#32 獣医師の水上先生
東京大田区の雑色商店街から数分のところにある水上動物病院に、整体師野崎と愛犬のモフモフちゃんが定期健康診断に来ていた。こもれび整体院が午後の休憩時間中で、動物病院は他に利用者がいなかった。
ペットも大切な家族の一員で、健診は欠かせない。
「特に問題はないですね。」
獣医師の水上先生が診断してくれた。
「いつもありがとうございます。
助かります。
ところで、先生、最近ネットでイベルメクチンがガンに効くというコメントを見かけるんですけど、どうなんですか〜?」
野崎は、バカっぽくたずねた。
「ああ、イベルメクチンね。
寄生虫駆除の薬で、獣医はよく処方するんだよ。大村智先生が土中の放線菌から発見してね、メルクと共同研究して開発したんだ。
それから、家畜の線虫類や犬のフィラリア予防薬などとして発売されて、世界的な大ヒットとなったんだよ。」
「その後、人間にも安全に使えることが分かって、アフリカや中南米などで多くの人々を失明の危機に陥れていた感染症「オンコセルカ症(河川盲目症)」や「リンパ系フィラリア症」の特効薬として絶大な効果を発揮してな。
その功績から、ノーベル賞を受賞されたんだ。」
「その後、イベルメクチンはいろいろな病気にも効くことが分かってきて、ガンにも、ということだね?」
「そうです。そうです。」
「まず、興味深いのがPAK1(p21-activated kinase 1)だな。
PAK1は細胞の増殖・生存・移動などに関係するキナーゼ・酵素・タンパク質で、イベルメクチンによってPAK1の働きや安定性が低下することが研究されている。」
「PAK1が低下すると、 Akt/mTOR(アクト/エムトール)経路が機能低下するんだ。
この経路は細胞の「成長・増殖・栄養状態・エネルギー管理」をコントロールする重要な細胞内シグナル伝達経路でな。
特にがん研究では非常に重要で、がん細胞が「増え続ける」仕組みに深く関わっていて、ガン細胞にとっての「成長スイッチ」のようなもの、なんだ。」
「それで、ガン細胞増殖・生存しなくなる、という作用機序なんです。
食道扁平上皮がんの研究では、イベルメクチンがPAK1をユビキチンープロテアソーム経路で分解するんだ。
この経路は、細胞の中で「不要になったタンパク質や異常なタンパク質」を狙い撃ちして、分解・リサイクルする巨大な酵素複合体(タンパク質分解装置)なんです。
細胞内の環境をきれいに保ち、生命活動を正常にコントロールするために無くてはならない役割を担っています。」
「何か、経路が多いですね。」
「細胞の分子生物学は、こんなのばかりだからな。
特に、ガン細胞は、いくつかのステップで増殖するんでな。」
水上先生は苦笑した。
「もう一つ、別の経路も説明しよう。」
「イベルメクチンは、Wnt/β-カテニン経路にも作用するんだ。
Wnt/β-カテニンシグナル経路は、細胞が「増える・分化する・どんな細胞になるか」を決める、非常に重要な細胞内情報伝達システムなんです。
一言でいうと、Wntという合図を細胞が受け取ると、β-カテニンが細胞の核に入り、特定の遺伝子のスイッチをONにするわけです。
で、イベルメクチンはβ-カテニンの働きを弱めることで、ガン化しにくく、なります。」
「こういうアウトラインです。」
「Wntとかβ-カテニンは、何なんですか〜?」
「Wntは、細胞から放出される「指令」のようなタンパク質です。
例えばですね〜。
「細胞を増やして」とか、「この細胞を特定の細胞に育てて」とか、「幹細胞の状態を維持して」といった指示に関係します。」
「それから、β-カテニン(ベータ・カテニン)は、Wntの指令を細胞の中へ伝える重要なタンパク質なんです。
それでは場合に分けて説明します。
Wntの刺激がないとき、β-カテニンは細胞内で放っておかれません。
「破壊複合体」と呼ばれる仕組みによって分解されます。
主なメンバーは、APC・Axin・CK1 ・GSK-3βなどのタンパク質です。」
「この複合体がβ-カテニンに目印を付け、β-カテニン → ユビキチン化 → プロテアソームで分解します。」
「おっ、さっき出てきたユビキチンープロテアソーム経路ですね〜。」
「そうです!
