#20 大学病院研究室の茜さん
神奈川県の海老名駅で相鉄線から小田急線に乗り換えして数駅で下車すると、駅前のバス停から今度はバスに今井茜は乗車した。いつものように朝は混雑していた。
国道246号線のあたりから今井茜の勤務先である西海大学付属病院の巨大な建物が見えてきた。1975年に完成したこの建物は1100床のベッドを備えて、その当時東洋一の規模であった。
その後、2002年にはドクターヘリが就航して、地域医療の中核を担っていた。
大学病院は医療機関であると共に医学教育機関、そして、研究機関でもである。午前中は臨床医、午後は教授、研究者として幾つもの役割を持つ医師も少なくない。
研究者として、論文を執筆したり、学会で発表する。土日も学会やその準備で削られ、多忙な日々を送る。
当然、実験やデータ取りをやっている時間は取れない。そこで、今井茜のような実験補助が活躍する。
そもそも、今井茜は高校卒業後、東京にあるバイオテクノロジーの専門学校に入学した。臨床検査技師への道もあったが、全ゲノム解析、山中教授のiPS細胞、再生医療が注目され始め、興味を持ち、バイオ系専門学校に進学した。
設備は素晴らしく、化学分析に必要な分光光度計、シマズの液体クロマトグラフィー、ガスクロマトグラフもあった。もちろん、バイオ系なので、遠心分離機、PCR、電気泳動装置、DNAシークエンサーも完備していた。
講師も充実していて、獣医師、医学大学の教授・研究者やポスドク、研究所の研究員、薬剤師、動物実験技術者といった専門家ばかりであった。
授業は、基礎的な生物学、微生物学、科学英語、有機化学、遺伝学、遺伝子工学、分子生物学などがあり、半分以上は実習であった。試薬の希釈、滴定といった操作やマイクロピペット、ボルテックスミキサー、クリーンベンチ、オートクレーブといった必須の器具や機器を使用する。
分子生物学は視覚化しにくく、実習で手を動かしてみないと、なかなか理解しにくい。実習することで理解がより深まる。
遺伝学は、伝統的なメンデルの法則から習う。牧師だったメンデルさんがエンドウ豆を交配実験して、優生の法則・分離の法則・独立の法則を発見したとかだ。
また、昭和時代の直前の頃、東京の中心部にお住まいになってた、やんごとなきお方のお話しがある。元々、病弱な方で短命でお亡くなりになった。
さらに、サラブレッドの近親交配など具体例があると、イメージしやすい。
やはり、バイオ系の学習で核となるのは、DNAだ。実習ではブタの肝臓を使用して、DNAの分離・精製する。PCR機器に掛けて増幅する。DNAそのものは透明でドロっとした溶液だ。
そして、制限酵素によりDNAの鎖を切る。溶液をマイクロチューブと呼ばれる小さな容器に入れて遠心分離機に掛ける。DNAは比重が重たいので、底にたまる。それをマイクロピペットで少量吸い取り、板状のアガロースゲルのくぼみに慎重に注入する。あとは、電気泳動装置でDNAの断片が分離するのを待つ。
ゲルを染色してから、UVを照射して撮影すると、お馴染みのシマシマ模様のDNA写真が出来上がる。
今井茜は、こういった実習が大好きで、ほぼ料理やお菓子作りの感覚でやっていた。
ここまでして、ようやくDNAが可視化される。あとバイオ系で重要なのは、微生物だ。身近な乳酸菌や酵母、酢酸菌、納豆菌などいろいろあるが、分子生物学では大腸菌を多く使用する。
大腸菌は好気性細菌で増殖速度が早く、簡単な培地で育成し、代謝活性が高い。液体培養もあるが、実習ではペトリ皿、シャーレとも呼ばれる器具を使用する方法が一般的だ。
ペプトンや酵母エキス、塩化ナトリウム、粉末寒天、精製水を三角フラスコなどに入れてオートクレーブで、滅菌処理する。
滅菌とは、台所洗剤の除菌とは異なり、細菌を完全に死滅させる。
次にオートクレーブから取り出して、少し冷ましてから、ペトリ皿に適量流し込む。
寒天が固まったら、LB培地と呼ばれるよく使われる培地が出来上がる。
