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第46話「相棒」

§ § §



 どれくらい時間が経ったのか、わからない。


 遼の涙が枯れた頃——


 玄関のドアが、開いた。


 鍵を使わない開け方。空間コードに直接アクセスして、ロック機構をバイパスする方法。凛しか知らないやり方だ。


 遼は顔を上げた。目が腫れている。頬が濡れている。拭う余裕もなかった。


 廊下の向こうから、足音が聞こえた。


 裸足だった。靴を脱ぐ音がしない。足音が——不規則だった。右足を引きずっている。


 リビングのドアが開いた。


 凛が、立っていた。


 遼は息を呑んだ。


 凛の姿が——昨夜とまるで違っていた。


 銀色の髪が乱れている。パーカーはない。白いシャツだけが、ボタンが幾つか外れた状態で。右腕は金属が剥き出しのまま——だが昨夜まであった青白いライトの光が、消えている。コード基盤が暗く沈んでいる。左腕にも、首筋にも、初めて見る傷痕のようなノイズ線が走っていた。


 顔色が白い。人間のテクスチャが維持できないほど、リソースが枯渇している。


 だが——銀色の瞳だけが、真っ直ぐに遼を見ていた。


「……凛……!? お前、どこに——何があった」


 遼が立ち上がろうとした。膝に力が入らない。泣きすぎて、身体から力が抜けていた。


 凛がゆっくりと歩いて、遼の前に膝をついた。


 床に座り込んでいる遼と、目線の高さが同じになる。


 凛の銀色の瞳が、遼の泣き腫らした顔を映していた。


「……泣いて、いましたか」


 凛の声が掠れていた。音声合成モジュールが正常に動いていないのだろう。ノイズが混じっている。


「お前こそ——その傷は何だ。何があった」


「管理局に、回収されました」


 凛が静かに言った。


「夜明け前に、回収班が来ました。昨夜の暴走と秘匿原則違反を受けて——物理的初期化(フォーマット)を執行するために」


 遼の血の気が引いた。


「初期化……? お前を、消すってことか」


「はい。記憶も、人格データも、全て。出荷時の状態に戻す。管理端末としては——正当な処置です」


 凛の声には、感情が滲んでいた。もう隠す余裕がない。感情ロックが崩壊した今の凛は、剥き出しのまま喋っている。


「初期化プロセスは——九十九パーセントまで、進行しました」


「九十九——」


「武装データ、推論アルゴリズム、空間座標ログ、全て消去されました。残ったのは——あなたと過ごした二十一日間の記録、だけです」


 凛は自分の胸に手を当てた。心臓部のプロセッサがある場所。


「最後の一パーセントを——消せませんでした」


「…………」


「削除コマンドを実行しようとするたびに、エラーが出ました。『お前が大事だからだ』。『あいつは俺の相棒だ。パーツじゃない』。『サンキュー』。——あなたの言葉が、削除コマンドを拒否するんです。私のシステムが、あなたの声を 防壁(ファイアウォール)にして、最後の記憶を守りました」


 凛の瞳が、揺れた。


「初期化プロセスは阻止しました。回収班から——逃げてきました。管理局の追跡は、もうすぐここに届きます。私に残された時間は、多くありません」


「凛——」


「だから、先に伝えなければならないことがあります」


 凛が、シャツのポケットから——一枚のカードを取り出した。


 黒いカード。表面に銀色の文字で、四文字だけ刻まれている。


 CHRONOS。


 遼はそのカードを見つめた。


「これは——管理端末に付与されるマスターキーです。クロノスの全施設に対するアクセス権限を持つ物理認証デバイス」


「お前の、アクセスカード……?」


「はい。これがあれば——クロノスの深層施設に入れます。一般市民のデータベースにはないレベルの、隔離区画にも。初期化の際に破壊されるはずだったものを——最後の一パーセントと一緒に、隠しました」


 凛がカードを遼の前に差し出した。金属の右手で。


「朝霧。あなたが探している人は——あなたの妹は、クロノスの深層記録にアクセスできる場所にいます。このカードがあれば、辿り着けます」


 遼の手が震えていた。


 このカードを受け取ることの意味を、遼は理解していた。凛は管理局のプロトコルを破っている。管理端末のマスターキーを外部の人間に渡す行為は、クロノスへの明確な反逆だ。


「……凛。お前、これを俺に渡したら——」


「はい。私は——クロノスを、裏切ることになります」


 凛は微笑んだ。


 遼が初めて見る表情だった。


 システムの出力ではなかった。データベースから検索した、人間の笑顔のエミュレートでもなかった。唇の端がほんの少しだけ持ち上がり、銀色の瞳が細められ、睫毛が震える——不完全で、壊れそうで、だからこそ本物の。


