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第6話「不自然な同居人」

 遼はキッチンに向かった。冷蔵庫を開ける。昨日買った半額の鶏むねはまだある。卵、豆腐、わかめ。味噌は十分。

 エプロンを手に取った。紺色の、飾り気のないやつ。手慣れた動作で首にかけ、腰で紐を結ぶ。


「……何をしているのですか」


 凛がキッチンの入り口に立っていた。いつの間に移動したのか、足音がしなかった。


「見ればわかるだろ。朝飯を作ってる」


「任務中の調理行為は、効率的とは——」


「うるさい。任務ってなんなんだよ。それに食わないと頭が動かないだろ」


 鍋に水を張り、煮干しの頭と腸を取る。手は動かしたまま、遼は振り返らずに言った。


「……なぁ月城。いくつか訊いていいか」


「内容によります」


「お前の所属はどこだ」


「回答する権限がありません」


「じゃあ、お前に監視を命令したのは誰だ」


「回答する権限がありません」


「俺のことを調べてから来たのか」


「……回答する権限がありません」


 三つ目だけ、僅かに間があった。

 遼は煮干しを水に落としながら、その間を記憶した。プログラマーの習性だ。レスポンスの遅延は、そこに処理が走っている証拠でしかない。


「昨夜お前は俺を『未登録の能力者(アンカー)』と呼んだ。アンカーってのは俺みたいな能力を持っている人間なんだよな?」


「はい。世界をデータとして視覚化し、干渉できる人間です」


「で、未登録ってことは、登録制の組織があるんだな。お前はそこの人間で、俺みたいな野良の能力者を回収するのが仕事だ。——ここまでは合ってるか」


 凛は沈黙した。肯定も否定もしない。だがその沈黙自体が、否定ではないことを語っていた。


「もう一つ。お前は俺が修正(デバッグ)してるのを最初から見てた。見てたけど手を出さなかった。つまりお前の組織は、俺を殺すんじゃなくて使いたい。——違うか」


「……あなたの推論は、一部正確です」


「どの部分が一部で、どこが正確だ」


「回答する——」


「権限がない。わかったよ」


 遼は煮干しの出汁に火をつけた。弱火。ここを急ぐと全てが台無しになる。


(三つ質問して、三つとも『権限がない』。つまり答えたくないんじゃなくて、本当に答えられない。誰かの指示系統の下にいる)


(組織の末端が、現場判断で監視対象の家に住みつくか? 普通はない。ということは——こいつを俺に張りつかせること自体が、上からの指示だ)


(目的は不明。だが今の時点で俺に危害を加える気はない。昨夜、撃てたのに撃たなかった。なら——)


 遼は菜箸を手に取った。


(——泳がせておく方が情報が取れる)


「お前も食うか」


「私は食事を必要としません」


「そうか」


 隣のコンロでは卵焼きが焼ける。菜箸で巻く動作は無駄がない。三年間、毎日繰り返してきた動き。


 凛はキッチンの入り口に立ったまま、遼の手元を一ミリの瞬きもなく観察していた。


「……戦闘能力を持つアンカーが、なぜ調理技術に特化しているのですか」


「特化って言うな。普通に自炊してるだけだ」


「動作効率、食材の切断精度、加熱時間の管理。いずれもプロフェッショナルレベルです。データベースに該当する調理師資格の取得記録は——」


「持ってない。独学だ」


「不合理です」


「うるさいな」


 味噌汁が仕上がる。卵焼き、冷や奴にかつお節とネギ、ご飯。

 食卓に二人分——


 手が止まった。

 無意識に、二人分の食器を並べていた。


(……いや、今日は本当に二人いるんだ)


 いつもは一人分を並べた後で、この手が勝手に二つ目を出してしまう。それがいつからの癖なのか、誰のために出していたのか、思い出せない。だが今日は違う。目の前に同居人がいる。


 遼は黙って凛の前に味噌汁と茶碗を置いた。


「食え」


「前述の通り、私は食事を——」


「エネルギー補給だと思え」


 凛は数秒、味噌汁の椀を見つめた。

 湯気が立ち上り、出汁の香りがキッチンに漂っている。


「……エネルギー補給は、合理的です」


 凛は椀を手に取った。

 両手で包むように持ち、一口、すすった。


 動きが止まった。


 銀色の瞳が僅かに見開かれた——ように見えた。気のせいかもしれない。だが明らかに、何かを処理しているような間があった。


 凛は椀を置き、卵焼きに箸をつけた。一切れ口に入れる。咀嚼する。飲み込む。ご飯を一口。味噌汁をもう一口。


 そこからは速かった。


 黙々と、しかし確実に、皿の上のものが消えていく。卵焼きが消え、冷や奴が消え、ご飯が消え、味噌汁が——


 空になった。


 遼は自分の箸を止めて、凛を見ていた。


「……エネルギー補給にしちゃ、速すぎないか」


 凛は空の椀を見下ろした。表情は変わらない。だが椀を置く手が、ほんの僅かに名残惜しそうに見えたのは——さすがに気のせいだろう。


「……おかわりは、ありますか」


 遼は噴き出しそうになるのを堪えた。


「……ある」


 鍋から味噌汁をよそう。凛の前に置く。

 凛は黙って椀を手に取り、また両手で包むように持った。


 今度は少しだけゆっくり飲んでいた。

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