ここまでが、準備作業で、ここからが大腸菌の培養作業となる。
白金耳と呼ばれる器具のループ部分の先っちょをガスバーナーで赤くなるまで火炎滅菌する。少し冷ましてから、大腸菌を少量、白金耳のループ部分ですくい取り、ペトリ皿の培地に広げながら塗布する。
慎重にやる場合は、無菌環境になるクリーンベンチを使用する。これにより、「コンタミ」と呼ばれる他の細菌による汚染を防ぐことが出来る。
あとは、37℃のインキュベータに入れて、一晩すれば培養完了だ。
バイオ系の主な実習はこんな感じだ。今井茜はこれらを手際よく操作していた。そこに目を付けたのが講師として来ていた大学病院研究室の当時のポスドクで、アルバイトとして茜を誘った。そして、専門学校卒業後、そのまま研究室に就職した具合だ。
現在のバイオ研究の起源は、そもそも1970年代の中東戦争によるオイルショックによる。令和の現在も似たような状況だが、1980年ごろから石油という燃料・エネルギーの不安定な供給問題を解決しようとすることがきっかけの一つとなった。
生物から何とかして燃料を作り出す研究とかだ。微細藻類のミドリムシを使用したユーグレナなどの企業が、ジェット機燃の一部実用化している。しかし、コスト面がまだまだ掛かるようだ。
バイオ系の大きな成果は、やはり医薬品の分野であろう。アメリカが先行していて、50年以上の歴史がある。
1973年にアメリカの研究者らによって、大腸菌に外来の遺伝子ープラスミドを人工的に組み込んで、そのタンパク質を発現させた。
1975年になると、抗体を人工的に大量生産するモノクローナル抗体作製技術ーハイブリドーマ法が確立された。
1982年には、遺伝子組み換え技術を使用したヒトインスリンが世界で初めて承認された。
1983年にアムジェンという会社による貧血治療のエリスロポエチンの大量生産方法を開発した。ここらへんから遺伝組み換え技術を用いた医薬品開発が本格的にスタートした。
1990年代から2000年代にかけては、抗体医薬品が発展した。特定の分子だけを狙い撃つ、ガンや関節リウマチなどの自己免疫疾患の画期的な治療薬が普及した。
2010年代以降は、異常な遺伝子そのものを正常なものに置き換えたり、特定の遺伝子の働きを抑える遺伝子治療薬や核酸医薬品が実用化された。
茜はバスから降りると、関係者出入り口から入館した。研究室があるフロアに行くと、薄暗い通路にMR-製薬会社の医薬情報担当者が2名、紙袋を手から下げて立っていた。新薬か何かの打ち合わせだろうか、よく見る光景だ。
「おはようございます!」
と元気に挨拶しながら研究室に入った。
白衣に着替えて、パソコンを起動してメールのチェックをした。今日の予定を確認してから、昨日培養し始めた細胞の様子を見に行った。
この細胞は液体培養なので、小型のバイオリアクターを使用している。見た感じは問題なさそうだ。茜が担当しているのは、CHO細胞である。
Chinese hamster ovary (CHO) 細胞というチャイニーズハムスターの卵巣由来の宿主細胞を使用する。抗体医薬品の8割以上は、この細胞によって生産している。
しかし、CHO細胞は大腸菌や酵母より増殖時間が遅く、拡大培養や多くの細胞株を構築には、時間がかかり過ぎた。
そこで、近年より良い宿主細胞のCHL-YN細胞が発見された。Chinese hamster lung (CHL)-YN細胞は、チャイニーズハムスターの肺組織由来で、従来のCHO細胞より約2倍の速さで増殖する。倍化時間は約10時間という優れた特徴を持ち、次世代の抗体医薬品の期間短縮、コスト削減に貢献している。組み換えタンパク質を効率的に生産することが出来る。
茜はこのCHL-YN細胞も平行して研究対象としている。他の部位の細胞も可能性がありそうだ。クリーンベンチでその準備をしている時、肩から背中にかけて違和感を感じた。
自宅近くに整体院があることを思い出し、休憩の時間に電話予約した。この日は、早々に作業を切り上げて早退し、雑色のこもれび整体院に向かった。
