第5話「監視プロトコル」
翌朝。
朝霧遼という男は、命をかけて誰かを救った翌朝にも、きちんと七時に目を覚ます。規則正しいのか、単に習慣の奴隷なのかは判断が分かれるところだ。
目が覚めたとき、何かがおかしかった。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。ベッドから体を起こし、キッチンに向かう。
いつものルーティンだ。コーヒーを淹れ、トーストを焼き、目玉焼きを——
(昨日の朝、何を食べた?)
手が止まった。
思い出せない。
昨日の朝食。この同じキッチンで、同じように何かを作って食べたはずだ。だが記憶がない。映像も、味も、匂いも残っていない。昨日の朝という時間だけがすっぽり抜け落ちて、その前後は覚えている。
(……代償か)
遼は目を閉じた。昨夜のバグは大きかった。深層に触れた。それだけ、持っていかれたということだ。
昨日の朝食。たぶん大したものじゃない。トーストか、卵かけご飯か。日常の、取るに足りない一コマ。
——だが「取るに足りない」と断言できるのは、覚えている人間だけだ。
コーヒーを一口すする。苦い。いつも通りの味。それだけは確かだった。
キッチンに向かおうとして——足が止まった。
リビングの隅に、少女が立っていた。
銀髪。黒いレザージャケット。昨夜と全く同じ格好で、壁際に直立不動。まるでシステムがスリープモードに入ったまま朝を迎えたかのように、微動だにしない。
——そうだった。昨夜、こいつを家に入れたんだった。
「……おはよう」
返事はなかった。
数秒の沈黙の後、銀色の瞳がゆっくりと遼を捉えた。
「おはようございます。現在時刻、午前七時〇三分。対象の起床を確認しました」
「対象って言うな。朝霧でいい」
「了解しました、朝霧」
遼は少女——月城凛の姿を改めて見た。昨夜と寸分違わぬ服装。髪の乱れもない。
だが、印象が違った。
昨夜は路地裏の逆光で影絵のようだった。銃と声だけが鮮明で、顔の細部は暗闘の記憶に埋もれている。
朝の光は容赦がなかった。カーテンの隙間から差し込む日差しが銀髪を透かし、輪郭を柔らかく浮き上がらせている。
(……若いな)
思ったよりずっと幼い。頬の線が細く、顎が小さい。銀色の瞳は昨夜と同じ冷たさだが、その下にある顔は——どう見ても十代だ。高校生、いやもっと下かもしれない。
二十二にもなる男の部屋に、こんな年頃の少女が一晩中立っていた。状況だけ切り取ったら通報案件である。というか普通に未成年略取だ。
「お前、まさか一晩中そこに立ってたのか」
「はい。監視任務中は待機状態を維持します」
「寝なかったのか」
「睡眠は不要です」
遼は数秒、凛の顔を見つめた。
それから何も言わず、キッチンに向かった。
聞きたいことは山ほどある。お前は何者だ。お前の後ろにいる組織は何だ。「アンカー」とは何だ。
だが今は、朝食の方が先だ。
いや、そもそもこいつは人間なのか?
銀色の髪、銀色の瞳。およびあの無表情。まるでアンドロイドのようだ。
「なぁ、月城。お前は本当人間なのか? まるで機械だぞ。人間なら睡眠は必要だろうが」
「勿論、私は人間です。ですが、睡眠は不要です」
「……そうか」
いや、あり得ないだろう。遼は脳内でツッコミながらも調理を始める。
「そう言うように指示されています。私は人間です」
「そ、そうか」
いいながら凜は遼のすぐ後ろまで詰め寄っていた。
遼の肩に手回し、襟元を掴むとぐっと自分に引き寄せた。
「不審な点があればご確認ください」
「唇が触れるか触れないかの距離で、銀色の瞳が遼を見つめている」
睫毛長っ! 何かいい匂い!! と遼の思考が暴走しそうになるが、表面上は無表情を保ったまま凜の身体を引き剥がす。
(いや、人間だろ。どう見ても。銀色の瞳は違和感があるが、カラコンでこういうのもあったような気もするし)
本当に正体不明だ。あり得ないほど整った顔立ちの少女が詰め寄ってくる。本来なら喜ぶべきことなのだろうが、不信感が先に立つ。
「ほら、ほっぺたもぶにぶにです。人間です」
そう言って、遼の手を取り、自分の頬を撫でさせる。確かに柔らかい。そして暖かい。これは人の体温だ。
「……そうか」
人間だ。たぶん。少なくとも体温のある生き物ではある。
だが、それで安心する理由にはならない。




