#11 樹木医の香住先生
とある午後、こもれび整体院の野崎は、店舗から徒歩で数分のサービス付き高齢者住宅(サ高住)に訪問マッサージに来ていた。
受付で、来館者リストに、日時・訪問先・氏名・会社名・目的・体温を記入した。そして、手指をアルコール消毒した。コロナ以降どこの高齢者施設でもやっている記載と消毒だ。もちろん、マスクも必須である。
「こんにちは〜。
香住さんのマッサージに参りました〜。」
「こんにちは。
よろしくお願いします。」
入館して、挨拶すると職員さんは応えてくれた。廊下を歩くと、昼食が終わった時間帯で、入居者さんは各部屋で過ごされているから、割と静かである。
お部屋のスライドドアをノックした。
「失礼しま〜す。
香住さん、こんにちは〜。
マッサージに参りました〜。」
中に入って挨拶すると、香住さんはベッドで横になり、超ベテラン司会者のトーク番組を眺めていたが、テレビを消してくれた。
「おお〜、こんにちは。」
「体調は、お変わりないですか〜?」
「特に変わらないです。
まだ腰が痛むので、お願いします。」
そう言うと、横向きになった。
香住さんは数年前に転倒し、右大腿骨骨頭を骨折して、人工股関節の手術をした。しかし、高齢であったこともあり、予後が悪く、廃用症候群になっていた。
腰痛は、元々あったか、人工股関節の手術から悪化したのであろう。
「腰、痛いですよね〜。」
と言いながら、野崎は腰部と右股関節の周囲の筋肉をほぐし始めた。
「ところで、香住さんは、どんなお仕事をされていたんですかぁ〜?」
とバカっぽく質問した。
「僕は森林総合研究所というところに勤めてたんだよ。
筑波にあってな。研究職だな。
僕の若い頃は戦争があってな。多くの若者が招集されたんだ。特攻の教官を務めてました。。。
テレビの横に集合写真があるじゃろ、それは出撃前の写真なんだ。」
戦闘服姿で首に白いスカーフを巻いた若者が30人くらいが写ってたが、落ち着いた部屋の中でその写真だけは異様な雰囲気を放っていた。
「パイロットの養成なんだが、訓練の最後の方は計器飛行があるんだ。
夜間に一人だけ乗せて、高度計やら計器だけを頼りにして飛行するんだ。
帰って来ない者もいたよ。。。
僕は飛行機が好きだったよ。流れで教官になったが、養成しても、最期は特攻だからな。。。」
香住先生は、淡々と話してくれた。
「軍刀を賜ったりしたけど、戦後は何の役にも立たなかったよ。
終戦になって、東京あたりは空襲で壊滅的でモノも何も無かったんだ。
それでも、空から日本の国土を眺めると、森林ばかりなんだ、木は豊富にある。
大学の農学部森林学科に入学したんだ。」
「大学では光合成の化学式やら基礎的なことから習ってな。数百種類ある樹木を覚えるために植物園にもよく行ったよ。樹形や幹肌、葉っぱや葉の付き方とか特徴を観察してな。
専門課程になると、教授にすすめられて樹木の根系、根っこの研究をすることになった。日本でも海外でも、誰もやってない分野だったんだ。
それからは、土を深く掘って、根っこの細い先端まで出して、スケッチして埋め戻しての繰り返しさ。数百あるからな。」
香住先生は笑っていた。
「論文を書いたり、博士号を取ったり、根系図説を出版してたら、森林総合研究所に呼ばれて、異動になったよ。
そこは国の機関で、ブラジルにも行った。移民の農場の関係でな。
野崎先生みたいに若い世代はあまり知らないだろけど、日本の移民の歴史は古くからあるんだよ。
明治維新以降、貧困層の救済や海外出稼ぎ、外貨獲得、そして人口過剰緩和を目的に、政府が推進・支援した国策だったんだ。」
「明治初期から中期は、官約移住と言ってな、ハワイへの契約移民から始まり、政府の許可を得た業者による民間移民が活発化したんだ。
サトウキビ栽培したり、ハワイのコナのコーヒーは知っているかな?
ハワイ火山の硬い溶岩石の土地に穴を開けて、コーヒーの苗木を植えて育てて、コーヒー豆を収穫したんだ。
慣れない土地で、慣れない作物で大変な苦労があった。」
「明治後期から大正時代は、アメリカでの排日機運が高まると、1900年の北米・カナダへの移民禁止など制限を強化して、ブラジルへの移民が開始されるんだ。
また、関東大震災もあったからブラジルには日本から大量の移民が行ったんだよ。
更に、昭和前期は、世界大恐慌や昭和恐慌もあったから、また国策移民で満州国への農業移民が急増して、国家が土地を確保し、集団で入植させる政策がとられたんだ。村単位で移住する場合もあったんだよ。満蒙開拓団とかな。
移民は1970年ごろまで続けられたんだ。」
「どの移民も苦労したんだ。中でも、ブラジル移民は悲惨でな。アマゾン流域の湿地帯で、何を植えても育たない環境で、農業指導に行ったよ。
帰国してからは、樹木医の資格を作ることになって、樹木医の会長にもなった。
樹木医の仕事でよくあるのは、古木の一部が腐ってきたところを削って除去して、防腐処理して、ウレタンを詰めて、形成したりする。」
「他には、野崎先生は、表参道のケヤキ並木を知っているかな?
12月になると、イルミネーションを点灯するやつさ。あのケヤキは、まわりが歩道や車道で土が締め固められて、枯れかけていたんだ。それに呼ばれて、調査したら土壌が酸素不足になってた。
樹木医として、土壌改良やエアレーションと言って、穴を開けた塩ビ管を根の周りに設置したりしたよ。
樹勢は回復して良かったよ。今でも元気かなぁ。」
野崎は施術をしながら、神妙にお話しを聴いてあた。
「森林総合研究所を辞めてからは、樹木医会や専門学校の講師をしたり、造園会社の顧問をしたり、学会の活動をしてたよ。
ソメイヨシノは、昔の東京の染井村、今の豊島区駒込あたりで作られた桜の品種でな。先生もお好きかな?」
「大好きです!
お花見にも、よく行きます!」
「ヨシノとは、千本桜で有名な吉野山から名付けられたんだ。
染井村の植木職人さんが、エドヒガンという品種と、オオシマザクラという品種を交配して、ソメイヨシノは江戸時代の終わり頃に作られた。」
「ちなみに、オオシマザクラの葉っぱは、塩漬けにして、和菓子の桜餅に使われている。
サクラは、バラ科サクラ属に分類されて他の樹木より、柔らかい材質で、虫も付きやすく、割と弱いんだよ。
だから、全国のサクラの名所には、桜守も兼ねて樹木医が活動していて、その指導に各地に行ったよ。」
「施設に入って、こんな体では、もう指導も出来ないな。。。
戦争とはいえ、多くの若者達を犠牲にしてしまった。
残されて、生かされた者には、何がしかの使命があると思っているんだよ。
根系の研究や樹木医の活動、講師として、その使命に誠実にやってこれて、本当に良かった。
少ししゃべりすぎたな。」
「いえいえ、こちらこそ貴重なお話し、ありがとうございました!
今日の施術は終わりました。
また来週、マッサージに参ります。」
香住先生に毛布と布団を優しく掛けた。
野崎はスライドドアの前で深くお辞儀をして、ゆっくりとドアを閉めて、部屋を後にした。




