#10 チェロの紗織さん
東京多摩川を羽田空港がある河口から大田区、世田谷区と上流に、さかのぼると調布市に入る。大学などの教育機関が多い地域だが、その中に国内屈指の音楽大学がある。
そもそも、その当時の最高レベルの音楽家達が、子供のための音楽教室から始めた学園で、高校が出来て、大学や大学院も出来た。
その音楽教育・指導は素晴らしく、卒業生は、世界的指揮者、有名国際音楽コンクール優勝ヴァイオリニスト、声楽家、バラエティー番組によく出演するピアニスト、とクラシック音楽のみならず、幅広く国内外で活躍している。
その大学には、「ソリスト・ディプロマ・コース」と呼ばれる実技主体の高度な音楽教育を行う独自の専門課程がある。
ハイレベルの演奏技術を持つソリストを育成する特待生制度で、個人レッスンで技術と表現を磨き上げる。
三井紗織は国内コンクールを優勝後、同音大を卒業してから、その課程を履修していたが、休学していた。
このレベルになると、楽譜どおりに演奏することは当たり前で、一音一音に非常に繊細な技術と感動させる表現が求められる。
まさに芸術だ。
担当講師の指導で要求されるいる演奏は出来ているが、しかし、根本的な何かが違うと感じていた。このままでは続けられないと、紗織は思い悩んだ。そして、休学した。
音は鳴る。その音の質が問題であることは分かっている。違和感としか、言いようがない。
問題の正体が分からないから、解決の仕方も分からない。
このどうしようもない袋小路にハマって、半年が過ぎようとしていた。
始めは気分転換に海外旅行をしたり、違う楽器を演奏したり、コンサートに出掛けたり、あるプロの楽団員は水泳をしていると聞いて泳いでみたり、いろいろ試してみたが、どれもダメだった。
原因は、何なんだ!
メンタル的にも追い詰められてきた。
家にいても、しょうがないので、大好きな多摩川の河川敷に来た。いつものように遊具で遊んでいる子どもたちや、イヌの散歩を楽しんでいる人がいた。
紗織は可愛いイヌを見て微笑むと、川に沿って歩き始めた。ただただ、青空と穏やかな風が気持ちよかった。
気が付くと、景色は工場が多くなり、飛行機も飛んでいた。世田谷の自宅から河口付近まで来てしまった。やれやれ。レンガ造りのレトロな水門があった。案内表示板を見ると、六郷水門というらしい。
自販機で買った水を飲むと、ちょっとスッキリした。
スマホの地図アプリで居場所を確認すると、雑色駅が近くだ。駅前に大きなスーパーもあるみたいだし、何かお買い物でもして帰るかぁ、と思い、また歩き始めた。
少し歩くと、ちょっとレトロ風の街灯がある商店街らしい雰囲気になってきた。
こもれび整体院と書かれた店舗のドアが開くと、フルニエ演奏のバッハの無伴奏チェロ組曲が不意に聴こえてきた。高齢の患者さんらしい人が出て行った。数百回と聴いた憧れの演奏家だ。間違いない。
何故ここに、フルニエさん?
しかも2回目の録音の音源?
疑問があふれた。
紗織は何も考えずに、吸い込まれるように店舗に入って行った。
「いらっしゃいませ〜。」
と、受付の真由美さんと整体師の野崎が声を合わせて明るく挨拶した。
「あ〜、すみません。突然。
予約とかしてないですけど、いいですか〜?」
「ちょうど患者さんが帰られたところで、大丈夫ですよ〜。」
野崎は答えた。
看板犬のモフモフちゃんが足元に近寄ってくると、紗織は微笑みながら優しく頭を撫でた。
野崎は椅子に腰掛けるようにうながした。
「初めまして、整体師の野崎と申します。
よろしくお願いします。」
「私は、三井紗織です。学生してます。
ちょっと質問させてください!