「いらっしゃいませ〜。」
入店すると明るい声が聞こえてきた。その方向をむくと、どう見ても看護婦コスプレにしか見えない姿に、ギョッとした。
茜は気を取り直して、会話した。
「お昼ごろに電話で予約しました今井茜です。」
「今井さん、ありがとうございます。
そちらに腰掛けて、少々お待ちください。」
程なくすると、整体師の野崎が現れた。
「初めまして、野崎と申します。
よろしくお願いします。
今井さんですね。今日はどうされました?」
「仕事で作業してたら、肩から背中にかけて、張りというか、違和感がありまして。。。」
「分かりました。
では、こちらの小上がりでうつ伏せになってください。」
野崎は茜の腰から足に大きなバスタオルを掛けた。
「ちょっと、肩、背中を触りますよ。」
茜は軽くうなずいた。
「まあまあ張ってますね〜。
どんなお仕事をされているんですか?」
「大学病院の研究室で、細胞の培養したり、パソコンでデータのまとめとか報告書作成してます。」
「何か、難しいそうですね〜。
今度は仰向けになってください。」
「慣れるとそうでも、ないんですよ。
ただ、日常生活では、ほとんど扱わない細胞や器具を使うので、いろいろ注意が必要です。
唐突ですが、先生は、生命の定義をご存じですか?」
「またまた難しいですね〜。
知らないです。」
「諸説あるんですが、自己と外界の区別・個体維持能力・自己複製能力、この3つがあるか、なんですよ。」
「順番に説明しますね。
自己と外界の区別とは、動物だったら皮膚とか体毛とか、微生物だったら細胞膜とかです。
個体維持能力は、外から栄養を摂取して代謝分解して、自己を保もてる働きです。
3つ目の自己複製能力とは、細胞分裂して、子孫を増やせることですね。」
野崎は肩甲骨周りから上肢を施術しながら聴いていた。
「普段意識してないので、何か薄ぼんやりと分かります。」
「まあ、そうですよね〜。
じゃあ、ウイルスは?
となると、この定義に当てはまらないんですよ。
ウイルスは宿主となる細胞に寄生して、その細胞のDNAや栄養素を勝手に使って増殖します。構造がシンプルなので、短時間で大量に増やすことが出来ます。」
「なるほど、なるほど!
ウイルスとか微妙なヤツを区別する時に、生命の定義が必要になってくるんですね。
インフルエンザ脳症で発症後、一晩でお亡くなりになった話しを思い出しました。」
「生物学的には、ウイルスも生物の進化の過程で重要なので、全て悪モノというわけではない、のが面白いところですね。」
「茜さん、興味深いお話し、ありがとうございます!
お体の方は、円背というか、いわゆる猫背です。おそらく、お仕事での作業やパソコン・スマホを見ている時の姿勢の影響です。
年齢を30才超えたあたりから、体幹や姿勢を維持する筋肉がどうしてもじわじわ弱ってきます。そうすると、猫背になりがちです。」
「姿勢が悪いなと思ってたんです。それが原因なんですね。」
「姿勢改善と体幹強化に効くトレーニングを一緒にやってみましょう。
立ち上がって、足は肩幅ぐらいに広げます。
次に息を吐きながら、腕を前に伸ばしていき、更に背骨を丸めて猫背にします。手の指を広げるて、お腹は出来るだけ凹ませるドローインにすると、より効果的です。
今度は息を吸いながら肘を曲げつつ、背骨を真っ直ぐにしていきます。手指は握って肩に付くまで曲げます。ポイントは息を吸う時に肩を上げないようにして、お腹と胸郭が大きく膨れるまで、出来るだけ吸い込みます。
これを朝晩5回づつ、やってみてください。」
「これを続けると、胸椎が修正されていきます。当時に腹式呼吸も兼ねているので、体幹で重要な横隔膜と腹横筋のトレーニングにもなります。
今より元気に、もっと健康になりますよ。」
「先生、ありがとうございます。」
「こちらこそ、生物のお話し、面白かったです。お大事なさってください。」
茜さんは会計を済ませると、笑顔でお店を出て行った。




