彼
次の日、朝目覚めると体が上手く動かない。
「……こういう日って、良くない事が起こるのよね。……空も曇っているし。でも雨は降りそうにないからそういった意味ではよかったかもしれない」
私はそう呟きながら、起きる。
それから朝食を食べ、身支度を整えてヘレンと一緒にクロトとサナの家に向かった。
すると、サナが困ったような顔で、
「シルフさ……が、ちょっと“用事”があるようで遅れているのです。少し待っていただけますか?」
「そうなのですか?」
「ええ、“妹”が、なんでも婚約者がある方を好きになってしまったそうで」
「……」
「ちなみにその婚約者である女性も、略奪といった形で婚約者の座に収まってしまったそうです」
「……因果応報だわ」
「といったドロドロな事情があって、シルフさ……お手伝いに行っているのです」
「そうなのですか……でも、シルフの妹さんはこの近くの村に?」
「……ええ、シルフさ……の近くにいます」
サナはそう答えるが、あまり話したくないのかそれ以上は特に聞けず、そこでシルフがやって来た。と、
「あ~、妹の件が大変だった」
「今、サナから聞いたわ」
「うん、実は出てくるタイミングを計っていました」
「……」
「それで妹の事は何とかなりそうなので、今度はこっちだ。市に出て販売を頑張ろう」
「……そうね。妹さんの事を聞いてもいい?」
「うーん、事情が事情だからあまり話せないよ」
そう私にシルフは答えて、それよりも早く販売しようといった話になったのだった。
市にやって来た私達は、大きな荷車の上に白い布を引いてお菓子を並べる。
それから販売開始になったけれど。
「……飛ぶように売れていく。あ、お二つですね」
お金を受け取り品物を渡す。
食べている所の感想を聞く所ではない混みようだった。
まさかこんなに人気が出るなんてと思っていると、別荘で雇っている人達や村長さんから口コミで広まったらしい。
しかもここの村の野菜などが美味しいという事で少ないが観光客も来ていたらしく、そして手軽に食べられるお菓子は彼らの心をつかんだらしい。
おかげでそこそこ多い量を持ってきたのにすぐに品薄になってしまった。
けれどその頃には人だかりもだいぶ減っていて、私達はようやく底で一息をつくことが出来たのだけれど……。
「リズ?」
驚いたような声で彼は私の名前を呼んだ。
そして私も、今の声が聞き間違いだったのではと思う。
けれど瞳に彼の姿を捕らえて、服装も含めて本人だと気付く。
次の瞬間、私の中に激情が走った。
激怒、その感情に近い何かが私の心に、堰を切ったように溢れて、そこでシルフが私の手を握る。
「大丈夫、リズ、落ち着いて」
「……わかって……る……」
かすれるような小さな声で私はシルフにこたえた。
シルフが手を握ってくれたおかげで、どうにか私は思い止まることが出来たように思う。
心の準備がない状態で、“彼”が私の前に現れたのだから仕方がないとはいえ、私自身が、我を忘れそうになるとは思わなかった。
もしもシルフがシルフに手を捕まれていなかったら、きっと、今すぐに“彼”に殴りかかっていただろう。
恋愛感情なんてほとんどない相手であったとはいえ、私が受けた屈辱は、私の中でくすぶっている。
それでも公爵令嬢としての立ち振る舞いはする必要がある。
大丈夫、シルフだって私の手を握っていて、すぐそばにいる。
だから上手く、公爵令嬢を演じられるはず。
シルフの前でそんな、怒り狂った“私”という醜態は見せられない。
そう心の中で思って、仮面をかぶる。
武器でもある、笑顔の仮面だ。
張り付いたような笑顔になっているだろうがかまわない。
私はその表情で“彼”を見た。
「お久しぶりですわ。元、婚約者様」
そう、あえて名前を呼ばずにそう告げたのだった。
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