何故、フルニエさんの曲が流れているんですか?!」
「あれね。
昔の整体の大先生がカザロスさんが大好きだったんですよ〜。大変、気にいって、施術中にも曲をかけてたんです。それで、そのお弟子さん達もそれにならってバッハ無伴奏チェロ組曲をかけている訳です。」
「そうなんですね。」
「ちょっと、いろいろお疲れみたいなんで、施術しながらお話ししますね〜。」
小上がりのマットに横になってもらった。
「で、オレに音楽好きのおじいちゃんがいて、いっぱいCDを持ってたんですよ。
いろいろ聴いたんだけど、カザロスさんもいいんだけど、ちょっと重厚なんだよね〜。
ラーメンに例えるなら、背脂ギトギトのとんこつ家系ラーメンみたいな。美味しいけど、ちょっと毎日食べるにはキツイな〜。みたいな。(苦笑)」
「対してフルニエさんは、あっさり鳥ベース淡麗系ラーメンな感じで、まあ、毎日でもイケるかなぁ。みたいなね。
こんな説明で分かるかな?」
「あ〜、言いたいことはだいたい分かります!」
見た目はバカっぽいのに、何なんだ、この先生は。
「じゃあ、何で、1回目ではなく、2回目の録音なんですか?」
「確かフルニエさんは、無伴奏チェロの全曲録音を3回してるんだよね。ライブ音源を除いた正規録音はね。
1回目のは、ちょっと緊張感があるというか、慎重にやってる感があるんだよね。形にハマっているというか。
で、1960年の2回目の録音は、バッハの曲でありながら自分の曲みたいにのびのびやっているんだよね。そして、みずみずしいんだよ。録音でありながら、いつ聴いてもフレッシュ感があるんだ。
あと、単純にマティスのCDジャケットが好きなんだよね〜。音楽関係ないけど。(苦笑)」
ようやく見つけた!
自分の感性にもマッチしている。この先生なら現状を打破出来るかもしれない。
「ところで、ちょっとマニアックなクラシックについて聴いてくるってことは、音大の学生さんだったりするのかなぁ?」
「そうなんです!
とは言っても、休学中なんですけどね。
少し壁に当たって伸び悩んでる状況なんです。」
「ああ〜、そうなんですね。
もちろん、相談にはのるし、協力もするけど、この後、予約の患者さんが入っているんですよ〜。
大変申し訳ないけど、もう一度、お越しください。本当に、ごめんなさいね〜。」
「いえいえ、こちらこそ、いきなり質問したり、すみませんでした。」
「身体状況としては、背中全体の張りと両下肢が疲れてたようなので、重点的に施術しました。
まだ若いので、いくらでも良くなりますよ。」
「先生、ありがとうございます!
必ず、また来ます!」
紗織はすっと立ち上がると、サッパリした表情になっていた。
床に降りて受付に向かうと、モフモフちゃんが尾を振りながら、擦り寄って来た。
紗織はイヌの背中を優しく撫でると、会計と予約して帰って行った。
数日後、整体院に紗織が再度やって来た。
「いらっしゃいませ〜。」
受付の真由美さんが笑顔で挨拶した。
先日は
気にも留めなかったが、昭和感のある看護婦白衣の姿は何なんだ。しかも、妙にムチムチしている。
「また、お世話になります〜。」
紗織は、やや引きつった笑顔で応えた。
椅子に腰掛けて待っていると、野崎がやって来た。
「紗織さん、こんにちは。
あれから、どうでした〜?」
「あの晩は久しぶりに、グッスリよく眠れました。ありがとうございます!」
「おお〜、良かったです!
それで、今日は前回の続きだよね。」
「ちょっと長くなるけど、お話しします。」
「幼稚園の頃、始めはヴァイオリンを習ってたんです。そもそも、姉が習っていて、教室について行ったら、子供用のちっちゃいやつをおもちゃ代りに持ってマネしたんです。
そしたら、音はうまく鳴らなかったけど、振動が伝わってきたんですよ。ビックリしてね。それから、キレイな音が鳴らせるように練習を始めたんです。」
「ヴァイオリンという楽器は、弦を弓で擦って振動を作り、その振動で本体を響かせているんです。実際、触って鳴らしてみないと伝わりにくいんですけど、もう体にビリビリくるんです。」
「フォークギターとは違うの?」
「似ているんですけど、ギターは弦を弾きますよね。ヴァイオリンは長く擦っている分、振動が長く強いんですよ。」
「おっ、そうなんですね〜。
ちょっと触ってみたくなりました♪」
「で、小学生になって、音楽教室にあったチェロを触ったら、ヴァイオリンにはない低音がして、ずっしりとお腹に響く音色に魅了されたんです!
