高速道路
畑の隣には、一本の高速道路が通っている。
かつては存在しなかった道だ。
今は滑らかなアスファルトが敷かれ、
等間隔に街灯が並び、制限速度は高い。
その道を走れば、驚くほど速く目的地まで迷いなく辿り着ける。
曲がりくねった山道を、石につまずきながら彷徨い歩く必要はない。
崖沿いの細道で足を止める必要もない。
一定の速度で走り続ければ、視界は常に前を向く。
さて、話を戻そう。
ランキングは、この道路と相性が良い。
更新頻度。
供給量。
速度は、そのまま評価に変換される。
走り続ける車は目立つ。
止まった車は、見えなくなる。
AIは、この道路に最適化されたエンジンを持っている。
燃料効率が良く、安定して走る。
人の手で山道を歩く者は、当然ながら遅い。
休憩をする。
立ち止まる。
迷う。
時には、引き返す。
だが山道には、舗装されていない景色がある。
その地その場によって違った色合いがある。
見方によって違う景色が見える。
初めて知る予想外がある。
だが高速道路からはそれらは見えない。
さて、市場は――走る車はどちらの道を選ぶか。
答えは明白だ。
多くは早く、安定し、供給が途切れない方を選ぶだろう。
これは非難ではない。
合理の話なのだ。
だが、ひとつだけ問題がある。
高速道路は、通過するための道である。
道の真ん中で留まってしまえば事故すら引き起こすだろう。
ランキングを駆け上がる作品は、しばしば視界を横切る。
目に映るならば、試しに読まれる。
素早い供給によって、勢いのまま消費される。
そして、次の物語が来る。
読者は移動を続ける。
作者もまた、走り続けなければならない。
止まってしまえば、いつかは背後に流れ、見えなくなる。
では問おう。
創作は本来、走り続ける競技だっただろうか。
物語は、更新速度で測るものだっただろうか。
高速道路は便利だ。
だが、道はそれだけではない。
速度に最適化された世界では、遅さは価値にならない。
時間をかけることは、効率の悪さと見なされる。
だが文学とは、しばしば効率の悪さからも生まれてくる。
遠回り。
沈黙。
推敲。
それらは景色の目まぐるしく移り変わる高速道路では評価されにくい。
だからこそ、走る者が増える。
走らねばならないと感じる。
AIはその心理に応える。
速く走るためのエンジンとなる。
それは自然な流れだ。
高速道路が増えるほど、山道は地図から消えていく。
そしてやがて――
登る者はいなくなる。