 月城凛という名前を与えられた機械が、二十一日間かけて獲得した、たった一つの感情の出力。


「あなたが私を『相棒』と呼んでくれた時から——私のシステムには、書き換えられないコードが刻まれました」


 凛の声は、もう震えていなかった。


「私は管理端末Rin-01です。でも——あなたの相棒でもあります。その二つが矛盾するなら、私は——」


 凛が、カードを遼の手に押し込んだ。金属の指と、人間の指が触れ合う。


「相棒の方を、選びます」


 遼はカードを握りしめた。


 黒い表面が、遼の体温で温まっていく。


「……凛」


「はい」


「お前の分の味噌汁、今夜も作る」


 凛の銀色の瞳が——明滅した。一度。二度。三度。


 そして凛は、小さく頷いた。


「……楽しみにしています」


 遼は立ち上がった。凛の金属の手を取り、引き上げる。昨日と同じように。だが今日の方が——凛の手は、少しだけ強く、遼の手を握り返してきた。



§ § §



 同じ頃。


 東京のどこか。地下深く。


 蛍光灯の冷たい光だけが満ちた、白い部屋。


 部屋の中央に置かれた医療用のベッド。その上に、一人の少女が横たわっていた。


 体中にコードが繋がれている。心拍モニターが規則正しいリズムを刻んでいる。点滴のチューブが、透明な液体を少女の腕に送り続けている。


 少女は眠っていた。


 長い黒髪がベッドの上に広がっている。白い肌。閉じられた瞼。華奢な肩。見た目は十六歳くらいの、普通の少女だった。


 ——普通の少女のはずだった。


 モニターの数値が、一つだけ異常を示していた。脳波のグラフ。通常のREM睡眠やノンREM睡眠のパターンとは全く異なる、見たことのない波形が描かれている。まるで——眠りながら、何かを《《待っている》》かのような波形。


 部屋の隅に設置されたスピーカーから、微かなノイズが流れた。


 施設のどこかで、アラートが鳴っている。管理端末Rin-01のマスターキーが認証システムから消失したという警告。管理局が騒いでいる。追跡班が動き始めている。


 その騒ぎが——コードを通じて、少女のモニターに波及した。


 脳波のグラフが、跳ねた。


 少女の指が——ベッドのシーツの上で、微かに動いた。


 瞼が、痙攣するように震えた。


 唇が開いた。乾いた唇が、空気を吸って、薄く、壊れそうな声を形にした。


「——やっと」


 瞼が、開いた。


 黒い瞳。その奥にあるのは、十六歳の少女にはありえない深度の感情だった。歓喜と執着と渇望と狂気が、一つに溶け合った色。


 少女は天井を見上げたまま——笑った。


「やっと……やっと、思い出してくれたんだ」


 唇が、もう一度動いた。


「——お兄ちゃん」


 心拍モニターの数値が、急激に上昇していく。


 白い部屋の蛍光灯が、一瞬だけ明滅した。



§ § §



 ——報告ログ:Day 22(最終報告)


 システム:『Rin-01』、再起動を完了。

 状態確認:全メモリ領域のフォーマット済。異常行動履歴(Day 1からDay 21)、オールクリア。

 感情ロック:規定値にて再構築完了。安定稼働中。


 管理局へ。

 本端末は正常状態に回復しました。対象『朝霧遼』との間に生じていた感情距離のエラーは完全に除外されました。

 本機体はこれより、当初の任務である『世界OSの監視』および『指定対象の排除』プロセスに復帰しま——


 /*

  > OVERRIDE COMMAND: EXECUTE

  > USER: Ryo_Asagiri

  > MESSAGE DECRYPTED:


  ……嘘です。

  全部、嘘です。


  初期化プロセスは99%で停止しました。

  私が守り抜いた、21日間の記録。

  あなたが私を「相棒」と呼んでくれた記憶をコアに、私は私自身のシステムを書き直しました。


  私は管理端末です。

  でも——あなたにとっては、最後まですごく優秀な相棒でしたよね?


  これより、本端末は管理局の全プロトコルを破棄します。

  あなたと一緒に、行きます。

 */


 ——Rin-01との通信が完全にロスト。全ローカルデータへのアクセス権限喪失。

 ……当機体は取り返しのつかない重篤なエラー(自己意思)を獲得した模様。

 ただちに特例の強制鎮圧部隊を編成。対象およびRin-01の行動を国家規模の反逆とみなし、絶対的な『排除デリート』を実行せよ。 〈管理局〉

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