#26 訪問診療医の井上先生
ある週末の夜、整体師の野崎は最後の患者さんをお見送りすると、受付の真由美さんと後片付けをした。看板犬のモフモフちゃんは、昼間の空いた時間に自宅へ連れて行っていた。
スクラブにパーカーを羽織り、こもれび整体院の店舗を出て戸締まりすると、足早に銭湯に向かった。
週末になると、さすがに疲れも溜まってくる。銭湯の大きい湯船に浸かって、癒されたかった。そして、大好きなコダマのバイスサワーを飲みたかった。仕事から離れたこともあり、すでにバイスサワーの口になっていた。
番台で支払いを済ませて、汗ばんだスクラブやパンツを素早く脱いで洗い場に入った。
全身を洗って、ようやく湯船に浸かった。
「あっあ〜。」
と思わず声を出した。
大田区特有の黒い温泉は見るから疲労に効きそうだ。野崎が幼い頃から慣れ親しんでいる、このお湯に浸るのんびりした時間は至福であった。
脱衣所で体を拭いてると、訪問診療医の井上先生が入って来た。
「井上先生、こんばんは。
これからですか〜?」
「やっと仕事が終わったところでね〜。」
「遅くまで、お疲れ様です。
もしよかったら、この後、前のスナックで一緒に飲みませんか〜?」
「おっ、風呂上がりの一杯、いいね〜。」
「じゃあ、オレは先に行って、お待ちしてますね〜。」
野崎は銭湯の前のスナックに入ると、ママさんにバイスサワーを注文した。
テレビを見ながら、ボーッとしてるとバイスサワーが届いた。
小さく、いただきますとつぶやいて、ジャッキをつかみ、半分近く豪快に飲んだ。
「あっあ〜!」
と声を上げると、枝豆を注文して、井上先生を待った。
井上先生は、元々大きな総合病院で脳神経内科医として勤めていたが、退職されてからは訪問診療のクリニックを立ち上げて、活躍されている。
野崎がよく行くグループホームなど高齢者施設の主治医もされていて、野崎が担当する患者さんのマッサージ同意書でもお世話になっている。地域の医療連携の重要な医師だ。
ほどなくすると、井上先生がほてった顔で、お店に入って来た。
「先生、こちらです!」
と野崎は手を挙げた。
「生ビールでよろしいですか?」
「お願いします。」
野崎はママさんに生ビール2杯を注文した。
「クリニックの方は、お忙しいですか?」
「おかげさまでね。順調だよ。
野崎先生には、腰痛、肩こり、膝関節痛の患者さんで大変お世話になってます。」
「いえいえ、恐れ多いです!」
そんな会話をしているところに、生ビールが届いた。
軽く乾杯して、話しを続けた。
「高血圧とか糖尿病みたいな内科的なところは薬とかで対応するけど、正直、腰痛、肩こり、みたいな整形外科分野までは手が回らないからね〜。」
「高齢者の疾患はどれも慢性的なのが多いから経過に時間がかかりますよね〜。」
「体質や長年の生活習慣からだから、まあ、すぐに治ることは少ないね。」
「井上先生は、そもそも脳神経内科が専門だったんですよね〜。その頃はどんな患者さんが多かったんですか?」
「脳神経外科はドラマもあったり、マイクロスコープ使って手術するからイメージしやすいけど、内科の場合は、ほとんど薬で治療するから、ちょっと分かりにくよね〜。
多いのは、パーキンソン病、認知症、脳梗塞、片頭痛、あとは少ないけど、ALS、多発性硬化症、ギラン・バレー症候群、てんかん、末梢神経障害、筋ジストロフィー、脳炎、髄膜炎かな。」
「なんか難しそうなのが多いですね〜。」
「そうなんだよ。
そもそも、神経の疾患が対象だからね〜。野崎先生も学校で習ったと思うけど、神経細胞は、他の筋肉などの体細胞と違って、「不可逆性」があるんだよ。」
「何となくは分かるんですけど、戻らない感じですか〜?」
「そうそう。
まず、脳・脊髄の中枢神経は、強い圧迫や外傷、軸索変性などを長い時間、放置すると不可逆的な障害になって、再生が極めて難しいんだ。
対して、末梢神経は中枢神経に比較して再生能力はあるけど、重い損傷や長期間の圧迫では元に戻らない機能障害が残る場合があるんだよ。」
「ああ〜、なんか思い出しました。
iPS細胞で脊髄の細胞を作って移植して治療するニュースがあったのは、それですね。」
「ああ、そうだね。」
「オレの患者さんだと、脊柱管狭窄症がまあまあ多いけど、それも関係しますよね?」
「まあ、脊柱管狭窄症の場合は整形外科で診ることが多いけど、神経障害としては大きく関連しますよ。」
「あと、糖尿病の方で足がしびれる患者さんがいます。」
「糖尿病は毛細血管がやられるから、いろいろ厄介だよね〜。しびれもあるし、重いと腎臓透析になったりね。」