私に合ってる気がして、それからはチェロに転向して、ヴァイオリン以上に練習も楽しくなって、夢中になってたら、発表会やコンクールに出るようになったんです。」
「演奏して上手く弾けると楽しかったし、音楽教室の先生や両親も喜んでくれてたから、そのままお稽古ごとの延長で続けたんです。
それから、たまたま近くに音大があったから入学しました。学校では改めて音楽の基礎から教育を受けて、弦楽四重奏やコンチェルトを演奏させてもらいました。セッション感がたまらなく楽しいんです。
作曲家の歴史も習って、曲の理解も深まりましたし、素敵な先生や友達も出来て、最高の環境だったんです。」
「そんな音大生活を過ごして4年生の時に、日本音楽コンクールという大きなコンクールに優勝しました。
卒業後は、ソリスト・ディプロマ・コースという専門課程に入学して、個人レッスンとか受けてたんですが、どうも何か自分の音にしっくりこないというか、違和感というか、納得しない感じがしてきて、休学したんです。
いろいろやってみたんですけど、どれもダメで、ふらふらしているところに、フルニエさんの無伴奏チェロが聴こえてきて、先日お邪魔させてもらいました。」
「先生!
改めて、何が改善点がありましたら、ご教授ください。よろしくお願いします。」
紗織は立ち上がって、深く頭を下げた。
「オレは楽譜も読めないし、楽器の演奏も出来ないけど、整体師として、体の使い方は指導出来るから、一旦チェロとは距離をおいて、紗織さん自身でワークみたいなことをやってみると、いいよ。」
「先生、ありがとうございます!
何でもやります!
よろしくお願いします!」
「じゃあ、早速始めるとして、床に裸足で立ってみてください。あっ、ゆったりリラックスしてね。」
紗織はスニーカーと靴下を脱いで立った。
「ちょっと心を落ち着かせて、足裏の感覚を感じて、欲しいんだ。
極端に足指に重みを感じたり、逆にかかと側に重みがあると良くないんだ。
このワークは、正しく立てているかを診ているんだよ。」
「例えば、緊張してくると、前方の足指方向に重心が移動してくるんだ。
全ては、正しく立てることがベースになるんだよ
。
正しく立てないと、正しい呼吸が出来ないし。
正しく立てないと、正しい歩行や動作が出来ない。
正しく立てると、足裏の重心のバランスが良くなって、深い呼吸になるんだよ。
そのまま、数分やってみてください。」
「自分の身体の反応や声を聴くみたいで、面白いです。」
「そうです!
はじめは、そんな感じでゲーム感覚でやってみてください。
少し慣れてきたら、今度は意識を足首や膝、股関節、肩、首、頭と順番に持ってきて、変に力が入ってないか、確認してみてください。
もし、前重心になっていたら、そのまま、つま先立ちになり、かかとを上げて、ドスンと落としてくださいね。いわゆる、かかと落としをします。
これをやると、後ろに重心が変化します。」
「ただ立っているだけなのに、なかなか微妙な感じがします。」
「そうなんです!
正しく立つには、集中が必要なんです。それと、横隔膜を使った正しい呼吸です。
さすが、ソリスト。
感覚が鋭い!
それじゃあ、呼吸と身体に意識を集中して、もう一度立ってみてください。」
「このワークをやると、上半身は余分な力が抜けてきます。反対に、下半身は安定していきます。
この状態でなって初めて、正しくいろいろな運動が可能になります。
歩いたり、走ったり、バットやラケットを振ったり、言わば、運動の土台、基礎を作ります。」
「先生、このワークの目的がちょっと分かってきました。身体、運動の基礎作り、強化なんですね!」
「さすが、ソリスト!
