15
丘に行くにしても準備という準備はなにひとつしていない。
というわけで二人は、一旦市場で買い物することにした。
果物だの軽食だのを買い込んでから行こう、という話になったのだ。
「なにかおすすめはあるか?」
「……申し訳ありません。からっきしでして……」
「そうか。ならば一緒に探す楽しみが増えたな」
呆れられるかと思えばそんなことはなかった。
ナタリアを卑下することも、かといって下手な慰めの言葉をかけるわけでもなく、本当に楽しみにしているようだ。それが、ナタリアには嬉しくてたまらなかった。
もう見慣れ始めた市場に二人して降り立つ。
串焼きを買ってもいいかもな、と会話を弾ませていると、護衛の一人からアレクセイに声がかかった。
「……すまない、…………内密の話があるらしくてな。ここで少し待っていてはくれないか」
「構いませんよ。行ってきてください」
どうせここは屋台が所狭しと並んでいるのだ。待つのもまた楽しいだろう。アレクセイ様はどんなものがお好きかしら――と屋台に目を向けていたナタリアが顔を上げたそのときだった。
目の前に、知らぬ男が――違う。セルゲイの、護衛の男が立っていたのは。
見知った顔。どうして貴方が。ナタリアが口を開く前に、護衛の男が静かに告げた。
「……申し訳ありません。坊ちゃんの命令でして」
小声で謝りながら、護衛の男は下を向く。つられてナタリアは下を向き、絶句した。
護衛の男が、袖の下から、そっとナイフをちらつかせたからだ。
「……騒ぎは起こしたくはありません。それは貴方とて同じ考えのはずです。どうか、ご同行願えますか」
――アレクセイ様! と振り向こうとして、ナタリアの手のひらに、ひたりと冷たいものが触れる。それがナイフだと気づくのに時間はさほどかからなかった。
「……多少手荒な真似をしても良いとの許可は得ています。私たちも貴方を不本意に傷つけたくはありません。どうか、ご同行を願えますか?」
*
「あぁナタリア! 待ってたんだよ! 君が一人になるタイミングをずっと待ってたんだ!」
ナイフをちらつかせながら馬車に押し込まれ、ナタリアはそのまま、セルゲイの住む屋敷――ではなく、街外れにあるタウンハウスへ連れ込まれていた。
「セルゲイ様……! 貴方、なにをしているのか理解しているのですか……!?」
「君こそ一体どういうことだい? 婚約破棄? あんなの嘘に決まってるだろ?」
タウンハウスの中を見渡すが、周囲を固めるのは護衛たちばかり。皆一様に静観を決め込むばかりで、微動だにしない。
「エミリーなんてただのお遊びだよ。なのにどうしてあんな茶番を間に受けてるの? 君の婚約者は、僕のはずだろう? あぁもう、本当は早く二人で話したかったのに。あの鼠野郎がいつもいつも君に付き纏っていからさぁ……」
「っ……セルゲイ様はエミリーにつきっきりだったではありませんか……! 私を放置し、夜会でのエスコートもエミリーばかりでっ……!」
病気を理由にしても、セルゲイはエミリーにばかりかまけていた。それは逃れられない事実のはずで、ナタリアは必死になって叫ぶ。
だがセルゲイは違った。どこか不気味に口角を釣り上げ、ナタリアににじり寄る。
「だって君は勉強勉強勉強でちっとも面白くなかったんだもの。それにね、病気で弱ってる妹を助けてあげたなら、優しい奴だってみんなにアピールできるだろう? 僕の評判が上がれば、僕が次期当主の座につくクローデル家の評判も自ずと上がる。君だって病弱な妹に優しい婚約者のほうが好きだろう? 良いこと尽くしじゃないか」
「っそれはクローデル家の乗っ取りにも取れる発言よ……!」
「人聞き悪いこと言うなぁ。まぁもういいや。ナタリア、君は僕の婚約者なんだ。あんな気色悪い鼠なんて冗談だろ?」
そのときだった。
一人の護衛兵が、慌てたように屋敷の中に転がり込んできたのは。
「っアレクセイ皇帝陛下の馬車がきます……! 坊ちゃん、どこかへお隠れになってください!」
セルゲイが舌打ちしてナタリアに向き直る。
その顔は悪意と嫉妬に満ちたものだった。
「まぁいいや。ほらこっち来てナタリア」
「やだっ……! いや……! やめて……!」
「っ強情な女め!」
抗うナタリアの手を無理やり引き、セルゲイは、階段下、隠し扉をくぐり、小さな部屋へとナタリアを無理やり連れ込んだ。
埃っぽい場所。薄暗い。ナタリアが思わず咳をすると、すぐに口を塞がれた。
「僕と君はいずれ夫婦になるんだ。ならいっそ、ここで君の純潔を奪ってもいいのかもしれないね?」
「……っ……!?」
外からは喧騒の気配がする。騒ぎから考えるに、アレクセイが確かにいる。だが口を塞がれたナタリアは、叫ぶことすらできない。
「安心してよ。ここ、ちょっと変な部屋でさ。元々浮気相手を匿う部屋だったとか……それとも食糧庫だったかな……まぁいいや。隠し扉から入ってきただろ? こんな部屋、絶対わかるわけがない」
やめて、と意思表示のためにナタリアは首を横に振る。
だがセルゲイにはそれが正しく伝わることはない。あまりの抵抗具合に、それまで余裕ぶっていた表情が、徐々に崩れ出した。
「……どうしてそんなに嫌がるの? 君があの鼠と歩いていたのも、僕がエミリーとしたみたいに――僕に嫉妬してほしかったからでしょ? そうだよね? ねぇナタリア? そうでしょ? でなければどうして君があんな鼠に靡くの?」
セルゲイの目が据わっていく。危機が差し迫っているのをナタリアは肌で感じていた。
――これは、まずい気がする。
「そうだと言ってよナタリア。ねぇそうなんでしょ? まさか本当にあの男を好きになったわけじゃあないよね?」
ナタリアはもう首を横に振ることしかできない。
外は相変わらず騒がしいままだが、ここはセルゲイの言うように隠し部屋なのだ。仮にアレクセイがいたとして、どうやってこの部屋の存在に気づいてもらえるだろう。
壁でも叩く? けれどこんなときに限って、体は恐怖から硬直し、言うことを聞いてくれない。その間にもセルゲイは独り言を呟き続けて、やがて、ナタリアの顔をはっきりと捉えた。
「……まぁもうなんでもいいか。さっさと僕のものにしちゃえばそれで済む話だもんね?」
ぐ、とセルゲイの指がナタリアのドレスの胸元に触れる。ずりおろす算段なのだろう。
「っ……! っ……!」
「諦めなよ。君は僕の奥さんになるんだ。そうでしょ? ねぇナタリア、君は僕が好きなんでしょ? あんな鼠じゃなくて、僕のことがさぁ……」
――嫌だ、嫌、アレクセイ様!
どうすることもできないナタリアがきつく目を瞑った。もう今まさにドレスが脱がされようとしている。覚悟を決めるしかないんだろうか。ナタリアの思考が悲壮なものに染まった、そのときだった。
「――鼠のように物陰に潜むのが好きなようだな」
――ここ数日ですっかり聞き慣れてしまった低い声。その声が、確かに、ナタリアの鼓膜を震わせたのだ。