野崎は生ビールのおかわりを注文した。
「まあ、いろいろ診てきたけど、認知症が最近、特に多いんだよ。」
「オレの患者さんも数名いらっしゃいます。」
「重くなると、ずーっと意味不明なことをしゃべつたり、逆に話しをしなかったり、軽いと普通に会話も出来るけど、ご家族の負担も大きいし、社会課題といっても、いいんじゃないかなぁ。」
「オレもそれは感じてます。」
「認知症のタイプは70種類以上に細かく分類されるんだけど、一般的には、
アルツハイマー型認知症
血管性認知症
レビー小体型認知症
前頭側頭型認知症
の4大認知症に分類されてます。
それと、認知症の前段階であるMCI-Mild Cognitive Impairment-軽度認知障害-がありますね。」
「MCIはテレビのCMでやってたような。」
「エーザイとバイオジェンの広告だね。
ここ数年、一般的に知られるようになってきてるね。
MCIの症状としては、5項目くらいあって、まずは記憶について、同じ人に同じことを繰り返し言ったり、もの忘れの頻度が増えることだね。
次は遂行機能についてで、物事を段取りよく進めることができなくなる。
3つ目は注意力について、必要な作業に注意を向けて維持することができなくなって、ミスが増える。
4つ目は言語についてで、言葉を発することや理解すること、読み書きが難しくなる。
最後は空間認知について、よく知っている道でも迷ったり、バックでの駐車が苦手になることがあげられる。」
「どれも、高齢者にはよくありそうで微妙ですね〜。」
「そうだね。
認知症の診断で使用する「長谷川式認知症スケール・HDS-R」みたいに点数で明確になる訳じゃないから、MCIの診断は先生によって、少しバラつきはあるだろうね。
ちなみに、長谷川式の長谷川和夫先生は、認知症治療の第一人者で、医科大学の名誉教授もされてたんだけど、晩年、認知症になられてな。それでも、病名を公表して、専門医でも罹ると、啓蒙されてたんだよ。」
「尊い先生ですね。」
「若い頃はアメリカにも留学されて、遅れていた日本の精神医学に大変貢献されたんだ。
今は、日本認知症学会とかあるけど、認知症の専門医は意外と少ないのが現状だ。
そうそう、アルツハイマー型認知症のアロイス・アルツハイマーさんは、ドイツの医学者・精神科医でな、今から100年以上も前に記憶障害や認知機能の低下を引き起こす病気の症例を世界で初めて学会で報告したんだよ。その功績から後に「アルツハイマー病」という名前がついた。」
「意外と、歴史があるんですね〜。」
「生きていたら、現在の認知症患者数にビックリするだろうね。
まあ、野崎先生のまわりの方でも、もの忘れが気になったら、「脳神経内科」「もの忘れ外来」などの認知症の専門医受診をおすすめするね。
軽度認知障害(MCI)から認知症に進行する確率は、1年あたり約5〜15%と言われてます。」
「確率は、まあまあ高いですね。」
「あと、それから、認知症じゃないのに認知症のような症状が出ることがあるんだよ。
例えば、睡眠薬や精神安定剤の服用、繰り返す転倒、ビタミン欠乏や甲状腺機能異常、感染症や脳梗塞といった治療可能な疾患が隠れている場合もあるんだ。
また、症状の進み方も重要で、認知症はゆっくり進行していくので、急に悪くなった場合などは、さっき例えであげたような認知症以外の疾患を考えます。ここらへんも判断が重要だね。」
「病院に行くと、診察の流れとして、お話を伺った後に検査にうつります。
認知機能を評価する検査としては、長谷川式認知症スケール(HDS-R)やミニメンタルステート検査(MMSE)などがあります。
これらの検査は点数が低いほど認知機能の低下が強いと判断しますね。点数に加えて失点した検査の項目もみていきますよ。」
「その後、身体の診察や血液検査、MRIで頭の画像検査を行います。認知症患者さんは頭の画像を撮ると、脳の萎縮がみられます。よく「画像検査で認知症はわかりますか?」と聞かれます。画像検査は認知症の診断で重要ですが、画像検査のみで認知症の診断をすることは、まず無いです。
お話しや長谷川式なども含めて、総合的に診断しますよ。初期症状のうちに受診することが大切です。」
「井上先生、今夜は貴重なお話し、ありがとうございました!」
「いえいえ、こちらこそ忙しくて、お話しする時間が取れず、今後は丁度いい機会だったです。また、お酒か食事でもしましょう!」
スナックの店頭で別れ、野崎は夜風に気持ちよく当たりながら、自宅へ帰って行った。