理解が早い!
例えば、ピッチャーが160キロのストレートを投げるとします。同じ160キロでも下半身を強化・安定した投手の球は、球質が重くなります。
同じように、ボクシングのパンチも下半身強化すると、質的に重たいパンチになります。井上尚弥選手みたいにね。」
「ごめん、ごめん。
オレはスポーツ好きなんで、若いお姉さんには、例えがちょっと分かりにくかったね。
じゃあ、クラシックなら、100人くらいの編成でシンフォニー、交響曲をやりますよね〜。
その時、弦楽器なら後方にいる大きなコントラバスが、管楽器ならチューバが、通奏低音をピッタリピッチを揃えて重低音で演奏すると、高音部のヴァイオリンのメロディーが華やかに響きますよね〜。」
「分かります!分かります!
低音が安定してるから、高音部が生き生きのびやかに奏でて、表現出来るんですよね〜。
分かりやすい説明、ありがとうございます!」
「さすが、ソリスト!
もう完全に理解しましたね。
あとやることは、このワークの応用だね。
ステップ1として、立つワークをしました。
ステップ2として、今度は演奏で使う椅子に座って、同じように、呼吸や身体の基礎・安定に集中する。
ステップ3は、チェロを構えて、ワークする。
ステップ4は、演奏しながら、ワークする。
寝起きや時間がある時にやってみてください。」
紗織は真剣に聴いていた。
「もし、上手くいかない場合はステップ1からまた始めてほしい。
このワークは、数ヶ月掛かるか、何年も掛かるか、分からない。
それでも、沙織さんの身体に対する意識や使い方は確実に質的な変化を与えると、確信しています。
そして、疑問を抱いている紗織さんの音にも影響するはずだ。
上手くいかなかったら、また来てください。また一緒に考えよう。」
「先生、ありがとうございます。
必ず、また来ます。」
紗織はちょっと涙目になっていた。
「あっ、ちなみに今日は施術してないから、無料な。ファンとして応援してます!」
「いろいろありがとうございました!」
深いお辞儀をして、店舗から出ていった。
数ヶ月後、紗織は突然来店してきた。
「こんにちは〜。」
大きな明るい声で挨拶した。
店の奥から野崎がやって来た。
「紗織さん、お久しぶりです。
姿勢が良くなったね〜。」
「あれっ、分かるんですか〜?」
「もちろん!
こんなんでも、一応プロの整体師だからね。」
「さすが、整体師!
あれから、ワークをしつこく続けて、呼吸法を学んだりしました。
それで、ようやく納得出来る音が出せるようになりました。
ありがとうございます!
学校も復学して、レッスンも再開しました。学校の講師にも迷惑をかけましたが、いろいろ相談して、チャイコフスキー国際コンクールに挑戦することにしました!
これも、野崎先生のおかげです。
あの時、偶然フルニエさんが聴こえてきて、助かりました!」
「こちらこそ、ありがとうございます。
ちょっと補足させてくださいね。
演奏する前の自分自身の状態・コンディショニングをどれだけ客観視して、分析・判断できるかが、まず大前提なんです。
それからの組み立て力、悪い状態でもカバー出来る力が、プロフェッショナルなソリストに必要不可欠です。
それには、常に自分を第三者目線で観察する崇高な意志力・目的力が必要です。
そのためにも、好きなことに子どものように単純に没入・イマーシブ出来るかが、分かれ目だと思うんです。
例えば、野球がとにかく好きでなければ、大谷さんやイチローさんや山本由伸投手のように練習も試合もパフォーマンスも出来ないですよね〜。」
「そうですね。
ヴァイオリンやチェロを始めた時の気持ちや楽しさをいつも忘れずに、ステージに立ちたいです。
先生、いつかコンサートに来てください。
私のソリストとしての音をお聴かせします。」
「ありがとう!
楽しみにしてるよ。」
紗織は颯爽と店舗から出て行った。




