『実務貴族』の家系である。
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アストレア家の当主――トール・フォン・アストレア。
王宮に勤める上級官吏であり、王国財政と行政の要を担う切れ者だ。
彼は今日も大量の書類を抱え、胃薬を片手に働いている。
理由は簡単。
娘が規格外だからである。
S級冒険者。
王国最強格。
ギフト『拳聖』。
愛娘ケルナは、その華奢な拳で災害級魔物を殴り飛ばす怪物だった。
魔物討伐の功績は王国随一。
だが同時に、
・貴族令息を噴水まで吹き飛ばす
・公爵家の夜会を半壊させる
・冒険者ギルドの柱を折る
など、数々の伝説も積み上げていた。
そのたびに後始末と根回しに奔走するのが、父トールである。
最近では胃薬の消費量が王都貴族ランキング一位という噂まであった。
本人は泣きながら否定している。
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母エレナは、由緒正しい伯爵家の出身だ。
柔らかな微笑みと、春の日差しのような穏やかさを持つ美女。
アストレア家の癒やしであり、精神的支柱でもある。
ケルナが魔物を素手で粉砕したと聞いても、
「あらあら、今日も元気ねぇ」
と微笑んで済ませる肝の据わった女性だった。
だが最近の悩みは別にある。
――娘の恋愛力である。
十八歳になったというのに、浮いた話が一切ない。
いや、正確には。
浮きそうになる男が、だいたい空を飛ぶ。
エレナは時折、夜空を見上げながら真剣に祈っていた。
(どうかケルナちゃんを受け止められる殿方が現れますように……物理的にも精神的にも)
切実である。
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そして弟。
クリス・フォン・アストレア。十七歳。
次期当主として育てられた彼は、脳筋気味の姉とは真逆だった。
父譲りの知性。
母譲りの穏やかさ。
柔和な笑みを浮かべる秀才であり、王都でも将来有望と評判の青年だ。
もっとも。
「姉さん、せめて壁を壊す前に一言ください」
「無茶をするなら、修繕費を計算してからにしてください」
などと日々頭を抱えているため、年齢の割に苦労人でもある。
ちなみに、ケルナが冒険で稼いだ莫大な報酬は、ほとんど彼が管理していた。
魔物素材の換金。
依頼金の運用。
そして。
『姉の嫁入り資金積立口座』
を密かに作っている辺り、本当にしっかり者だった。
ケルナ本人は知らない。
知ったら泣く。
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領地を持たないアストレア家の庭は決して広くない。
だが、その代わり。
屋敷の裏には異様に頑丈な石畳の練武場が存在していた。
ケルナ専用である。
普通の訓練場では、彼女が軽く拳を振っただけで崩壊するため、王国一流の魔術師たちが本気で補強工事を施した。
なお、それでも時々壊れる。
職人たちは泣いた。
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さらに来客を驚かせるのが、屋敷内に並ぶ数々の魔物素材だった。
玄関には巨大な牙。
廊下には用途不明の古代魔道具。
広間にはドラゴンの鱗。
そして何より。
訪問者を最初に圧倒するのが、玄関ホールに飾られた巨大な剥製だった。
《雷角鹿》。
災害級魔獣。
王国北部で雷嵐を引き起こし、一個騎士団を壊滅寸前まで追い込んだ存在である。
その巨大な角は、まるで王冠か、あるいは天へ伸びる樹木のように枝分かれし、鈍い銀光を放っていた。
さらに恐ろしいことに。
死後なお、角の隙間で時折――
バチッ。
青白い雷火花が走る。
空気が震える。
夜中に見ると本気で怖い。
瞳には高級な紫水晶が嵌め込まれており、どの角度から見ても視線が合う仕様だった。
完全にホラーである。
「……姉さん、これ夜に目が合うんだけど」
クリスが真顔で呟けば、
「防犯になるだろう?」
と父トールが遠い目で返す。
実際、泥棒は絶対入りたがらない。
ちなみにケルナ本人は、
「あら可愛いですわよ?」
