第1話 拳聖令嬢は淑やかに殴る
女神アルフェリアが創りたもうた世界――《アルフェリアネオイロス》。
この世界に生きる全ての者は、生まれ落ちた瞬間、女神より《ギフト》を授かる。
炎を操る者。
水を癒やしに変える者。
剣を極める者。
その力は人生を決定づけ、ときに国の運命すら左右した。
そして――。
バウンティ大陸、フェルティニア王国。
その名門、アストレア伯爵家に生まれた一人の令嬢もまた、特別なギフトを授かっていた。
ケルナ・フォン・アストレア。
輝く金糸のような長髪。
澄み渡る空色の瞳。
見る者すべてを魅了する可憐な美貌。
誰もが彼女を“理想の令嬢”と称える。
――ただし。
彼女の授かったギフトが、『拳聖』でなければ。
しかもランクは、国家級災害認定のS級。
フェルティニア王国最強の拳撃使い。
それが、淑女ケルナ・フォン・アストレアであった。
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爽やかな春風が、新緑の庭園を吹き抜ける。
格式高い伯爵家の迎賓館では、現在、とある見合いの席が設けられていた。
磨き抜かれた銀食器。
香り高い紅茶。
優雅な弦楽器の演奏。
完璧な社交の場――の、はずだった。
「ふむ……」
向かいに座る男が、ティーカップを小指を立てて持ちながら、ケルナを上から下まで舐めるように見回した。
何とか伯爵家の嫡男。
名前を覚える価値もない男だった。
「輝く金髪に空色の瞳。なるほど、観賞用の花としては極上だ」
男はニヤニヤと笑う。
「少々胸が物足りない気もするが……まあいい。夜の教育で僕好みの女に仕立ててあげよう」
周囲の空気が凍った。
だが男は気づかない。
「君は黙って僕に従えばいいんだ。優秀な夫に仕え、跡継ぎを産む。それが女の価値だろう?」
ケルナは微笑んだまま、静かに紅茶を置く。
「令嬢の身で格闘など野蛮だ。そんな遊びは結婚後にやめてもらう。交友関係も管理するから、今の友人とは縁を切りたまえ」
男は勝ち誇ったように顎を上げた。
「理解したかい?」
その瞬間。
ケルナの空色の瞳に、冷たい光が宿った。
「――左様でございますか」
彼女はゆっくり立ち上がる。
ドレスの裾がふわりと揺れた。
「そこまで仰るのでしたら……わたくしも『教育』というものを、お教えせねばなりませんわね」
「……は?」
一歩。
ケルナが踏み出した瞬間。
大気が震えた。
拳聖のギフトが、華奢な右拳へ収束する。
圧縮された魔力が空間を軋ませ、床石に亀裂を走らせた。
男の顔から血の気が引く。
「あ、いや、ちょ――」
遅い。
次の瞬間。
轟音が炸裂した。
「お黙りなさいませ」
ドォォォォォォン!!
拳聖ケルナの右フックが、男の頬を正確無比に撃ち抜いた。
男の身体は砲弾のように吹き飛び、重厚な壁を突き破り、そのまま庭園の噴水へ一直線。
巨大な水柱が空へ舞い上がる。
会場は静まり返った。
給仕は硬直し、親族は腰を抜かし、仲人は白目を剥いている。
そんな中。
ケルナだけが、何事もなかったように微笑んでいた。
「あら、失礼」
彼女はさらりと金髪を払い、
「少々『躾』が厳しすぎましたかしら?」
優雅にナプキンで指先を拭う。
まるで汚れ仕事を終えた淑女のように。
そして呆然とする両家へ、完璧なカーテシーを披露した。
「お父様、お母様。このお話、わたくしの拳には少々“手応え”が足りなかったようですわ」
にっこり。
「それでは皆様、ごきげんよう」
ドレスを翻し、彼女は瓦礫と沈黙の会場を後にした。
その背中は可憐で。
そして、誰よりも恐ろしかった。
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その日の夜。
アストレア伯爵家の居間では、恒例行事となりつつある修羅場が開催されていた。
「ケルナァァァ!! またかぁぁぁ!!」
頭を抱えて絶叫するのは父、アストレア伯爵。
「今度は噴水まで吹き飛ばしおって!!」
「お父様」
ケルナは優雅に紅茶を口にする。
「わたくし、ほんの少々、女性への暴言が招く結果を教育しただけですわ」
「どこが“少々”だ!!」
伯爵は机を叩いた。
「先日の夜会では公爵令息をアッパーでシャンデリアまで打ち上げただろうが! あれは今や貴族界で『空飛ぶ令息事件』として語り継がれているんだぞ!」
「ですがお父様」
ケルナは首を傾げる。