小さくまとめると、
Wntなし → β-カテニンを壊す → 遺伝子スイッチOFF
で、ガン細胞は作られない。」
「それで次は、Wntが「ある」場合です。
ここがWnt/β-カテニン経路の核心です。
Wntが細胞表面の受容体に結合します。
主な受容体は、Frizzled(FZD)と
LRP5/6というやつで、これらもタンパク質です。
すると、細胞内のシグナルが変化し、β-カテニンを分解していた「破壊複合体」の働きが抑えられます。」
「ここからの働きを整理しますよ。
β-カテニンが分解されなくなる→
細胞内のβ-カテニンが増える→
β-カテニンが核へ移動→
TCF/LEFというDNA結合タンパク転写因子と協力→
標的遺伝子がON、となります。
つまり、Wntは「GO!」という合図で、β-カテニンは「GO!」を核まで伝えるメッセンジャーの働きなんです。」
「細胞内の動きがちょっと分かってきました。」
「Wnt/β-カテニン経路は、特に発生・組織形成・幹細胞で重要なんです。
例えば、胚の発生、細胞の増殖、細胞分化、組織の再生、幹細胞の維持、腸管の維持、骨形成などに関係しています。
特に有名なのが腸管です。
腸の幹細胞ではWntシグナルが重要で、Wntの強さによって細胞の増殖や分化が大きく左右されます。」
「確か、小腸の細胞は、めちゃめちゃ増殖すると、放射線の本で読んだことがあります。」
「それと発生学的に関連しているかもだけど、Wnt/β-カテニン経路が有名になった大きな理由の一つがガンなんです。
特に大腸がんとの関係がよく研究されています。」
「例えば、細胞の増殖を調節するがん抑制遺伝子のAPC遺伝子に異常が起こると、β-カテニンを適切に分解できなくなることがあります。
そのため、Wnt/β-カテニン経路の異常な活性化によって、がん細胞の増殖、
という関係が重要視されています。」
「そうそう、1995年のノーベル生理学・医学賞は、『初期胚発生における遺伝的制御に関する発見』を理由として授与されたんだ。
この研究では、ショウジョウバエの胚が正常な体の形を作るために、どの遺伝子が働いているのかが研究されました。
そして、その研究から明らかになった発生制御の仕組みが、後にWntシグナル経路の理解につながっていくんです。
Wntはショウジョウバエの Wingless(wg) 遺伝子などと関連して発見・研究されたんだ。
Wntの”W”は、そこから由来してるんだよ。」
「基礎研究の歴史というか、積み重ねですね。」
「ざっくりまとめると、イベルメクチンが、
Wnt → β-カテニン → TCF/LEF → 遺伝子発現
という系に影響し、Wnt関連遺伝子の発現を変化させることが報告されています。
特に興味深いのが、ガン幹細胞様細胞 (がん細胞の中に存在し、普通のがん細胞よりも「幹細胞に似た性質」を持つ細胞)への影響で、ガン幹細胞は、自己複製、腫瘍形成、治療抵抗性、再発などに関係すると考えられているんだ。
そのため、Wnt/β-カテニン系を抑える と、ガン幹細胞の維持を妨げる、という仮説も研究されています。」
「なんか経路のお話しになっちゃったけど、イベルメクチンはミトコンドリアにも作用する機序もあるし、他にも期待できるお薬なんだ。
それから、ガンに効果がありそうな薬は、まだまだあるんだよ。」
「ガンが本格的に治る時代になりつつあるんですね。
今日は、いろいろお話しと、健診、ありがとうございました!」
野口は、眠そうなモフモフちゃんを連れて、こもれび整体院に帰って行った。