という感想だった。
感性がS級である。
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そんなアストレア家の晩餐。
長いテーブルには、湯気を立てるスープと焼きたての肉料理が並んでいた。
ケルナはいつものように優雅な仕草で食事をしている。
だが。
どこか上の空だった。
ナイフを動かしながらも、その空色の瞳は別の場所を見ている。
(……ナグル)
脳裏をよぎるのは、昨日ギルドを飛び出していった男の背中。
手紙を読んだ瞬間、血の気を失ったあの表情。
あんな顔をするナグルを、ケルナは初めて見た。
一体どこへ行ったのか。
何が起きたのか。
気になって仕方がない。
だが。
(……別に、心配しているわけではありませんわ)
そう自分に言い聞かせるほど、胸がざわついた。
そして。
今夜、様子がおかしいのは彼女だけではなかった。
父トールも妙に静かだったのだ。
普段なら、
「またギルドの柱を折ったのか!?」
と頭を抱えているはずなのに、今日はほとんど喋らない。
ただ重苦しい顔で食事を口へ運んでいる。
その空気に、クリスもエレナも気づいていた。
食後。
使用人たちが食器を下げ、香り高い茶が運ばれる。
沈黙。
やがて。
トールがゆっくり口を開いた。
「ケルナ」
その声は重かった。
「……お前に話がある」
ケルナはティーカップを持つ手を止める。
嫌な予感がした。
父は視線を落としたまま続ける。
「お前の嫁入りが決まった」
空気が止まった。
「……はい?」
「相手は辺境伯家の嫡男だ。明朝、迎えの馬車が来る。そのまま発ってもらう」
ケルナは数秒、言葉を理解できなかった。
嫁入り。
自分が。
突然。
脳裏に浮かんだのは、ナグルの背中だった。
――悪い、ケルナ。勝負は預けだ。
「……お父様」
ケルナは微笑もうとした。
だが引きつっていた。
「冗談にしては手が込みすぎていますわ。わたくしの“前科”を知っていて、命の惜しくない殿方がまだ存在するとは思えませんもの」
しかし。
父の目は真剣だった。
「これは王家も関わる正式決定だ」
その一言で理解する。
拒否権はない。
「……済まない、ケルナ。抗えぬ縁というものがある」
ギシッ。
ケルナの握った机が軋む。
ティーカップが細かく震えた。
拳聖の魔力が無意識に漏れ出している。
シャンデリアが揺れ、窓ガラスがビリビリと鳴った。
だが。
ケルナは目を閉じる。
深く息を吐く。
そして。
ゆっくりと拳を開いた。
「……承知いたしましたわ、お父様」
静かな声だった。
どれほど強くとも。
どれほど自由に戦っていても。
彼女は貴族だ。
家のために従う義務がある。
それくらい理解していた。
「準備をしてまいります」
ケルナは立ち上がる。
「……明朝には、完璧な“花嫁”として出発いたしますわ」
その背中は。
いつもよりずっと小さく見えた。
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その夜。
ケルナは自室の天蓋付きベッドに横たわり、静かに天井を見上げていた。
窓から月光が差し込む。
白い光が、彼女の拳を照らしていた。
この手で、どれだけの魔物を倒しただろう。
どれだけの人を守っただろう。
明日からは。
もう剣も拳も必要ない。
「……あんなに、騒がしかったのに」
ぽつりと呟く。
脳裏に浮かぶのは、やはりあの男だった。
不敵に笑うナグル。
討伐数を競い合った日々。
「お前のお嬢様言葉、肩凝るんだよ」
と軽口を叩かれ、本気で追い回した夕暮れ。
どんな魔境でも、隣には彼がいた。
背中を預けられる、唯一の相棒。
「ふふ……楽しかったなぁ……」
自然と笑みが零れる。
そして同時に、胸が痛んだ。
「……もう二度と、並んで歩くことは叶いませんのね」
ナグルは今どこにいるのだろう。
自分が明日、王都を去ることも知らずに。
「……お別れくらい、言いたかったですわ」
ぽたり。
頬を熱い雫が伝った。
拳聖。
S級冒険者。
王国最強の令嬢。
そんな肩書きをすべて脱ぎ捨てれば。
今夜の彼女は、ただ恋を知った一人の少女だった。
声を殺し。
枕を濡らし。
ケルナは夜が明けるまで、静かに泣き続けた。




