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セルゲイ・マルシャンは、婚約者であるナタリア・クローデルがいつだって少し疎ましかった。
侯爵家の三男に産まれたセルゲイ。物心つく頃にはナタリアが婚約者だった。
それは別に問題ではなかった。ナタリアの顔はあまり好みではなかった――妹のエミリーのほうが正直タイプではあったけれど――婿入りして、自分がクローデル家の当主になれる。それだけで、三男として産まれた未来がどこか輝くものになった気がしていたのだ。
勉強は面倒だった。
単純に嫌いだったのだ。
そんなセルゲイはある日、悪知恵を思いつく。
『ナタリアの妹であるエミリー。あいつは体が弱い。あいつにかまけてやったら、病気の人に寄り添って優しいね、と評価は上がるだろうし、看病があるからと言えば、勉強もせずに済むのではないのか』
これは素晴らしい名案だった。
幼いながらに婚約者の妹を支えること。献身的に世話をすること。
それは大人たちの心をおおいに満たした。感動的な物語として快く受け入れてもらえた。
『難しいことはナタリアが学んでいるから、君はそのままエミリーを支えていてくれ』
最初にそう言った大人は誰だったろうか。
セルゲイはもう覚えていない。でもその言葉を聞いて思ったのだ。これでいいんだ、と。きっと婚約者も、妹を献身的に支える自分の姿に心打たれていることだろう。
だから、これでいいんだ、と今に至るまでそれをずっと続けていたのだ。
――そうして月日だけが無駄に過ぎたある日。セルゲイはエミリーからこんな提案を持ちかけられた。
『お姉様に婚約破棄の嘘をついてみない?』
『婚約破棄? どうしてそんな』
『だって面白そうじゃない。どうせ両家に認められていない婚約破棄なんて、いくら宣言したところでただのお遊びとしか捉えられないはずよ』
ね? とエミリーは楽しそうに言う。
『婚約破棄を宣言されたお姉様の顔。きっととっても面白いと思うの!』
――セルゲイは、いつだってナタリアが疎ましかった。
勉強に打ち込んでいるのも。自分を妹に取られて悔しいはずなのに、ただ黙っているのも。
どうして僕が当主の座につくのに、女である彼女が勉強に必死になっているんだろう。『女』として自分に媚びるほうがよほど双方のためなのに。だから全てが不愉快だった。不快だった。疎ましかった。
だけれど同時に、ナタリアほどの女が自分の婚約者だというのも自尊心を満たしていた。
相反する感情を抱えながらセルゲイは考える。
ではその女の歪む顔が見れたなら?
――それはきっと、とても面白いものだろうと、セルゲイは思ったのだ。茶番を演じることで、ナタリアからの愛情も確認できる。これは一石二鳥だ、と。
まさか、その後に、アレクセイとナタリアが共謀するなんて夢にも思わずに。
*
「アレクセイ様……!」
突如現れたアレクセイに驚いたのか、セルゲイの拘束する手が緩んだ。
その隙。ナタリアはセルゲイの手を振り払い、アレクセイの元へと駆け寄った。
「……その様子を見るに、乱暴なことはされていないな?」
ナタリアは必死になって頷く。胸の中へ飛び込んできた彼女を一瞥し、アレクセイは安堵のため息を吐いた。
「っ、おい! 誰だ! ここを教えた奴は!」
アレクセイの背後で慌てる護衛兵たちにセルゲイが叫ぶ。しかしそれを一笑したのは――他でもないアレクセイだった。
「誰も教えてはいない。まぁそれなりに忠誠心のある部下じゃないか」
「ならどうしてここがっ……!」
噛み付かんばかり叫ぶセルゲイに、アレクセイはあくまで飄々とした態度を崩さない。それが逆に、アレクセイの怒りをこれでもかと表しているようだった。
「ほら、こいつだよ。覚えているか? お前の女が串焼きを与えてくれたお礼がしたいと私についてきたんだ」
アレクセイが顎をしゃくる。
その先には一匹のドブネズミが。鼻をひくつかせながら、セルゲイのことを見ていた。
「ナタリアの妹と串焼き屋の前で起こした騒動。あのとき落とした串焼きを食べていた奴でな。こいつに手伝ってもらったんだよ。鼠は鼻も効く。これで、ナタリアの匂いを探してもらったというわけだ」
どうやって私の匂いなんかを探って――とナタリアは疑問に思い、それからハッとする。
指輪だ。数日前に交換した指輪。きっとあれを使って匂いを辿らせたに違いなかった。
「さて。この落とし前、どうつけさせてもらおうか」
「おっ、落とし前もなにも僕とナタリアは婚約者でっ……! 部外者の貴方にとやかく言われる筋合いは……!」
「あぁそれなんだがな? あんな公の場で婚約破棄を宣言してしまえば、当事者がどうであれ周知の事実として広まってしまうものだろう? ゆえに、お前がどう喚こうが、ナタリアは現在、自由な身の上というわけなんだよ」
「そんなはずは……! 誰かっ! 誰かこの不届者を捕えろ……!」
負け惜しみするようにセルゲイが叫ぶが、護衛兵は誰一人として動かない。というより動けなかった。アレクセイの護衛たちが、睨みをきかせながら彼らの背後を取っていたからだ。
「侯爵家勤めの護衛と、皇帝を守る護衛では肝の座り方もなにもかもが違うぞ? 私の命令ひとつであるいは首をも刎ねかねないが――お前とてそれは望んではいないはずだ」
セルゲイはそれは悔しそうな様子で歯噛みしている。
――セルゲイ様のお顔。きっとアレクセイ様好みのものだわ。
元婚約者に攫われ、助けられ、どこか現実離れした事実から目を背けるようにナタリアは思案する。
きっと嗤っているのだろうな――とちらりと視線だけ向けて、彼女は固まる。
アレクセイの表情は、これまで見たことのない憎悪の色に染まっていたからだ。
鮮血のような真っ赤な目がぎらぎら光っている。自分が睨まれているわけでもないのに、ナタリアは思わず肩を竦ませてしまった。
そしてそれに気づかないアレクセイではない、ナタリアの微妙な変化を察知し、不安げに見下ろしてきた。
「……なんだ。やはりあれに乱暴なことでもされたか? それならば――」
「ち、違います、それは本当に大丈夫ですからっ……! ほら、ドレスも乱れていないですし……!」
必死になって説得するも、アレクセイはどこか不満げだ。
それでも、最終的には納得し――二人は、セルゲイのタウンハウスを後にしたのだった。




