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静まり返っていた会場がにわかにざわつきだす。
それもそのはず。アレクセイとナタリアがなかなか姿を現さないからだ。
おかしい。合図は送った。
あのアレクセイのことだ。あれだけナタリアを着飾らせておいて、人目に晒すことを厭うわけがない。むしろ自慢げに意気揚々と登場するはずだ。
エカテリーナと国王、それに女王は顔を見合わせる。
あともう少しして、それでも出てこなかったら使いを走らせよう。言葉なく、目線だけで合図した、そのときだった。
最初に聞こえたのはうら若い乙女たちの黄色い悲鳴。
はっとなってエカテリーナが悲鳴の上がった方向を見れば――
「おっ、……お姫様抱っこ……」
――アレクセイが、意気揚々と、それはそれは楽しげな様子でナタリアをお姫様抱っこして現れたではないか。
お姫様抱っこのまま、二人は所定の位置に着く。そうしてアレクセイが、それはそれは丁寧な様子でナタリアをそっと下ろした。
静まり返った会場。
一体なにから突っ込むべきなのか。
諸々の思惑が飛び交う中、アレクセイとナタリアは件の人物たちを見つける。
ナタリアの両親と、妹であるエミリー、元婚約者のセルゲイだ。
会場の隅に固まるようにいる4人。アレクセイは明らかそちらの方を向き、にたり、と嫌な笑みを浮かべた。
「――さて。まぁ色々と、形式張った挨拶から連ねるところなのだろうが――あいにく私は鼠でな。人間の道理というものには些か疎いんだ」
あれだけ侍女に言われたというのに。
話しながら、アレクセイがナタリアの腰を抱く。いつものように尻尾をナタリアの体に絡めながら、にこにこと話を続ける。
「まぁなんだ。ご覧の通り、私はこのナタリア・クローデル嬢に骨抜きにされてしまってな。無理を押し通し、私の婚約者としたわけだ。今夜はそれを正式に発表する場というわけなのだが――」
ごくり、と会場が唾を飲む。
アレクセイほどの男だ。本来であれば、周到に、会場全体を見渡して話すはずの男。その男がナタリアの家族とその婚約者だけを見ている。
そこに孕む意味がわからないほど、会場の人間も馬鹿ではない。
そして今ここにいる人間は、ほぼ全員が、先日の婚約破棄騒動をこの目で見ていた人間ばかりだった。
「――ナタリアに一目惚れし、彼女の境遇を聞いてこれはこれは驚いたんだ。なんでもナタリアはエスコートのされ方も知らなかったらしい。不思議だとは思わんか? 公爵令嬢であるナタリアにはもちろん婚約者がいる、……いや、いた。過去形だなこれは」
流暢に、けれど有無を言わさぬ口調でアレクセイは続ける。
「あぁ、いや、ナタリアの名誉のために付け加えておくが、ナタリアは公爵令嬢。知識としてエスコートのされ方ぐらいはもちろん知っていた。父親にされたこともあると言っていたしな。……それでだ。話を戻そう。公爵令嬢ともなれば、出席を強要される夜会の場で婚約者からのエスコートは必須。それを知らない、ときた。その理由は――私より、今、会場にいる人間のほうが理解しているやもしれんが……」
なぁ? とアレクセイがわざとらしくナタリアを見下ろす。
「――アレクセイ様のおっしゃる通りです。そも、私とアレクセイ様が知り合ったのも、例の婚約破棄騒動がきっかけで――」
「――そうよっ!?! お姉様ったらセルゲイ様を差し置いて浮気だなんて……!」
ナタリアの声を遮るように叫んだのは、エミリーだった。
「私、私、いてもたってもいられなかったんです……! お姉様がとんだあばずれだとセルゲイ様が肩を落としていて……! 義兄であるセルゲイ様のそんなお姿を見るのは本当に心苦しくて……!」
白々しい演技のエミリーに、アレクセイが舌打ちする。馬鹿が、と低い声で呟いたのを、ナタリアは静かに制した。
「アレクセイ様。ここから先は私にやらせてくれませんか?」
「……お前がそう言うのであれば構わぬが、……窮地に陥るようだったら、お前に許可なく助けを出すからな」
心強すぎる言葉に一度頷いて、ナタリアはエミリーへ向き直る。それなりに距離はあったが、視線が自分へ向いたのを自覚したのか、エミリーが一瞬だけ怯んだ。
