第45話「CHRONOS」
朝。
遼が目を開けた時、リビングのソファは空だった。
毛布だけが、几帳面に畳まれて置かれている。凛がいつも座っていた窪みが、まだクッションに残っていた。
「……凛?」
返事はない。
キッチン。風呂。トイレ。自室。空き部屋。ベランダ。
どこにもいない。
玄関の靴を見た。凛のローファーが、消えていた。
遼はスマートフォンを手に取った。画面に通知はない。メッセージもない。着信履歴もない。凛の連絡先——そもそも、凛の連絡先を遼は知らない。管理端末に電話番号などないのだから。
テーブルの上に、何か残されていないか探した。書き置き。カード。手がかり。何でもいい。
何もなかった。
ただ——流しに、昨夜の茶碗が二つ、洗われて伏せてあった。凛が使った茶碗と、遼が使った茶碗。いつもの二つ。きちんと洗われて、きちんと伏せられて。まるで「明日も使う」ための準備のように。
遼は流しの前で、しばらく動けなかった。
§ § §
一時間が経った。二時間が経った。
凛は帰ってこない。
遼はソファに座り、考えていた。エアキーボードは展開していない。今の遼に必要なのは、デバッグではなかった。
考えを整理しなければならない。
昨日までの三週間——凛が側にいた二十一日間に起きた全てを、頭の中に並べ直す必要があった。
遼は目を閉じた。
最初の夜。スクランブル交差点。コピペバグを直した遼の前に、銀色の瞳をした少女が現れた。銃を向けられた。殺されると思った。なのに翌朝、リビングのソファに座っている凛がいた。「監視です」と言って、遼の味噌汁を完食した。
二日目。凛が「おかわりはありますか」と言った。あの時の凛の声には、データベースの検索結果にはない「何か」が混じっていた。
三日目。吉祥寺のスーパーで、レジの佐藤さんと遼が話していた時——凛が割り込んできた。物理的に。「対象への不要な雑談は推奨しません」と言いながら。
あれは、嫉妬だった。
凛のシステムはそれを「エラー」と処理した。だが遼には見えていた。凛は感じていた。感じてはいけないものを、感じ始めていた。
七日目。路地裏の戦闘で凛が怪我をした。「泣いてないわ。これは冷却液の排出よ」と言った。あの時、遼は初めて疑った。こいつは、人間じゃないのかもしれない、と。
八日目。スパイスカレーのレシピを忘れた日。絶望して沈む遼に、凛がデータベースから引っ張ってきた慰めの言葉を棒読みで並べた。「明日は明日の風が吹きます。精神は安定しましたか」。不器用で、的外れで、だからこそ——凛は遼のために何かをしようとしていた。
十日目。空き部屋で花柄のヘアゴムを見つめる遼に、凛が言った。「あなたがその不明なオブジェクトを見ていると、私のシステムリソースが圧迫されます。不快です。破棄を推奨します」。
不快。
凛が「不快」という単語を出力した。感情のないはずのシステムが。
遼は目を開けた。
ソファの向かいに、凛がいない。当たり前だ。いないのだから。
だが遼の視界は——凛がいない空間の中に、凛の痕跡を探し続けていた。ソファの窪み。流しの茶碗。テーブルの上の微かなコーヒーの輪染み。凛が座っていた場所に残った、僅かな体温。
§ § §
午前十一時。
遼は自室のモニターの前にいた。
あの写真が、画面に映っている。遊園地。観覧車の前。笑っている自分。ノイズに塗り潰された——小さな手を握っている、誰か。
昨日からずっと、この写真を見ている。
あの女が言った言葉が、頭の中でリフレインしている。
——あなたには妹がいた。
妹。
遼は右手をテーブルに置いた。指先が微かに震えている。
ポケットの中のヘアゴムに触れた。花柄。ピンク。小学生くらいの女の子が使うサイズ。
空き部屋。あの部屋は——誰かの部屋だった。綺麗に掃除されている。ベッドの位置。窓の方角。部屋のサイズ。子供部屋だ。十代の、女の子の。
二人分の食器。遼は無意識にいつも二人分を並べる。身体が覚えている。誰かと二人で食事をしていた記憶が、腕に、手に、染みついている。
二人分のプリン。冷蔵庫に二つ入っていたプリン。一つは遼の。もう一つは——
淹れてもらったコーヒーの温度。遼は自分でコーヒーを淹れる。だがあの温度——誰かが遼のために淹れてくれたコーヒーの温度だけは、デバッグの代償でも消えなかった。
一人食レポ。料理を作るたびに、誰もいないのに「今日のどう?」と聞かれるのを待っている自分がいる。聞いてくれる相手がいたのだ。いつか。
消えたカレーのレシピ。あれはただのカレーじゃなかった。誰かに作ってあげていたカレーだ。「お兄ちゃんのカレー、もうちょっと辛くてもいいな」——
遼の呼吸が止まった。
今——何か、聞こえた。
声だ。記憶の底から浮かび上がった声。小さくて、少し高くて、甘えるような響きを持った声。
お兄ちゃん。
遼の両手が震えた。
知っている。この声を知っている。写真の中の、ノイズの向こうにいる誰かの声。空き部屋の主の声。二人分のプリンの、もう一人の声。
「——お兄、ちゃん」
遼は自分の声で、その言葉を反芻した。
途端に——堤防が決壊するように、体の奥から何かが溢れ出した。
涙ではない。もっと深い場所。骨の芯。臓腑の底。デバッグでは触れない、人間の核心。記憶を削られても削られても削られても、最後の最後まで残り続けた——たった一つの事実。
俺には、妹がいた。
名前は——思い出せない。声は聞こえるのに、名前が出てこない。顔も、わからない。ノイズの向こうに消えたまま、どれだけ手を伸ばしても届かない。
でも——いた。確かに、ここにいた。
この部屋で。この台所で。このテーブルで。
二人で暮らしていた。遼がご飯を作って、妹がそれを食べて、「今日のどう?」と聞かれて、遼が「普通だろ」と答えて、妹が「嘘。おいしいくせに」と笑って。
プリンを二つ買って、カレーを二人前作って、洗濯物を二人分干して。
そういう日常が——あった。
確かに、あった。
それを奪ったのは、デバッグの代償なんかじゃない。
クロノス。
凛が所属している組織。遼の記憶を削り、妹の存在ごと切り離した組織。
遼の視界が歪んだ。
涙が、落ちた。
モニターの上に。ノイズで塗り潰された妹の写真の上に。遼の涙が一滴、画面を滑り落ちていった。
「……返せよ」
声が震えていた。
「返せよ。俺の——俺の記憶を。あいつの名前を。あいつの顔を——全部、返せ……!」
答える者は、いない。
空き部屋は空っぽのまま。プリンの片方は永遠に食べられないまま。ヘアゴムの持ち主は、ノイズの向こうで沈黙したまま。
遼はモニターの前で崩れ落ちた。椅子から滑り落ち、床に膝をつき、両手で顔を覆った。
泣いていた。
声を殺して。歯を食いしばって。肩を震わせて。世界のバグを直す男が、自分の中の最大のバグ——記憶の欠落という、デバッグでは直せない致命的なエラーの前で、無力に泣いていた。