「『暴力女のお前に声をかけてやったんだ、ありがたく股を開け』などと言われれば、教育的指導もやむを得ませんでしょう?」
「まあそれは確かにクズだが……!」
伯爵は反論できず呻いた。
その横では、母である伯爵夫人が扇子で口元を隠している。
「ああ、ケルナちゃん……。抗議文の山を想像しただけで目眩が……」
だが夫人はふっと目を細めた。
「……ですが、わたくしたちの娘を“跡継ぎを産む道具”扱いする殿方など、殴られて当然ではありませんこと?」
「お前まで何を言い出す!?」
「むしろ一撃で済ませたのは慈悲ですわ」
「慈悲で人間が噴水まで飛ぶか!!」
悲鳴を上げる父を横目に、ケルナは窓の外を見る。
夕暮れの空は赤く染まり、彼女の瞳にも朱が映っていた。
「次はもう少し“手加減”を覚えますわ」
「磨かなくていい!!」
伯爵の叫びが屋敷中に響き渡った。
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翌日。
気分転換を兼ねて、ケルナは冒険者ギルドを訪れていた。
オーク集落殲滅依頼を単独で終わらせた帰りである。
ちなみに討伐確認のため持ち帰ったオークの牙は山積みだった。
受付嬢が泣いていた。
「おいネーチャン、俺たちの酒の相手――」
絡んできた冒険者の男が、最後まで言い切ることはなかった。
ギルド内に満ちる、圧倒的殺気。
ケルナの空色の瞳が、静かに細められる。
「あら」
にこり。
「今、わたくしを酌婦扱いなさいました?」
男が青ざめる。
空気が重い。
床が軋む。
拳聖の圧が、物理的にギルドを震わせていた。
「……おいケルナ。その殺気を引っ込めろ。そいつもう泡吹いてるぞ」
ガシッ。
ケルナの拳を掴んだのは、一人の男だった。
長身。鋭い眼光。無造作な黒髪。
そして腰には、巨大な魔剣。
大陸最強の剣士。
『剣聖』ナグル。
ケルナとは長年の腐れ縁だった。
「あらナグル、離してくださいな」
ケルナは優雅に微笑む。
「これは教育的指導としての旋回蹴りですわ」
「どこがだ!! お前の蹴り一発でこいつはミンチ、ギルドは廃墟だ!」
「あなたが遅刻するからいけないんですのよ。この万年遅刻剣聖」
「あぁ!? 誰が万年だ!」
至近距離で睨み合う二人。
バチバチと火花が散る。
周囲の冒険者たちは慣れた様子で囁き合った。
「……また始まった」
「夫婦喧嘩か?」
「いやもう結婚しろよあいつら」
足元で泡を吹く冒険者だけが現実だった。
「ナグル、わたくしが討伐数で勝ったら高級ステーキを奢っていただきますわ」
「上等だ。その代わり俺が勝ったら一週間“教育的指導”禁止な」
「無理難題ですわね」
「お前、自覚あったのかよ!?」
その時。
「お前らァァァ!!」
ギルドマスターの怒号が炸裂した。
「ここは冒険者ギルドであって、夫婦喧嘩の公開稽古場じゃねえ!!」
机が割れた。
「特にケルナ! お前の教育的指導のせいで今月だけで柱が三本折れたんだぞ!!」
「あら」
ケルナは扇で口元を隠す。
「害虫駆除ですわ」
「害虫で建物半壊させるな!!」
マスターが絶叫した、その時だった。
「……ナグル。これを見ろ」
低い声。
ギルドマスターが、一通の封書を差し出した。
封蝋を見た瞬間、ナグルの表情が変わる。
軽薄さが消えた。
彼は無言で封を切り、中身を読む。
そして。
顔色が、消えた。
「……これ、マジか」
空気が変わる。
ケルナが眉をひそめた。
「ナグル?」
彼は手紙を握り締めたまま立ち上がる。
「悪い、ケルナ。勝負は預けだ」
「えっ?」
「マスター。しばらく留守にする」
それだけ言い残し。
ナグルは風のようにギルドを飛び出していった。
残されたのは静寂。
そして。
「……行ってしまいましたわね」
ぽつりと呟くケルナ。
いつもの喧嘩相手がいなくなった途端、彼女はふっと拳聖の気配を消した。
そこにいるのは、ただの寂しそうな伯爵令嬢だった。
「あいつがあんな顔するのは珍しいな……」
ギルドマスターも険しい顔をする。
ケルナは少しだけ俯き、それから微笑んだ。
「仕方ありませんわね。わたくしも今日は帰りますわ」
優雅に一礼する。
「……お父様の“お見合い写真攻撃”を捌く方が、魔物退治より骨が折れますもの」
苦笑を残し。
ケルナは夕暮れの街へ歩き出した。
だがその胸には、説明できないざわめきが残っていた。
――ナグルに、一体何があったのか。
それが、後の2人に関する運命を回す始まりだとは、まだ知らない。