その隙を、ナタリアは見逃さなかった。
「ねぇ、エミリー。そもそも順番がおかしいと思わない? 記録を辿ればすぐにわかると思うけれど、私とアレクセイ様は、これまでこれといった接触はなかったもの」
まさかナタリアから反論があるとは思ってもなかったのだろう。ざわつき始めていた会場が一気に静まり返る。
「それに……ここにいる皆様は、私の伴侶であるアレクセイ様よりもお詳しいと思いますが……私の元婚約者であるセルゲイ様。それと、妹のエミリー。この二人が、私を差し置いて、さも本当の婚約者同士のように夜会の場で振る舞っていたのは皆様一度ぐらいお目にしたはずですよ?」
そうだとも。
公爵令嬢とまでなれば、夜会では注目の的。そしてスキャンダルは格好の噂の種なのだ。
だからこそこの場にいる貴族のほとんどは、ナタリアとエミリー、それにセルゲイの、奇妙な関係性は一度ぐらいは目にしていた。知っていた。それを裏付けるかのように、貴族達は「自分は無関係だ」と言わんばかりにナタリアから目を逸らす。
「セッ……セルゲイ様は! 体の弱い私を気遣ってくれたからで……! お姉様を馬鹿にするためにしてたとかじゃ!」
「あら? 体の弱いお人は、そんなふうにヒステリックに騒ぐことはできない思いますけれど?」
助け舟のように出されたのはエカテリーナの声だった。
ナタリアはそれに目線だけで一礼する。エカテリーナは、ふ、と目を細め、これ以上は口出ししませんよ、とでも言うように口元を扇で隠した。
さすがのエカテリーナに突かれては、エミリーも口を噤むざるを得なかっのだろう。
そしてナタリアの両親とセルゲイ、ついでにセルゲイの両親はといえば、魂でも抜けたように真っ白になっていた。そういえば、夜会の前に国王夫妻直々に話をするとか言っていたんだったか。
――お前は、私の国との国交を繋いだ重要な人物だからな。煩わしい露払いは全て他の人間に任せておけ。
そうナタリアに告げたのはアレクセイだ。だからナタリアの両親に、一体どんな話がされたのか未だもってナタリアは知らない。知らされる前に、夜会の時間となってしまったからだ。
そしてナタリアは、思う。
ここで感情に任せて罵詈雑言を吐くのは簡単だ。
だがそれはしたくなかった。なによりナタリアの隣にはアレクセイがいる。
自分と、鼠獣人の皇帝であるアレクセイとの婚約が結ばれたこと。
その意味。
その重さ。
今、下手なことをしてしまえば、自分だけではなくアレクセイにも非難の目がいくのは確実だ。それは避けたかった。
ナタリアは愚かな娘ではなかった。少なくとも、いっときの感情で全てを台無しにするような娘では、なかったのだ。
――どうせいくらここで罵詈雑言を募ったとて、クローデル家が取り潰しになることはない。
だからこそ今、ナタリアがすべきこと。それは自身の名誉の回復。そしてそれは翻って、伴侶となるアレクセイの評判にも繋がるはずなのだ。
ではどうやって名誉を回復させる?
突然、演説などしたところで無駄だ。
人の心を動かすには、同じく、人の心が動くようなことをけしかけてしまえばいい。演説は、ご高説は、それからのほうがいいに決まっている。
たとえば、そう、同情を誘うような――涙を流す、だとか。
――婚約破棄されたあの夜。エミリーがしたように、事実をでっちあげ、人々の同情を誘う、だとか。
すう、と小さく深呼吸をして、ナタリアは俯いた。
目を瞑る。これまで妹と婚約者、両親にされてきたことを思い出す。
そうして今度は、わざとらしく肩を小刻みに震えさせる。すぐにアレクセイの手がナタリアの方に回った。
これは手筈通り。
アレクセイの手があることで、ナタリアのそれが演技だとバレることはないだろう。
静まり返っていた会場が再びざわつき始める。
そして痺れを切らしたように誰かが告げた。
――ナタリア様、泣いているのでは……?
ナタリアはその瞬間を狙っていた。
元よりナタリアは泣いてなどいない。
だが、あたかも、泣いていたような素振りを見せる。
俯いたまま、わざとらしく目元を拭う。そうしてエカテリーナのように扇を開き、口元を隠してから――ナタリアは、ゆっくりと顔を上げた。




