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第7話「デバッグとリストア」

 遼はいつもの癖で、自分の食事の感想を語り始めた。


「卵焼きは悪くない。火加減は七十点。もう少し半熟気味に巻いてもよかったな。味噌汁は出汁がよく出てる。煮干しを水から引いたのが正解だった。冷や奴は——まあ、切っただけだからな。切っただけの仕事にしては上出来だ——」


「……誰に話しているのですか」


 遼の言葉が止まった。


「……癖だ」


「報告対象が不在の状態で口頭報告を行う行為は、通常——」


「癖だっつってんだろ」


 少し強い口調になった。自分でも理由がわからないまま。

 凛は口を閉じた。それ以上は追及しなかった。


 食器を洗う。二人分。今日は、その数が正しい。



§ § §



 仕事を始めた。

 ノートパソコンを開き、受託案件のコードを書く。変数を定義し、関数を組み、テストを走らせる。それが朝霧遼の「表の仕事」だ。世界のバグを直す方は給料が出ないので、あくまでボランティア。割に合わないにも程がある。


 背後に気配。

 振り返ると、凛がデスクの横に立っていた。遼のモニターを、正確に九十度の角度から覗き込んでいる。


「……何してる」


「監視です」


「画面を覗くのも監視に含まれるのか」


「対象の全行動を記録することが職務です」


「コードのレビューは職務外だと思うが」


「……このif文、ネストが深すぎませんか」


 遼は振り返った。


「お前、コード読めるのか」


「基本的なプログラミング言語の解析は可能です」


「……それはそれで怖いな」


 遼はモニターに向き直った。確かにネストが深い。リファクタリングすべきだ。監視員にコードレビューされるフリーランスエンジニア。世も末である。


 昼食は簡単に済ませた。冷や飯に卵をかけ、醤油を垂らす。凛にも同じものを出した。凛は「エネルギー補給です」と前置きした上で完食した。おかわりはしなかった。卵かけご飯には、おかわりを催促するほどの何かが足りなかったらしい。味噌汁との差を考えると、この少女の中で何らかの評価基準が動いていることは間違いない。


 午後。受託案件を納品し、夕方のルーティンを始めようとした時——遼の目が捉えた。


 窓の外。向かいのマンションの壁面の一部が、薄く透けていた。


 一般人には見えない。カーテン越しには普通の壁に見えるだろう。だが遼の目には、コンクリートの表面テクスチャが剥がれかけて、その下の格子状のワイヤーフレームが透けているのが見える。


「……出番だ」


 遼は立ち上がった。エプロンを外し——いつの間にかまたエプロンをしていた——ジャケットを掴む。


「行くぞ、月城」


「状況を説明してください」


「向かいのマンション。壁のテクスチャが剥がれかけてる。放っておくと拡がる」


 凛は一瞬だけ目を細めた。自分のセンサーで確認したのだろう。


「……確認しました。小規模なテクスチャ崩壊です。レベル二」


「レベルがあるのか」


「グリッチの規模を一から五で分類しています。昨夜のものはレベル四でした」


「じゃあ今日のは小さいな。さっさと片付ける」



§ § §



 向かいのマンションの非常階段。

 人通りのない裏手に回り、遼は壁面に手を翳した。


 世界が変わる。


 コンクリートの壁が透過し、その下に流れるデータの河が見えた。文字列。数値。座標。この世界を構成する膨大な情報の束が、遼の目だけに映る。


「……ここだな。テクスチャの参照先が壊れてる。ファイルパスが途中で切れてる」


 エアキーボードが指の下に展開する。


修正(デバッグ)を開始する」


「なぜです?」


「細かいバグでも放っておけば拡がる。それに——」


「それに?」


「……世界に空いた穴が人を吸い込むこともある」


「無報酬で、何故そんなことを?」


「……知るか。やりたいからやってんだよ」


 指が走る。壊れたファイルパスを追跡し、正しい参照先を書き込む。小規模なバグだ。三十秒もかからない。


 テクスチャが復元される。コンクリートの壁が元に戻っていく。


「——完了」


 遼がキーボードを閉じた瞬間、凛が動いた。


 凛の右手が壁面に触れる。指先から淡い光が走り、修復された部分の周辺を滑らかに馴染ませていく。遼のデバッグの痕跡を消し、元の状態に完全に戻す作業——


「……何をした、今」


復元(リストア)です。あなたのデバッグは原因を修正しますが、修正痕が残ります。それを均す作業です」


「修正痕?」


「たとえるなら、骨折を治した後のギプスの跡のようなものです。放置しても機能に支障はありませんが、周辺のデータ整合性が微妙にずれることがあります」


 遼は凛の仕事を見つめた。

 三年間、一人でデバッグしてきた。直して、直して、直して。だがその「直した跡」のことなど、考えたことすらなかった。

 俺がバグを壊して、こいつが跡を綺麗にする。デバッグとリストア。破壊と修復。


 ——補完関係だ。


「悪くないな」


「何がですか」


「連携が。……褒めてるんだよ」


「評価基準が不明瞭です」


「褒めてるっつってんだろ」


「……記録しました」

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